「殿、大変でございます!」官兵衛が戻って来た
「いかがした、慌てて、官兵衛らしくもない」
「安国寺殿、驚かれるなよ」「なんでござるか? なにがありました」
「清水宗治殿は今朝がた、お腹を召したとのことでござる」
「なんと! まことでござるか」
「まことでござる、小姓衆に問うたところ、昨夜よりこの戦の行く末、毛利家の行く末でいろいろと、お悩みの様子であったとのことである
さりとて水に囲まれて、外に出ることもできず、以前より和睦の条件としてわれらが清水殿に示していた切腹を受け入れ、代わりに城中のすべての者たちの助命を嘆願されたのでござる、今一日生きながらえて居れば、命を捨てることもなかったでしょうに、まことに残念でござる」
秀吉も和議なる前に「早まった」と残念がった、そして
「清水殿のご意志は決して無駄にはできぬ、これよりは毛利家、織田家力を合わせてこの国の統一を果たしましょうぞ。安国寺殿にはすぐに安芸へお戻りになられて、伊予への渡海をご本家におすすめくだされ、織田方が伊予を落してからでは、遅うござるゆえ、お急ぎなされませ」
「わかり申した、こうしてはおられぬ、ご無礼つかまつる」
恵瓊が出て行ってしばらくたつと秀吉が官兵衛に言った
「これで毛利との戦は心配がなくなった、ここは秀長と宇喜多勢に任せて、儂と官兵衛は姫路まで戻るとする、明智殿をはじめ畿内の兵がわれらの後詰に来るそうだが無用になった、今出れば姫路辺りで応援部隊と会うであろう
それからお屋形様にお指図いただくことにしよう
四国攻めも始まれば畿内は手薄になる、いつまた六角あたりが暴れだすやもしれぬからの。 それにしても昨日はいかなる手を使って清水に腹を切る決断をさせたのじゃ」
「それは・・・さて」官兵衛はとぼけるだけだった
翌2日は、高松城攻めの後始末をし、また備中全土の仕置きを行った、清水宗治の遺骸を乗せた小舟がこちらに着き、秀吉は丁重に弔い、お悔やみの言葉を述べた、葬儀は備後にて執り行うと、清水家の部隊が列をなして西へと旅立った。
3日の朝、秀吉、官兵衛は15000を引き連れて姫路に向かった
秀長は自分の手持ちの兵5000と宇喜多勢7000、それに備中で味方になった土豪ら3000で備中を固めている
毛利家の様子を聞くと、四国攻めの準備が着々と行われ、村上水軍をはじめ瀬戸内の海賊衆が数百艘の船を浮かべて伊予への渡海の準備を始めたという。
6月2日、ついに魚津城が柴田勝家軍によって落ちた、その勢いで国境まで佐々成政軍が先陣となって進んでいる
また越後深く侵入した森長可の軍は滝川勢と合流すべく、滝川隊を待っている
柴田隊が五智(今の直江津)まで来たら、一気に南北から春日山城を攻める予定である、上杉景勝の兵は凡そ7000ほどしかいないという、戦が始まれば後詰がいない上杉は滅ぶしかない。
中越後の土豪たちが、どう動くのかそれがカギを握ることになるであろう、しかし昔から越後の国人は謙信にさえ弓を引くものが多かったから、景勝の前途はやはり暗い。
5月31日の夜、明智光秀はどうしても眠れない
信長の理不尽な言葉が頭から抜けようとしない、秀吉の与力をせよ、そういったかと思えば、今度は信孝に従って長曾我部を攻めよ、嫌がらせとしか思えない難題を次々とぶつけてくる
ひと月前までの蜜月が嘘のように消え去り、信長は自分にあきらかに憎悪をぶつけている、何より100万石にも及んだ領地をすべて取り上げるという、そのうえで四国攻めに成功すれば土佐と阿波二国を与えるというが、今の領地の4分の1でしかない、しかも僻地の島国だ、どう考えても左遷、いや刑の執行としか思えない仕打ちだ、目の前が絶望で真っ暗になった
いずれは佐久間信盛の二の舞になるのではと言う不安に襲われる
「うぬは儂より偉いとおもうておるのではないか、そういえば足利義昭めが初めて儂におうた時には、うぬは儂の上座に座り、幕臣面で儂を見下ろして居ったな、あの時の優越感を未だに持っておるのであろう
しかも、うぬは時々、儂は土岐一族であるなどと自慢しておったそうな、濃と従兄であるともひけらかして居った
うぬの鼻高々なふるまいを見ると腹立たしいわ、濃が消え去ったのも、うぬが唆したのではあるまいか」
四国征伐を命じられた時にも、このように言われて身がすくむ思いであった
もともと光秀は物事をまっすぐに考えてしまう性格だ、自分で逃げ道を塞いでしまう、秀吉であれば「へへへー」と笑ってごまかしてしまうことも、あるいは開き直ってしまうこともできない
だから不安や猜疑心がどんどんたまっていく、しかも誰にも話せず自分一人で抱え込んでしまう、かかえこんでも消化できれば良いが、消化もできないから消化不良を起こしてのたうち回る、まさにこの夜と6月1日は昼夜悶々としていた。
20年ほど前に仕えていた斎藤道三が息子に殺されて美濃を逃れて越前に逃げた時でも今ほどの絶望感はなかった、まだあの頃は若かったし天運もついて回った、越前では再起を図る足利義昭に出会って細川藤孝と共に義昭の重臣となり、従弟の濃姫を正妻にしていた信長に会って義昭の15代将軍就任を実現させた、その後、義昭を捨てて信長に仕えてたちまち頭角を現して4人の家老の一人に上りつめた、その後も順風満帆で1か月前までは信長に最も信頼されて、京を中心とした信長の親衛部隊を率いる軍団長になったのだ
それがこの一か月ですべてがひっくり返った、初めて光秀は命の危険を感じたのである、あの筆頭家老佐久間信盛も信長に見捨てられて、野垂れ死に同然で死んだ。 光秀の心は絶望感にさいなまれた
そしてこの時初めて、それは突然であったが「信長を殺せばどうなる?」と言う選択肢が浮かんだのである、もちろんすぐに否定した
小心者の光秀に、そんな大それたことができるわけがない
「だが、待てよ」と思う、(自分のためではない、正義のために信長を殺せば、喜ぶものが儂の味方となる、それは誰か、足利義昭はとうぜん喜ぶだろう、信長の首を手土産に足利義昭に復縁できるのではないか、もちろん六角や浅井の残党、毛利、そして長曾我部は言うまでもない
伊賀。甲賀、雑賀、みんな信長に虐げられた者どもだ
朝廷は帝は、そういえば最近の信長の天守騒動の時には儂に「なんとかせよ」と関白から言われた、それも何度も、朝廷にとっても信長の増長は許せないはずだ、ならば義昭さまを再びお迎えして毛利を使えば、儂も長岡もまた幕臣として栄華を極めることができるのでは)
そんな妄想が広がりだすと、急に気持ちが楽になって来た(なんだ、味方だらけではないか、儂が信長を誅することで、これほど多くが喜ぶ、儂は忠臣となる、信長を殺してもいいではないか)
もちろんな何百年後の日本人が言うような「天下取りの野心」など光秀には微塵もない、考えたこともない、自分はナンバー2が一番力を出せるのだと信じている、(信長に捨てられたなら、また将軍義昭のナンバー2として働けばいいのだ)「やられる前にやってやる、相手が信長でも儂の命を脅すものは許さぬ、もう面倒な男に仕えるのはたくさんだ」
そう思うと急に気持ちが太くなってきた、その夜、彼は腹心の斎藤利三、従弟の明智左馬介光春を呼んだ
「儂は明日、織田信長を討ち滅ぼすことに決めた」
「おーなんと」「ついに決心なされたか、上々なり」
二人は光秀の苦悩の理解者であっただけに共に苦しみを分かち合っていた、光秀に反対などすることはなかった。
「ことが成った暁には、義昭様、毛利殿、関白様、佐竹、上杉、本願寺、長岡親子、摂津衆、長曾我部などに状を送ってお味方を願い出る
そして毛利殿を後ろ盾に、義昭さまご出馬願い、織田の残党を退治して、足利幕府を三度再興するのだ」
光秀が考えた「その後」は「足利幕府の再興」であった、朝廷にとっても殺伐とした独裁者織田信長が日本を支配するより、温厚で文化人の足利義昭が征夷大将軍として復活して朝廷との蜜月を始めるほうが良いに決まっている。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます