勝鬨橋の欄干に飾られた模様
天気の晴れた錦秋の日和、築地に行った折勝鬨橋まで足を伸ばしてみた。
橋の欄干に飾られた可動している模様が往時を偲ばせる。
小学校の遠足で勝鬨橋が真ん中から左右に大きく跳開する模様を見学したことを鮮明に覚えている。
勝鬨橋は1933年に着工し、1940年6月14日に完成。
勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。
当初から路面電車用のレールが敷設されており、1947年から1968年まで橋上を都電が通行していた。
設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。
この頻度はほぼ1953年頃まで続いたが、船舶通航量の減少と高度経済成長の進展で道路交通量が増大したことで次第に跳開する回数は減少し、上流に佃大橋(開閉機構を持たず桁高も両岸堤防ぎりぎり)が建設された1964年以降、船舶通航の需要は乾倉庫にほぼ限定され、開閉回数は年間100回を下回るようになった。
1967年には通航のための最後の跳開が行われた。
その後は年に一度ほど試験のため跳開されていたが、航行する大型船舶がなくなったことや交通量の著しい増加などの理由で1970年11月29日を最後に開閉が停止となり、1980年には電力供給も停止された。
(11月22日記)
天気の晴れた錦秋の日和、築地に行った折勝鬨橋まで足を伸ばしてみた。
橋の欄干に飾られた可動している模様が往時を偲ばせる。
小学校の遠足で勝鬨橋が真ん中から左右に大きく跳開する模様を見学したことを鮮明に覚えている。
勝鬨橋は1933年に着工し、1940年6月14日に完成。
勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。
当初から路面電車用のレールが敷設されており、1947年から1968年まで橋上を都電が通行していた。
設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。
この頻度はほぼ1953年頃まで続いたが、船舶通航量の減少と高度経済成長の進展で道路交通量が増大したことで次第に跳開する回数は減少し、上流に佃大橋(開閉機構を持たず桁高も両岸堤防ぎりぎり)が建設された1964年以降、船舶通航の需要は乾倉庫にほぼ限定され、開閉回数は年間100回を下回るようになった。
1967年には通航のための最後の跳開が行われた。
その後は年に一度ほど試験のため跳開されていたが、航行する大型船舶がなくなったことや交通量の著しい増加などの理由で1970年11月29日を最後に開閉が停止となり、1980年には電力供給も停止された。
(11月22日記)