静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

憲法は国民が守る

2015-05-17 21:15:02 | 日記

                

(一)序

  立憲主義というのは憲法に基づいて政治を行うということに他ならない。「立憲主義」それ自体は憲法の良し悪しは問うていない。明治憲法時代も立憲主義だった。多くの日本人は大日本憲法を立派な憲法だ、不磨の大典だと崇めた。敗戦で、ダメな憲法ということで新憲法を作った。ヒトラーのナチスはワイマール憲法下の立憲主義の中で肥育した。ワイマール憲法は大日本憲法など及びもつかない良い憲法だったが、戦後ドイツ人はもっと立派な憲法を作った。大日本憲法がプロシアの憲法学者の指導の下に作られたことを思うと、何という巡り合わせ!

 (二)国民には憲法擁護義務はない?

  ア、先日、ある大学の先生の談話が新聞に載っていた。学生はみんな、国民には憲法を守る義務があると思っている。だがそれは間違いで、守る義務があるのは天皇・摂政・国務大臣・国会議員・裁判官・公務員だけであり、国民には擁護義務はないと教えているという趣旨だった。

イ、新聞報道も似ている。たまたま見たコラム(2015.5.11、朝日・天声人語)では次のようにあった。「憲法99条は天皇・・・公務員らに、憲法を尊重し擁護する義務を負わせる。そこに国民は登場しない。憲法とは権力に対する国民の側からの命令だという立憲主義を象徴する条文だ」

ウ、どこかの弁護士が市民講座などで、自分たちに憲法擁護義務があると思っている市民に、それは間違いで、「ない」が正解と説いて啓蒙活動をしている話を何回も読んだ。

上記のような事例は繰り返され報道されている。共通しているのは、国民や学生(国民の一部ではあるが)は憲法に関しては無知だから教えてやる、どうだ、眼が覚めたか・・・という姿勢である。

憲法論を説いているこれらの人たち(大學の教員、大新聞の論説委員? 弁護士)は国民大衆の目からみればエリートであり世論のリーダーである。異論を差し挟みにくいが、筆者はあえて何回か論じた(注)。それを繰り返したくないが少しばかり。

 (三)守る義務あると思う国民

 繰り返すようだが、上記で共通しているのは、国民一般は、自分たち国民には憲法を尊重・擁護する義務があると思っているということである。その国民の思いを、エリート達が必至に否定している姿がある。

筆者を含めて国民大衆は、国の法律は守らなければならないと思っている。法軌範を破れば罰せられることも知っている。憲法が最高法規であることも知っている。憲法自体に書いてあるのはもちろん、そんなことは常識だと思っている。先のエリートたちは、その国民一般の常識を覆すことに喜びを感じているように思える。

 そのエリートたちが必ず持ち出すのが憲法99条である。この条項に「国民」という言葉が入っていないから国民には尊重擁護の義務はないという。

私は日本国憲法施行後二年目の一九四九年に学校でこの新憲法の講義を聴いた。ほとんど忘れたが、覚えていることが二つある。一つは、憲法は最高法規であること。二つ目は、99条には天皇以下公務員の尊重・擁護義務を定めているが、これは国民一般に尊重擁護義務があることは当然の事なので書いてない。だから公職についている人たちが尊重擁護しない場合は、その適格性を欠くものとして処分されることになっているのだと。

 古い憲法の本や雑誌を見てみたが、それらには国民に尊重・擁護義務はないと書いた本はほとんどない、というより見つからない。義務を負うというのが常識だから詳しく論ずることもない。つまり、昔は学者の意見はほとんどが義務はあるということだったと思う。確かめるために、埃をかぶっていた『法律時報』1月臨時増刊号(1971、日本評論社)を持ち出し、その解説を久しぶりに読んでみた。制憲議会での討議の様子に触れながら次のように述べている。

 「制憲議会においては、国民に憲法尊重義務を負わせず、公務員だけに義務を負わせているのは片手落ちだというような意見があったが、政府は、国民が憲法を作ったのだから、みずから護ることは余りにも明々白々であり、それは前文からも出て来るし、権力者が憲法を濫用して人民の自由を侵害することを防止するという憲法の伝統的な思想から来ていると答えた。また天皇は無答責であり、この義務に違反しても責任には答えられない、国務大臣は議会及び議会を通じて国民に対して責任を負わねばならず、議員その他の公務員は何らかの形においてこの義務違反に対する責任を果さなければならないが、憲法には細かく制裁規定などを置くことはむしろ体裁を得ないと答えた」

 憲法前文には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにすることを決意し」と、前文の結語に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と謳っている。政府(国家)の責任と国民の任務について明確にしたものであり、政府答弁もそれに則っているとみていい。もう一つ、憲法制定議会における南原繁(参議院議員、のち東大総長)の発言も参考までに載せておく。

 「この憲法が成立するといたしますれば、これに賛成した議員、みな、われわれには、非常に重要な責任があると思うのであります。ことに政府におかれましては、この草案を創定されただけに、それだけ責任が多いと思うのであります。・・・日本政府がつくり、また、日本の帝国議会がこれに協賛したといたしますれば、その責任が日本のものであり、日本の憲法としてわれわれは、どこまでも確立しなければならないのでありまして、この点は、特に政府におきましては、非常に大きな責任が今後おありになるとおもいます」

 南原は政府の責任を特に強調しているが、その精神は99条に反映していると見ていい。この中で彼は、この憲法が日本国民自ら自主的に選択する憲法であることも明確にしている。精気あふれる生き生きした憲政議会の討論が偲ばれる。

 上記の「みずから護ることは余りにも明白」という考えは、その後の憲法学者たちの考えにも多く反映している。それは近年の「エリート」たちの考えとは真っ向から対立する。

新憲法発布のすぐ後に文部省が発行した中学教科書『あたらしい憲法のはなし』はとても有名である。だが発行後二・三年で文部省自身が廃止した。この書の冒頭は「みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました」 そしてこの書の最期の一節は「みなさん、あたらしい憲法は、日本国民がつくった、日本国民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本の国がさかえるようにしてゆこうではありませんか」であった。この書の内容に関しては多少議論もあったようだ。しかし、その初々しさは中学生だけでなく、多くの国民の心を打った。素直に国民に「憲法を尊重し守る義務がありますか」と聞けば、みんな「あります」と答えるのが当然だろう。

 (四)たんなる道徳的要請?

 選挙運動で、「憲法を守ろう」ではなくて、政府に「憲法を守らせよう」というスローガンがあった。「ハイ、それでは守りましょう」などということには絶対ならない。政権与党が憲法改正を党是とし、内閣総理大臣が先頭切って改訂熱中している。日本は三権分立とされるが、裁判所は基本的には政府の言いなり。

 遙か昔になってしまったが、一九五七年の、米軍立川飛行場拡張のための土地収用を巡っての裁判で、東京地裁は、99条は公務員が公務に従事する際の心構えを宣言したものに過ぎないと判決し、憲法尊重擁護義務を単なる道徳的要請にしてしまった。その後の判決もその趣旨を踏襲してきた。内閣も、国会議員の過半数も、堂々と憲法違反を行って(第9条違反が典型)何ら痛痒を感じないのが日本の民主主義。99条違反は心構えに過ぎないのだ、心構えはあると宣言すればそれで済むと思っている。だから憲法に則って政治を行っている、立憲主義を守っていると嘯いておればいいということになる。99条に列挙された人たちのうち、天皇以外は、憲法を守ろうという気構えさえ示さないのが現状。そこへもってきて、国民には憲法を守る責任はないというキャンペーンが行われる。それでは誰が憲法を守るのか?

先に南原繁の発言を紹介したが、彼は当初、憲法制定過程に疑問を呈していたが、いよいよ成立する段階で上記のような発言をしたのである。日本国民がこの憲法を選んだ、国民は国際的な民主主義の力を借りながら、この平和と民主主義への道を選んだ、制定議会の一員としての自分も憲法を擁護するという決意の溢れた演説であった。

99条の人たちに期待できない今、憲法を守ることができるのは国民以外にはない。今国民一人ひとりの意思と力、憲法制定当時のような国民の溢れるような憲法への信頼、そして日常生活のなかでの憲法を活かそうという努力、これらこそがいま日本の針路に求められている。

世の識者たちよ、国民には憲法を守る責任はないなどという無責任な発言は慎んでもらいたい。    

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(注)「縛る憲法(13/14/24) 「(13・04・24)「憲法は誰のもの」(13/5/13) 「憲法は誰のもの(続)(13/5/19) 「憲法を実行する」(13/6/6) 「法的義務」(13/6/22)「国家主権と個人」(13/7/7) 「憲法は注文書か?」(13/9/2)

 

  

 

 

 

 


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