いかりや爆氏の毒独日記

最近の世相、政治経済について「あれっ?と思うこと」を庶民の目線から述べていきたい。

官僚の中の官僚:「財務省の研究」(週刊ポスト10.7号)について、

2011-10-03 19:53:23 | 日記

 何十年も同じ省庁内で、同じような分野で鍛えぬかれた官僚たちを、僅か1年やそこらでくるくる変わる超軽い政治家どもが、いくら「官僚改革」や、政治主導を唱えたところで、所詮官僚たちには敵わない。

週刊ポスト10.7号は、この国を完全に支配している権力装置、「財務省の研究」と題して大特集している。

その冒頭は次の通り。
 確かに戦後復興の立役者のひとつは優秀な官僚だったと認めてもよい、主権を戦勝国に奪われ、民間は疲弊して立ち上がる力を失っていた。だから優れた人材が霞ヶ関に集い、星雲の志を抱いて国の建て直しに力を振るったのである。

が、時が流れて時代が変わり、官僚機構は国家に仇なす存在になった。その中心に在り続ける財務省は、政治を操り、国民を欺き、国家を誤らせている。稀代の "財務省パペット政権"が生まれた今、その専横を見逃すことはできない。

内幕 3代の総理を”手篭め”にして政権交代を骨抜き 財務省の「民主マニフェスト解体」全ドキュメント

以下、総理を手篭めにするツールの触りの部分を(筆者の独断と偏見で)要約して紹介します。

政治家を狙う ”ショック療法”

復興増税に突き進む野田首相には、忘れられない苦い経験がある。10兆円を越える復興財源を 「日銀の国債引き受け」で賄うことが検討された。・・・財務官僚には絶対受け入れられない手法であり、その意向を受けた野田財務相(当時)は、会見で、「日銀の国債引き受けは財政法で禁止されている。検討していない」と否定した。

ところが3月25日の衆院財務金融委員会で飛び出した山本幸三氏(自民、大蔵官僚OB)の質問に、野田氏は凍りついた。

「日銀が毎年、相当の国債を直接引き受けていることをご存知か」、
野田氏は 「直接? あのー、まあ、日銀のやってることは金融政策の、その・・・・」としどろもどろ、結局、「いや その、知りません」と認めざるを得なかった。これが財務官僚が大臣操縦に使う常套手段の”ショック療法”である。つまり、財務大臣ともあろう者が、「日銀が毎年10兆円以上を日銀に直接引き受けさせている」事実を知らなかったことを、天下に曝した。これが財務省の「忍法恥かかせの術?(筆者名づけ)」である。

前任の菅直人氏も、同じ「忍法恥かかせの術?」でやられたのである。「官僚はバカ」と公言していた菅氏は副総理兼財務相に就任した直後の国会質問で、経済の基礎知識である「乗数効果」の意味を問われてトンチンカンな答弁を重ねて国会審議が紛糾した。ついに官僚の助けを求めたことで大恥をかかされた。この時の質問者は林芳正・元経済財政相、官僚OBではないが、財務官僚との勉強会を重ねて、党内きっての財務族議員である。

この質問も、菅さんが乗数効果の意味を勘違いしていることに気付いた財務官僚が、それを林氏に伝えて仕組まれたもの(当時の官邸スタッフ)とされている。

鼻っ柱を折られた菅氏は、財務官僚の「怖さ」を思い知り、逆に手を組んで増税路線に舵を切った。

 以上が、週刊ポスト10.7号の「財務省の研究」の、ほんの最初の部分だけであるが、読者の方々はこれをどのように感じられただろうか。

 彼ら官僚たちは、幼少時から、厳しい競争に勝ち抜いて一流大学に進学し、優秀な成績で卒業し、中央官庁に就職した偏差値エリートたちである。なかでも、財務官僚はエリート中のエリート集団である。

 その言わば日本を背負って立つエリート軍団たる財務官僚たちだが、上記週刊ポストの冒頭の記事の後半部分の、

””が、時が流れて時代が変わり、官僚機構は国家に仇なす存在になった。その中心に在り続ける財務省は、政治を操り、国民を欺き、国家を誤らせている。””

という指摘を財務官僚たちはどう受け止めるのだろうか。

 今の日本の苦境(経済的)を創り出したばかりか、1000兆円もの借金を背負った、その責任を彼らはどう感じているのか。

 ただ「将来世代に大きな負担」と言い、政治家はただひたすらに「財源々々」、「均衡財政」を繰返すのみである。ただ国民に負担(税金)させるだけなら、高給取りのエリートたちは、迷惑な存在でしかない。

 もう20年近くも不況から脱出できる処方箋を持っていないのは何故か(勿論、財務省だけの責任ではありません、無能な政治家は勿論、日銀、経産省などの責任もあるが)。「日本を背負っているのは俺たちだという自負があるなら、処方箋のひとつでも示せ!」と言いたい。

 エリート官僚たちの無能さを示すヒントは上記、財務官僚が仕組んだ罠:「忍法恥かかせの術?」のなかにある。

 例えば、上記「乗数効果」の意味を問われて菅氏がトンチンカンな答弁を重ねて国会審議が紛糾したが、財務官僚が「乗数効果」の真の意味を理解しているのであれば、何故この20年近くも、「乗数効果」を働かせないままに、無為に過ごしてきたのだろうか。

乗数効果が働かなかった原因を何故分析しないのか。1990年代初頭までは、国の借金額以上に経済成長(乗数効果が働いていた)しているではないか。乗数効果が働かなくなったのは何故か官僚の説明責任がある。

 前回最後に、参考:「偏差値エリートは何故役に立たないか:彼らが今この国を危うくしている」で既述したが、現在のエリートたちの最大の弱点は、「知識はあるが、『戦略性』がないのである。」

 戦略とはどういうことか、我田引水するわけではありませんが、一連の「ギリシャを救済できるのは日本くらいである」で述べたのでヒントにしていただきたい


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2 コメント

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何が本当の外国情報を妨げたか。―高尾慶子著「イギリス人はかなしい」読後(1)― (明け烏)
2011-10-05 00:00:54
高尾慶子著「イギリス人はかなしい」は明治に書かれた漱石の「倫敦塔」以来の貴重な作品であり、唯一無二の優れた書物である。その中で高尾氏は、自分がイギリスのworking class(職業は housekeeper)として働いた様子を淡々と描く。そしてそれが巷間伝えられている素晴らしい外国生活という虚飾に満ちたものからは、はるかに隔たった辛く厳しいものであることを明らかにする。まずは語学力の壁がある。イギリスの階級社会があり、おそるべき東洋人への蔑視がある。あるいは話には聞いていたが、と呟きながらため息をつき、あるいは眉を顰めながら、あるいは思わず顔を赤くしながら読んだ読者も多かったのではないだろうか。
四捨五入していうのならば、二十世紀に入ってからの外国滞在記(主として米国)はすべて「黄門ちゃま漫遊記」に過ぎなかった。小説家であれ、評論家であれ、ジャーナリストであれ、外国の都会または学園都市(両者とも極めて人工的なものだ)での表面的な経験を如何にも、それが現実のような顔をして、そして自分がそこに溶け込んだような気になって、書いたというのが実際ではなかったろうか。そもそも何ヶ月または何年かしたら日本に戻るつもりの生活にそれほど深刻なものが感じられないのは当然であって、これが文章になると生活を離れた一種の爽快感を感じさせるのが、この手の書物がひろく好評を博した大きな要因であったのかもしれない。一方、高尾氏は思い込みや虚構、もっと平たく言えば講釈師的な自己耽溺を排して、生活人としてのイギリス生活を刻むように描いていく。ロンドンの社会といえども人間の社会であるからそこにはあらゆる人としての悪徳が満ち、理不尽がまかり通っている。それらに目をそむけることなく書いたところに、この本の他の外国滞在記から屹立した第一等の価値がある。
余談になるが、高尾慶子氏のこの前の著書の題名「イギリス人はおかしい」は、おそらく林望氏の「イギリスはおいしい」をもじったものであろう。そこに強烈な皮肉と高尾氏の自負を感じるのは私だけであろうか。
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何が本当の外国情報を妨げたか。―高尾慶子著「イギリス人はかなしい」読後(2)― (明け烏)
2011-10-06 16:01:48
米国あるいは英国のアングロサクソン社会で日本人の女性が徒手空拳から、その経済的基盤をその土地に求めながら長期間にわたって生活してゆくことは絶望的に困難な作業であることは、それが upper classであれworking classであれ同じことであろう。
英国は戦後の日本からは想像もつかない階級社会であるし、米国は、これまた想像もできない競争社会である。うまうまとupper classの玉の輿に乗れたとしてもそこでは常に精神を張り詰めた努力を求められ、それが出来なければあっという間にそこからの転落が待っている。そのストレスたるや言語を絶したものだと思う。思わず顔をそむけたくなるような、そしてオシッコをちびりたくなるようなその惨状に私は、それを思うとき必ずや寒気を覚える。私はこのようなものに耐えられ強い精神をもっていない弱虫である。
またこういう女性たちは絶対に「黄門ちゃま漫遊記」を書かなかったという呆れるような、そして当然の事実に数十年してからやっと気付くあたり生来、相当、鈍い人間なのであろう。
私は狭い範囲ではあるが、米国社会で長い間、一人前に暮らした女性を数人知っている。彼女たちは判で押したように若き晩年には精神を崩壊させて、酒、薬、sexなどに溺れてこの世を去っている。どうやら日本人女性が外国の生活に耐えられる耐用年数というのは20~30年ということなのかもしれない。目をつぶって合掌するしかない。

この雑文は高尾慶子氏の著書に対する論評のかたちをとった、ある女性への鎮魂歌である。
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