T氏からこのお話を聞いたのは2006年6月6日である。話をお終いにしたときは、もう午後九時半近くであった。食事や休憩を挟んだとはいえ九十歳になる氏には気の毒な日程であった。肝心のタシケントでのところでは、氏も疲れた様子だった。後日、もっと詳しくお伺いしようと思いながら、機会を逸してしまった。
前にも書いたように、ずっと以前にもお話を聞いていた。そのときには、いずれ記録しようと思いながら怠けていた。そして氏も高齢になられた。
このときの録音のテープおこしはすぐ行い、ワープロに入れた。それからずーっとそのままうち過ぎた。このままだと、誰にも読まれず終わってしまうことは明らかだった。こうしてブログに投稿すれば、一人でも二人でも読んでくださる人がいるかもしれないと思って踏み切った。ありがたいことに、読んでくださる方がいらっしゃることがわかって嬉しい。
ブログの原稿を書いているうちに思い出したこともある。以前聞いた話である。タシケントでの農作業は、コルホーズの農園で現地の農民と一緒にやったらしい。ジャガイモ栽培のことと覚えている。タシケントの農民に「そんなに熱心に働かないでくれ。私たちのノルマの基準が上がってしまうから」といわれたそうである。日本人は捕虜になっても働き屋で律儀、現地人も驚いていたそうである。T氏の話である。面白い話なので覚えていた。他にもいろいろ聞いている筈なのに・・・。
人間の記憶はもろくて消えてしまっているように見えても、脳のなかのどこかに刻印されているに違いない。T氏の頭の中にはいろいろなことが詰まっている筈だ。それを引き出すのが聞き手の手腕だろう。私にはその手腕はあまりないようだ。
★ ★ ★
「運がよかったんや」・・・T氏の口癖である。
確かに運がよかったかもしれない。
まず、南方戦線でなく、当時まだ戦地ではなかった「満州」へ派兵された。
次に、「満州」から戦場へ送られずに済んだ。(本人は希望したが)。
更に、ソ連の捕虜になったが、シベリア送りではなく、中央アジアであった。
もう一つ付け加えれば、歩兵隊ではなく、輜重隊に配属された。
古今東西、運命の女神のやることは、人間の知恵では理解できない。どうして輜重隊なのか? どうして「満州」なのか? どうして中央アジアなのか? 誰が決めたのだろう。
誰かと比較してみても仕方ないが、たとえば、勲四等瑞宝章受賞・京都大学教授宮崎市定氏は昭和二十年二月に召集され、千葉県市川市で、将校として地下航空隊の格納庫建設工事にあたった。四十五歳であった(「自訂年譜」による)。信じられないようなことである。だが宮崎氏の幸運は、すぐ終戦になって家に帰れたことである。
★ ★ ★
T氏夫人は、よく「おいさん(自分の夫のこと)は、なーんも考えんのやさけ」と言っているそうだ。「何も考えない」というのは、ものごとを深刻には考えないという意味である。楽天的であるということである。中央アジアまで連れてこられて、じたばたしても始まらない、家のことをあれこれ心配したり、将来のことを思って悲観的になったりしても、どうにもならないものはどうにもならない、と悟ることである・・・。夫人の表現は簡潔だが的を射ている。
T氏はれっきとした農民である。しかも若い。労働は苦にならなかった。コルホーズの農作業などはむしろ楽しんで働いたのだろう。そして、都会の人は気の毒、という余裕を持った。
そして何よりも気持ちに余裕を持たせたのは、現地の労働者や農民と同じ待遇で働き、また気持ちよく人びとに受け入れられたということだろう。そして、ソ連当局によって、国際法で決まっているから必ず帰すと聞かされていたこと、それを信じようと思ったこと・・・。しかも日本人自身による日本語の新聞も発行され、日本国内の事情も、たとえば大地震があったことなども知っていたということ。
★ ★ ★
氏の話にもあったように、ナホトカから帰郷したとき、駅頭に大勢の人たちが迎えに来た。その様子は、その場に居合わせた人からも聞いた。集まった村民や小学生によって駅前広場は溢れんばかりだった。村長や校長もやってきた。T氏は舞鶴で政府から新品の服装、軍帽、軍服、軍靴、それに下着まで支給されたそうだが、そのぴかぴかの軍服を着て、お土産(長女のための赤い靴もあったと、後に家人から聞いた)を詰めた大きなリュックサックを担いでプラットホームに下り立った。階段の上に夫人と並んで立ち、帰省の挨拶をした。満場の広場は、万歳、万歳であったという。まるで凱旋祝賀のようだったらしい。
T氏の近所の人が、その前(一年前か、二年前かはっきりしないが)南方戦線から帰ってきた。たった一人で、みすぼらしい格好で、まあ言えばよれよれになって、誰にも迎えられずに帰ってきた。近所の子ども(当時)の証言である。
この格差はなんなんだろう。信じられない。基本的には帰還兵を迎える政府の姿勢にあるのだろうが。ナホトカからの帰還はソビエトとの政府間の協定によって、南方からのは個人的に帰ってきたから・・・などと説明する人もいるが、私には全くわからない。
★ ★ ★
T氏は「あんな戦争はするもんやないわのぉー」と、自分に言い聞かせるようにいう。誰もがそう思う。だが、氏がいうと「そうだなあ」とより深く感じる。「運がよかった」「楽やった」とは言っているが、事の本質を示すのはこの言葉だろう。辛いこともいっぱいあった筈だが、それをほとんど口には出さない。そして、「南方へ行った者はみーんな死んでしもたがの・・・」と。そして亡くなった人たちの名を挙げる。「みーんな死んでしもたんや」と。
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「タシケントの日本人捕虜」はこれで終わりです。このあと
「タシケント墓参の旅」と題して少しばかり書くつもりです。
前にも書いたように、ずっと以前にもお話を聞いていた。そのときには、いずれ記録しようと思いながら怠けていた。そして氏も高齢になられた。
このときの録音のテープおこしはすぐ行い、ワープロに入れた。それからずーっとそのままうち過ぎた。このままだと、誰にも読まれず終わってしまうことは明らかだった。こうしてブログに投稿すれば、一人でも二人でも読んでくださる人がいるかもしれないと思って踏み切った。ありがたいことに、読んでくださる方がいらっしゃることがわかって嬉しい。
ブログの原稿を書いているうちに思い出したこともある。以前聞いた話である。タシケントでの農作業は、コルホーズの農園で現地の農民と一緒にやったらしい。ジャガイモ栽培のことと覚えている。タシケントの農民に「そんなに熱心に働かないでくれ。私たちのノルマの基準が上がってしまうから」といわれたそうである。日本人は捕虜になっても働き屋で律儀、現地人も驚いていたそうである。T氏の話である。面白い話なので覚えていた。他にもいろいろ聞いている筈なのに・・・。
人間の記憶はもろくて消えてしまっているように見えても、脳のなかのどこかに刻印されているに違いない。T氏の頭の中にはいろいろなことが詰まっている筈だ。それを引き出すのが聞き手の手腕だろう。私にはその手腕はあまりないようだ。
★ ★ ★
「運がよかったんや」・・・T氏の口癖である。
確かに運がよかったかもしれない。
まず、南方戦線でなく、当時まだ戦地ではなかった「満州」へ派兵された。
次に、「満州」から戦場へ送られずに済んだ。(本人は希望したが)。
更に、ソ連の捕虜になったが、シベリア送りではなく、中央アジアであった。
もう一つ付け加えれば、歩兵隊ではなく、輜重隊に配属された。
古今東西、運命の女神のやることは、人間の知恵では理解できない。どうして輜重隊なのか? どうして「満州」なのか? どうして中央アジアなのか? 誰が決めたのだろう。
誰かと比較してみても仕方ないが、たとえば、勲四等瑞宝章受賞・京都大学教授宮崎市定氏は昭和二十年二月に召集され、千葉県市川市で、将校として地下航空隊の格納庫建設工事にあたった。四十五歳であった(「自訂年譜」による)。信じられないようなことである。だが宮崎氏の幸運は、すぐ終戦になって家に帰れたことである。
★ ★ ★
T氏夫人は、よく「おいさん(自分の夫のこと)は、なーんも考えんのやさけ」と言っているそうだ。「何も考えない」というのは、ものごとを深刻には考えないという意味である。楽天的であるということである。中央アジアまで連れてこられて、じたばたしても始まらない、家のことをあれこれ心配したり、将来のことを思って悲観的になったりしても、どうにもならないものはどうにもならない、と悟ることである・・・。夫人の表現は簡潔だが的を射ている。
T氏はれっきとした農民である。しかも若い。労働は苦にならなかった。コルホーズの農作業などはむしろ楽しんで働いたのだろう。そして、都会の人は気の毒、という余裕を持った。
そして何よりも気持ちに余裕を持たせたのは、現地の労働者や農民と同じ待遇で働き、また気持ちよく人びとに受け入れられたということだろう。そして、ソ連当局によって、国際法で決まっているから必ず帰すと聞かされていたこと、それを信じようと思ったこと・・・。しかも日本人自身による日本語の新聞も発行され、日本国内の事情も、たとえば大地震があったことなども知っていたということ。
★ ★ ★
氏の話にもあったように、ナホトカから帰郷したとき、駅頭に大勢の人たちが迎えに来た。その様子は、その場に居合わせた人からも聞いた。集まった村民や小学生によって駅前広場は溢れんばかりだった。村長や校長もやってきた。T氏は舞鶴で政府から新品の服装、軍帽、軍服、軍靴、それに下着まで支給されたそうだが、そのぴかぴかの軍服を着て、お土産(長女のための赤い靴もあったと、後に家人から聞いた)を詰めた大きなリュックサックを担いでプラットホームに下り立った。階段の上に夫人と並んで立ち、帰省の挨拶をした。満場の広場は、万歳、万歳であったという。まるで凱旋祝賀のようだったらしい。
T氏の近所の人が、その前(一年前か、二年前かはっきりしないが)南方戦線から帰ってきた。たった一人で、みすぼらしい格好で、まあ言えばよれよれになって、誰にも迎えられずに帰ってきた。近所の子ども(当時)の証言である。
この格差はなんなんだろう。信じられない。基本的には帰還兵を迎える政府の姿勢にあるのだろうが。ナホトカからの帰還はソビエトとの政府間の協定によって、南方からのは個人的に帰ってきたから・・・などと説明する人もいるが、私には全くわからない。
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T氏は「あんな戦争はするもんやないわのぉー」と、自分に言い聞かせるようにいう。誰もがそう思う。だが、氏がいうと「そうだなあ」とより深く感じる。「運がよかった」「楽やった」とは言っているが、事の本質を示すのはこの言葉だろう。辛いこともいっぱいあった筈だが、それをほとんど口には出さない。そして、「南方へ行った者はみーんな死んでしもたがの・・・」と。そして亡くなった人たちの名を挙げる。「みーんな死んでしもたんや」と。
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「タシケントの日本人捕虜」はこれで終わりです。このあと
「タシケント墓参の旅」と題して少しばかり書くつもりです。
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