【第10回】歴史に学ぶ意義を問う 「歴史の黄昏」の彼方へ 危機の文明史観
Wedgeより 211216 筒井清忠
近現代史への関心は高く書物も多いが、首を傾げるものも少なくない。相当ひどいものが横行していると言っても過言ではない有様である。この連載はこうした状況を打破するために始められた、近現代史の正確な理解を目指す読者のためのコラムである。
「歴史の黄昏」の彼方へ
危機の文明史観 (著)野田宣雄 (編)竹中 亨・佐藤卓己・ 瀧井一博・植村和秀
千倉書房 6160円(税込)
京都大学で西洋史・政治史について教鞭をとられていた故野田宣雄氏の主要著作を集めた一巻本選集である。氏の教えを受けた4人の教え子たちが歴史・教養・政治・宗教の4つの分野にわたって著作をまとめている。カバーしている領域は広く、どれについても傑出した歴史家であった氏の力量を示すのにふさわしい書籍である。
ここでは紙幅も限られているので、その中から「教養」「政治」という二つのテーマについて記した文章を紹介し、この著作の意義の一端を明らかにしておこう。
⚫︎教養と宗教の関係性
教養についての野田氏の主張を評者なりにまとめると次のようになるだろう。
それは、ドイツの「教養市民層」の問題である。19世紀から20世紀にかけてのドイツの「教養市民層」に発する「教養人」は、人文的教養を身につけることによる人格の陶冶・完成を目指すものであった。ただ、マックス・ウエーバーなどが明らかにしたように、各個人の調和的完成を人生の目標とするその思想は、現世的であって、来世に救済があるとする宗教の立場とは基本的に相容れないものである。「生」に意味を与えるのは神のような何か超越的なものだとするのが「宗教」だからである。
「教養」それ自体はどこまで行っても人格の完成を目指し続けるものであって「生」自体に外から意味付けを与え得るものではないから,それは永遠の未完成が義務づけられたものである。
ここからは、死に面した時人は「未完成」に満足できるだろうかという問題も生じ得るが、いずれにせよ、「教養」に入りこんでいくことによって、彼らはますます現世的・世俗的・合理的となり、来世的な超越への関心はいっそう希薄となる。そしてそれは結局「宗教」を無効化していく。とりわけ「教養」の生み出す「科学」は「宗教」に懐疑的・否定的な人間を生み出し、結局彼らは内心宗教への軽蔑心すら持つことになるだろう。
⚫︎ヒトラーやナチスを生んだもの
そして,「教養人」たることの第一義は大学を出ていることであったから,大学と大学人の評価は非常に高いものとなる一方,大学を出ていない人間の評価は極めて低いものになる。
こうして、社会は「教養人」と非「教養人」とに二分されたものになり、後者は低く見られる存在となる。言い換えれば、エリートたる「教養人」は宗教を持たずに、「教養」だけに「生」の充足を求める中、一般の人間はそうはいかないまま放置された状態となると言ってもいい。いや、低く見られ放置された一般大衆は何らかの宗教の代替物を求めるしかなくなるであろう。
こうして、内心宗教への軽蔑心を持つ教養人に対して放置された一般大衆の間には大学・教養市民層への敵意すら広まっていくことになる。ヒトラーやナチスを準備したのはこれではないか。
ヒトラーが演説でしきりに頭脳中心の「教養市民層」を批判・攻撃し、新しい形での彼なりの能力主義によるエリートの編成替えを主張していることはこの点に符合する。
ゲーテやカントの国になぜヒトラーやナチスが出たのかと言われることがあるが、ゲーテやカントの国だからこそヒトラーやナチスが現れたのではないか、というわけである。
この問いかけは大きく、明治以来の日本のエリート層も深くこの「教養」の影響を受けているから、近現代日本も含めて多くの問題がここから派生することになる。
評者の見解については、野田氏に触発されて書いた書『「日本型」教養の運命』(岩波現代文庫)に詳しいので参照されたいが、現代日本においても、知識人が「教養」として欧米発の知識人向きの言説を国民全体の中で見れば狭いサークルの中で周流させることを繰り返しているようであれば、彼らは孤立し一般大衆の間には大学・知識人層への敵意が広まって来ているということがあるかもしれない。
だとすれば、事態はあまり変わらないとも言えよう。この点、日本の欧米思想研究の盲点を突いたコラム「フッサールはわからない」も示唆的であることを付言しておこう。
⚫︎政治と私欲・私心
次に,政治については,政治と私欲・私心についての文章が興味深いので,これをまた評者なりにまとめていこう。
野田氏は言う。私欲・私心のない政治は多くの人が求める理想であるが、これを性急に求めるとかえって思わぬ陥穽が待っていることに気づかされるだろう。
政治家の私欲・私心の対極にあると見られるのは正義感である。正義感あふれる政治家が公共のために尽くすというのは最も望ましい政治の姿と考えられやすい。
しかし、例えば帝政の不正を激しく憎み正義を実現しようとする理想にあふれた人々によって行われたのが1917年のロシア革命であったが、その帰結があのスターリンによる数千万人に及ぶ恐ろしいまでの大量虐殺だった。スターリンでなくトロツキーならば、という人もいるが、反対派の存在を許さずソビエト政権への異議は一切認めなかった人による政治では、結果はあまり変らなかったのではないだろうか。
というのもフランス革命がそうなのだが、革命は正義の名において多くの犠牲を出すことを当然視する人によって行われることが多いからだ。全てが政治家の主観的な正義によって処理される革命では正義は転じて最も恐ろしい独裁などの悲劇の原因となりやすいのである。
革命は極端なケースだとしても、こうした政治家の正義感による政治の危険性を少しでも避け、私欲に汚されない政治を望むとすれば、それは厳格な法律とその適用を求めることになる。あらゆる汚職を根絶する徹底した法制度を整え厳しく取り締まっていく方法である。
ただ、これにもやはり大きな限界がある。というのも、一切の私利私欲を禁じるような厳格な法制度を作ることはもともと不可能であり、もしそのようなものができたとしてもあまりの煩わしさにその制度の下では政治家は窒息しそうになり、およそダイナミズムのない政治になる可能性が高いからである。
いや、実は反論も予想されうるこの点は、この問題の焦点ではない。政治家の私欲と言うと金品のことを人は考えやすいが実はもっと根本的な問題があるのだ。
⚫︎正義ある政治を行うためには
最も厄介な問題は人間関係を通じて勢力を広げ、いわゆる派閥を形成して政治を私するようなタイプのものである。こういう類のものはどこまでが正当な政治活動でどこからが私利私欲であるかなどを判別することはほとんど不可能に近い。したがって法的な規制の対象にもしにくい。
そうだとすれば、最初から比較的無害な政治家の私利私欲は取り込んで、それでいて極端な政治腐敗を回避できるような体制を構築した方がずっと現実的なことに気づかされるだろう。
そして、そういう人間観に立って現存しているのが英国や米国の政党政治・議会政治なのである。人間存在とともに根絶のしようのない私利私欲を完全に法的に規制したりするよりも、政権交代によって政治腐敗を清算する方がよほどダイナミズムをも確保しうる政治が行われ得るのである。
以上、ここからは、自由な言論に基づき複数の政党が競争し、政権交代の起こり得る議会制民主主義の政治ほど大切なものはないということにあらためて気づかされるであろう。結局現代日本の政治において正義ある政治を求める人は、政権交代はどのようにすれば可能かを考えた方が良いわけである。
政治家の私利私欲という点については以下のような考察もなされているので最後に触れておきたい。
政治的リーダーシップと権力欲については、20世紀に困難な状況の中、卓越した政治指導を見せた吉田茂・アデナウアー・ドゴールなどの経験が参考になる。彼らは権力の座にしがみついて野垂れ死にしたとしてとくに引き際から評価が低くなることがある。
しかし、最後まで執念を捨てずに権力を維持し政策を実現しようとした姿を顧みると、それほどまでの権力への執着なくして政治指導者として果たして彼らほどの見るべき成果を上げ得たのかという疑問も生じる。
民主主義というものは、権力の座にしがみつこうとする権制欲の強い政治家とそれをチェックし政治指導者を権力の座から引きずり降ろそうとする一般有権者との激しい攻防戦という形をとって初めて充実したものとなるのではないか。
確かに戦前の日本は、権力欲旺盛な政治家ばかりの政党政治に辟易した大衆が権力欲の薄い清潔な政治家を望んだ結果、近衛文麿のような強力なリーダーシップのない政治家を生み出し、戦争への道を歩んでしまったのである。昭和10年代は毎年のように首相が代わり、それが敗戦の道につながったのである。
政治家は権力欲が薄い方がいいというのは権力闘争に敗れた政治家を惜しむ判官びいきのような感情のところがあり、政治家の正確な評価とはいえないことを国民は自覚する必要があるのかもしれない。考えさせられる考察と言えよう。
野田氏の著作を読みながら歴史から学ぶことの意義を新たに思い知らされた気がした。編者の労を多としたい。