静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

風のプリニウス(3)インド航路

2011-10-09 16:16:47 | 日記

   <本日のメモ>「思い出せ『足るを知る』」
 橋田寿賀子さんの言葉から。「経済成長のために原発は必要だと言いますが、説得
力に欠けます。だって、原発に頼った成長の”成果”が、格差と失業、年間3万人を
も超える自殺者じゃないですか。企業とごく一部の人がもうけているだけ。原発に頼
る生活に慣らされて生まれた欲望が人々の絆を奪い、原発が生み出す電力が労働者の
仕事をも消し去ってしまった」(毎日新聞夕刊、9・30)。

(一)
  先にも書いたが、プリニウスは奢侈を徹底的に嫌った。のみならず金、つまり黄
金自体を嫌っていた。 「人生から金が完全に放逐できたらよいのだが、実際はそれ
は世界のもっとも賢明な人々に毒づかれ罵られながらも、ただ人生を破壊するために
のみ発見されたのだ。品物が品物と直接に交換されていた時代は、現代に比べてどん
なに幸福な時代であったことか」。そして奢侈を憎悪することは正当なことだと理解
するために、頭のなかで極東への旅行を描いてみたらどうかと説くのである。彼の頭
のなかには、セレス(中国)人とタプロバネ(スリランカ)人の物々交換があったの
だろう。
 だがそれは彼の幻想だったかも知れないし、よくは知らない世界のことを理想化し
すぎたようにも思えるのではあるが。

(二)
 ローマから極東への旅のルートは大きく分けて二つあった。一つは凍てつく氷の岩
山を踏破し熱砂と渇きに耐えて砂漠を越える命がけの大陸横断のコース。もう一つが
地中海-ナイル川-紅海-エリュトラ海(アラビア海)と繋ぐ海のルート。これだっ
て命がけの冒険だった。いずれも莫大な人命をその途路で失っている。セレスの国(
中国)に到達するのはほとんど不可能だった。
 プリニウスは、アレクサンドロス大王の艦隊が辿った航路を詳しく説明している。
それはそれで興味ある話だがそれは省略。ここでは、プリニウスの頃の一般的な航路
についてのみ紹介する。それは次のとおり。
 ローマの外港オスティアから出発するとして、ナイル河口のアレクサンドリアまで
到達するのだって決して安楽なものではなかった。運が悪ければ嵐に見舞われ海の藻
くずと化した。アレクサンドロスは繁栄を誇った、ある意味では享楽の都市であっ 
た。そのアレクサンドリアから2マイルのところにユリオポリスの町があり、そこか
らエジプトの古都テーベの近くのコプトスまでナイルを船で遡航する。貿易風が吹い
ている夏至の候でも12日かかる。                                           
  コプトスで上陸、そこから真東へ紅海西岸の港町ベレニケまではラクダによる砂漠
の横断、これまた12日間の旅程である。いくつもの宿駅に泊まるが、なかでもトロ
ゴデュティクムという隊商宿は2000人もが宿泊できる大きな宿駅である。暑いの
で昼は宿で過し夜歩くから時間がかかる。夜の行程は星が道しるべ。このルートはア
レクサンドル大王死後エジプトを支配権に入れたラゴスが作らせたものであるという。
 港町ベレニケから紅海を南下する海路は、夏至、シリウス星が現れる前か、現れた
直後に始める。すると、当時「幸福のアラビア」と呼ばれたアラビア半島の南東部、
現在のイエメンのオケリスあるいはカネ(乳香を産する)までが海路30日。そのオ
ケリスからインドへ向かうのが最も都合がいい。季節風が吹いていればインドの最初
の交易港ムジリス(現在のケララ州コーチン付近)まで40日である。つまり順調に
いっても片道94日かかることになる。
 インドからの復路は冬、インドから北東の風に乗って出港し、紅海に入った後は西
南風あるいは南風に乗って航海してその後も同じ道を帰る。
 上記はアレクサンドリアからインドに至る最も一般的な通商路をおおざっぱに示し
たにすぎない。この航路を示した地図は高校の世界史の教科書にも載っているいるら
しい。『博物誌』にはインド、パキスタン、イラン、サウジアラビア、エチオピアな
ど、ローマ帝国圏外の事情について詳しく興味ある報告が盛り沢山にあるが、ここで
のテーマではない。
 インドに単純に往復するだけで200日近くかかる大旅行である。インドの海岸近
くやアラビア近辺には海賊が出没していたらしい。「アラビアン・ナイト」を思い出
すがそれはもう少し後の話。そのような航海に成功すれば一挙に巨万の富を得るが、
それは死と背中合わせ? 隣り合わせ? の冒険だった。先のはっきり見えない航海
である。無事帰ってくるにしても、何年もかかる大冒険を覚悟しなければならなかっ
た。航海術の発明者は呪っても呪いきれないとプリニウスが言うのにも一理ある。 

(三)                                                                     
 中国から中継ぎ貿易で運ばれてくる絹は別にして、インド・アラビア周辺からロー
マへ運ばれてくる贅沢品の最たるものは真珠であった。インド洋や紅海に多く産す 
る。沖合い50マイルほどのところで採取が行われている。真珠はローマのご婦人た
ちを喜ばせ見栄と虚栄の虜にさせる。サンダルの紐にさえ真珠をつけたりする。男ま
でが真珠を身につける。「何たることだ!」とプリニウスは慨嘆するが時世には逆ら
えない。真珠採りの海女たちが命がけで深い海の底に潜ってくるのだ。そんなものに
まで手を伸ばす必要があるのか。
 もう一つ海の底に潜って採ってくるものにアクキ貝など紫染料をとる貝類である。
紫染料は元老院議員や高い身分の人間の着るトーガを染めたりするのに使った。クレ
オパトラが自分の戦艦の帆を紫色に染めたことは前に述べた。プリニウスはそんな危
険な海の底からとった品物を、はるばるローマに運び込まなくても、紫色の染料がと
れる植物がちゃんとあるのにと、その無駄な消費を批判する。
 陸上の産品でローマにもたらされた高価な商品はまず胡椒、これは説明の必要がな
い。それから香料の原料となる各種の植物、シナモン、カシア、乳香、没薬、バルサ
ム、ストラックス、ガルバヌム・・・と次から次へとその産地やその特性などの解説
が続くが、そんなことをいちいち取り上げてはおれない。ただ乳香についてだけ少 
し。
 プリニウスによれば、乳香のとれる乳香樹の外観はギリシア人もローマ人も誰もは
っきりとはわからないのだ。生産地の人が秘密にしている。秘密といえば、セリスの
絹も、蚕や繭、桑の木、その他製法はおろか、産地でさえも当時のローマ人にとって
摩訶不思議で、何がなんだかわからない状態で、ただ絹への欲求だけが肥大化してい
た。しかし乳香については、プリニウスはその採取方法については具体的に述べてい
る。これはわかっていたらしい。乳香は乳香樹からとれる樹脂である。それが先に書
いた通商路を辿ってアレクサンドリアに運ばれてくる。アレクサンドリアはいうまで
もなく、すでにローマ帝国の領域になっている。ここでのプリニウスの描写はいろん
な書物に引かれている有名な箇所だ。私も真似て少し引こう。
「乳香が商品に仕上げられるアレクサンドリアでは、まあ、何たることぞ。どんな不
寝番をおいても十分に工場を守ることができない。工員のエプロンには封印がおさ 
れ、彼らはマスクをかけ、あるいは頭から目のつんだ網をかぶらなければならない。
構内を離れることが許されたときには全裸にならなければならない・・・」。現在の
アメリカの空港では、衣服を透視できる機械を使ってこれに近い身体検査をしている
らしいが、それは爆薬や武器の有無を検索するためだ。世の中、ずいぶん進歩したも
のだ。
 香料は、上記した各種の材料を混ぜ合わせて一つの匂いを作ることだという。誰が
最初の香料発見者かは記録はないとプリニウスはいう。彼は発見者を探すのが好きな
のだが、わからないことはわからない、だが、ペルシア民族だというのは正しいとい
う。そうは言っても、まあ、これもそんなに正しくはないだろう。アレクサンドロス
大王がペルシアのダリウス王を破ったとき、ダリウス王の所持品のなかに香料箱が発
見された。その後、ローマ社会でも、香料の楽しみは最も優雅で立派な人生の享楽の
一つとして取り入れられたのだという。だがプリニウスは皮肉屋である。「香料はあ
らゆる奢侈のうち、もっとも無駄な目的に奉仕するものだ。なぜなら、真珠や宝石は
髪の毛につけることができるし、衣裳はしばらくの間もつ。しかし香料にいたっては
たちまちに香気を失い、使用するとその途端にもう死んでしまうのだから」。     
  さらに、香料に用いられる香木などが、死者に相応しい捧げ物になりはじめたとい
う。死者への捧げ物というのは、棺を香木で焼くことをいう。こんな贅沢は高度成長
期の日本でも聞いたことがない。プリニウスは「アラビアは1年間で、ネロ帝がその
妃ポッパイアの葬儀にあたって一日のうちに焚いただけの香料も生産していない」と
伝えている。本当なら呆れ果てたことである。

(四)
 プリニウスは、インドがローマ帝国から富を吸い取ること5000万セステルティ
ウスを下らない年はないと断言する。ローマではインドでの仕入価格の100倍で売
られていることを考えると重大問題だという。
 また別の箇所では「最小限に見積もっても、インド、せレス、アラビア半島はわが
国から毎年1億セステルティウスを得ている。それがわれわれが贅沢と婦人のために
費やす金額である」と。
 セステルティウスというのはローマの貨幣の基本的計算単位であり、それが具体的
に金貨なのか銀貨なのか、あるいは青銅貨かはわからない。それに当時インドその他
で貨幣経済がどれくらい浸透していたのか、それもはっきりしない。実際にインドで
はどのローマ貨幣も発見されている。貨幣に用いられた金・銀・青銅もそれぞれが金
属としての一種の商品であり、現地人にとっては物々交換に過ぎなかったのかも知れ
ない。タプロバネ(スリランカ)で見た、相互が顔を合わさず言葉も交わさない物々
交換とは違うが、貨幣を交換手段として用いる商品交換ではない商取引である。事実
インドあたりでは、金貨に穴を開けて飾りにしたり、鋳つぶしたりする例も多かった
らしい。金属としての使用価値を使用しているのである。つまり鉄の交易と同じであ
る。プリニウスはローマが輸入する鉄のうちでセレス(中国)のものが最高で、ペル
シアのがその次だといっている。あんなに重いものをどういう経路で運んだのか、プ
リニウスは書いていない。セレスとあるのは中国ではなくインドだという説もあるが
不明である。
 プリニウスは、東方からの輸入品がローマでは100倍の値段で売られていると嘆
くが、反対にインド人は金が100倍の値段をしていると嘆いているかも知れない。
 ローマには戦勝の賠償として莫大な金が流入したし、領土内、たとえばスペインで
は豊富な金鉱山もあった。それにイタリア周辺のぶどう酒生産などは相当の利益を生
み出していた。従って、ローマ帝国の経済力からいえば1億セステルティウスといっ
ても国を傾けるほどの負担ではなかった筈である。ただプリニウスにとってはそれほ
どの金額がローマ人、ローマのご婦人たちによって浪費されていること、そしてその
奢侈がローマ人に与える影響を危惧しているのだが・・・。

 だが彼がそう嘆いている古代ローマの時代では、それらの商品を運搬する船は彼の
言うように風と波だけを頼りにしたのである。石炭も石油も電力も、原子力も一切使
っていない。陸に上がってからも人力と家畜の力に頼るだけだった。それであの古代
文明を築きあげた。
 だがしかし、そのローマ帝国の繁栄やその浪費や奢侈も、南極やアマゾン川、シベ
リアのツンドラにとっては何の意味も持たなかった。産業革命以後、少しは変わった
だろう。だがしかしそれもほんの針の一刺しくらいなものである。ところが今、地球
全体が、自然全体がそのすみずみまで隈なく変えられつつあるのだ。自然は死を迎え
つつあると人は言う。それが、世界のほんの一部における近々半世紀余りの間の営為
のなせる業だ。二酸化炭素の増大やオゾン層の破壊もそうだが、フクシマの放射線だ
って地球にくまなく拡散し自然の死に加担しつつあるのだ。

 


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