次は、痴呆創世の始まり?(苦笑)。
自民党が17日にNHKとテレビ朝日の経営幹部を呼び、最近問題となっている報道番組の内容をめぐって、直接、事情を聞くという。
NHKの「クローズアップ現代」でヤラセが指摘されている問題について、テレビ朝日は「報道ステーション」でコメンテーターの古賀茂明氏が一方的に政権批判したことについて、話を聞く方針だという。
民主主義の世界では、権力の座にある側は本来批判されてしかるべき存在・・・批判が気に食わないからと言って報道に圧力をかけるな。中学生レベル:川崎中一殺害事件のリーダーを想起させる。
総務省のまとめによりますと、今回の統一地方選挙、41の選挙の平均投票率は、前回より3ポイント余り下がって45.05%となり、過去最低となりました。
「統一痴呆選挙」に相応しい選挙だったのではないでしょうか。
痴呆議員と言えば、あの泣きじゃくりで一躍時の人となった県会議員(元兵庫県議)を思い出した。
県議じゃないけれど、お互いの呼び名を『殿』『姫』」と呼ばせていたとかいう宮城県のセクハラ・パワハラ村長も話題になっていた。
選挙直前には、衆議院本会議を欠席して痴人?男性と旅行していたことが発覚して除名された元維新の会のスキャンダル議員?もいました。除名処分になったけれど、議員は辞めないらしい・・・国会議員は年額約2,200万円(手当てを含めた総額は約4,200万円)と世界最高水準で優遇されている、そのほかにも電話代や交通費、文書通信費などさまざまな議員特権があることから、せっかく手にした美味しい仕事を手放すわけにいかない? でも、そんな痴女を任命したのは誰だ? その責任は問わなくてよいのかよ!
こんなことを考えると選挙民も「なんでわしらが、こんな体たらくどもに美味しい仕事を斡旋してやらなきゃならないんだ」とバカバカしくなって選挙をボイコットする気持ちもわからないではない。
「どうせ、わしらが投票に行っても行かなくても大勢に影響はない、自民が勝つに決まっている。うそつき民主が政権取ったからと言って、ちっともよくならなかったではないか」と思えば次第に選挙から足が遠のいてしまうのも無理もないか? 結果として低投票率につながっているのだと思う。
低投票率は地方選挙だけではない、衆院選でもそれを象徴するような結果が続いている。
昨年暮れに行われた衆院選の結果、投票率は52.66%だった、このうち自公の得票率は約47%、従って実質的に国民の25%を割る支持者による政権与党(自民・公明)であるということになります。
総務省の衆院選挙結果資料によれば、昭和42年(第31回)~平成2年(第39回)までの衆院選の投票率は68.0%~74.57で、平均71.4%である、今から考えると信じ難いほど高いが右肩上がり経済状態の時代は、政治に対する関心も期待も高かったということになる。
平成5年(第40回)は67.26%、以後経済悪化とともに投票率は一貫して下がり続け昨年12月の選挙(第47回)では52.66%であった・・・特にひどいのは次代を背負う若者、20代の投票率は32.58%である。この傾向からすれば次回選挙では遂に衆院選でも投票率は半数(50%)を割るだろう。
それでも自民政権は続く?結果として、国民全体(有権者)の五分の一(20%前後)支持者による政権与党ができることになる。これでも民主主義と言えるの?一票の格差(4.77倍)が違憲状態というではないか、それと似たりよったりじゃないか。
経済成長は停滞したままのところへ昨年4月消費税増税するという暴挙だったから、昨年4月以降、国民の消費支出は11か月連続してマイナスであり、「経済成長も期待できない」・・・というよりは既に何度も指摘している通り、財務省そのものが経済が成長して金利が上昇することを極度に恐れて、経済成長しないように気を使っている(苦笑)、違いますか?それを指摘するエコノミストもいない、変な世の中だよなあ。
アベノミクスの三本の矢は庶民にとっては、単なる物語かお伽話にすぎない。アベノミクスは大企業と金もち優遇策であって庶民にとってはいいことは何もなし・・・これでは国民の政治に対する関心も薄れていく、ますます選挙は遠のいていく。
なにしろ、経済成長すればするほど、国の借金は膨らむ(経済成長率よりも借金膨張率のほうが2倍以上高い)構図ができあがっている。財務省出身の黒田日銀総裁も国の借金がGDP比2倍を超えて危険水域に達していることは本誌が指摘するまでもなく百も承知だろ?
原発反対、沖縄辺野古への米軍基地移設工事への沖縄県民の反対、集団的自衛権へのめりこみなど、安倍政権はさまざまの問題を抱えながらも、それでも尚、NHK世論調査の内閣支持率は高いというから不思議。最近のNHK世論調査結果、「安倍内閣を「支持する」と答えた人は、先月より5ポイント上がって51%、「支持しない」と答えた人は、3ポイント下がって34%でした」。日本は壊れているんとちゃいますやろか?
最新の画像[もっと見る]
(1)ケント・ギルバート
【ニッポンの新常識】「ファクトを無視した歴史学者」として名を残したいのか 米教科書論争 (2/2ページ)
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150418/dms1504181530003-n2.htm
・・・
祖国の米国であっても、ファクトの無視は見過ごせない。だから私は「『リメンバー・パールハーバー』は米政府のプロパガンダだった」と主張するし、東京大空襲や原爆投下は戦時国際法違反だったと考えている。占領期にGHQ(連合国軍総司令部)が施した「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」が、日本の伝統的価値観を破壊する目的だった事実も指摘する。
・・・
【ニッポンの新常識】日米ともに道徳教育が不十分 戦後「修身」はGHQが禁止 K・ギルバート氏
【ニッポンの新常識】日本語と漢字を廃止した某国 文献を読めないのは悲劇か喜劇か K・ギルバート氏
_________________
(2)【太平洋戦争の真実】大日本帝国海軍司令官はフリーメーソン!?真珠湾攻撃で燃料タンクを見逃した帝国海軍と、仕組まれた太平洋戦争! new!!真実を探すブログ
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-683.html
太平洋戦争中に大日本帝国海軍の連合艦隊司令長官を務めた山本五十六は、世界的に有名な結社であるフリーメーソンに所属していた可能性が濃厚です。
国際政経学会員であった渡部悌治氏は、「山本五十六がフリーメーソン結社員であった」と指摘しており、自身の著書で「山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられて来た。しかもその理由の中に一項目、山本はフリーメーソンの結社員だからという条項が入っていた。」と述べています。
☆ 山本五十六はフリーメーソン、おかしな戦術でいっぱい
URL http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=259080
引用:
山本五十六はフリーメーソンだったという説が有力です。その根拠になる出来事を整理しました。
●空軍の独立に反対し、海軍配下とした。空軍の発展を遅らせることになった。航空機の戦略的位置づけ錯誤(米航空機により制空権を奪われた)。
●アメリカに知られていた暗号の変更を遅らせた。日本海軍は秘密保持のため「JN25暗号」を定期的に変更すべきところを怠ったのである。
海軍が使用していた暗号電報をアメリカ側に筒抜けにさせていたということ。
●山本五十六の忠実なる配下の指揮官は山本五十六によって固定され、失敗をしても追求させず、無能であった。しかし1年4カ月の海戦を戦った将官たちは、その極度な無能ぶりにもかかわらず、戦後さまざまな戦記作家によっていずれも名将、名参謀としてたたえられている。
● 海軍軍令部の強い反対を押しきって真珠湾攻撃を強行。広い範囲の戦争を想定することは日本には不利と言われてきた。またその攻撃を不徹底なものとした。
日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げた。
また主力戦艦がハワイにいない日を攻撃した。空母レキシソトンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはやはり飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガはアメリカ本土西海岸にいたために無事であった。真珠湾は浅いので、引き揚げて修理を行なうことができた。被害を受けた戦艦はいずれも1910~1920年代に就役した旧式艦だった。
● 珊瑚海海戦で米海軍に手ごころを加える。米空母「ヨークタウン」を撃沈せず引き揚げた。「ヨークタウン」にとどめをさすことをせず、攻撃を中止して北上するのである。この「ヨーククウン」がハワイの海軍基地に帰り、わずか2日間で修理されて2カ月後に起こったミッドウェー海戦に参加、あの連合艦隊撃滅の立役者となるのである。
● ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策。戦艦大和など有力艦を後方に配置し、結局使わずに沈んだ。山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武蔵」などの大型戦艦を攻撃隊に加えることなく、戦力の小出し投入を行なった。このため戦艦「大和」はついに「大和ホテル」と呼ばれるありさまであった。ミッドウェー作戦には、無能であり、しくじることがわかっている南雲忠一中将や草鹿龍之助少将を最も重要な機動部隊に起用し、自らは後方400キロの北西海上で旗艦「大和」や戦艦「長門」「陸奥」などとともに主力部隊にとどまり、これまた高見の見物をしていたのである。
:引用終了
また、太平洋戦の発端となった真珠湾攻撃にも奇妙な事実が隠されていました。学校の教科書などには「真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊の戦艦を多数沈めたが、空母は取り逃がしてしまう」と書かれていますが、実は日本帝国海軍は空母以上に重要な標的を攻撃できるのに放置していたのです。
それは、ハワイにあったアメリカ太平洋艦隊最大の燃料タンクです。
当時のアメリカ軍はハワイに司令部と補給用の燃料一式を置いていました。そのため、ハワイに蓄積されている燃料タンクなどを破壊することが出来れば、アメリカ太平洋艦隊は史実以上に動けない状態になったのです。
その上、当時の会話記録でも、日本帝国海軍内部から「燃料タンクを攻撃するべき」というような意見があったことも判明しています。
それなのに、山本五十六司令官はアメリカ太平洋艦隊の戦艦だけを標的にした攻撃を実行したのです。空母は移動をしているから取り逃がしてしまうのも納得出来ますが、何で動かない燃料タンクに一発も爆弾を落とさないのでしょうか?
しかも、事前に指摘もあったわけで、極めて不可解です。
☆真珠湾攻撃写真
URL http://www.buzzfeed.com/gavon/16-iconic-photos-of-pearl-harbor
もちろん、敵空母が真珠湾内にいなかったことから日本側は「アメリカ空母に攻撃されるかもしれない」と焦って、早めに引き返したという事実もありますが、第一波攻撃の時点で燃料タンクに数発の爆弾を投下させておけば良かっただけなので、これだけでは納得はできません。
更に言えば、山本五十六は1919年5月から複数回に渡って、アメリカに勤務をしています。同期にはフリーメーソンに加入をしていたと言われている松平恒雄氏などの名前もあり、この時点で向こう側の勢力に取り込まれていた可能性が高いと推測されます。
また、山本五十六の先輩である米内光政氏が、フリーメーソンのメンバーであったという話もあるのです。太平洋戦争直前に日中戦争が行われていましたが、日本軍が中国の首都南京を占領した後、中国側と和平交渉をしていました。
この和平交渉は日本陸軍も和平案に合意していたのにも関わらず、米内光政氏らが猛反発したことで事実上の廃案になってしまったという経緯があったのです。
もしも、この時に日本と中国が和平を締結できていれば、その先の太平洋戦争を回避できたかもしれないのに・・・。
☆米内光政と山本五十六は愚将だった
URL http://www.abysshr.com/san/san_bk08.html
引用:
魂から搾り出した言葉があるとすれば本書がそれだと思う。拙者は本書を読んで、筆者の憤怒の声、慟哭の声を確かに聞いた気がした。 筆者に対して深く畏敬の念を感じ、拙者ごときがとやかくこの書に対して書くのは恐れ多いと思った。 だが、書かねば本書を紹介することはできぬ。拙者は多くの人にこの書を読んでいただきたいと思う。
以下に本書を引用しつつ、拙者の感想を記す。
・引用始め
かえりみれば、不条理の戦争に多くの国民が命をすてた。私と同世代の多くの人が、不条理の中 でも国をまもることに意義を見出して、死んで行った。あの戦いを侵略戦争と言ってのける人たち にいいたい。人は侵略戦争のために死ねるものではない。自らを犠牲にすることによって、自らを こえる大さなもの、それは人によっていろいろだろう。国土、国民、家族あるいは国の歴史、文化、 それとも国家の理想、そのいずれかのために、家をすて、知らぬ土地におもむき、そして死んだの だ。日本の戦争の実態が、自分の信じたものとちがっていても、理想の姿としての日本を信じ、理 想のために死んだ人たちの鎮魂を祈りたい。戦後日本でいろいろ説かれた史観とは別の、そういう 人たちの戦争があったことを訴えたい。
稿を了えるにあたって、最初の命題「米内を斬れ」にかえらねばならない。軍人として政治家と しての米内の言動をとり上げ、論じて来たが、「斬れ」に値する要素は多い。その中でも最も問題 になるのは、天佑発言である。もし米内が阿南の面前で、これを口にしたとしたら、その場で阿南 が斬ったかもしれない。だが発言は密室の中であり、阿南が伝聞でこれを知ったという事実もない。
米内にとって米軍より憎い陸軍が大打撃を受けたことは、痴呆のためとはいえ、天佑という言葉 が出るほど、うれしかったのだ。言葉には出なくても、廟堂密室での米内の一挙一動のうちに、そ れが出てしまっていたのだろう。痴呆がそれをおさえられなかった。理性において阿南が米内の和 平指向を理解し、ある程度尊敬の念を持っていたことは、角田房子氏の前掲書も論証するところで ある。だが米内を痴呆とは考えない阿南は、米内の天佑を本性と感じとり、「斬れ」と口にしたの ではないか。痴呆でなかったら、今の私でさえ、「斬れ」といいたいところだ。それほどの発言だ つたのである。
三百万の国民を殺した不条理の戦争は、もっと早くやめるべきであった。痴呆と阿呆の廟堂密室 を上にいただいた国民の不幸、不運が、改めて思いかえされるのである。
・引用終わり
戦後、米内光政は対米戦争に反対した平和主義者としてもてはやされた。しかしながら、戦史をつぶさに検証していくと、米内光政が日中戦争を拡大し停戦の機会を失わしめた張本人の一人であることが判る。中国においての泥沼が無ければ三国同盟があったとしても対米戦争を避けられた可能性は高い。筆者は米内光政を痴呆と断じているが、米内光政はどうしようもない愚者であったか、そうでないならば、あえて利敵行為を行う売国奴であったと拙者も思う。
:引用終了
フリーメーソンというのは世界をピラミッド型の権力構造に作り変えるのが目的のため、強い力を持っている独立国というのは単なる障害程度にしか考えていません。
フリーメーソンの理念と目的から見ても、米内光政氏が日中和平の妨害をしたことは何ら不思議では無いのです。
真珠湾攻撃の時点で日本の暗号は半分近くがアメリカにバレており、ルーズベルト大統領は事前に真珠湾攻撃を察知していたと言われています。
で、真珠湾攻撃の立案者は山本五十六氏です。
フリーメーソンの本拠地は欧米にあるわけで、これらの情報を総合してみてみると、日本が真珠湾攻撃という案を採用した時点で、ある種のシナリオが事前に完成していた可能性が高いと考えられます。
明治維新を引き起こした坂本龍馬などもフリーメーソンに所属していたわけで、長い視野で見るならば、明治維新で江戸幕府がひっくり返った時点で日本は遅かれ早かれ、太平洋戦争のような絶望的な戦いをするのは決まっていたと言えるでしょう。
*太平洋戦争直前のアメリカではアメリカ国民の8割が戦争に反対していました。なので、ルーズベルト大統領は戦争参加の為に日本を利用したと見ることも可能です。
☆
●広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。
だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、
第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。
第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。
第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。
第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。
加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」
トルーマン大統領は原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害した。
そして被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。
●広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。
まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。
被爆者である橋爪文さんが書いた
『少女・14歳の原爆体験記』(高文研)
(中略)
より。
「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。
これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に
『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。
そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。
治療は全く受けませんでした。
そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。
日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。
私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。
あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
以上引用終わり。
nueq.exblog.jp/20875307/
皇紀始まって以来最もたくさんの大和民族を戦争で殺した極悪非道戦争犯罪者似而非天皇ヒロヒトは皇太子時代にイギリスへ行ってフリーメーソンになって帰ってきた。同じくイギリスフリーメーソン長州ファイブ伊藤博文の田布施システムど真ん中の鬼畜外道である。
第二次世界大戦終結後ユダヤフリーメーソンマッカーサーが温存したのは天皇制じゃなくて田布施システムであり、田布施システムを日本国憲法に規定がない非合憲行政庁宮内庁として日本政府の奥深くに隠匿温存したのである。つまり日本の泥棒官僚エタ田布施システムの中枢は宮内省にほかならない。
沖縄をいまも虐げている日米安全保障会議は、ヒロヒトと吉田茂が国際法違反で単独密約した日米安全保障条約に基づいて設置されている。日米安保条約は国際法違反の二国間密約であるから、日本国憲法最高法規第98条の対象外である。
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
ヒロヒト発言記録(1946・4~6)
nueq.exblog.jp/20875307/
皇紀始まって以来最もたくさんの大和民族を戦争で殺した極悪非道戦争犯罪者似而非天皇ヒロヒトは皇太子時代にイギリスへ行ってフリーメーソンになって帰ってきた。同じくイギリスフリーメーソン長州ファイブ明治政府伊藤博文以来の田布施システムど真ん中の鬼畜外道である。
第二次世界大戦終結後ユダヤフリーメーソンマッカーサーが温存したのは天皇制じゃなくて田布施システムであり、田布施システムを日本国憲法に規定がない非合憲行政庁宮内庁として日本政府の奥深くに隠匿温存したのである。つまり日本の泥棒官僚田布施エタシステムの中枢は宮内省にほかならない。宮内省の詐欺道具が憲法違反放送法フリーメーソン放送局NHKである。
沖縄をいまも虐げている日米安全保障会議は、ヒロヒトと吉田茂が国際法違反で単独密約した日米安全保障条約に基づいて設置されている。日米安保条約は国際法違反の二国間密約であるから、日本国憲法最高法規第98条2の対象外である。
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
sayuflatmound.com/?p=11040
これは米軍基地上空やイスラエルアメリカ大使館上空をドローンが空撮飛行することを防ぐために急いでいる。
つまり今現在イスラエルアメリカ大使館内や米軍基地内でテロの準備が行われている真っ最中だと言うこと。偶然の露見を厳しく防がねばならない、それほど重大な犯罪行為がそれらの場所でいままさに行われている証拠である。
アメリカが作ったのは憲法ではなく、占領軍治外法権で憲法を破る統治システムである。
>百田尚樹も尊敬する元零戦パイロットが安倍首相を批判!「戦前の指導者に似ている」と(リテラ)
http://www.asyura2.com/15/senkyo183/msg/741.html#c42
・・・
何故日本だけ国が自国民のこどもを被曝させるのか?理由は簡単で、戦後日本政府は日本人が作った政府ではないからである。
戦後日本に上陸したアメリカ軍GHQのマッカーサーというユダヤ人フリーメーソンが日本に占領軍治外法権で作ったものを以下に列挙する。
テレビ局・新聞社・霞ヶ関の全省庁・検察・自衛隊。
つまり立法府の国会を除く行政司法マスコミ(第四権)はすべて1945年にできたときからユダヤ人フリーメーソンの忠実なスパイである。日本人ではない。
そして似非日本人小泉純一郎劇場詐欺師が政権を詐取して以来選挙制度が破壊され、唯一の砦であった国会(立法)もフリーメーソンスパイに憲法違反の治外法権で占拠されてしまった。
この結果現在の日本政府は頭のてっぺんからつま先まで全身全霊フリーメーソンスパイ政府であり、日本政府が行うことはすべてが日本国憲法最高法規違反の内乱罪外患罪棄民戦争犯罪政治に他ならないのである。
このすべての憲法違反政治をフリーメーソンは何を使って達成したか?カラーテレビである。
・・・
続きhttp://www.asyura2.com/15/senkyo183/msg/741.html#c45
日本国憲法は、人天の師釈尊が教えたもうた三宝に帰依する仏心で、まさに書かれているのだよ。
原田要氏も、小泉劇場詐欺師がブッシュと共謀して憲法を破り自衛隊派兵し海上給油したイラク戦争の時、NHKのカラーテレビで米軍がイラクの人たちをミサイル攻撃するモニター映像が流れたのを子どもたちが見て、「かっこいい」とか「面白い」とかテレビゲームのように戦争を面白がったことに、ものすごい危機感をいだいた。
戦争はテレビゲームでは無い。
その危機感ゆえ余りにも悲惨だったゆえに封印してきた自らの戦争体験の記憶を、声を大にして語り始めることにしたのである。
>「真珠湾攻撃に参加した零戦搭乗員の記憶」
https://www.youtube.com/watch?v=wHfBG5pSwpU
これが原田要氏の先祖伝来忠君孝親忘己利他菩薩仏心大和魂である。
46. 2015年4月26日 10:29:01 : rWn9PLlcps
原田要氏
>「安倍首相は必死で日本の戦争放棄を取り消そうとしたがっているように見える」
>「戦後の長い平和がひとつの達成であったということを忘れているように思えてならない」
仏心大和魂原田要氏が言うこの「達成」こそが、戦争永久放棄の「日本国憲法」そのものなのである。
フリーメーソンカルト信者である安倍晋三や百田尚樹には、先祖伝来仏教徒伝統日本武士原田要氏の仏心も大和魂もないから、「必死で日本の戦争放棄を取り消したがっている」のである。
68. 2015年4月27日 11:17:43 : rWn9PLlcps
>60. 2015年4月26日 19:21:01 : vpOHRYtzTw
>うはっ
>戦争怖いなんて馬鹿か!
>敵は我が国の国民を奴隷にし領土を奪い、すべてを焼き尽くす。
>
>旗を立てよ!
>侵略者共を返り討ちにするのだ!!
>
>手柄を立ていっ!
>敵を多く殺したもんが英雄じゃー!
この言葉は誰に向けて言っているのかと言えば、自衛隊に向けて言っている。
戦前大日本帝国憲法下皇軍の衣鉢を継ぐのが日本国憲法下自衛隊という認識であろう。
しかし注意せよ、大日本帝国憲法では日本国の国体は天皇唯一人であり、国体すなわち君主であり、余の者はすべて臣民であった。ゆえに忠君孝親慈悲喜捨忘己利他菩薩武士道仏心皇軍は忠孝一致の神風特攻に大和魂を捧げたのである。
これに対して戦後大和民族先祖伝来仏心の昇華精粋である日本国憲法において、国体とは主権者国民でありすなわち日本国の君主は主権者国民である。余の者すなわち公僕公務員は、すべて君主日本国主権者国民に滅私奉公する臣民である。
日本国憲法最高法規第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」に厳然と記されているとおりである。
すなわち自衛隊の武装は、我が国の君主である主権者日本国民が住むこの国土に対する軍事侵略を実際に行っている者に対する正当防衛としてのみ行使できる軍事力である。自衛隊は君主日本国主権者の臣民であるから、正当防衛と言えどもその軍事力行使にあたっては君主の許可を受けねばならぬのは当然である。
日本国政府立法行政司法の三権は、すべて君主主権者国民に滅私奉公する憲法義務を負った下僕臣民に過ぎない。下僕に過ぎない政権政府の独断で自衛隊を軍事行動目的で動かせば、それは主権者国民日本国君主に対するクーデターそのものである。下僕小泉純一郎がイラク戦争に自衛隊を海外派兵した時から日本国内に軍事クーデターが起こっている。
原田要氏がそのイラク戦争のテレビ映像を見て、小泉純一郎クーデターテロリストによって海外派兵された自衛隊に、日本伝統の忠君孝親慈悲喜捨菩薩武士道大和魂を取り戻して欲しいと、神風特攻隊の悲惨を声を大にして語り始めたのもむべなるかな。
69. 2015年4月27日 11:51:41 : rWn9PLlcps
仏心日本国君主主権者国民が自衛隊活動として国内外において容認するのは「災害救助活動」のみであり、一切の武装を必要としない人道救助活動のみである。
かつてインド洋大津波で甚大な被害を受けたインド洋沿岸諸国に自衛隊が災害救助海外派遣された。被害諸国は紛争当事国であり交戦下にあったにもかかわらず、わが自衛隊は武器銃器いっさいを携行せず完全に非武装の丸腰で現地入りして、仏心「和顔愛語」のみをもちいて純粋に災害救助復興支援活動に従事し、その結果紛争交戦下にもかかわらず自衛隊はなんの軍事攻撃も受けずに復興支援の絶大な成果を上げたのである。
当時の復興支援海外派遣自衛隊の指揮官は加來浩器防衛庁武官である。
加來浩器自衛隊武官こそ、憲法9条の精神を紛争地帯のど真ん中でまさに体現した、皇軍軍人原田要氏関行男氏が大和民族先祖よりうけついだ仏心慈悲喜捨忘己利他菩薩武士道大和魂の正しい伝承者である。
70. 2015年4月27日 12:05:27 : rWn9PLlcps
仏心日本国君主主権者国民は、いまネパール国に起こった大地震で多くの人びとが傷つきネパール国の国土が甚大な被害を受けていることに対し、ただちに主権者国民の下僕自衛隊に対し、加來浩器仏心武官を指揮官に任命して「大地震災害救助復興支援緊急海外派遣自衛隊」を自衛隊の総力を挙げて組織し現地に急行することを、仏心日本国君主として厳命する。
http://www.asyura2.com/15/senkyo183/msg/741.html
69. 2015年4月27日 11:51:41 : rWn9PLlcps
仏心日本国君主主権者国民が自衛隊活動として国内外において容認するのは「災害救助活動」のみであり、一切の武装を必要としない人道救助活動のみである。
かつてインド洋大津波で甚大な被害を受けたインド洋沿岸諸国に自衛隊が災害救助海外派遣された。被害諸国は紛争当事国であり交戦下にあったにもかかわらず、わが自衛隊は武器銃器いっさいを携行せず完全に非武装の丸腰で現地入りして、仏心「和顔愛語」のみをもちいて純粋に災害救助復興支援活動に従事し、その結果紛争地帯にもかかわらず自衛隊はなんの軍事攻撃も受けずに復興支援の絶大な成果を上げたのである。
当時の復興支援海外派遣自衛隊の指揮官は加來浩器防衛庁武官である。
加來浩器自衛隊武官こそ、憲法9条の精神を紛争地帯のど真ん中でまさに体現した、皇軍軍人原田要氏関行男氏が大和民族先祖よりうけついだ仏心慈悲喜捨忘己利他菩薩武士道大和魂の正しい伝承者である。
仏心日本国君主主権者国民は、いまネパール国に起こった大地震で多くの人びとが傷つきネパール国の国土が甚大な被害を受けていることに鑑み、ただちに主権者国民の下僕自衛隊に対し、加來浩器仏心武官を現地指揮官に任命し「大地震災害救助復興支援緊急海外派遣非武装自衛隊」を自衛隊の総力を挙げて組織しネパールへ急行することを、仏心日本国君主として厳命する。
(阿修羅)www.asyura2.com/15/genpatu42/msg/673.html
・・・
米国の戦争に加担すれば、「敵」の反撃が当然日本にも向けられる。
その明白な危険を承知の上で米国の戦争に加担することは、日本に対する攻撃「外患」を「誘致」し、国民を危険に曝す。
安倍晋三、刑法第81条 【外患誘致】「外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する」を知っているか。
『安倍首相、訪米成功へ布石着々=大統領異例の厚遇』米国に自衛隊員の命を貢いで、基地に美しい国土と海を貢いで、まさに「自虐外交」なのに、夕食会で「異例厚遇」と喜んでいる。
ネトウヨさんの大嫌いな「売国奴」って、まさにこういう奴のことだよな。
・・・・・
07. 2015年4月29日 11:18:39 : rWn9PLlcps
「オスプレイは純然たるテロ凶器である」
>ドローンはテロを起しません。テロを起すのは人間です。
(さゆふらっとまうんど)sayuflatmound.com/?p=11173
「ゴールデンウィーク明けまでに、ドローンの「重要施設の警備強化」と「運用ルール作りや関係法令の見直し」をする方針。~なぜそんなに急ぐのか?」のエントリーに書いたとおり、上空を飛行中に国内の原発や劣化ウラン貯蔵庫に落下したらほんとうに危険なのは、ドローンではなく地球のテロ組織米軍治外法権欠陥ヘリコプター「オスプレイ」ですね。
即ち言い直せば、「ドローン操縦者はテロリストではありません。テロリストとはオスプレイ操縦者です」
さてオスプレイは自民党公明党連立内閣が偽総理安倍晋三の首相官邸密室内で自衛隊の装備に導入することを閣議決定しました。
これまでは日本国内の武器使用テロリストは警察官(公安、沖縄や上関含む各地の海で暴れる海上保安庁も警察です)だけだったが、自衛隊にオスプレイが導入されれば自衛官まで主権者国民に対する武器使用テロリストに成り下がってしまうことになる。
真珠湾攻撃ゼロ戦エースパイロット原田要氏に靖国神社で自衛隊に対して召集をかけ、欧米フリーメーソン鬼畜外道悪魔カルトテロリストの殺戮略奪攻撃から仏心大和民族を護る真の先祖伝来忠君孝親忘己利他慈悲喜捨菩薩大和魂を、自衛隊員全員に訓示徹底教育講義してもらわねばならない。
所沢市の公共事業の落札率は95%以上が多く、99.9%という公共事業もあるようです(※1)。
一般的に、95%以上を「談合の疑いが極めて強い」、落札率 90%~95%を「 談合の疑いがある」とされています(※2、※3)。
つまり、所沢市の公共事業は「 談合 」と判断される水準でしょう。
所沢市の工事請負業者等指名委員会は「 所沢市の部長職 」によって構成されています(※4)。
もし、所沢市の幹部職員が落札者に対して、請負業者という弱味につけこみ、高い落札率を条件とした幹部職員への天下りの斡旋やなんらかの利益供与を要求しているのならば、市幹部という立場を悪用した市民に対する「 背任 」になりますよね。
実際、市幹部職員が雪見障子やガラスを業者から受け取っていたとして議会で問題提起されたことがあります(※5)。
所沢市の高い落札率をみると、このような腐敗が所沢市で常態化していると考えてしまいますね。
※1
所沢市公共事業: 質疑が足りなかったのではないか ~ 高い落札率(落札率99.9%)
総合福祉センター建設(建築)工事
入札は一般入札であるが、応募は「平岩・本橋特定建設工事共同企業体」1社のみである。
また入札額は第1回、第2回とも予定価格をオーバー、(一般的には2回の入札で落札されない場合、入札は不調)備考欄に第1回見積合わせで落札と記載あり。
数量を指定した電子入札であると思われるのに、「何の見積合わせ」を「何の為に行ったのか」疑問が残る。
そして落札率99.9%。
また総合福祉センターの建築、電気、機械設備の合計落札額は26億820万円,予算は26億2,608万円で全体の落札率は99.31%である。
余りに落札率が高くはないか。
また総合福祉センターは延床面積が6,158.6㎡、この落札金額では423,505円/㎡である。
因みに2007年の東京都内のRCマンションは230,000円/㎡(総合研究所、工事費)。
福祉センターの建設事例として広島県安佐南区地域福祉センターは(平成18年)工事費17億5,732万円、305,460円/㎡である。
同区内の他の5施設の工事費を比較検討し建設工事費を㎡単価で26%削減したと公表している。
また、富岡公民館空調設備改修工事の入札には、入札者14社、落札率は95.48%。
何故同時期に入札をおこなった総合福祉センターの(機械設備)落札率が98.57%で富岡公民館の空調は95.48%なのか。
95.48%で総合福祉センターの(機械設備)が落札されれば1,400万円程度が節約でき、建設・電気設備をあわせた全体がこの比率で落札されればおよそ1億円が節約できていた。
「傍聴席」 所沢の民主主義をサポートするささやかなメディア…
http://blogs.yahoo.co.jp/tokocitizen_c14/41550658.html
※2
各工事の落札率が 95%以上を「談合の疑いが極めて強い」、落札率 90%~95%を「 談合の疑い. がある」とされている。
http:/www.ombudsman.jp/taikai/6-rakusatsu.pdf#search='%E8%AB%87%E5%90%88++%E8%90%BD%E6%9C%AD%E7%8E%87++95%25'
http:/www.ombudsman.jp/taikai/6-rakusatsu.pdf
※3
落札率
予定価格に対する落札額の割合。
100%に近いほど落札業者の利益が大きく、談合によって落札率が上がれば、それだけ税金が無駄遣いされることになる。
全国市民オンブズマン連絡会議などは「90%以上は談合の疑いがあり、95%はその疑いが極めて強い」と指摘している。
(2011-10-16 朝日新聞 朝刊 茨城 1地方)
http:/kotobank.jp/word/%E8%90%BD%E6%9C%AD%E7%8E%87-885812
※4
所沢市工事請負業者等指名委員会規程
http:/www1.g-reiki.net/tokorozawa/reiki_honbun/e309RG00000203.html#e000000048
※5
所沢市 官製談合 疑惑
http:/ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%3A%E6%89%80%E6%B2%A2%E5%B8%82
blog: 官製談合? 所沢市 総合福祉センター建設工事 落札率99.9%
blog.livedoor.jp/tokorozawalivedor/
日本のテレビでは絶対に報道しませんから。
>安倍首相の演説、海外でカンペ画像が報じられる「顔を上げ拍手促す」www.asyura2.com/15/senkyo184/msg/191.html
Huffingtonpost
安倍晋三首相が4月29日、アメリカ議会上下両院合同会議で演説した。この様子を報じた海外の記事が話題になっている。
この日、安倍首相は英語で演説を行ったが、ウォール・ストリート・ジャーナルは安倍首相が手に持った原稿を、大きな写真で紹介した。原稿には、「次を強く」など抑揚をつける位置や、息継ぎの箇所が赤ペンで書き込まれていた。
カナダ版のYahoo!ニュースに掲載されたロイターの記事には、「顔を上げ拍手促す」などの書き込みも見られる。
www.asyura.us/bigdata/up2/s/101000.jpg
www.asyura.us/bigdata/up2/s/101001.jpg
www.asyura.us/bigdata/up2/s/101002.jpg
www.asyura.us/bigdata/up2/s/101005.jpg
______
こういう日本語外国語学力のまったく無い社会人失格人間が、日本の法律条文によって規定された官権力の頂点である内閣総理大臣公職に就いていること自体、NHKと選管の総務省はじめすべての行政府公務員全員共犯による公職選挙破壊すなわち法治国家統治システム破壊叛逆クーデターであり、さらにこの禁治産者を国会総理指名選挙で投票選出した自民党公明党他党国会議員は、全員共犯の内乱罪クーデター実行犯である。
第二節 心の構造
一、迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。
絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。
心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。
すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。
二、ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。
この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みな心そのものの中にある。
生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死(しょうじ)にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。
迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろう。
このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現れる。
三、すべてのものは、みな心を先とし、心を主(あるじ)とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。
しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。(第966版本「悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。」)
この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。
身と心の清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。
第四章 煩悩
第一節 心のけがれ
一、仏性(ぶっしょう)を覆いつつむ煩悩に二種類ある。
一つは知性の煩悩である。二つには感情の煩悩である(一つは道理に迷う理性の煩悩である。二つには実際に当たって迷う感情の煩悩である)。
この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、一つには無明(むみょう)、二つには愛欲となる(この二つの煩悩は、無明と愛欲となる)。
この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。そして、この二つこそ、すべての煩悩の源なのである。
無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、また転じて、死を願うような欲望ともなる。
この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見(じゃけん)、恨み、嫉(ねた)み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。
二、貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。愚かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。
この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の三つの火といわれる。貪りの火は、欲にふけって、真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害(そこ)なう人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。
まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、さまざまな火によって炎々と燃えあがっている。これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥(おと)し入れる。
三、貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。
したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、常に正しく考えて、この三つの火を消さなければならない。もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、煩悩によって惑わされることはない。
四、貪り、瞋り、愚かさは熱のようなものである。どんな人でも、この熱の一つでも持てば、いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。
この三つの煩悩のない人は、寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。
この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、戒めと心の統一と智慧である。戒めは貪りの汚れを取り去り、正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、智慧は愚かさの汚れを取り去る。
五、人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。
人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。
人は欲を決して満足させることができない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。
人は欲のために争い、欲のために戦う。王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺し合う。
また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。
また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。
六、愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。
愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生じる。愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。
愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌(え)、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。
飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。
一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。
七、外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。
心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。
意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。
知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。
人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくるし、人の不幸も難儀も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。
八、人は煩悩によって業(ごう)を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。
この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。しかも、人はこの輪廻(りんね)から逃れるすべを知らない。永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。
限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。
だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりに深いため、その芽生えは容易でない。芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。
一、この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。
身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。
富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。
貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。
すべての世界が敵対するかのように見え、死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。
二、また、この世には五つの悪がある。
一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみあっている。
二つには、親子、強大、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。
三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。
四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。
五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。
三、人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。
この世の争いは、互いに害(そこな)いあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。
人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。
善と悪とはそれぞれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、動かすことのできない道理によって定まっている。しかも、それぞれが、おのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。
四、恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、長い月日を経ても、いたましい思いを解くことができない。それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、他人と争い、真実の道に親しむことができず、寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。
このような人の仕業は、自然の道に逆らい、天地の道理にそむいているので、必ず災いを招くようになり、この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。
まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。
五、このような有様が、まことにこの世の姿であり、人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。
ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。
栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。この世の快楽も何一つ永続するものはない。
六、だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。
ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。
ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。
どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。ただ、これについて苦しみ悲しむことだけを知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。
七、人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。しかも、今日に至っても、なお迷いは絶えることがない。ところが、いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。
だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。
いま、幸いにも仏の教えに会うことができたのであるから、どんな人も仏の教えを信じて、仏の国に生まれることを願わなければならない。仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。また、仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。
#11
第1章 さとりへの道
第一節 心を清める
一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。
第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。
見方を誤るから、我(が)という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。
第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。
第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。
第四には何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。
第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。
二、世には五つの欲がある。
眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。
多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。
三、その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。
このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。
ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。
またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。
これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。
四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。
名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。
愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。
貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。
五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。
美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。
道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。
道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。
六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。
身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。
宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。
貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。
七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。損なうことを思えば損なう心が多くなる。
牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。
人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。
牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。
人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。
八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。
そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」「世尊よ、また他の町へ移ります」
「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」
一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。
心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。
二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。
あるとき、その女中がこう考えた。「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」
そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。
「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。
女中はさらに次の日も遅く起きた。主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。
三、だれでもこの女主人と同じである。環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。
自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。
だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。
四、すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗いことば、有益なことばと有害なことば、慈しみあることばと憎しみのあることば、この五対がある。
この五対のいずれによって話しかけられても、
「わたしの心は変わらない。粗いことばはわたしの口から漏れない。同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」と努めなければならない。
たとえばここに人がおり、鋤と鍬を持って、この大地の土をなくそうと、土を掘ってはまき散らし、土よなくなれと言ったとしても、土をなくすことはできない。このようにすべてのことばをなくしてしまうことはのぞみ得ない。
だから、どんなことばで語られても、心を鍛えて慈しみの心をもって満たし、心の変わらないようにしておかなければならない。
また、絵の具によって、空に絵を描こうとしても、物の姿を現わすことはできないように、また、枯草のたいまつによって、大きな河の水を乾かそうとしてもできないように、また、よくなめした柔らかな皮を摩擦して、ざらざらした音を立てようとしてもできないように、どんなことばで話しかけられても、決して心の変わらないように、心を養わなければならない。
人は、心を大地のように広く、大空のように限りなく、大河のように深く、なめした皮のように柔らかに養わなければならない。
たとえ、かたきに捕らえられて、苦しめられるようなことがあっても、そのために心を暗くするのは、真に仏の教えを守った者とはいえない。どんな場合に当たっても、
「私の心は動かない。憎しみ怒ることばは、わたしの口を漏れない。同情と哀れみのある慈しみの心をもって、その人を包むように。」と学ばなければならない。
五、ある人が、「夜は煙って、昼は燃える蟻塚。」を見つけた。
ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。
はじめにかんぬきが出、次は水泡、次には刺叉(さすまた)、それから箱、亀、牛殺しの刀、一片の肉が次々と出、最後に龍が出た。
賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えた。
これはたとえである。ここに「蟻塚」というのはこの体のことである。「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。「昼は燃える」というのは、夜考えたことを、昼になってから体や口で実行することをいう。
「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは仏のことである。「剣」とは清らかな智慧のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。
「かんぬき」とは無明のこと、「水泡」とは怒りと悩み、「刺叉」とはためらいと不安、「箱」とは貪り・瞋り・怠り・浮わつき・悔い・惑いのこと、「亀」とは身と心のこと、「牛殺しの刀」とは五欲のこと、「一片の肉」とは楽しみを貪り求める欲のことである。これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。
最後の「龍」とは、煩悩の尽きた心のことである。わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍を見ることになる。
掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ、龍を妨げるな。」というのである。
六、釈尊の弟子ピンドーラは、さとりを得て後、故郷の恩に報いるために、コーサンビーの町に帰り、努力して仏の種をまく田地(でんち)の用意をしようとした。コーサンビーの郊外に、小公園があり、椰子の並木は果てもなく続き、ガンジスの洋々たる河波は、涼しい風を絶え間なく送っていた。
夏のある日、昼の暑い日盛りを避けて、ピンドーラは、並木の木陰の涼しいところで座禅していた。ちょうどこの日、城主のウダヤナ王も、妃たちを連れて公園に入り、管弦の遊びに疲れて、涼しい木陰にしばしの眠りにおちいった。
妃たちは、王の眠っている間、あちらこちらとさまよい歩き、ふと、木陰に端座するピンドーラを見た。彼女らはその姿に心うたれ、道を求める心を起こし、説法することを求めた。そして、彼の教えに耳を傾けた。
目を覚ました王は、妃たちのいないのに不審をいだき、後を追って、木陰で妃たちにとりまかれているひとりの出家を見た。淫楽に荒んだ王は、前後の見境もなく、心中にむらむらと嫉妬の炎を燃やし、「わが女たちを近づけて雑談にふけるとはふらちな奴だ。」と悪口を浴びせた。ピンドーラは眼を閉じ、黙然として、一語も発しない。
怒り狂った王は、剣を抜いて、ピンドーラの頭につきつけたが、彼はひとことも語らず、岩のように動かない。
いよいよ怒った王は、蟻塚をこわして、無数の赤蟻を彼の体のまわりにまき散らしたが、それでもピンドーラは、端然と坐ったままそれに耐えていた。
ここに至って、王ははじめて自分の狂暴を恥じ、その罪をわびて許しを請うた。これから仏の教えがこの王家に入り、その国に広まるいとぐちが開けた。
八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かってちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。
「大徳よ、仏の弟子たちは、若い身でありながら、どうして欲におぼれず、清らかにその身を保つことができるのであろうか。」
「大王よ、仏はわたしたちに向かって、婦人に対する考えを教えられた。年上の婦人を母と見よ。中ほどの婦人を妹と見よ。若い婦人を娘と見よと。この教えによって、弟子たちは若い身でありながら、欲におぼれず、その身を清らかに保っている。」
「大徳よ、しかし、人は、母ほどの人にも、妹ほどの人にも、娘ほどの人にもみだらな心を起こすものである。仏の弟子たちはどのようにして欲を抑えることができるのであろうか。」
「大王よ、世尊は、人の体がいろいろの汚れ、血・うみ・汗・脂など、さまざまの汚れに満ちていることを観(み)よと教えられた。このように見ることによって、われわれ若い者でも、心を清らかに保つことができるのである。」
「大徳よ、体を鍛え、心を練り、智慧をみがいた仏弟子たちには容易であるかも知れない。しかし、いかに仏の弟子でも、未熟の人には、容易なことではないであろう。汚れたものを見ようとしても、いつしか清らかな姿に心ひかれ、醜さを見ようとしても、いつしか美しい形に魅せられてゆく。仏弟子が美しい行いを保つには、もっと他に理由があるのではあるまいか。」
「大王よ、仏は五官の戸口を守れと教えられる。目によって色・形を見、耳によって声を聞き、鼻によって香りをかぎ、舌によって味を味わい、体によって物に触れるとき、そのよい姿に心を奪われず、またよくない姿に心をいらだたせず、よく五官の戸口を守れと教えられる。この教えによって、若い者でも、心身を清らかに保つことができるのである。」
「大徳よ、仏の仰せは、まことにすばらしい。わたしの経験によってもそのとおりである。五官の戸締まりをしないで、ものに向かえば、すぐに卑しい心にとらわれる。五官の戸口を守ることは、わたしどもの行いを清らかにするうえに、まことに大切なことである。」
八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かってちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。
九、せまい心を捨てて、広く他に施すことは、まことによいことである。それとともに、志を守り、道を敬うことは、さらによいことである。
人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。
一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということはない。
道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。
志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。
十、この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。
一、貧しくて、施すことは難く、
二、慢心にして道を学ぶことは難く、
三、命を捨てて道を求めることは難く、
四、仏の在世に生を受けることは難く、
五、仏の教えを聞くことは難く、
六、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、
七、よいものを見て求めないことは難く、
八、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、
九、辱められて怒らないことは難く、
十、事が起きても無心であることは難く、
十一、広く学び深く究めることは難く、
十二、初心の人を軽んじないことは難く、
十三、慢心を除くことは難く、
十四、よい友を得ることは難く、
十五、道を学んでさとりに入ることは難く、
十六、外界の環境に動かされないことは難く、
十七、相手の能力を知って、教えを説くことは難く、
十八、心をいつも平らかに保つことは難く、
十九、是非をあげつらわないことは難く、
二十、よい手段を学び知ることは難い。
十一、悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。
このように、善人と悪人とは違っている。
愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。
一方賢い人とは常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、すべての人に対して思いやりの心を持つことによって、感謝の気持ちを表そうとする人である。
第一章 因縁
第三節 ささえあって
三、この世の中には、三つの誤った見方がある。もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。
一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。二つには、ある人は、それはすべて神の御業(みわざ)であるという。三つには、またあるひとは、すべて因も縁もないものであるという。
もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。
したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。
次に、神の御業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難が浴びせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。
だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。
さゆふらっとまうんどのブログsayuflatmound.com/?p=11910
>すいすい 2015年5月18日 8:34 PM に投稿
>こういった記事を書くのであれば、きちんと調べてから(ネットで検索したソースを使うのではなく、警察などに問い合わせをして正式な回答をもらって)書くべきだと思います。
この投稿をした「すいすい」とやらが、まさしくフリーメーソンスパイ政府の工作員エージェントですね。
「警察などに問い合わせをして」という見え透いた誤誘導がその証拠です。施行された法律の内容を警察などに問い合わせる必要などまったくありません。「警察など」にではなく国会に問い合わせなければならないのです。
実は憲法によりすべての法律は行政府内の官僚が立法して施行することを禁じています。立法は唯一の立法機関である国会のみがこれを行い、内容を審議のうえ国会で承認された法律のみが施行されます。
すなわち戦後政府がたびたび行ってきて現在の安倍政府にいたってさかんに乱発している官僚立法と閣議決定にのみ基づく新法の施行はすべて違憲立法そのものです。最高裁判所の違憲立法審査権発動は全く必要ありません。
そもそも唯一の立法機関である国会で立法審議されていないのだから、これら閣議決定での法律施行はすべて最初から審査する必要のない憲法手続き違反の明々白々な違憲立法です。これはまさに行政府公務員による憲法違反行政であり、国会審議抜きで施行して行政執行すれば直ちに憲法99条違反刑法内乱罪現行犯有罪となります。
http://www.asyura2.com/15/genpatu42/msg/733.html
阿修羅へ投稿
13. 2015年5月09日 09:48:05 : rWn9PLlcps
>肺が真っ白で虚血状態(局所の貧血)
潜水病の症状と思います。急浮上による急減圧で血液中の窒素がすべて気化して発生した無数のマイクロバブルが、肺胞の毛細血管をすべて閉塞して血液が流れなくなり肺の血液ガス交換機能がゼロになる窒息症状が、肺で起こったのでしょう。
肺だけでなく全身のすべての臓器に窒素マイクロバブルによる毛細血管閉塞にもとづく多様な虚血状態が出現しているのではないでしょうか。
14. 2015年5月09日 17:25:15 : IhfOeGf3iI
水生哺乳動物(アシカ、クジラなど)は、人間より遥かに海の環境に適応している。
もちろん人間と違って、潜水病に対する防御機構も備わっている。
防御機構の主たるものは、高圧になると折りたたまれる肺である。
空気(窒素、酸素)は肺胞から気道上部に排除され、血液に取り込まれない。
しかし、この防御機構が何らかの原因(有力な原因として船舶ソナーの騒音が疑われている。)で、うまく機能しなかった場合、水生哺乳動物にも潜水病が起こり得る。
渚に打ち上げられたクジラの全身から、微細気泡が発見された例は、潜水病が起きたことを示している。
ただ、今回の場合、微細気泡の解剖所見がないので、潜水病は否定される。
>Ocean STEMulation: How Marine Mammals Avoid the Bends
http://www.oneworldoneocean.com/blog/entry/ocean-stemulation-how-marine-mammals-avoid-the-bends
16. 2015年5月18日 15:51:25 : rWn9PLlcps
>>14
>潜水病に対する防御機構
>微細気泡の解剖所見がない
防御機能の限界を超える深深度からの急浮上があれば通常の潜水病で生じる微細気泡ではなく一気に巨大気泡が発生して大血管臓器では内腔が気体で満たされ空転が供給血液を途絶し一瞬で完全虚血臓器が出現すると考えられる。深度を徐々に上げていくときは肺がゆっくり開いていくが急浮上では対応できないので血液中に微細気泡ではなく巨大気泡が発生し大血管に空気塞栓が起こることになるのである。
これによって肺がガス交換機能を失い、よって浮上して空気を直接肺に吸い込んでももはや酸欠が改善されず多臓器不全を起こし、再び潜ることが出来ないまま海上や浜辺で窒息死するのである。
急浮上の原因は緊急避難行動である。潜水艦のソナーの高出力攻撃から逃れるために生物の限界を超えた急浮上を行った本能的回避行動であることは言うまでもあるまい。