静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

風のPL(10)羚児とファーブル

2012-11-04 16:34:26 | 日記

先日、画家飯塚羚児(明治37年-平成16年)の画業について、資料室ののある「花
の画房」を管理されている高見みさ子さんにお話を聞く機会をもった。
 羚児は戦前挿絵画家として出発、のち多様な美術作品を制作した。高見さんは、羚
児はダ・ヴィンチに勝る天才だったとおっしゃる。羚児が書いたボートの精密な設計
図を見せてもらった。その設計図に基づいて造ったボートに乗る羚児の写真もあった
。彼は特に帆船画、艦船画を多く描いたので「海洋画家」とも呼ばれることもある。

 『昆虫記』のファーブルは各種の科学関係の書も書いているが、そのなかに『科学
物語』というのがある。昭和二年に冨山房から『新訳絵入 科学物語』(前田晃訳)
が出た。この書の挿絵を担当したのが飯塚羚児である。ファーブルは相当長いあいだ
小学校の教員をしていた。羚児も挿絵画家になる前に短い期間であるが小学校の教員
をした。
 この『科学物語』というのはポール叔父さんという、ファーブル自身をモデルにし
たような人物が、数人の子どもたちにいろいろな話をして聞かせるという体裁の本で
ある。全部で80話、植物・動物はもちろん、地学や化学・物理、あるいは機械の話
まで及ぶ。普通彼を昆虫学者と呼ぶが、多くの人がいうように博物学者と呼んだ方が
いい。
 この80話のタイトルで個人名が使われているのは第38話の「フランクリンとド
・ロマ」と第47話の「プリニイ(プリニウスのこと)の話」だけである。ド・ロマ
は田舎の町長、フランクリンは有名なベンジャミン・フランクリン。ともに紙鳶を揚
げて雷と電気の実験をした。プリニウスは『博物誌』の著者。

 45話と46話でヴェスビオ火山とエトナ山の噴火の話したあとこの47話が出て
くる。ヴェスビオ噴火にあたっての行動をかれはこう記して期している。「非常に勇
気に富んだ人で、もし新しい知識を得るとか他人の助けになるとかいう場合がある 
と、どんな危険からもしりごみしなかった。ヴェスビオ山の上に変な雲を見て驚いた
プリニイは、すぐに艦隊を率いて出発して、脅かされている海岸の町を救ったり、こ
の恐ろしい雲をもっと近いところから観察するために赴いた。・・・プリニイはみん
なが逃げ出しているこの最も危険に見えた方面へ行った・・・」と続く。最後は「(
スタビアの)海岸で、プリニイがちょっと休もうとして地べたに座った時に、強い硫
黄の匂いのする烈しい焔が落ちて、みんなを逃げ出させた。プリニイも立ち上がった
が、すぐまた倒れて死んだ。火山から噴き出した焼灰だの、煙だのが窒息させたので
ある」と描いた。これは甥の小プリニウスが伝える状況にほぼ忠実である。ところが
今日でも、実は船のうえで死んだとか、逃げ惑う群衆に押し倒されて死んだとか、そ
の他いろいろある。中には、物好きにそんなところに出かけてゆくから災難に遭うの
だと嘲笑する学者もいる。奇妙なことだ。
 

この47話には二枚の羚児の挿絵がある。一枚はプリニウスが艦隊を率いてナポリ
湾をわたってゆく図である。黒く立ち上がる噴煙を背景に、大小五・六艘の帆船が、
落下してくる火山礫のためにできた大きな水しぶきの中を進んでゆく図である。沈没
したと見える戦艦のマストも描かれている。二千年近く前の、しかも遠い異国の艦船
隊を想像力豊かに描いてみせた。細部に不審な箇所があるのは致し方ない。しかし、
身の危険を顧みず突き進んでゆくプリニウスとその艦隊の意気込みを見事に伝えてい
る。ローマ艦隊が大波を蹴散らして進んでゆくこのような絵には、諸外国の文献でも
お目にかかったことはない・・・ヴェスビオの噴火を描いた図はいろいろ見たが・・
・。
 もう一枚は、プリニウスの甥の小プリニウスがその母親と二人が、噴煙を背景に見
ながら手を取り合って退避している図である。
 前者の絵は暗く重苦しいタッチの絵になっているが、後者は、線画の上に明るく色
づけしてあって、まるで別の筆づかいをしている。前者のサインは Reiji、後者は Ma
riano.Reiji となっているので別人の筆かと思ったが、マリアーノというのは彼のク
リスチャンネームだった。

 高見みさ子さんによると、羚児は布団に寝たことがないという。高見さんの家に泊
まったときも、布団は要らないと断ったそうである。どうやって寝るんですかと聞い
たら、寝ないで絵を書いているらしいとおっしゃる。恐れ入りました。
 『ファーブルの生涯』を書いたG・V・ルグロはこう言っている。「ファーブルに
とって休養というものはない。とだえることのない、孤独な刻苦精励の生活だった。
せいぜい寝るときから朝目が覚めるまでの短い時間が、休養といえばいえるだろう。
夜明けにおきて彼は、パンをかじりながら台所を大股に歩きまわる。事実、彼にとっ
て思索をすすめるためには、たえずからだを動かしていなければならなかった。ふつ
うの人のように、のんびりと食卓についている朝食ではない」(平野威馬雄訳)。す
ごいな!
 小プリニウスによると、プリニウスは最も睡眠時間が少なくて済む人だった。食事
の間も本を読ませ、手早く覚え書きをつくっていた。田舎にいるときは、仕事(読書
と著作)をしない時間は、入浴中だけだった。入浴中というのは湯舟に浸っていると
きのことで、体をこすったり乾かしてもらうときにも本を読ませたり書き取りをさせ
た。小プリニウスはぶらぶら歩きをしているのをみつかり、時間を浪費するなと叔父
にきつく叱られた。
 凄い人たちがいるものだ。私など朝から昼寝して、ぐうたらに日を過す。情けない
が仕方ない。それが私の人生だ。

 ファーブルはフランスの博物学者レオン・デュフールやレオミュールの影響で昆虫
の世界に入り込んだらしいが、フランスは元来昆虫の研究者に恵まれた。ファーブル
も多くの先輩たちに敬意を表している。だがそれらの人の多くは片田舎でひっそり研
究を続けながらも世間にも注目を浴びずに終った人も多いとルグロは伝えている。そ
もそも昆虫というのは下等な動物と見なされその観察や研究に没頭する人たちも重ん
じられることは少なかったのである。今日でもヨーロッパではそういう傾向があるら
しい。日本人ではファーブルの名を知らない人はほとんどいない。昔からわが国では
虫は愛されてきた。といってファーブルが全く無視されたわけでもはない。文部大臣
が表敬訪問をしたり、レジオン・ドヌール賞を授与されたり、晩年にはポアンンカレ
大統領が自らセリニアン村のファーベルの農園「アルマ」の自宅を訪れたりもした。
 そのファーブルがプリニウスの『博物誌』の熱心な読者であったことはあまり知ら
れていない。『科学物語』の第47話ではプリニウスの生きざまを書いただけだった
が、『昆虫記』ではプリニウスの昆虫に関する観察眼の鋭さを、具体適例を挙げなが
ら敬意を表している。プリニウスの「自然はそのもっとも小さな創造物において自己
の完全な姿を表現している」という名言は後世の人たちに大きなインスピレーション
を与えてきた。もちろんファーブルにも。

 わが国では古来昆虫のすがた・かたちや鳴き声を愛でる慣わしがあった。それは欧
米にははない感性だと評価されてもきた。しかし、昆虫の生態や機能を分析するとい
う伝統はほとんどなかった。アリストテレスは動物を飼育している農民たちから資料
を得て著述を残したが、自身の観察によるものかどうかわからない。プリニウスは明
らかに自身の観察を述べていると思える。そしてその昆虫の生態や機能を分析を行っ
た結果、「自然はそのもっとも小さな創造物において自己の完全な姿を表現している
」という結論を導き出した。もちろん顕微鏡一つない古代においての観察だから今日
から見れば幼稚であり観念的である点は否定しようもない。その不明な点は想像力と
思索、直感によって補う以外はない。ファーブルはプリニウスについてこのようにも
評価している。「この古い時代の博物学者は今度はなんというよき霊感を与えられて
いることだろう」(『昆虫記』山田・林訳)。
 プリニウスが『博物誌』という巨大な作品を手がけた最大の目的は何か。いろんな
人が推測を語っている。だが結局は、彼が意図したのは、自然の偉大さやその恵みを
賛美することにあったと見做すのが妥当だろう。かれは『博物誌』最後のところで「
あらゆる創造の母なる自然に幸いあれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあら
ゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜わらんことを」と述
べた。彼は、昆虫を最下等の動物だとは決して見做さなかった。自然のもっとも完全
な自己表現だと断言した。彼のような思想は人類史のなかでも極めて希なものだと言
わざるを得ない。
 そして、ファーブルの考えもプリニウスによく似ていた。彼の生活感・自然観を示
す言葉を最後に載せておこう(G・V・ルグロ『ファーブルの生涯』平野訳から)。
 「多くの見せかけの幸福や不必要な浪費をすてて、簡素な生活にかえるがいい。か
しこいあこがれに燃えていた太古の節度のある生活にかえるがいい。富源の山である
いなかの生活、野辺、川辺、海辺の健康な生活にかえるがいい。永久の慈母なる大地
にかえるがいい。さもなければ人間は、あまりにもすすみすぎた文明に疲れ、調子が
乱れて、はてはよわよわしいからだとなり、消滅してしまうであろう!
 そうした場合、人間よりもずっとさきにこの地球にやってきた昆虫どもは、さらに
また人間よりもあとまで生き残り、人間のいなくなった世界で歌をうたいつづけるこ
とだろう!」。                                                             
                                                                           


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