イラク、イラン、パキスタン、アフガニスタンはアレクサンドロス大王がかつて征服した土地であり、近世にはチムールが帝国を築いた。今日、その土地の支配権はほぼアメリカ帝国主義(?)が握っている。アレクサンドロスはサマルカンドの陣営での宴会で、地酒のワインで酔っ払い、もっとも信頼する部下であり幼友達であったクレイトスを自分の手で殺してしまった。サマルカンドの町はジンギスハーンによって完全に破壊されたが、チムールが再建し「もっとも美しく、もっとも壮麗な都市」と呼ばれるほどになった。
先に私はタシケントへの旅について書いた(「タシケント墓参の旅」)が、その旅の続きがサマルカンドだった。
1991年10月、ソビエト連邦崩壊の直前だった。私達ツアー一行10人は殺風景なタシケント空港で小型ターボ・プロペラ機に乗った。7~80人くらいの座席はほぼ満席。田舎の乗り合いバスの雰囲気。座るや否や眠くなり、目が覚めたら低い山脈の上。それを越えると一面の耕地。やがてサマルカンドの町が現れた。あっという間に着陸、緑の中をホテルへ。
陽は西の空に傾いていた。一人でホテルのドアを押して外に出る。耳を劈くような騒音、何万、何十万?という雀だった。ホテルの前はゴーリキー通り。道路幅は100メートルはゆうにあるだろう。中央は石畳の広い遊歩道、ベンチや花壇がある。その両側に二抱えもある大木の並木、まるで森だ。そこが雀の宿だった。その外側に車道と歩道。そこを北へ少し行くとレーニン広場とレーニン像。チラッと見て引き返し横道に入る。
そこはもう車もほとんど入ってこない並木道の静かな住宅街。幼児が道端の小さな広場で遊んでいる。少年たちが子牛を追いかけたり、羊を引っ張って歩いている。屋敷は道路に面していて、その入り口から覗くとそこは広い中庭、夕餉の仕度でもしているのだろう、うっすらと煙が漂う。
歩を進めると左手に青い大きな丸屋根をいただいた寺院、いや、これはグル・エミール=支配者の墓所ではないか、間違いない。ホテルのこんな近くにあるとは。一回りして正面の門に達した頃、すでに暮れかかっていた。その、どこまでも青い丸屋根は沈みかけた陽光を正面に浴び、脇のほうから赤みを帯びながら徐々に色を失おうとしていた。誰もいない、私だけだ、一人だけだ。このトルキスタンの王者、中央アジアの覇者チムールの廟は、ゆっくりと薄闇の中に沈んでいった。
翌日午後、一行はこのグル・エミールを見学。高い天井のひんやりした墓室に10近い墓石が並び、その真ん中の黒いのがチムール自身のもの。ロシア人ガイド嬢の静かな声。われわれのほかには男女の一組だけ。彼らもささやくような会話を少し交わしただけ。
だが、チムールの遺骸はここにはなく、その真下の地下室に安置されている。1941年、ソ連の考古学者たちによる調査によって確認された。チムールは若い頃イラン東南部シースタンで負傷して、生涯右足が不自由であったという言い伝えの正しさが証明された。
この廟はもともとチムールが戦場で倒れた孫のために造らせたものだが、そこへ自身も入ることになった。そのほか天文学者として有名な孫のウルグ・ベクなども葬られている。今日、サマルカンドに残るすばらしい建造物はほとんどチムールに縁があるそうだが、とりわけこの廟はチムール自身が指図して念入りに作らせただけあって、サマルカンドでも白眉のもの、美の極致と賞賛されてきた。
だからこの廟には、普段には観光客が押し寄せるそうだ。ソ連(当時)の各地から、欧米諸国からも。バスやタクシーで前の広場がいっぽいになるとか。地元のウズベク人も押しかける。身動きができないこともあると。私たち、私も幸運だった。ほかの観光客はソ連崩壊を目の前にして怖れをなしたのだろうか。
一つだけ付け加えておこう。サマルカンドの中央に位置するレギスタン広場、正面にチッリア・カリの、左にウルベグの、右手にシェルドルの三つのメドレセ(イスラムの学校)に囲まれたその壮麗な広場に立ったとき、これは別の世界だ、信じられないような世界だと、そう感じたものだった。
イスラムの建造物、寺院やメドレセにしても、具象的な人物像・神像などはなく、基本的にはあくまでも抽象的な幾何学模様のような図柄で完結している。それは天へと続くかのようだ。カトリック寺院の内壁や天井となんと違うことか。
チムールにはヤヌスの顔のように、破壊者と建設者という二面の評価がある。彼は戦いに臨んで敵を容赦しなかった。恭順の意を表して降伏しなければ皆殺し、これが彼の戦術だった。古代でも中世でも、また近代でも、戦争にはそういう面がある。現代はボタン一つで一瞬のうちに幾十万人も殺すことができる時代だ。
マキャベリは、国が互いに争うとき、君主のとるべき道に二つあると説いた。一つは法であり、一つは力である。法の道は人間の道であり、力の道は獣の道である。必要なときは獣の道もとらなければならないと。チムールは征服の過程で獣の道をとった。そして、一面では心優しかったともいわれる彼は、もっとも美しいと称えられた都市をつくった。グル・エミールはその碧い宝石のような輝きで今日も人びとを惹きつける。
先に私はタシケントへの旅について書いた(「タシケント墓参の旅」)が、その旅の続きがサマルカンドだった。
1991年10月、ソビエト連邦崩壊の直前だった。私達ツアー一行10人は殺風景なタシケント空港で小型ターボ・プロペラ機に乗った。7~80人くらいの座席はほぼ満席。田舎の乗り合いバスの雰囲気。座るや否や眠くなり、目が覚めたら低い山脈の上。それを越えると一面の耕地。やがてサマルカンドの町が現れた。あっという間に着陸、緑の中をホテルへ。
陽は西の空に傾いていた。一人でホテルのドアを押して外に出る。耳を劈くような騒音、何万、何十万?という雀だった。ホテルの前はゴーリキー通り。道路幅は100メートルはゆうにあるだろう。中央は石畳の広い遊歩道、ベンチや花壇がある。その両側に二抱えもある大木の並木、まるで森だ。そこが雀の宿だった。その外側に車道と歩道。そこを北へ少し行くとレーニン広場とレーニン像。チラッと見て引き返し横道に入る。
そこはもう車もほとんど入ってこない並木道の静かな住宅街。幼児が道端の小さな広場で遊んでいる。少年たちが子牛を追いかけたり、羊を引っ張って歩いている。屋敷は道路に面していて、その入り口から覗くとそこは広い中庭、夕餉の仕度でもしているのだろう、うっすらと煙が漂う。
歩を進めると左手に青い大きな丸屋根をいただいた寺院、いや、これはグル・エミール=支配者の墓所ではないか、間違いない。ホテルのこんな近くにあるとは。一回りして正面の門に達した頃、すでに暮れかかっていた。その、どこまでも青い丸屋根は沈みかけた陽光を正面に浴び、脇のほうから赤みを帯びながら徐々に色を失おうとしていた。誰もいない、私だけだ、一人だけだ。このトルキスタンの王者、中央アジアの覇者チムールの廟は、ゆっくりと薄闇の中に沈んでいった。
翌日午後、一行はこのグル・エミールを見学。高い天井のひんやりした墓室に10近い墓石が並び、その真ん中の黒いのがチムール自身のもの。ロシア人ガイド嬢の静かな声。われわれのほかには男女の一組だけ。彼らもささやくような会話を少し交わしただけ。
だが、チムールの遺骸はここにはなく、その真下の地下室に安置されている。1941年、ソ連の考古学者たちによる調査によって確認された。チムールは若い頃イラン東南部シースタンで負傷して、生涯右足が不自由であったという言い伝えの正しさが証明された。
この廟はもともとチムールが戦場で倒れた孫のために造らせたものだが、そこへ自身も入ることになった。そのほか天文学者として有名な孫のウルグ・ベクなども葬られている。今日、サマルカンドに残るすばらしい建造物はほとんどチムールに縁があるそうだが、とりわけこの廟はチムール自身が指図して念入りに作らせただけあって、サマルカンドでも白眉のもの、美の極致と賞賛されてきた。
だからこの廟には、普段には観光客が押し寄せるそうだ。ソ連(当時)の各地から、欧米諸国からも。バスやタクシーで前の広場がいっぽいになるとか。地元のウズベク人も押しかける。身動きができないこともあると。私たち、私も幸運だった。ほかの観光客はソ連崩壊を目の前にして怖れをなしたのだろうか。
一つだけ付け加えておこう。サマルカンドの中央に位置するレギスタン広場、正面にチッリア・カリの、左にウルベグの、右手にシェルドルの三つのメドレセ(イスラムの学校)に囲まれたその壮麗な広場に立ったとき、これは別の世界だ、信じられないような世界だと、そう感じたものだった。
イスラムの建造物、寺院やメドレセにしても、具象的な人物像・神像などはなく、基本的にはあくまでも抽象的な幾何学模様のような図柄で完結している。それは天へと続くかのようだ。カトリック寺院の内壁や天井となんと違うことか。
チムールにはヤヌスの顔のように、破壊者と建設者という二面の評価がある。彼は戦いに臨んで敵を容赦しなかった。恭順の意を表して降伏しなければ皆殺し、これが彼の戦術だった。古代でも中世でも、また近代でも、戦争にはそういう面がある。現代はボタン一つで一瞬のうちに幾十万人も殺すことができる時代だ。
マキャベリは、国が互いに争うとき、君主のとるべき道に二つあると説いた。一つは法であり、一つは力である。法の道は人間の道であり、力の道は獣の道である。必要なときは獣の道もとらなければならないと。チムールは征服の過程で獣の道をとった。そして、一面では心優しかったともいわれる彼は、もっとも美しいと称えられた都市をつくった。グル・エミールはその碧い宝石のような輝きで今日も人びとを惹きつける。
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