烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

神と科学は共存できるか?

2007-12-17 23:52:45 | 本:自然科学

 『神と科学は共存できるか?』(スディーヴン・ジェイ・グールド著、狩野秀之、古谷圭一、新妻昭夫訳、日経BP社刊)を読む。
 グールドが師の3年前に上梓した本で、科学と宗教の関係という古くて新しい問題について論じた本である。この主題についてはグールドの仲間であり論敵でもあるドーキンスの『神は妄想である』がすぐ連想されるが、本書はドーキンスのそれが戦闘的なのと対照的に両者の分別ある共存を説いている。グールドはそれを

 敬意をもった非干渉-ふたつの、それぞれ人間の存在の中心的な側面を担う別個の主体のあいだの、密度の濃い対話を伴う非干渉-という中心原理を、「NOMA原理(Non-Overlapping Magisteria)」すなわち「非重複教導権の原理」という言葉で要約できるはずである

と信じている。宗教が自然科学の分野に余計な干渉をすることは、グールドの母国であるアメリカでは創造主義者という原理主義がはびこっていることからしても大きな問題である。日本では公教育の場でこんな馬鹿げたことが起きていないことはまことに喜ばしい限りだ。しかし同時にグールドは科学が宗教というよりは道徳へ干渉することに対しても批判をする。

NOMAはまた、両刃の剣でもある。科学のマジステリウムの枠内に適切におさまった事実に関する結論の性質に対し、宗教がもはやなにも命じられないのであれば、科学者たちもまた、世界の経験主義的な本質についていかにすぐれた知識を持っていようと、道徳的な真実について、より高次の洞察を主張することはできない。たがいに対するこの情報は、かくも多様な感情が渦巻く世界にとって重要で実際的な帰結をもたらす-すなわち、われわれはこの原理を受けいれやすくなるし、その帰結を楽しみやすくなるだろう。

この点がドーキンスと大きく異なる点である。なぜグールドは物分りのよさそうな態度をしつつ科学に対して上品に踏みとどまるよう諭すのであろうか。道徳や宗教心といったこれもきわめて「経験的」なことについて科学がその自然的基盤を明らかにしようとすることは何ら越権的なことだと非難されるようなことではないと思う。グールドはそんなことが進むとまるで私たちの「よき心」が科学に食い尽くされてしまうのではないかと危惧しているような印象をうける。しかしながら科学によりある現象の基盤が解明されることと現象自体がまさにそう経験されることは違うことであろう。両者に超えがたい違いがあるとすればその点だろうが、それはグールドがいうような同一の経験論的土俵に立った棲み分けとはレベルが違うことだと思う(経験から超越した形而上学での議論であれば、宗教はいくらでも羽を広げて羽ばたくことが許されよう)。人間の美的感情の自然的基盤が完全に解明されたとしても私たちは素直に自然の美を愛でるであろう。冷酷な犯罪者が同情という感情を持たない理由の科学的原因が解明されれば、私たちは神に対してその犯罪者を呪わしめるよう祈るのではなく、もっと素直にその犯罪者に同情し、彼に課する量刑をもっと冷静に決めることができるのではないだろうか。そして不合理な感情を慰撫することもできるようになるのではないだろうか。それはそれぞれの人が違う神を違うように崇めるような状態よりは、より冷静に客観的に話し合う土俵を作ってくれると思う。
 狂信的な宗教を排除しさえすれば、あるいは盲目的な科学を生み出さずにおきさえすれば、互いに平和に両者が共存できると主張することはたしかに美しいことであるが、宗教は狂信を内包するものであり、科学は盲目的に邁進するものであり、どちらも人間が生み出す行為であると認め、少しでも客観的に討論していける土俵作りに努力していくのが正しい方向だろうと思う。そしてその能力はおそらくは宗教ではなく科学にあるのだと思う。