なんでも人生

Whatever life is

ウッドデッキ跡に石畳 Stone pavement

2016-12-02 | 日記
ウッドデッキのこの部分は台風などの大雨の時、室内が半地下になっているため地下水が浸みだすことがあった。対策としてポリエチレンシートを敷いていたが、ここを石畳にしたので多分その問題も解消したのではないかと思う。まだ半分はウッドデッキなのでそちらの方は少し心配の種は残っている。後はカントリーキッチンに上がる階段への接続だが、溝にU字溝を設置をして石積みで対応するか? U字溝設置は勾配取りが難しい。今まで芝生庭から階段へのアクセスがなく子供と言わず大人まで不安定な所を危なげに登っていたのでこの際正式にそちらにもアクセス階段を作ることにした。早速、家内もそこを登っている。やることはまだ沢山あり優先順位を付けて少しづつこなして行こう。


昔昔の痛い思い出。
私は小学校の入学式に教頭先生が新入生点呼で私の名前を読み間違えた(憲治ケンジをのりはると)ので新入生ハーイの返事が出来なかった恨みは一度このブログに書いたことがある。何度思いだしても何といい加減な教頭だったのだろう。しかし今日の話題はそのことではない。
入学式翌日の朝一番私は鉄棒から落ちて左肘を複雑骨折をしてしまった。村唯一の天川医院に自転車に乗せられ連れて(多分先生に?)いかれたが肘関節の骨が砕けていることが分かりすぐ熊本市内の有名な骨折医院に転送された。その名骨折医は砕けてバラバラになった私の関節の骨を手術なしで指でかき集め関節を作りギブスで固め、私はその病院に一か月近く入院した。退院後もリハビリ通院のため祖母と市内の親戚の家に身を寄せることとなったが痛い思い出はそこからだ。ギブスが外れ、曲げたまま固まった肘をリハビリで徐々に伸ばしていく。これが子供の私には(多分大人でも)地獄の痛さで、看護婦2人に両腕両足を抑えられたが医師や看護師に唾を吐きかけたり噛みついたりして必死の抵抗をした。その地獄のリハビリは約一か月続いたと思うが、そのおかげで何とか生活に支障がないまで曲げ伸ばしができるようになった。名前は忘れたがあの骨折医と必死で私を抑えてくれた看護婦さんには感謝してもしきれない。学校は結局一学期間は休み、2学期からの登校となったが、学業は他の生徒には遅れてないどころか進んでいたように思う。理由は病院で祖母が読み書きを教えてくれて教科書は全部読めるようになっていたし、夏休みに担任先生の家に通い補修授業(自習)をして貰ったからだ。その時一つ下の弟も私の補習授業に付き合ってくれたのは有難かった。
今でも左肘は骨が少し変形しているが、子供の頃は夏の半袖の時期これを見られたり珍しがられたりされるのがとても嫌だった。先日も済生会の整形外科がしみじみそこを観察していたが、今では恥ずかしいよりその名医の治療痕跡が誇らしいし、あの痛みと経験が今の私を作ったに違いない。
下の写真は1984年ぐらいコネチカットに住んでいた頃、私の母親(言わなくても分かるか?)と子供達とでNYのWTCビル(2001年同時多発テロで破壊)展望台を訪れた時。昨年新しいビルOne Worldに登ったが周りの景色もかなり違って見えた。
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