静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

タシケントの日本人捕虜(7) 帰郷

2009-10-30 09:55:24 | 日記
 タシケントにいたときはなあ、帰れるとは思わなんだ。ああいう遠いところやけ。ただな、みんなで話するとき「帰りたいなあ」って話ばっかりする。帰りたいという思いはみんないっしょや。
 収容所では新聞が出ていて、日本の情報も載っていた。印刷も兵隊<捕虜の>がやっているんやわ。ソ連の印刷機を借りてやったんや。活字で印刷して出ていた。普通の新聞といっしょや。一週間に一度やったかなあ、壁に貼ってある。大地震があったことなどもわかった。ほいで(それで)、帰れるとはわかっていた。帰すといっとったさかい。<前の話とは少し矛盾するようだが、どちらも真実だろう>。国際法で決まっているんやで、しばらくだけ辛抱せいって言うてくれた。
 ドイツ人もいっしょにいた。ドイツ負けたんやね。ドイツ軍が攻めていって、モスクワが陥落寸前やったやろ。そのとき、満州にいた日本軍がなんで来なんだ、なんで来んのや、と言ってドイツ人がわれわれに抗議したわの。あん時にわれわれは満州におったけね(いたからね)、百万から(百万も)。あそこからどーっと行けば、ソ連は手を上げてしまうんやったとね。それ、行かなんだんや。
 イタリア人もいたわ。三国同盟結んでいたけね。大体いっしょに働いていた。宿舎もいっしょやった。また、ソ連をやってしまおうと話していたんや。言葉は通じんけど、たいがい分かるんやわ。
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 タシケントには四年ほどいたの。<実際は三年足らず。一年間は後述のようにナホトカに抑留されていた>。そのあいだ誰も帰れん。それでも、体の弱い人は先に帰すんや。同じ県の人もいた。帰ったら家のものに知らしてくれと言ったら無事に着いて、知らせてくれていた。からだ固ういるさかいにって(からだも丈夫で元気にいるからといって)。家族は、それではじめて、中央アジアにいるってわかったんやの。
 あんな戦争はするもんやねえ。
 ソ連は前もって帰すとは言わんのや。前の日になって、「明日帰る」て発表するんやわの。名前呼ばるんや。明日帰る者の名前を呼ぶっていうもんで、みんな食堂に集まるんやの。ほやけど、なかなか呼ばなんだ。呼ばれた人は喜んで・・・あした帰れるというもんで。呼ぶのは毎日じゃないんや。ナホトカに日本に帰る船が迎えにくるんやの。船が来ると呼ばれる。そんなに、さいさいには(頻繁には)来んのやわの。冬はあかんのや、凍ってしまうで。十二月へいくとあかんの、凍ってしまうの。一年に五回くらい来るのかね。私は六月に帰ってきたんやの。そえでも呼ばれたのは早いほうやった。
 タシケントから帰るときお土産を貰った。いい帽子、毛皮二枚、オーバー二枚、タバコなどいろいろ貰って帰った。いっぺんに帰るのは二千人くらいかな。その二千人全員一人ひとりにさっきのような土産をくれる。給料の代わりや。その土産はしっかり持って帰った。日本に帰って毛皮を玄関に置いといたら、二枚の毛皮のうちいい方を盗まれてしもた。
   <注>「はじめに」で述べたように、以前T氏は、タシケントで貰った賃金   (ルーブル)は日本では使えないので、ナホトカでクマの毛皮やタバコなど    を買って土産に持ち帰ったと語っていた。中央アジアで毛皮、しかも二千    人全員にというのも不自然な気がする。
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 帰るのも、一ヶ月くらいかかった。ナホトカに着いて船を待っていた。ほたら、みんな帰るんでのう、友達はみんな嬉して、東京音頭やら何やら歌うてどんちゃん騒ぎしたんやの。ほたら、あかんていうんや。ソ連が、この部隊はあかんていうんや。ほいで一年残されたんや。また一年遅れてもたんや。他の部隊はおとなしかったんやろ。私ら、一年間ナホトカにいた。家ん中にいたんで、よかったんや。何もせんと(しないで)、ただ部屋にいただけや。食事は、タシケントと同じや。ソ連の黒パンて、旨うないんにや。三百六十グラム<前のタシケントでは三百五十グラム>や。仲間で死んだ人もいるが、そんなにひどうは(ひどくは)ない。寒さで凍えて死ぬなんてことはなかった。タシケントにいった人は、あまり労働しなかったんで体は弱っていなんだ。ちょうど一年、仕事せんと足止めくっていた。そして明日帰るというて、名前を呼ばれ、そのときは帰らせてくれた。残った人もいたけど、その年のうちに帰ってきたわ。船の定員の関係やな。
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 ナホトカから舞鶴まで一日で来てしもうた。舞鶴で二三日いた。一人ひとり検査するわの、体が丈夫か。悪い人は病院に入れにゃあかんさかいに。昭和二十四年に帰ってきたんや。舞鶴まで母ちゃん<妻>が迎えにきた。駅で降りた帰還兵は私一人だけや。小学校の生徒やらいっぱい迎えに来たんや。そりゃ大変なものやった。町長さんやらも来た。駅で高いところに上がってあいさつした。それから歩いて家に帰った。無事に帰れた喜びは大きかった。運がよかったんや。友達はみんな<一人残らずという意味でなくほとんどという意味か?>死んでしもたんや。年金貰わんかて、だんねんや(年金もらわなくても構わないだ)。<注:T氏は四ヶ月ほど足らないので軍人恩給は貰えなかった>。それまで辛いということはなかった。いちばん嬉しかったことは・・・あした帰れるとわかったときや。いっしょにいた友達は名前呼ばれなんで、遅れたわ。私はその家へ「元気でいるさけ」(いるから)と言いにいった。喜んでいた。





 


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