烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

アブダクション

2007-11-28 19:01:14 | 本:哲学

 『アブダクション 仮説と発見の論理』(米盛祐二著、勁草書房刊)を読む。
 科学的論理的思考の方法である演繹と帰納に加えて、パースがあげたアブダクションabductionという思考法がどのようなものであるかを分かりやすく説明した著作である。この思考法は難しく考えるまでもなく普段私たちが日常生活でも行っている思考法であり、典型的なのは推理小説で探偵が使う思考法である(ホームズがワトソン相手に披露している推理)。そこには前提から結論に至る際にある飛躍があることは確かであり、この部分のために科学的思考というのを厳格に考える人から見るとうさんくさいとされる。著者はその飛躍を肯定的に捉え、「仮説的飛躍」として科学的発見にとっては不可欠のものであるとしている。
 アブダクションでは、第一段階として考えている問題の現象について考えられうる説明を推測し可能な仮説を列挙する。ここでは洞察が必要になる。そして第二段階ではその複数の仮説のなかから最も蓋然性の高いと考えられる仮設を選ぶ推論を行う。仮説を選ぶ段階では、もっともらしさ、検証可能性、単純性、経済性を基準にして選ばれるという。
 パースはこうした思考法が人間に備わった「正しく推論する能力」だとし、これが進化的に適応して獲得した産物であるとする。限られた外部情報を短時間に処理し、有効な戦略を打ち出し生存していかねばらない個体にとっても上であげられた要素は重要であっただろう。ありうるもっともらしい仮説を優先的に検証するようにしない個体は容易に捕食者の餌食になってしまうだろうし、単純性を重んじるというのも検証や考察過程に時間がかかりすぎるようだと生き延びるのもおぼつかなくなる。確かにそれは生存するための思考能力として重要であるが、そうやって進化して獲得した人間の自然に対する洞察力が、自然の真実の姿と一致するというのも不思議な気がする。生物学的な生存戦略的思考という範囲で考えれば、精度の高い推論が外部環境の真実の姿と高い確率で一致するというのは不思議ではないが、生存に明らかに無関係であると考えられる数学や物理学的現象までもそうであるというのは不思議である。果たしてそれらは人間という存在と独立した真実というものなのかという疑問が生じてもおかしくはないと思うのだが、この著作から推し量るかぎりパースはそういう疑問は抱かなかったようだ。

 パースはアブダクションが帰納法と明らかに違う、より「いっそう強力な推論」であると述べている。それは「帰納の本質はある一群の事実から同種の他の一群の事実を推論するというところにあるが、これに対し、仮説はある一つの種類の事実から別の種類の事実を推論」し、「仮説的推論は非常にしばしば直接観察できない事実を推論する」からであるという。またパースは帰納と仮説(アブダクション)の間にある「ある重要な心理学的あるいはむしろ生理学的な相違」を指摘する。「仮説は思想の感覚的要素を生み出す、そして帰納は思想の習慣的要素を生み出す」という。ちょっとわかりにくい説明だが、彼自身の比喩によれば、「オーケストラの種々の楽器から発するさまざまの音が耳を打つと、その結果、楽器の音そのものとはまったく違うある種の音楽的情態が生じる。この情態は本質的に仮説的推論と同じ性格のものであり、すべての仮説的推論はこの種の情態の形成を含んでいる」のだそうだ。既知の要素の組み合わせからでも意外な局面が出現することを発見できるということが習慣的な知を生み出す帰納とは違うということなのであろう。
 後半でも統計的三段論法と発見的三段論法の相違について述べられ、後者が数学の発見的解法と関係していることを論じているのを読むとその比喩も分かるような気がする。