●心の持ち方
誰にでも、いやなこと、考えるのも憂うつなこと、苦しみなどというものはありますね。
そんな時、私の場合「神様助けて」となるのですが、そう祈っても、叫んでも事態の好転が見られないときのほうが多いのです。
どうして?という気持ちから、何が問題なのかというように、受け止め方が変わってきます。
人にとって最も苦しいことは、それぞれなのですが、私の場合は束縛から逃れる術を見出せないとき。ですね。
会社を経営していて、今の苦しみは資金的な面が非常に大きいです。
頑張っても、頑張っても資金繰りの好転が見えない。
むしろ、段々苦しくなるときというのは本当に苦しいです。
そんな時、思わず「神様、本当に苦しいです。助けてください。」とつぶやいている自分が居ます。
この頃、少し考えることがあって、「この様な呟きを、神様はどの様にお聞きになっているのだろうか?」と考えている自分に気付きました。
どうしてもこの困難から脱却したい。と思っていると、その方法論についてどこに問題があるのかを考えるように、どうしたら自分の力の限界を超えている事態から逃れることができるか?
と考えるのは自然なことだと思うのですが「どうしたら、神様は私の願いを聞いてそれに応えてくれるだろうか?」というのは、クリスチャン特有のものだと思います。
これを、なんという不信仰なという人は少ないと思うのです。
何故なら、私だけではないはずなのですが、こんな状況にいるとき私は「聖書に登場してくる、困難な状況下に置かれた人々でそこから助け出された人々のことを思い浮かべるのです」
なぜ、長血の女はイエスの衣に触れただけで、病を癒されたのか。
どういう祈りをすれば、神様は聞いてくださるのか。神様は全てをご存知で、私の心にあることでも知っているのに、何故願いは叶わないのか。
しかし、大事なことを忘れてしまいがちです。私達人間と神様の想いは異なっています。
神様ははっきりと、私の想いは人のそれとは違う、と聖書で語っています。
ですから、人間にはその想いを知ることは不可能ではないにしても、極めて困難です。
ただ、人の願い事について、神様はこういうのです。
「からし種ほどの信仰があれば、山にむかって海に入れといえば山は海に入る」
「二人の人が、心をあわせて祈ることはどんなことでもかなえられる」
「祈っていることは、既にかなえられたと思いなさい。そうすれば実現する」
「魚をほしがる子供に、蛇を与える父親はいない。まして、叫び求める人々に神が応えられないであろうか」
日照りが続き雨乞いをするとき、傘を持って出かける人は少ないのです。
雨を降らして下さいと祈っていながら、雨具を持って出かけないのです。
祈りは聞かれ、願い事は実現したと思い切れる信仰がないのです。
◆今日の祈り
全能なる御父、天の神様あなたの豊かな恵みと祝福に心から感謝申し上げます。
主の御前にあって、愚かで弱い、罪深い、不信仰な私をお許し下さい。
主は、全てをご存知であり、すべての必要を備えられております。
私たちは、ただそれを信じその必要を受ける備えをすれば、すべては与えられる。というあなたの契約が与えられています。
しかし、この愚かなしもべはこの世の些細な困難、苦しみにおじ惑い、あなたの御約束を見失います。
およそ、困難苦難試練は、人を鍛錬する為に現れると御教えにあります。
主よ、私は不信仰なしもべです。弱く、罪深い力の無いものです。
いまこの愚かな者の頭上にある困難を取り除けてください。
私は充分な鍛錬を受け、あなたの前にしもべとして座しています。
これ以上の、苦難、試練は私を訓練するものとはなりません。
既に、私の願い事が御元に届き、主の耳に聞き覚えられていることを知っています。
その、祈りが聞かれ、私のもとにかなえられた願いが届けられる準備が整っていることも、信仰によって知っています。
主よ、御手を延ばすのを遅くしないで下さい。あなたの時間と私の時間とは違うのです。時を逸してはいけません。
私の必要をすぐに届けてください。遅くしてはいけません。
何故なら、あなたは私の神であり、私の主であるからです。
およそしもべを従える主人というものは、そのしもべの必要に心を向け、そのときを見計らいそのもっとも必要とするときに、それを与えるものです。
それは、主人に忠実に仕えるしもべとして、育て訓練する為です。
既にそのときがせまって来ました。今がそのときなのです。遅くしないで下さい。
この祈りと願いとを、尊き御子主イエスキリストの御名を通して感謝してお祈り申し上げます。
アーメン。
誰にでも、いやなこと、考えるのも憂うつなこと、苦しみなどというものはありますね。
そんな時、私の場合「神様助けて」となるのですが、そう祈っても、叫んでも事態の好転が見られないときのほうが多いのです。
どうして?という気持ちから、何が問題なのかというように、受け止め方が変わってきます。
人にとって最も苦しいことは、それぞれなのですが、私の場合は束縛から逃れる術を見出せないとき。ですね。
会社を経営していて、今の苦しみは資金的な面が非常に大きいです。
頑張っても、頑張っても資金繰りの好転が見えない。
むしろ、段々苦しくなるときというのは本当に苦しいです。
そんな時、思わず「神様、本当に苦しいです。助けてください。」とつぶやいている自分が居ます。
この頃、少し考えることがあって、「この様な呟きを、神様はどの様にお聞きになっているのだろうか?」と考えている自分に気付きました。
どうしてもこの困難から脱却したい。と思っていると、その方法論についてどこに問題があるのかを考えるように、どうしたら自分の力の限界を超えている事態から逃れることができるか?
と考えるのは自然なことだと思うのですが「どうしたら、神様は私の願いを聞いてそれに応えてくれるだろうか?」というのは、クリスチャン特有のものだと思います。
これを、なんという不信仰なという人は少ないと思うのです。
何故なら、私だけではないはずなのですが、こんな状況にいるとき私は「聖書に登場してくる、困難な状況下に置かれた人々でそこから助け出された人々のことを思い浮かべるのです」
なぜ、長血の女はイエスの衣に触れただけで、病を癒されたのか。
どういう祈りをすれば、神様は聞いてくださるのか。神様は全てをご存知で、私の心にあることでも知っているのに、何故願いは叶わないのか。
しかし、大事なことを忘れてしまいがちです。私達人間と神様の想いは異なっています。
神様ははっきりと、私の想いは人のそれとは違う、と聖書で語っています。
ですから、人間にはその想いを知ることは不可能ではないにしても、極めて困難です。
ただ、人の願い事について、神様はこういうのです。
「からし種ほどの信仰があれば、山にむかって海に入れといえば山は海に入る」
「二人の人が、心をあわせて祈ることはどんなことでもかなえられる」
「祈っていることは、既にかなえられたと思いなさい。そうすれば実現する」
「魚をほしがる子供に、蛇を与える父親はいない。まして、叫び求める人々に神が応えられないであろうか」
日照りが続き雨乞いをするとき、傘を持って出かける人は少ないのです。
雨を降らして下さいと祈っていながら、雨具を持って出かけないのです。
祈りは聞かれ、願い事は実現したと思い切れる信仰がないのです。
◆今日の祈り
全能なる御父、天の神様あなたの豊かな恵みと祝福に心から感謝申し上げます。
主の御前にあって、愚かで弱い、罪深い、不信仰な私をお許し下さい。
主は、全てをご存知であり、すべての必要を備えられております。
私たちは、ただそれを信じその必要を受ける備えをすれば、すべては与えられる。というあなたの契約が与えられています。
しかし、この愚かなしもべはこの世の些細な困難、苦しみにおじ惑い、あなたの御約束を見失います。
およそ、困難苦難試練は、人を鍛錬する為に現れると御教えにあります。
主よ、私は不信仰なしもべです。弱く、罪深い力の無いものです。
いまこの愚かな者の頭上にある困難を取り除けてください。
私は充分な鍛錬を受け、あなたの前にしもべとして座しています。
これ以上の、苦難、試練は私を訓練するものとはなりません。
既に、私の願い事が御元に届き、主の耳に聞き覚えられていることを知っています。
その、祈りが聞かれ、私のもとにかなえられた願いが届けられる準備が整っていることも、信仰によって知っています。
主よ、御手を延ばすのを遅くしないで下さい。あなたの時間と私の時間とは違うのです。時を逸してはいけません。
私の必要をすぐに届けてください。遅くしてはいけません。
何故なら、あなたは私の神であり、私の主であるからです。
およそしもべを従える主人というものは、そのしもべの必要に心を向け、そのときを見計らいそのもっとも必要とするときに、それを与えるものです。
それは、主人に忠実に仕えるしもべとして、育て訓練する為です。
既にそのときがせまって来ました。今がそのときなのです。遅くしないで下さい。
この祈りと願いとを、尊き御子主イエスキリストの御名を通して感謝してお祈り申し上げます。
アーメン。
神仏に助けを求めようという心の弱さが仕事に対する達成確率を下げているそうです。
ご参考まで。
キリスト教の基本は、自分と神との関係がどんなものであるかを明確にしています。
自分で何とかしようとしている限り、神の助けはありません。この時、この人に神は不要なのです。むしろ、神様はこの人を忌み嫌うのです。己を神と同等のものとしているからです。
弱い自分を受け入れ、神に頼るとき、神が共にいてくださるという約束が成就するのです。そのときその人のうちには、己の自我が消え、キリストが住まわれているのです。
もはや、自分が死に、生きているのはキリストなのです。
つい最近のことですが教会の牧師さんに会いに行きました。目的は来年6月に完成する新しいホールが完成した後に、ホールを使い「ゴスペルソング」の演奏会を是非開きたいと、理由は街の教会とピーナツクラブと地域住民の交流をしたいと伝えました。教会ができて何年かは解りませんが「40年以上」だと思いますが、街の中にある教会と街の接点は何もなく、千葉大学と同じようにただ西千葉にある有名な教会があるだけだと理解していました。地域と教会とは教会にくる方達とはなぜ
交流がないのでしょうか、なくていいのでしょうか、どうしたらよいのでしょうか、
事業とまち育ては両立しないのでしょうか、
6月以後交流が始まります。少しずつ、ゆっくりと
無理をせずに、来年のことですが、アミーゴ
>地域と教会とは教会にくる方達とはなぜ
交流がないのでしょうか、なくていいのでしょうか、どうしたらよいのでしょうか
無くて良いことはありませんね。
ゴスペルソングの演奏会が成功するようにお祈りします。
>事業とまち育ては両立しないのでしょうか、
人が主役であり続ける限り、両立はできます。
アミーゴ様の願いが叶うようにお祈りしています。