静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

風のプリニウス(9)共存の心

2012-07-16 21:21:04 | 日記

 「シートン動物記から100年」というタイトルの京大教授・山際寿一氏の文を読
んだ(『毎日』12・6・24)。それによると、第二次大戦後京都大学で動物社会学とい
う新しい学問が始めたとき、欧米の学者から強く批判されたという。動物を擬人的に
見ることを強く戒める風潮があったためらしい。そういう記事を読んでいてプリニウ
スのことを思いだした。ひさしぶりに「風のプリニウス」(9)を書くことにした。

(一)
 山際氏の文では、西洋の昔話では動物は人間になれない、人間と動物の間には超え
ることのできない境界があるという。そして、動物は本能の働きに従って外界の刺激
に機械的に反応しているだけだと考えられていたという。対照的に日本の昔話は、動
物と人間が一緒に仕事をしたり結婚して子どもを創ったりする・・・とある。だが私
はこういう話は中国には無尽蔵にあるのだろうと思う。日本のはその影響だろう。こ
の問題は宗教観に大きく影響されていると思う。だが、そのことが今日の話題ではな
い。
 プリニウスの『博物誌』の動物についての記述は主として生態に関する第8巻から
第11巻と、動物から得られる薬剤に関する第28巻から32巻まで、合計9巻であ
る。『博物誌』37巻の三分の一に及ぶ。薬物にこのような比重を置いたことは、プ
リニウスがアリストテレスに大きく学びながらも、全く違った意図を持って編纂され
たことを明示してくれる。プリニウスの場合、動物と人間との関わりが重要な位置を
占める。アリストテレスが行った生物学的分析などにはほとんど興味を示していな 
い。
 シートンの動物誌はいわば小説であるが、プリニウスの場合科学として書こうとし
ている。しかし今日の科学水準と比較することは無意味である。彼の動物編ではゾウが真
っ先に取り上げられている。今日でもゾウは動物園での一番人気であるし、歴史上で
も重要な役割を演じた。だがそれは後にしよう。
 ここで最初に取り上げるのは百獣の王ライオンである。彼はライオンの項を、その
出産から始めている。ところがまずそのなかで興味あることを述べている。
 アレクサンドロス大王は動物の性質を知りたいという欲望に駆られ、その研究を科
学分野で最も優れたアリストテレスに委嘱した。大王は全アシアとギリシア中の数千
人の人びと、狩猟、鳥打ち、漁労で生計を営んでいるすべての人々、ウサギの飼育 
場、畜群、蜂蜜飼育場、養魚池、小鳥飼育場を管理している人々は、その種類・出生
地の如何を問わず、すべての動物についてアリストテレスが確実に報告を得られるよ
う、その指図に従えという命令を出したと。アリストテレスはそれらをもとにして、
ほとんど50巻からなる有名な動物学に関する書を著したという。アレクサンドロス
大王が、アリストテレスにこの大仕事を依頼し、そのために経済的援助を与えたこと
はフランシス・ベーコンやブルクハルト(『ギリシア文化史』)なども書いている。
大王がなぜ動物に興味を持ったかのか、それはプリニウスも書いていない。もし大王
が植物にも興味を持ったならば、大王はその資料の収集のためにも大金をはたいてア
リストテレスを援助し、アリストテレスは『植物誌』をものにしたであろうに。
 話をもとに戻して、このアレクサンドロスの援助のことを述べたあとでプリニウス
は、『博物誌』の著述においてアリストテレスの著作の恩恵にあずかっていているこ
と、アリストテレスの著作を要約したものに追加したが、このことを好意的に受け入
れてくれるよう読者にお願いすると書いている。確かに彼はアリストテレスからあち
こちで引用しているが決して要約にはなっていない。不思議だ。
 この叙述の少し前に彼は「アフリカは常に新種をつくり出す」というよく知られた
言葉を紹介している。アフリカは水が少ないのでわずかな川に動物が集まり、雑多な
雑種が生まれるということを示すもので、ギリシアからもたらされた言葉だとプリニ
ウスは言う。今日アフリカでは、「新種」を「新しきもの」と読み替え、アフリカの
未来に展望を與える言葉として使われているようだ。

(二)ライオンの威厳
 さてそのライオンの話、続きを少しばかり紹介しよう。
 動物のうちライオンだけが、慈悲を乞う人に情けを示す。自分の前に平伏する人に
害を加えない。極度に飢えているとき以外は子どもを攻撃しない。ユバ(前50頃-後
23頃、マウレタリアの王。歴史書その他の著作あり)は、ライオンには懇願の意味が
通ずると信じているとプリニウスは書いている。だからこのあたりはユバからの引用
だろう。次の話もユバから引いたらしい。捕虜になったけど逃亡したある女性が森の
中で一群のライオンに襲われた。彼女は、自分がか弱い女性で逃亡者であること、動
物の王者に嘆願しているのだが、自分は王者の名誉にとって相応しくない獲物だと訴
えた。そしたらライオンは襲撃を止めたというのである。
 シラクサ人メントルがシリアで、嘆願するような素振りで寝ころがっているライオ
ンに出会った。恐ろしくなって逃げようとした。どちらへ逃げようとしてもそのライ
オンは立ちふさがり、彼にへつらうようにその足跡をなめた。メントルはライオンの
足に腫物と疵があるのに気づき、とげを抜いて苦痛から救ってやった。シラクサにそ
れを描いた絵がある。
 またエルピスというサモス生まれの男がアフリカに上陸したとき、威嚇するように
大口を開けている一頭のライオンに出会った。木に登って難を避け、リーベル・パテ
ル(イタリアの生産と豊饒の神、古い時代からギリシアのディオニュソスと同一視さ
れている)に助けを求めた。ライオンは、彼が逃げようとしたとき行く手に塞がるこ
ともできたのに木の傍に横たわり、大口を開けたまま憐れみを乞いはじめた。みると
一本の骨が歯の間に刺さっていた。ライオンが声も出さずに助けを求めたように見え
たのは、獲物を貪欲に噛んだ罪だけでなく、空腹が彼を悩ましていたのである。男は
ついに木から下りてきてライオンの口からその骨を抜いてやった。ライオンは片足を
男に差しのべた。男の船が停泊している間、ライオンはその恩人のために獲物を運ん
できて謝意を表したという。エルピスは故郷に帰ると神殿を建てリーベル・パテルに
捧げた。ギリシア人はこの神殿に口を開けたディオニュソスの神殿という名を与え 
た。プリニウスは言う、野獣がほんとうに生類のひとつからの援助を望んでいるとき
には、彼らは人間のやり方を認めるものだという事実がある、これも驚くほどのこと
はないと。この話をどこから仕入れたか彼は書いていないが、現にギリシアにそうい
う神殿があったのなら、広く流布している話なのだろう。
 この三つの話、話の内容というより、ユバ王、絵、神殿などが物語るというその事
実、それをプリニウスは書いている。彼自身の小説や創作ではない。その話の内容が
仮に作り話であったとしても、そういう話が存在したこと、当時の人たちのライオン
観、そういう話を生み出すような社会、それをわれわれは知ることができる。それを
分析するのが科学だろう。

(三)イルカの愛情
 プリニウスは、イルカは人間に親しみやすい動物であるだけでなく、音楽の愛好者
だという。また人間が好きだ。船が現れると周りで遊んだり競争をしたりする。竪琴
の名手アリオンが船旅の最中、彼を殺して金を盗もうとする船頭の企みを知ったアリ
オンは、一曲弾かせてくれと頼んだ。その音楽が一群のイルカを引き寄せ、彼は海に
飛び込み、イルカによってマタバン岬の海岸に無事に連れていかれたという。
 アウグストゥス時代に、一匹のイルカがある少年に恋をした。彼の手から食べ、背
に乗せて湾を横切って学校に連れて行き連れて帰った。それは少年が病死するまで続
いた。少年が死ぬと、イルカは喪中の人のように同じ場所に通いつづけたが、ついに
恋いこがれて死んでしまった。このことは多くの人(3人は実名をあげている)が書
いているからいいようなもの、さもなかったらこんな話は恥ずかしくて書けない・・
・そうプリニウスは言う。
 イアスス市のある少年に、あるイルカが恋をしていた。ある日、その少年が海岸か
ら去ろうとしたとき、そのイルカは岸の方に向って懸命に追いすがって砂の上にのし
上げ息絶えてしまった。アレクサンドロス大王は、そのイルカの愛情を神の恩寵のし
るしと解してその少年をバビロンのポセイドンの神官の長にした(この話をアリスト
テレスが書いているかと思って探したが見つからなかった)。
 同じイアスス市にハルミアスという少年がイルカに乗って海を横切っていたとき、
突然波にさらわれ命を落したが、イルカはその少年の死体をを岸へ連れ帰った。だが
イルカは責任を感じて海へ帰らず、乾いた砂の上で死んだ。
 ヒッポクラテスも同じことがナウパクトゥスでも起きたと記録しているが、そうい
う事例は限りなくあるとプリニウスは書いている。また、イルカが人間と共同して漁
をする話を詳しく書いている。
 イルカと人間の交流については甥の小プリニウスも詳しく書いているが省略。アリ
ストテレスも「イルカの愛情深い性質」という一節を設けているが「タラスやカリア
ヤスやその他の地方での少年に対する愛情や欲情の実例さえあげている」とはっきり
しないことを1行記しているだけである。彼の『動物誌』には人間との交流に関する
記事は極めて少ない。

(四)怜悧なワタリガラス
 現在でもそうだが、古代においても鳥類の観察はきわめて困難だった。だからいろ
いろな神話や伝説が生まれる。それは洋の東西を問わない。数多くのプリニウスの叙
述の中から一つだけ選ぼう。
 ティベリウス帝のとき、一羽のワタリガラスが郊外のある靴店に舞い降りた。この
ワタリガラスは間もなくものを言う習慣を身につけた。毎朝広場の歩廊に飛んでい 
き、ティベリウスに、それからゲルマニクスとドゥルスス・カエサルにその名を呼ん
で挨拶し、次に通りかかった公衆に挨拶し、それが済むと店に帰るのが常だった。と
ころがこの鳥を靴屋の隣の借家人がある詰まらぬ理由で殺してしまった。それを聞い
た市民たちが騒ぎだし、その男はその地区から追放された。そして、そのワタリガラ
スの葬儀が盛大に行われ、大変な数の会葬者が集まった。美しく覆いをされた棺台は
二人のエチオピア人によって担がれ、先頭に笛吹きが立って葬列が進んだ。アッピア
街道の右側、レディクルス原と呼ばれるところにある第二の里程標石のそばに築かれ
た火葬壇には、あらゆる種類の花輪が添えられた。
 プリニウスはこの話の出所を書いていない。だが、彼は後35年(多分12歳)の
ころ勉学のためローマに出てきていた。この葬儀は後36年3月28日だと彼は書い
ている。ティベリウスの死は翌37年である。好奇心旺盛なプリニウスはその葬儀に
参列したのだろう。いや、彼はフォルム・ローマヌムのバシリカで、このワタリガラ
スと朝の挨拶を交わしたことがあったに違いない。
 この話の後で彼は書いている。ローマの指導者でも全然葬式をしてもらえなかった
人も沢山いるのだと。                                                       
                                                                           


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