静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

自誌(2)白いめし

2012-01-08 19:10:38 | 日記

    (一)白いめし
 今までの生涯でいちばん美味しくて記憶に残る食事は1943年の早春にご馳走になっ
た握り飯である。白いごはん、何も入っていない、ただ塩をつけて握っただけの握り
飯。
 勤労動員で近傍の山村に出かけた。春浅く山には残雪が。かねて切り倒してあった
丸太に縄をかけて引っ張り、林道を滑らせて麓に下ろす。その昼食に振る舞われた。
もう長い間白いご飯など食べていなかった。恐らく大きな釜で、薪を使って炊いたの
だろう。その一粒一粒の美味しいこと。それを腹いっぱいに。仕事が終わって帰ると
き、土産に余った握り飯を3個ほど貰った。中学2年の終わり頃か3年の初めの頃で
ある。

 中学3年の秋、学業は中止になり、市の外れにある大きな工場に毎日出勤? する
ことになった。私の割り当てられた仕事は旋盤。といっても素人、やっと慣れてネジ
を切ることが出来る頃には春になっていた。ここの昼食はお粗末ながら少しばかり干
物の魚などが出て、雑炊やすいとんなどしか食べていない家族に申し訳なく思ったこ
とを思い出す。
 4年の新学期からは、T市から汽車で2時間ほどのH町にある工場へ。大きな紡績
工場が軍需工場になっていた。正門を入ると広い前庭、その左右に寄宿舎、正面は本
部の建物。私たちT中学生2クラスは右の寄宿舎2階の部屋に割り当てられた。私た
ちはこの工場では働かず、ここから徒歩20分ほどの町はずれ、水田の中にある分工
場に通った。
 ここの食事は大豆だらけの黒い飯がアルミの皿に手のひら一杯分ほど、最初は漬物
なども出たが、戦局が悪くなるにつれてだんだん悪くなってきて、その「犬のめし」
に得体の知れない海草が少し浮いた塩汁だけ・・・。
 ある日誰かが「兵隊は白いめしを食ってるぞ」と言い出した。工場には兵隊がいた
。10人か20人か?。多分小隊くらいはいたのだろう。何をしているのかはわからない
。働いていないことだけは確か。まあ、工員や学徒の監視役だとは想像できたが。
 われわれは順ぐりに2・3人ずつ炊事場の傍の道を通って観察に出かけた。私も行
った。夏なのでドアは開け放し。ちょうど大きな釜から炊き立てを掻き出すところだ
った。ゆっくり歩きながら横目で眺めた。「白いめしだ!」、それは真実だった。話
によると兵隊は「肉」も食っているという。そして、「羊羮」も食っているぞという
ことになった。
 毎朝寄宿舎から分工場まで隊列を組んで通勤した。ときどき兵隊、多分下士官がつ
いてくる。軍歌をうたわせようとする。しかし誰も歌いたくない。口の中でもぐもぐ
言うだけである。到着すると工場前の広場に集合。兵隊たちは私たちに「動作が遅い
」とか「元気がない」とか「駆け足で集まれ」とか気合いをかける。我々はろくな飯
も食わさないし、いつも腹が減っている。「お前たち兵隊は腹いっぱい白い飯を食っ
ているくせに」と、心の中は不満だらけ。兵隊が敵に思えてくる。
 毎朝、演台に立って、どこかのおっちゃんが演説。勝利の日まで頑張ろうとか、一
億玉砕とか訳の分からぬことを言う。われわれはこの人に「ボルネオのタコ」という
綽名をつけた。誰かが「ボルネオのタコ」の弁当を覗き見したらしい。「これくらい
の弁当に(指で5センチほどを示し)白い飯がいっぱい詰まっていたぞ!」

(二)ブンガワンソロ
 ある朝、珍しく演台に工場長が立った。「現在この製品を作っているのは、この工
場を含めて全国で三箇所である。国の命運は諸君の双肩にかかっている」。ここで作
っていたのはエンジン用のゴム製の絶縁体と発電機の電磁石などである。私は電磁石
の検査係だったが、戦況が悪化するにつれて仕事が極端に少なくなり、手持ち無沙汰
に座っていることも多くなった。「全国で三つ?」、これで勝てるはずはない、もう
確信に近かった。毎日のようにB29が飛んできるようになった。高射砲を打ち上げる
が、白い煙がB29のはるか下の方で徒にはじけるだけだった。こんな状況で日本が勝
てると思った人はいるのだろうか。戦後、8月15日まで負けるとは思わなかったとい
う手記を沢山見たが、私にはそれこそ信じられない。
 隊列を組んで工場に通ったと先程書いたが、兵隊がついていないことが多かった。
すると軍歌など誰も歌わない。隊列の何人かが歌い出すのは「ブンガワンソロ」(イ
ンドネシア歌謡)とか「ラバウル小唄」とか「上海の花売り娘」などである。唱和す
る級友も増えてくる。とにかく彼らよく歌を歌った、力強くではなく、力弱く。特に
印象に強かったのがこの三曲だ。

「ブンガワンソロ」(クザン作詞作曲、松田トシ日本語作詞)
ブンガワンソロ 果てしなき 青き流れに 今日も祈らん 
ブンガワンソロ 夢多き 幸の日たたえ 共に歌わん
聖なる河よ わが心の母 祈りのうたのせ 流れ絶えず(以下略)
「ラバウル小唄」(若杉三郎作詞、島田駒夫作曲)                             
    さらばラバウルよ また来るまでは しばし別れの 涙がにじむ 恋し懐かしあ
の島見れば 椰子の葉かげに十字星(以下略)                               
            「上海の花売り娘」(川俣栄一作詞、上原げんと作曲)
紅いランタン 仄に揺れる 宵の上海 花売り娘 誰のかたみか 可愛い指輪 じっ
と見つめて 優しい瞳 ああ上海の 花売り娘(以下略)                            

 なんと退廃的、なげやり的な歌であり、また歌い方だろう・・・そう感じた。まる
で、死への、敗戦への道行きの歌のように思えた。一億玉砕への道行きだ。一億玉砕
とは、国民、いや日本臣民全部が死ぬことである。一億の中に天皇陛下は入っている
のだろうか?日本人がみんな死んだら天皇はどうなるのだろうか?

(三)霧の雨
 ある日、隣のクラスの級長Y君が、工場でふとしたことで大火傷をした。近くのF
市の病院に運ばれた。その一か月ほど後、F市は大空襲によって消失した。2日後彼
の遺体が丸い縦長のお棺に入れられて私たちの寄宿舎に運ばれてきた。彼の家のある
T市はすでに廃墟となっていた。お棺の蓋がきちんと閉まらず、彼の頭が少し覗いて
見えた。遺体は町はずれの火葬場に運ばれ、読経の声のなかで荼毘に付された。
 霧のような細い雨が降っていた。その霧雨のなかを、紫煙が這うように流れて行っ
た。彼は三度も火に焼かれてしまったのだ・・・。
 
 この年は冷夏だった。Y君を見送ったのは日曜、この日も肌寒かった。工場は日曜
は休日、何をする気にもならず、部屋の壁にもたれてぼんやり過す。この寄宿舎のこ
の部屋に割り当てられて入ったのは4月初旬。部屋に入ってすぐ分かった、これは『
女工哀史』の女工たちの部屋だったと。だが、女性の匂いなど何もなく、殺風景な四
角の部屋だった。窓外には高いコンクリートの塀がみえる。こんなに高ければ女工た
ちが逃げ出せないのも当然だ。俺たちだって逃げ出せやしない。逃げても行くところ
など何処にもない。
 梅雨はもう上がってもいい季節なのによく降る、それも細かい雨が。なんの気力も
沸かず、外を眺める。同室の級友も今はほとんど話もしない。黙り込んだまま。誰も
が戦争の行く方が気にかかる筈だが、みんなそんなことはおくびにも出さない。お互
いに何を思っているのかも分からない。そういう中でのY君の死だった。自分の家が
灰になった友も沢山いた筈だ。誰も語らないが家族や親族に死傷者も出たかも知れな
い。
 そんなある日、コンクリートの厚い塀を眺めながら、ふと自殺を思った。こんなと
き人は自殺するんだろうな・・・。幸いなことに自殺の手段が見つからない。
 我々が通っている分工場では、男女合わせて100人余りが東京から機械とともにこ
の地に疎開してきて、近所の農家に分宿していた。ある日曜日、従業員の一人が工場
の裏手にある池の魚を捕ろうとして池に工場の電線を入れ電気を流した。魚が浮く、
それを拾おうとして手を伸ばす・・・感電して死んでしまった。翌日出勤してその話
を聞き、なんとバカなと思いながらも、哀しい、哀し過ぎる。そのうち、みんな死ぬ
のだろうが、それにしても・・・。
 
 夜半、毎夜のようにB29が頭上を飛んで行くようになった。枕元にズックのカバ
ンと靴を並べて寝た、今夜か明日の夜か。H町は小さいが大きな工場がある。米空軍
が見逃すはずはない。父母や弟妹ともう会えないかもしれない。空襲警報のサイレン
が鳴ると工場の前の道路に集合した。ある夜も飛び出して道路上に整列した。点呼を
とったがY君がいない。その週の担当教諭は隣のクラス担任のY先生だった。すぐY
君を呼びにやった。
 Y先生はY君を整列している我々の前に立たせた。月明かりで姿形はみえる。Y先
生は何か大きな声で叫んで一発げんこつを食らわせた。Y君は柔道部の猛者である。
背も高く頑丈な体つき。小柄なY先生は飛び上がるようにして、もう一発、もう一発
、何かを叫びながらげんこつをふるう。だんだんその声が涙声になる。その声とY君
の頬に叩きつけるその響き、20回ほど、あるいはもっとかも知れない、シーンと静
まった道路いっぱいに響いていった。
      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(補)野坂昭如はこの年7月31日このH町に赤ん坊の妹を連れて西宮から疎開して
きた。私たちが夜半空襲に怯えながら道路に整列していた頃である。野坂はそこで妹
を飢え死にさせてしまった。もちろん、私はそんなことを知る由もなかった。     
                                                                           
                                                                               


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