静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

子どもは一個の小宇宙(つづき)

2009-12-02 16:40:29 | 日記
 今日、子どもを取り巻く環境はすっかり変わってしまった。昔は、といってもそんなに昔ではないが、家の前の道路が主要な子どもたちの遊び場であった。母親が「ご飯だよ」と叫べば届くような範囲が遊び場であった。今後、路上から車がなくなる社会が生まれることがあるだろうか。いまでは公園で遊ぶ子どもの声さえうるさいと苦情が出る始末。少子化社会、その子どもも塾へ行ったり閉じこもってゲームに熱中するしかない。これは社会が滅亡する前兆だろうか。
 先日発表の文部科学省の08年度全国小中高「問題行動」調査によると、暴力行為が13%増の6万件近くに上った。識者の見解や社説が一斉に発表された。

 振り返ってみると、1997年、神戸市で児童殺傷事件が起きた。98年には栃木県で英語の女性教師が生徒に刺殺された。そして文部省の「児童生徒の問題行動に関する調査研究協力者会議」が報告書を出した。99年には学級崩壊が社会問題になり、次から次へと有意義な提案がなされた。だが、10年ほど経った今、それらの提案も評価の対象とならなければならない。
 事態は悪化している。それらの提案が的外れだったのか、提案が取り上げられなかったのか。

 文化省発表から日が浅いが、今回もすでに多数の見解が発表されている。それらをまとめるかのように社説が出た(朝日12月5日、毎日12月6日)。
 論調はよく似ている。「感情を、言葉で表す力が未熟なまま爆発させる(毎日)、「中でもコミュニケーション能力の陰りは深刻だ」(朝日)とある。他の論も似ている。どうやら意見は一致しているようだ。
 その対策はというと、「目を向ける大人をもっと」(毎日)、「学校・地域連帯で対策を」(朝日)である。これもほぼ共通、判で押したみたいだ。

 ドゥブレは「デモクラシーにおけるキーワードは、コミュニケーションだ」と皮肉った。この文の続きは「共和国(フランスのこと)におけるそれは、制度(創設すること、創設されたもの)institutionだ。共和国的な語彙において、小学校の先生(創設する人)instituteur,institutriceが高貴な言葉であり職業であるのは偶然ではない」である。この言葉は前にも紹介したことがある。いまここでドゥブレの論旨を展開する余裕はない。ただ、この文の少しあとで「共和国では図書館に最大の敬意が払われるが、デモクラシー(アメリカや日本など)ではテレビが重要視される」と述べている。
 ミッテラン氏は大統領選挙で「わたしは大きな図書館を作る」と公約したそうである(『思想としての共和国』)。
 
 30年ほど前、東大教授大内力氏が東大生の学力を論じて「日本語の文章が書けないものが大部分である」「学生がこうなってしまっては、これから10年、20年先の日本の学問はどうやら絶望的である」と書いたことを前に紹介した(「大内力氏の嘆き」)。私はもっと前、1960年頃からその傾向があったことをも指摘しておいた。
 大内氏は、事柄を正確に理解し、自らの頭の中で、それを整理する能力に欠陥があるといっていい」という。大内氏は東大生を対象に論じているのだが、これは日本全体、国民全体、日本の教育全体に問題があると警告を発したのだと思う。

 マスコミや評論家は、コミュニケーション能力、表現力の未熟を問題にする。だが本質はそんなところにはない。考える力、思考力の脆弱さ、欠如にある。感情だけで動くのは動物である。人間は考える動物である。頭の中が空っぽで何を表現するのか。
 子どもたちに、自分で考えることの条件が整っているだろうか。子どもの遊びは、子どもが成長し、自分で考え、自立し、他人と協同することを覚えるための、不可欠の過程である。
 子どもは、自分が小宇宙だとか一個の人格だとか、そんな難しい理屈は分からない。しかし自分が大人たちから大事にされているという自覚のあるなしでは大きな違いだ。

 大江健三郎氏の言ったことを思い出す。
 「本質的に彼らは誇りをもっている」「子どもたちの誇りを無視するとき、彼らが一番反発する」「自分の持っている誇りが踏みにじられる、無視される時、子どもがいかに、怒り、嘆き、あるいは苦しむかということをみれば、人間が基本的に持っている要素としての誇りを大切にしなければならない」。

 大人たちが、自分たちの都合によって教育の目的を勝手に決めていいものか。あるときはイエス・キリストや釈迦、あるいは孔子や孟子のような人間を目指せという。あるときは、軍神になれという。あるときは「期待される人間像」を国家、政府、資本の要求によって教育現場に強要する。学校は「期待される」労働力の養成、選抜の場となる。

 最後に、ある教育雑誌の特集号に掲載された論文(1984年)から、少し長くなるが引いて終わりにする。
 「教育はひとりひとりの人間の可能性を個性ゆたかに開花させ、新たな社会と文化を担う主体の形成を促す営みである。そのような営みとしての教育は、自由な社会においてのみ、その機能を十分に発揮することが出来るのである。画一的に統制された教育環境の中で、また伝統的価値観が圧倒的に支配する社会の中で、自由で多様な個性が伸びるわけがない。学校が真に教育の場でありうるために今日必要なことは、まさに社会と学校における自由の回復である」
 「子どもと青年は無限の発達可能性をうちに秘めた存在である。そしてこの可能性はしばしば大人たちの予想・予測をこえて顕現し開花する・・・」「たがって、そこには人が人を教えることへのおそれと、人間にひそむ可能性への深い信頼と寛容さが不可欠である。教える立場にあるもの、教育の政策と行政にかかわるものは、恣意や傲慢をきびしく自制しなければならない」(「日本の教育改革を求めて」)。




        




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