静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

『朝鮮植民者』を読む

2010-08-29 16:03:14 | 日記

 (1)
 村松武司は自分を三代目の朝鮮植民者だといっている。父方の祖父と母方の祖父はそれぞれ一代目の植民者である。この母方の祖父・浦尾文蔵は敗戦後故国に帰ってから村松武司に植民者時代のことを細かく語った。それを書にしたのが『朝鮮植民者―ある明治人の生涯』である(三省堂ブックス、1972年)。

 浦尾文蔵は1892(明治5)年、山口県壇ノ浦生まれ。村松の言うには「名もなき、とるに足らぬ男の一生である。一般に想像される植民者というイメージ、鞭とサーベルを持ち、残忍なものを内にかくし、開拓精神に燃えた男性像からは、およそ遠い存在」であった。

 庄屋の家柄だったが、文蔵の祖父の頃から家産が傾き始め、19歳のとき父が死亡。朝鮮の京城(ソウル)にいた姉を頼って渡航、内地ではうだつの上がらなかった文蔵もこの地では魚が水を得たように生き生きと活動を始めた。日本とは違った土壌がそれを可能にさせたのだと村松はいう。失敗も成功もあった。失敗して日本に舞い戻り、東京でおでんの屋台を出したこともある。だが再び朝鮮に戻り、苦労の末、太平洋戦争末期にはそれなりの資産と地位を築いた。

 (2)
 『朝鮮植民者』のはじめの方に、朝鮮の風俗・習慣についての文蔵の観察がある。
 科学(カハク)といわれる登用試験、論文に金が添えていないと通用しない。旅で、出立の前に一時間・二時間かけて化粧する男性。婦人は、男に顔を見られないようカツギ(チャンウィ=長衣)を着る、ようやく目と鼻が見えるほどの。官吏は階級に応じて耳の上に相応するボタンをつける。笠(冠)にも色々ある。冠の紐にも上下ある。最上になると琥珀の玉をつないだ長さ四尺(1メートル20センチくらい)、玉の数は何百個にもなる・・・。
 高級官吏、たとえば大監が出勤するときは、籠かき4人、助手4人、従者4・5人、印鑑持ち一人、タバコとキセル持ちが一人、先触れが4人、総勢20人ほどが大騒ぎする。先触れが下へ下へと大声で叫ぶ・・・。宮廷内の内侍、みな令監で位が高い。常に赤色の装束を着ていて睾丸のない人ばかりである・・・
 なるほど、なるほど、韓流ドラマがいっそう面白くなる。

 日清・日露の戦争の間の期間、文蔵はしばしば旅行した。日程が狂って金を使い果たしたときは、富豪または両班の家に行って事情を話すと喜んで何日でも泊めてくれご馳走してくれる。携行した薬をお礼の代わりに出すと、むしろむこうは赤面して薬の代価を払わしてくれという。
 見ず知らずの人にもそのように接するのが当時の朝鮮の人たちの矜持だったのだ。日本にもかつてこのような時代があったのだろう。

 当時、朝鮮と中国の間は自由に行き来していた。文蔵は一時中国の安東でカフェを経営していたが、安東は鴨緑江をはさんで新義州の対岸の町である。日帰りで通勤できる。またその周辺で材木取引を行ったりもした。文蔵は中国人のこともたくさん語っている。その断片をのせよう。

 「私たちは鴨緑江の上流に木材の買い付けに行った。その夜は中国人の木材問屋に一泊、米と缶詰を差し出すと、笑って受け取らない。お食事には不自由はかけませんという。一行4人に10人分くらいのご馳走と酒が出た。翌日の朝食もそうだった。帰途につくとき礼として20円を包んで差し出すと、真っ赤になって拒む。仲買人も、それはやらないのが礼ですという。ご馳走になりっぱなしで別れた。
 ちょうどこの家の前に組み立て式の大きな筏が流れてきた。筏の上に家を作り一家が住んでいる。ネギ畑もある。それに便乗させてもらう。文蔵は礼に持参の米と缶詰を差し出したが、筏主は幾度も合掌して喜んで言うには「私は物質を得んがために便船を諾したのではありません。ただ河の上の親友を得るために承諾したのです。このような商品を頂いては面目ありません」と。


 少し長くなるが文蔵の語り口を聞こう。 
 「またしても、このような言葉を聞いた。私たちは米を食い、彼らは高粱を食す、食せざるを得ない彼らである。にもかかわらず、彼らの友誼は、わたしの謝意をはるかに越えるものがあった。私と彼らのいだのちがいは、おそらく何もないのであろう。侵略さえなければ、四海は天国の如きもの、人情に国境なく、何のへだたりがどうして国境を成す力となろうか」
 「わたしは、こうして鴨緑江を幾度となく越え、川に沿うて流れてみた。ちょうど、日本紀州の筏夫が、国策のなかで、悲壮なる歌を歌いつつ筏を流したのと似ている。だが中国人の材木商も、筏師も、わたしのかたわらにいて、わたしとちがう世界にいた。われらは植民政策のなかで、彼らは大自然の一部として、生きていた。わたしは彼らと交わりたいと願った。にもかかわらず越えることのできない、わたしと彼らのちがいが本質的にあったようである」。
 
 「彼らは大自然の一部として生きていた」、なんとすばらしい言葉ではないか。


 (3)
 浦尾文蔵は日露戦争後の朝鮮についてこのように語っている。
 日本の豪商は朝鮮八道の経営に乗り出した。幾千万の商品が朝鮮に充満し、低いオンドルの家並みは鉄筋コンクリートの洋館建てに変わり、街を行く日本人は和服から洋服になり、伊藤博文統監が威風堂々と四隅を払うようになって、身分の低い文官の人びとまでが金筋の帽子をいただき、腰間の帯剣は、衣冠長袖・長キセルの朝鮮人を圧倒し始めた。
 中国の上海方面からの輸入は途絶、中国商人は全員が朝鮮から引き揚げ、朝鮮の財政は衰弱するばかり。日本は内地の保険会社その他が遊金を朝鮮の事業投資に回し、東洋拓殖は農地を買収しはじめる。本土の農民も父祖の水田を売って朝鮮の水田を購入すると、一夜で20倍の水田持ちになった。その投資額は想像も及ばぬくらいの巨額になった。
 
 朝鮮人の中で、自国の土地が全部日本人のものになるといって嘆くものがいる。当然だろう。しかし、悲観することはない、日本人が土地を日本に持っていくことはできないと、楽観的に言う人もいる。文蔵は言う、当時としては悲観論者の言は真実。楽観論者の言は、今(日本の敗戦)こそ真実と。そして、そのことを当時の私たち日本人は、いったいどこまで理解しえたであろうかと問う。

 
 (4)
 先にも述べたが、中国人も朝鮮人も粗食である。高粱に名だけの副食ということが多い。日本人のようにカロリーがどうのこうのと複雑なことはいわない。好んで貧しいものを食するのではない。栄養のある食物を食うことができぬからだ。それでもなお、贅沢をしている日本人より体格が勝るのはどういうことだろうか、と文蔵は不思議がる。朝鮮・中国は日本の支配下にあるが、亡国にあらず・・・このように彼はいう。

 中国人で口角アワを飛ばして争う現場を見受けぬ。それだけでなく、悠揚たる態度を包容して神経過敏ではない。家の周囲がいかに不潔をきわめようと、家の中がいかに暗くうっとうしくとも、はなはだしきに至っては、一食抜いて腹が空いていても、それを言語にあらわさぬ。家に妻なくとも、悠然としている苦力を見ると、とうてい日本人の真似のできることではないと思う。すべてを自然に任せて、求めんとして焦らず、古来の中国文明そのままがひとりの文盲の民衆の中に生きている・・・。

 文蔵の思索は深く沈潜してゆく。


 (5)
 村松武司が京城中学三年(昭和15年)のとき、級友のなかに金田、李家、張本という聞きなれない日本名が突然生まれた。担任の山口正之(『朝鮮西教史』の著者)が「今日からこれら創氏改名した学友たちを旧姓で呼んではならない。この人々は、親兄弟をあげて、名実ともに日本人である・・・」と宣言した。彼らは恥ずかしがって頭を垂れていた・・・。だが、悪意があったわけではないが、日本人生徒はひそかに笑っていた。

 そういうなかで、Sという級友が「夏山」という素敵な名前に変わった。村松はその名に羨望を覚えた。その夏山は、徴兵令が布かれると、まっすぐに「北支」の前線部隊へ入った。続いて村松も入営した。
 夏山は朝鮮人である。だが日本兵として中国大陸への侵略戦争に加担したことになった。不本意だったかもしれないが。軍歌「討匪行」にあてはめて考えると、本来「匪」の側にあったはずの夏山は、「匪」を討伐する側に立ったことになる。だが村松は、日本軍に不意打ちを食らって倒れた「匪」の側に自分を置くべきだと考えるようになる。かれは朝鮮を故郷と思う第三世代の朝鮮植民者であった。

 日本敗戦の翌日、8月16日、村松は、朝鮮人が歓声をあげながら、日章旗を改造した大極旗を掲げているのを見て深い感動に包まれる。
 村松はそのとき電波兵器士官学校の学生であった。19日、生徒を校庭に集めて隊長は「朝鮮人は帰すが、郷里が日本にない者(植民者のこと)は、朝鮮人と共に復員してよい。希望者はいるか」と聞いた。村松は隊列を離れて一歩前に出た。「帰りたいか? 村松候補生」「はい」。彼は戦友と別れ、軍装を捨て、「京城」行きの汽車に乗った。彼はこう書いている。「わたしは、やがて日本にかえるだろう。しかしわたしの心の中に、この日、死ぬものと、生まれるものが、ふたつあった。ひとつは日本、ひとつは朝鮮。わたしに永遠に解けない言葉が、ここで与えられる。
 「父の国と母の国」。

 村松の祖父浦尾文蔵は長年の苦労の末、この地で一定の産と地位を得た。そこで骨を埋めるつもりだった。村松武司もここが郷里だと思っていた。だが、それは甘い考えだった。どうして駄目になったか、複雑な事情を他人が推し量ることは難しい。米軍の占領下にあったことも原因の一つだろう。日本人の植民者は一斉に引き揚げることになる。望むと望まざるにかかわらず・・・。

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 『朝鮮植民者』は絶版になっているが、村松武司『海のタリョン』に収録されている。上記拙文は、この書の書評でも、内容紹介でもない。とくに印象に残った箇所をあげ、筆者の感想を少し加えたにすぎない。今日8月29日は「日韓併合」100年にあたる。また、昨日8月28日は村松武司の命日であった。
 



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