新国劇の創設者・澤田正二郎の墓(谷中墓地)
谷中の墓地を通った。
中央通りは櫻の木の葉が覆いかぶさりトンネルとなっていた。
春の開花時期は花見客で多くの人が集まってくる。
新国劇の創設者である澤田正二郎の墓に参拝した。
澤田正二郎は、1910年に早稲田大学在学中に、坪内逍遥代表の文芸協会演劇研究所の第2期生として入所、1912年に舞台デビューを経て、島村抱月が率いる「芸術座」に入団した。
1917年に同劇団を脱退後、「新国劇」を結成した。
通称「澤正」と呼ばれ、「月形半平太」「国定忠治」など高い評価を得た。
1929年、中耳炎により36歳で死去。
「何処かで 囃子の声す 耳の患」この句碑は新橋演舞場に建立されている。
死後は辰巳柳太郎、島田正吾が座長として後を継いだ。
1987年、新国劇は70年の歴史の幕を下ろした。
(8月14日記)
谷中の墓地を通った。
中央通りは櫻の木の葉が覆いかぶさりトンネルとなっていた。
春の開花時期は花見客で多くの人が集まってくる。
新国劇の創設者である澤田正二郎の墓に参拝した。
澤田正二郎は、1910年に早稲田大学在学中に、坪内逍遥代表の文芸協会演劇研究所の第2期生として入所、1912年に舞台デビューを経て、島村抱月が率いる「芸術座」に入団した。
1917年に同劇団を脱退後、「新国劇」を結成した。
通称「澤正」と呼ばれ、「月形半平太」「国定忠治」など高い評価を得た。
1929年、中耳炎により36歳で死去。
「何処かで 囃子の声す 耳の患」この句碑は新橋演舞場に建立されている。
死後は辰巳柳太郎、島田正吾が座長として後を継いだ。
1987年、新国劇は70年の歴史の幕を下ろした。
(8月14日記)