話すほどに、山本伸一の言葉には力がこもり、熱を帯びていった。
「末法にあって、題目を唱え、広宣流布の戦いを起こせるのは、地涌の菩薩だからです。
ゆえに、大聖人は『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり』(御書一三六〇ページ)と仰せなんです。
私たちは、どんな宿業に悩んでいようが、本来、地涌の菩薩です。
宿業も、末法に出現して広宣流布するために、自ら願って背負ってきたものなんです。
でも、誰を見ても、経済苦や病苦など、苦しみばかりが目立ち、地涌の菩薩のようには見えないかもしれない。事実、みんな、日々悩み、悶々としている。
しかし、広宣流布の使命を自覚し、その戦いを起こす時、自らの胸中に、地涌の菩薩の生命が、仏の大生命が厳然と涌現するんです。
不幸や悩みに負けている仏などいません。
苦悩は必ず歓喜に変わり、境涯は大きく開かれ、人間革命がなされていく。そして、そこに宿命の転換があるんです。
では、地涌の菩薩の生命とは何か」
ここで伸一は、地涌の菩薩の生命について言及していった。
地涌の菩薩の上首は、上行菩薩をはじめとする無辺行、浄行、安立行の四菩薩である。四大士とも言い、これは、勇気をもって大衆の先頭に立つとの意味でもある。
日蓮大聖人は「御義口伝」に法華文句輔正記を引いて、四菩薩が、仏の生命に具わる四徳である「常楽我浄」に配せることを示されている。
また、東洋思想で宇宙の万物を構成する四つの元素とされる、「地水火風」の四大にも関連させながら論じられている。
上行は「我」を表し、「火」の働きをなす。
「我」とは、自らが仏であることを覚知し、何事にも動じない、強い主体性と信念を確立した境涯といえる。
また、「火」には物を焼く作用があるが、苦しみの元であるはずの煩悩を焼いて智慧の光へと転じ、世間の闇を照らす働きをいう。
つまり、周囲の人びとを熱き慈悲の一念で包み、勇気を与えゆく大リーダーの生命である。
無辺行は「常楽我浄」の「常」を表し、また、「地水火風」の「風」の働きをなす。
「常」とは、生命は三世常住であることを覚知した境涯である。
生命が永遠であることがわからず、死に怯え、苦悩に縛られた自己を脱して、三世にわたる因果律に立った、広々とした自由自在の境地を会得することである。
この境地に立つならば、風が塵や埃を吹き払うように、いかなる苦悩も吹き飛ばしていくことができる。
大聖人は、種々の大難も、「風の前の塵なるべし」(御書二三二ページ)と仰せである。
さらに、浄行は「浄」を表し、「水」の働きをなす。
これは、常に仏の清浄なる生命を涌現し、決して現実の汚濁に染まることなく、清らかな水のように、万物を清めていく働きである。
清らかな心には、豊かな感受性が宿り、感謝があり、感動がある。そこに美しき人間性の花が咲き薫るのだ。
安立行は、「楽」を表し、「地」の働きをなす。いわば安心立命の境地にも通じよう。
つまり、何があっても紛動されることなく、豊かな生命力をもって、人生を楽しみきっていける境涯ということである。
また、大地が草木を育むように、人びとを、支え守る働きといってよい。
法華経の会座において、末法の広宣流布を託されたのが地涌の菩薩である。
したがって、私たちは広宣流布の使命に生きる時、その本来の生命が現れ、四菩薩の四徳、四大が顕現されるのである。それによって、境涯革命、人間革命、宿命の転換がなされていくのだ。
一人ひとりが、凡夫の姿のままで自分を輝かせ、病苦や経済苦、人間関係の悩みなど、自身のかかえる一切の苦悩を克服し、正法の功力を実証していくことができるのである。
その実証を示すための宿業でもあるのだ。
ベートーベンは、こう叫びを放った。
「どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない。――おお、生命を千倍生きることはまったくすばらしい!」(注)
その道こそが、われらの信仰なのだ。
(19巻・宝塔)
「末法にあって、題目を唱え、広宣流布の戦いを起こせるのは、地涌の菩薩だからです。
ゆえに、大聖人は『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり』(御書一三六〇ページ)と仰せなんです。
私たちは、どんな宿業に悩んでいようが、本来、地涌の菩薩です。
宿業も、末法に出現して広宣流布するために、自ら願って背負ってきたものなんです。
でも、誰を見ても、経済苦や病苦など、苦しみばかりが目立ち、地涌の菩薩のようには見えないかもしれない。事実、みんな、日々悩み、悶々としている。
しかし、広宣流布の使命を自覚し、その戦いを起こす時、自らの胸中に、地涌の菩薩の生命が、仏の大生命が厳然と涌現するんです。
不幸や悩みに負けている仏などいません。
苦悩は必ず歓喜に変わり、境涯は大きく開かれ、人間革命がなされていく。そして、そこに宿命の転換があるんです。
では、地涌の菩薩の生命とは何か」
ここで伸一は、地涌の菩薩の生命について言及していった。
地涌の菩薩の上首は、上行菩薩をはじめとする無辺行、浄行、安立行の四菩薩である。四大士とも言い、これは、勇気をもって大衆の先頭に立つとの意味でもある。
日蓮大聖人は「御義口伝」に法華文句輔正記を引いて、四菩薩が、仏の生命に具わる四徳である「常楽我浄」に配せることを示されている。
また、東洋思想で宇宙の万物を構成する四つの元素とされる、「地水火風」の四大にも関連させながら論じられている。
上行は「我」を表し、「火」の働きをなす。
「我」とは、自らが仏であることを覚知し、何事にも動じない、強い主体性と信念を確立した境涯といえる。
また、「火」には物を焼く作用があるが、苦しみの元であるはずの煩悩を焼いて智慧の光へと転じ、世間の闇を照らす働きをいう。
つまり、周囲の人びとを熱き慈悲の一念で包み、勇気を与えゆく大リーダーの生命である。
無辺行は「常楽我浄」の「常」を表し、また、「地水火風」の「風」の働きをなす。
「常」とは、生命は三世常住であることを覚知した境涯である。
生命が永遠であることがわからず、死に怯え、苦悩に縛られた自己を脱して、三世にわたる因果律に立った、広々とした自由自在の境地を会得することである。
この境地に立つならば、風が塵や埃を吹き払うように、いかなる苦悩も吹き飛ばしていくことができる。
大聖人は、種々の大難も、「風の前の塵なるべし」(御書二三二ページ)と仰せである。
さらに、浄行は「浄」を表し、「水」の働きをなす。
これは、常に仏の清浄なる生命を涌現し、決して現実の汚濁に染まることなく、清らかな水のように、万物を清めていく働きである。
清らかな心には、豊かな感受性が宿り、感謝があり、感動がある。そこに美しき人間性の花が咲き薫るのだ。
安立行は、「楽」を表し、「地」の働きをなす。いわば安心立命の境地にも通じよう。
つまり、何があっても紛動されることなく、豊かな生命力をもって、人生を楽しみきっていける境涯ということである。
また、大地が草木を育むように、人びとを、支え守る働きといってよい。
法華経の会座において、末法の広宣流布を託されたのが地涌の菩薩である。
したがって、私たちは広宣流布の使命に生きる時、その本来の生命が現れ、四菩薩の四徳、四大が顕現されるのである。それによって、境涯革命、人間革命、宿命の転換がなされていくのだ。
一人ひとりが、凡夫の姿のままで自分を輝かせ、病苦や経済苦、人間関係の悩みなど、自身のかかえる一切の苦悩を克服し、正法の功力を実証していくことができるのである。
その実証を示すための宿業でもあるのだ。
ベートーベンは、こう叫びを放った。
「どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない。――おお、生命を千倍生きることはまったくすばらしい!」(注)
その道こそが、われらの信仰なのだ。
(19巻・宝塔)
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