つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

澤田正二郎物語観劇談

2007年09月18日 | 芸能
                     澤田正二郎物語の出演者

劇団若獅子の結成20周年記念公演「澤田正二郎物語 ―遥かなり新国劇―」を観劇した。

新国劇を大正6年に創設した澤田正二郎の物語を、昭和62年に新国劇の看板を下ろした後、劇団員が新国劇の精神を継承していこうと結成して活動してきた劇団若獅子の公演です。
笠原章代表が率いる劇団若獅子も苦難の道を飛び越えて今年は20周年目を迎えた。
春の全国縦断公演は「国定忠治」だった。全国各地で好評を博し、多くの人が劇場に駆け付けた。満員の盛況であった。“継続は力なり”を実証していた。

笠原章(澤田正二郎)と朝丘雪路(久松喜世子)ががっぷり四つの芝居をしておりとてもいい。二人の息の合った芝居が観客の胸を熱くする。
劇中劇で「大菩薩峠」の机龍之介、そして「白野弁十郎」の白野弁十郎を初めて演じる笠原章は、師匠の辰巳柳太郎、島田正吾の二人に近付いたといえる。
特に白野弁十郎は台詞と動作が島田正吾と重なる。

大正12年8月、浅草公園劇場にて劇団員が賭博容疑というあらぬ嫌疑をかけられて多数の劇団員が警察の拘束を受ける。(いわゆる象潟事件である)
その後、霞ヶ関の警視庁に移されて尋問中の9月1日に関東大震災が発生した。
私はこのときの模様を、当事者である島田正吾先生から浅草で直接聞いていた。
放免された澤田正二郎と劇団員は、翌10月日比谷公園新音楽堂にて、大震災罹災市民慰安野外公演を入場無料で3日間開催したところ、10数万人の市民が日比谷公園を埋め尽くした。

昭和4年2月、新橋演舞場での公演中、中耳炎を患い、療養中の3月4日午後1時2分、36歳の生涯を終える。
葬儀は、日比谷野外音楽堂で執り行われ10万人の民衆が集まって別れを惜しんだ。
弔辞は総理大臣である田中義一首相の代理である秘書官の鳩山一郎が朗読した。
澤田正二郎の辞世の句は「何処かで 囃子の声す 耳の患い」であり、新橋演舞場のところに今でも句碑が残っている。

舞台の最後で、「殺陣田村」誕生秘話の説明があり、笠原章、水野善之、森田優一の3名が殺陣田村を紋付袴姿で披露してくれた。
観ているこちらも身を引き締めて真剣に見入っていた。
新国劇の誕生から、澤田正二郎の歴史を舞台で学べるいい機会で素晴らしい芝居であった。
その他の主な出演は、奈良富士子(松井須磨子)、清水彰(白井松次郎)、大出俊(島村抱月)、桂広行(行友李風)、森田優一(倉橋仙太郎)、中川歩(中山晋平)、南條瑞江(根岸てつ)、中條響子(渡瀬淳子)、高橋浩二郎(演歌師)。
劇中劇の大菩薩峠の柴田時江(お松)が好演していた。
新国劇の精神を継承してきて、20年で若獅子は自他とも認める確かな劇団へと成長したことを確信した芝居であった。

(9月18日記 池内和彦)

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