言葉のはたらきというものは魔術的なところがあり、ないものをあるものに仕立て上げてしまう力がある。古代の人はこの魔力が言葉そのものに宿っていると信じていた。確かに力強い言葉には力強さが、やさしい言葉にはやさしさがあるように感じてしまう。しかし同時にその言葉を伝える媒体も重要である。特に声という直接的な媒体は歴史的にみて非常に価値を置かれてきたし、このことに着目して哲学を構築した人もいる。書かれたものが声と比較すれば間接的であることは確かであるが、書かれるものがどういう形式を装うかによってもその間接性は異なってくる。現代では自筆の文字から活字、電子媒体などさまざまな形をまとって伝達される。自筆の文字というのは歴史的なもの、すなわち過去のものに近づこうとする場合には特に重要視される形式である。だから作家の自筆原稿というのはいつの時代でも重要視される。
これに対して電子メールは書いている人にとっては、手紙を書いているのと感覚的には近いが、実際はそれを発信するコンピュータのアドレス、経由するサーバの情報を含めた二進法的コードであり(というか、にすぎず)、コードは匿名的なものである。コードにすぎないものだからわざわざ署名などを考案しているのだが、その署名も二進法でコードされるのだからそれで問題は解決されない。
発信者が基本的に誰か分からない情報だから、これを適切に取捨選択することが要求される。この能力は、文字を読み書きする能力とは異なるからわざわざメディアリテラシーと呼ばれたりする。メールなどの文書は手紙とは異なるのだということをきちんと認識してもらうためである。しかしこれが分からない人も多く、AからBへというメールがあったというだけで、Aという人がBという人へ宛てた文書であるとなんら疑うことなく信じられてしまう。最近たった一件のメールだけで国会での論戦を挑んだ人がいた。この客観性に疑いを向けられた時に、情報収集能力に限りがあるから、客観性の確度が低くても意味があるというような反論がなされていたようだが、あれは情報収集能力ではなく情報解読能力に根本的な欠陥があったと見るべきであろう。
それにしてもこうした茶番が国政の場で堂々と論ぜられることには悲しむべきことであると同時に、もしこうした能力に欠けた人々が無邪気にあるいは故意に利用すると容易に(弱い)個人の人権を侵害する事態に至ることになる恐ろしさというものをもっと真剣に憂うべきであろう。公的権力をもつ人々のメディアリテラシーが向上しなければまた同様な事件は必ず繰り返される。