烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

グールド魚類画帖

2006-02-13 20:14:21 | 本:文学

 『グールド魚類画帖』(リチャード・フラナガン著、渡辺佐智江訳、白水社刊)という本を書店で見かけたとき、私は鳥類の博物画を描いたジョン・グールド(180141881)を真っ先に連想したので、あのグールドが魚類も描いていたっけと思いつつ本の巻末を開き、「グールドが英国リヴァプールで生まれたのは、一八○三年。」とあるのを読んで頷いたが、続いて「一八二七年、グールドは、ノーサンプトンで衣服を盗んだ罪で、ファン・ディーメンズ・ランドに七年間の流刑を言い渡される」とあるのを見てようやく勘違いに気づいた。このグールドは、確かに実在の人物であったが、タスマニア島に送られた囚人だった。彼は画才に秀でていたらしく、航海中に士官の肖像画を描いたり、植民地で外科医で素人博物学者であったジェームズ・スコット医師の命令で現地で採取された魚類の絵を描いたりしたそうだ。物語は囚人として彼がその島で過ごした話であるが、彼が残した「魚の本」を、シド・ハメットという男が偶然みつけるところから始まる。観光者相手に贋骨董品を売りつけている彼は、冒頭で「実のところ、旅行者たちが買っているのは、物語だったのだ。」と贋物作りよろしくこう割り切ったせりふを吐いているのだが、何を隠そうそうした物語を読者である私たちは買っているのだから、なんとも最初から人を食った話である。


 当時の西欧世界からは赤道をまたいで遠く離れた、まさに対蹠地点で繰り広げられる物語である。そこでランプリエール医師は、当時リンネを頂点とする博物学会に名を残そうという野望に溢れグールドに魚類の絵を描かせるのだが、他人に先をこされその望みを断たれるや、今度は進化の頂点に白人が位置することを証明すべく、現地人の頭蓋骨を収集する。現地人が猿に近く知性において白人より劣ることを示そうという彼の意図は、結局意外な展開で「証明」されことになるだが、それは実際に本を読んでのお楽しみである。
 
各章のはじめにはグールドが描いた魚の絵が色つきで掲載されている。原書は各章ごとに文字のインクの色が変えてあるという凝りようということだが、訳書では二色刷りである。買わない人のためには、グールドの絵がここで閲覧できます。


 この小説を楽しむためには、十八世紀当時の博物学に関する知識を持っておくほうがよいだろう。例えば、『大博物学時代』(荒俣宏著、工作舎刊)や『リンネの使徒たち』(西村三郎著、人文書院刊)などがお勧めである。


 彼は彼を支配する人間の欲望と権力には表向き従順に従うふりをしながら、魚類を描くことでそれらの欲望と権力から逃走する。最初は強制された厄介な仕事が、魚を向き合って絵を描いているうちに、「世界」に対する彼なりの愛の表現方法となる。その愛は、計り知れない痛みと悲しみを含んだ望みのない愛である。
 魚を描く時に、魚をゆっくりと殺しながら絞首刑を宣告されている彼は魚の解放の瞬間を夢見る。それは「虹の色が破裂して、硬い太陽がばらばらになって柔らかな雨と降るように生きたかったのに、安物の画用紙に薄汚い染みをつけることに甘んじなくてはならなかった」彼の生の悲しい夢である。私たちがさまざまな欲望を抱いて毎日生きているこの世界、言葉で作られているこの世界の中にはグールドの描く「魚」となるような救いはあるのだろうか。

 読了するまで数日かかったが、フラナガンが構築した小説の世界に入り、馴染むのにはやや努力が必要とされる。短い時間を読書にあてて小説世界に入って、また現実の世界に戻ってという往還運動は正直骨がおれた。できれば十分時間があるときにどっぷりとフラナガンの言葉の濃密な海に浸りきって一気に読むほうが適当かと思われた。



2 コメント

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なるほど (かわうそ亭)
2006-02-13 22:36:30
この本、気になっていたのですが、なるほどそういうものだったのですね。どうやら、わたし好みの本のようです。ご紹介どうもありがとうございました。今度、読んでみます。
言葉の海で泳いで (烏有亭)
2006-02-13 23:40:11
この作者の小説世界は本当に独特でした。歯ごたえがあるし、骨もあるし、噛めば噛むほど味もある魚料理。奇妙で猥雑な世界の中を苦闘しながら泳ぎきって海面に顔を出した時の読後感は何ともいえませんね。