烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

贖罪

2007-11-24 16:58:55 | 本:文学

 『贖罪』(イアン・マキューアン著、小山太一訳、新潮社刊)を読む。 
 この著者の作品は以前同社のクレスト・ブックスシリーズに収められている『アムステルダム』を読んだことがある。この作品はブッカー賞を受賞したとあったが読んでみてそれほどいい作品でもないなと感じていた。だからそのままになっていた。しかし何となく気になる作家であり、一作だけ読んでみただけで敬遠してしまうのもと思い、この本を手に取った。
 読んでみてまず感じたのは、かなり入念に作りこまれた作品だということだ。丹精をこめたというよりは、注意深く設計されたという印象であった。この作品はブッカー賞受賞を逃しているのだが、もしかするとそういう読後感が影響したのかもしれない。しかし読み応えは十分にあり、小説を読むことを堪能させてくれる。
 舞台は1935年のイギリスで第二次世界大戦前のきな臭さが漂いながらもまだ牧歌的な時間が流れている田舎から話は始まる。休暇で帰省してくる兄たちを迎える13歳の少女ブライオニー・タリスは自作の劇を書きその上演を計画している。その劇は演じられることなく、ブライオニーが一生をかけて償うことにある事件がその夜起こる。第一部はその事件が起こるまでの一日をそれぞれの登場人物の立場から描いていく。この部分は多少時間がかかるが人物関係を把握するために急いではいけない部分だ。第二部からは場面ががらりとかわり、ドイツ軍から追われ敗走する英軍の中にいるロビー・ターナーが描かれる。このあたりも徐・破・急の呼吸をうまく考えて構成されていると感じられる。
 思春期の少女が口にしてしまった罪深い証言の贖いというのが表のテーマでありこの筋を追っていくだけでも小説として十分楽しめるのだが、その奥には作家が小説という言説を紡ぎだすことで果たして「贖罪」をすることが可能なのかというより根本的な問いの伏流が流れている。マキューアンはこの小説の中の人物(ブライオニー)に贖罪の語りを書かせることによって、その可能性を問うている。メタ小説といえるこの作品の問い、作家は自分がそこに命を吹き込む小説と言う言説(作り事)を支配できるのかということについては物語の最後に問われ、そして答えられている。

 物事の結果すべてを決める絶対的権力を握った存在、つまり神でもある小説家は、いかにして贖罪を達成できるのだろうか? 小説家が訴えかけ、あるいは和解し、あるいは許してもらうことのできるような、より高き人間、より高き存在はない。小説家にとって、自己の外部には何もないのである。なぜなら、小説家とは、想像力のなかでみずからの限界と条件とを設定した人間なのだから。神が贖罪することがありえないのと同様、小説家にも贖罪はありえない-たとえ無神論者の小説家であっても。それは常に不可能な仕事だが、そのことが要でもあるのだ。試みることがすべてなのだ。

この自分に対する宣言ともいえるような結論は、実は冒頭にでてくるブライオニーの思考とつながっていたのだということを読者は知らされる。実に入念に設計された構造になっているのだ。

 ブライオニーは片手を上げて指を動かし、以前にも何度か考えたことだが、この物体、他のものをつかむための道具、腕の端にくっついた肉づきのいい蜘蛛のようなしろものは、いったいどうやって自分のものになったのだろう、どうやって思い通りに動かせるようになったのだろう、といぶかしんだ。それとも、これはこれで独自の小さな生命があるのか? ブライオニーは指を曲げ、また伸ばしてみた。謎なのは、これが動く直前の一瞬、動作と静止を分かつ切断の一瞬、自分の意思が実行に移される瞬間だった。その刹那をとらえられれば、自分というものの秘密、自分を真に動かしている部分を見きわめることができるかもしれないのだ。ブライオニーは人さし指を顔に近づけてじっと眺め、それを動かそうと念じた。指が動かなかったのは、自分が完全に真剣でないからであり、そしてまた、指を動かそうと念じること、動かす態勢になることが本当に指を動かすことと同じでないからでもあった。ついに指を曲げたときには、動きは指そのものから始まるようで、自分の精神のどの部分とも関わりがないように思えた。どの瞬間に指は動きを意識し、どの瞬間に自分は指を動かすことを意識するのだろう? 自己をつかまえる方法はなかった。動かす自分、動かされる指、というふたつしか意識はできなかった。そのあいだには縫い目も継ぎ目もないようだが、それでも、なめらかに連続した一枚のこの生地のうしろに本当の自分があって-それが魂というものだろうか?-ふりをするのをやめる決断を下し、最終的な命令を発していることはブライオニーにも分かっていた。