Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2011年6月25日浅間神社 浅間山

2011-06-28 22:48:40 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

今回の旅でもう終わりだろうと思いながら、24日の最終便に乗り上京した。羽田から電車に乗るとみんな一斉にを手に取りメールを打ったり見ている。ペースメーカーを入れている母がいたらどんなに怖がる事だろうと思った。25日朝、5時半出発し、東京駅で乗り遅れる事も無く無事に佐久平駅までJ新幹線に乗り着いた。其処から登山口の天狗温泉山荘までレンタカーで走ったしった。

いつもの事ながら、二人ともほとんど寝ていない。駅レンタカーでモコを借りるとなんとおろし立ての新車だった。こんな事は初めて!

新幹線の駅周囲は最近道路も出来たみたいでゆったりして綺麗でその道だけでなく、海辺育ちの私には高原の町はすべて心地よく感じた。登山だけでなく、一泊して観光できるようにしなかったことを後悔した。

今時珍しい無舗装の道を走っていくと白樺林があった。事前の計画では軽井沢から車にしようと思っていたが、上高地で土砂崩れがあったのと、いつ豪雨に見舞われるかもしれないと思い、車で走る距離を最短にした。

 

佐久平駅に八時半前に着き、休息をとり出かけた。天狗温泉には1時間も掛かからず、10時前に着いた。今回、浅間山登山が目的でなく、火山館横の浅間神社に行く目的だったので湯平コースを登った。

橋を渡るまではなだらかで道幅も広く、楽だったが、二人とも膝を痛めているのでステッキやストックを突きながら転がっている沢山の黒い石を踏まないよう気をつけて歩かねばならなった。

一の鳥居を清め、くぐると山際に大きなイワクラがあった。そのイワクラも清めてノワタリさんが歌っておられる間、立っているだけで足の裏がジンジン、ビリビリとする。もうエネルギーが強くなっている。

其処から少し行くと、亀のような石とキツネのような石があり、沢沿いに細い道を登って行くと、けなげな木の枝が在った。

まるで岩を支えているように見えた。

不動の滝で近くまで下りて塩、水、御神酒を撒いた。先程のイワクラは予定外で水が一本しか残っていなかった。すると「ここで半分ですって。」とノワタリさんが言葉を受け取ったので500ミリのボトルの半分を残した。そこでノワタリさんは歌い、私はご真言をあげると「有難う。」の言葉を頂いた。其処から二の鳥居までは結構急な坂道になった。時折鶯や日暮の鳴き声と沢の水音が聞こえ優しい新緑の色と心地よいが、樹木の枝でさえぎられていた小雨が落ちてきた。

二の鳥居で清めたところで水はなくなった。其処からは森の中のジグザグの細い急な道を登った。森抜けると周囲の山の峰が見えてきたのでもう一息、もう一息と進むが火山館は見えない。山つつじが綺麗だった。其処ではカッコーの鳴き声も聞こえてきた。桜が散って日が経ってないらしく道に桜の花びらが沢山落ちていた。下山してきた30人くらいのグループと10人くらいのグループとすれ違った。いずれも年配者ばかり。尖った峯が左右に見える。浅間山の外輪山の一つらしい。

この石碑を続けて撮っていたら、いきなり画面の色が変り、上記の写真のようになった。カメラが壊れたと思い、消して取り直すと又普通に写ったが、この後ずっとそれは繰り返した。

 

やがてきつい硫黄の臭いがしてきて沢を覗くと赤茶色だった。周囲も火山灰のような砂地で時折、硫黄色の地面も見えた。もう私の足も限界だと思っていたら、火山館の屋根が見えて来た。

火山館に着くともう12時半近くになっていた。普通ならば2時間弱で登るらしいがあちらこちらでお清めしたのと、膝を痛めているので時間が掛かった。そこの前のテーブルで水を頂き、ノワタリさんからチョコや菓子を頂てしばらく休息してお仕事しようとしていたらまた、20人ぐらいのグループが下山してきたのでその人たちが立ち去るのを待った。その方達は朝6時に出発したそうだ。たぶん車坂峠から登られたのだろう。その間も又、足の裏はビリビリとしていた。そして山のお手洗いがこんなに綺麗だったのは初めてだ。管理人さんはとてもきちんとされているのだろう。そしてトイレットペーパー一つにしても運ばれる苦労を思った。途中、薪を積み上げてある所があり、「1つでも持って上がってもらえたら…」と書いてあったが其処は2の鳥居の少し上辺りだったので大変だろうと思った。

またそこでお清め様の水を頂きお社をお清めして岩長媛様にご挨拶した。そこでノワタリさんは「忙しくなる。」と言うお言葉を頂いた。

仕事が忙しくなるのか、また旅が忙しくなるのかは分からなかったが、一旦これが一区切りである事には違いないらしかった。

この変った色彩の写真は無修正である。ノワタリさんによるとこの場のエネルギーらしいが、に取り込んでからスライドショーを見てからまたまた、驚いた。上載の写真の空は日輪だろうか?

下山はガスが出てくると危ないので急いだ。しかし、膝が痛い私はとても辛い事を覚悟したが、ストックのおかげと石を踏まねば地面が柔らかだったのでどうにか下山できた。

しかし、先程の石碑を通り過ぎた地点でもぁ~と空気がした。まるで結界を出たみたいで全くそれまでと違うのを感じた。麓の浅間山荘に着くと午後3時でそこで遅い昼食に手打ちのおそばを頂き、大好きな温泉に入った。其処でも山で出会った人ばかりだった。その湯は赤褐色のお湯で本当に膝によさそうで温泉に浸かり足をマッサージしてから岐路についた。近ければ、再々通うのにと二人とも言った。秘境の秘湯と看板を目にしたが全くその通りの所で時間があれば泊まりたい。

残念ながら浅間山の姿を上でも下でも霧のため見ることは出来なかった。しかし、上まで登られた人も後で聞くと見えなかったらしい。

3月に予定通り登山していたら、私達には無理であったと思う。ストックもアイゼンも構えたが、今回膝痛で使うとは思わなかった。しかし、この足で登山できたのは守られていたからだと思う。まだ、私はビッコで右足を引きずりながら歩き、接骨院に通っている。

これは数年前から、足を痛めているノワタリさんに何処でも歩き回り配慮の無かった私への知らせもあるだろうと思う。何処へ行っても節電でエスカレーターが止まっていることが多かったが、お年寄りや故障のあるものにはとても辛い。今回、エレーベーターが有る所では私達は荷物も重いのでそれを利用した。駅の下りの長い階段はきつく、膝に負担をかけないよう歩いたら、転びそうにもなった。

7時半頃横浜に着き、叔母達と食事をしてノワタリさんとお別れした。翌日は、お昼にノワタリさん宅にお伺いして叔母と二人、ご神前でエネルギーを流していただいたが二人とも「新たなる出発」と言う言葉を頂いた。さて、どのような事が起こるのだろう。

ノワタリさんに羽田まで送っていただき、出発まであれこれとおしゃべりをした。登山するまでは、今回が最後だろうと二人とも思っていたがなんとなくそうでなさそうな気がしていた。

いつもならanaの最終便を使う事が多いのだが、往路が取れず、今回はJALで最終の一つ前だった。ANAの搭乗口は遠く、前回辛かったが、JALの搭乗口はとても近くB入り口の前で辛い足には助かった。これも神のなせる業かと思った。感謝しかない。


2009年6月お伊勢さんと松尾大社のイワクラ

2011-06-20 22:00:32 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

ノワタリさんの所に以前お参りした松尾大社でお接待をして頂いた女性から、御神体である裏山に入山出来るとのお手紙が届き、其処とお伊勢さんに行く事になった。4月に引き続き、横浜と大阪の叔母が参加、そして妹と姪、チエさんと知り合いのルミエさんの7人で行く事になった。

いつももごとく新大阪で合流し、7人乗れるエステマを借りた。前回で懲りた叔母達は私の運転を嫌い妹に任せたので楽だった。大阪の叔母の案内で名阪国道と伊勢自動車道を進み、伊雑宮からお参りした。

叔母達が参加するととても賑やかだ。家の家系は男はおとなしいが女は例外もあるが姦しい。そこでノワタリさんに気を入れていただく様にお頼みしていたヒスイのブレスを受け取り、其処でもお社の足元に置き気を頂いた。そこでご挨拶して倭姫神社へ向かう。

此処では黒服の一団とであった。何かの教団だろう。中心に女性がいた。その昔、ノワタリさんは倭姫様の側近だったので思いいれも強い。前回も姫様とお話をされていた。

昼近くなっていたがおかげ横町へ行くまで昼食はお預けで外宮へ向かった。

前回2006年1月にお参りした時http://blog.goo.ne.jp/husigi1019/e/33275bd0c8da2c8dfdbcb1eeb7e61fcbの写真はすべてノワタリさんの物だったのと、観光気分の叔母達との雰囲気の性だろうか今回の私の撮った写真はすべて神秘性の欠けらも無く明るい。

外宮をお参りした後もう、内宮近くのおはらい町で買い食いしながら、おかげ横丁の豚捨で遅い昼食を取る。もう3時であった。牛丼やコロッケを頂いた後で、内宮へお参りした。

残念ながら、宇治橋は掛け替えで私達は横の臨時の架橋を渡った。入り口付近にはちょうどこの時期だったので様々な色の花菖蒲が展示されて目を楽しませた。前回と同じようにお参りしていると、ふわぁと白い幕が上がり中が見え、一瞬だが御神酒の良い香りがした。ここでも先程の黒服の一団と出会った。

その後二見興玉神社をお参りし、夫婦岩周辺を歩いた後、その晩の宿の鳥羽の温泉ホテルでくつろいだ。ノワタリさんと初対面だったチエさんやルミエさんはエネルギーを流していただいたり、アドバイスを頂いたりしたが、隣の叔母達の部屋は賑やかだった。

2日目は買い物をした後、又妹の運転で京都へ向かった。

 

上記の写真は前回の2004年の物

高速を使い走るとお昼前に着いた。しかし叔母達の話が面白く、ずっと笑いっぱなしであった。しかし、家の親族の変人達の話であった。

境内ではフリーマッケットが開かれていて人が多かった。

お社をみんなでお参りした後、近くのおそばやさんで昼食を取り、叔母二人と姪は嵯峨野へ観光に行き、私達は裏山のイワクラへ向かった。

受付で登拝受付料を払い、お払いをうけ、小忌衣と案内書と登拝記録簿を貰い入山口の鳥居をくぐった。みんな手分けしてお清の御神酒や塩、水を持ち、滝の横を登り、だんだんきつく細い道なった。撮影禁止なので私は写真は撮っていない。途中平らな道になった所で京都の町が一望できる所があり見晴らし台でになっていた。そこで休憩し、かわらけ投げができるようになっていた。

その後いっそう険しくなり登っていると鳥居があったのでもう近いとみんな元気になった。片道20~30分だというが結構ある。この道は神職の方達が作られたと言う。

頂上近くの大きな壁のような岩がイワクラだった。その前は木が無く台座のような石が置いてあった。そこで私達はお清めして祈った。ノワタリさんは歌われていた。最後に私達の方へ向き、お言葉を頂いたと言われた。それは私達に楼をねぎらうお言葉だった。

下山した後、渡月橋の近くで叔母達を拾いお茶を飲む間も無く京都駅へ向かったが、道を一筋間違うと細い道になってしまい心細い思いをした。姪はちゃっかりと叔母に人力車に乗せてもらい、嵐山と嵯峨野一帯を観光して甘味処に寄り、土産を買っていた。叔母は私達皆にも土産を用意していてくれた。一切土産を買っていない私は大いに助かった。

京都駅で関東へ帰るノワタリさん達と別れ私達は伊丹空港へ走った。前回バスで足の臭いに苦しんだ妹も今回はだったのでずっと運転してもらった。そこで夕飯を取り、別れた。

 すっかり、忘れていたが広隆寺の阿弥陀如来像を見に行った。その時、如来様はこの時勢を嘆かれてそういうお言葉をノワタリさんに言われた。


2009年5月皇祖皇太神宮と国王神社

2011-06-18 22:19:20 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

5月の中旬、ノワタリさんと横浜の叔母と従兄弟と茨城へ出かけた。茨城の方は初めてだった。東京都内は渋滞していたが常磐自動車道は休日千円の影響も少なく、快適に進んだ。

まず最初に、竹内文書で有名な皇祖皇太神宮へ行った。ノワタリさんは私とであった年の年末、阿蘇から帰るとお参りされた。

到着すると、その文書の内容と比べると気が抜けるほど普通であった。拝殿の横にに鳥居があった。

歴史のある神社にもかかわらず、富山から遷されたからか、想像していたよりもこじんまりしていた。戦前、弾圧されていたからか?

しかし、境内のお社はすべて綺麗に掃除してあり、新しい榊が備えられていた。私達はご本殿からいつものごとくお清めしてご挨拶した。境内には洞窟があり、赤池白龍大神、天空主大神、五色商運大神の御三方の神様が祀られていた。

その後、平将門が祀られている国王神社へ向かった。

新緑に囲まれた参道の奥にお社はあった。拝殿には将門像の写真や絵が飾られていた。ノワタリさんは以前こちらで祈っていると、ノミを持って木彫りの像を彫っているのビジョンが現れたと言う。それは唯一助かった三女の姫で尼さんになられた如蔵尼でそれはノワタリさんの前世の一つで在る事が分かったと言う。

そういう事もあり、思い入れが強いらしくしばらく歌われご挨拶をされていた。拝殿の前に平将門公の事を分かりやすく書いた漫画あり、私達はそれを読んだ。とても地元民の為に尽くした方だったみたいだ。歴史の時間では将門の乱と習ったが、一族の揉め事が中央に近い者が権力を使って悪者扱いになっただけだ。この旅を続けている内に勝った者の都合の良いように歴史の本は書かれていると気付き、鵜呑みにする事が出来なくなった。たぶん、将門公は今でもこの地方を守られていると思った。

その足で、将門公の胴が埋葬されている延命寺へ行った。そこでノワタリさんは持参したお線香を供え、清めた後みんなで般若心経や光明真言を唱えた。ノワタリさんは感極まって「お父様」と言って涙を流され泣かれていた。

先日も行きたいと言われていたが行く事が出来ず、残念だったと改めて思う。亡くなられて1000年経とうが、人の思いは残る事を実感した。

その後、遅い昼食を取ろうと探すが、無い。そばやがあると思ったら閉店!結局、高速のサービスエリアで味気ない昼食になってしまった。

その日はそれで終わり、翌日の午後、ノワタリさん宅で従兄弟夫婦やハヤシさんと集まり、お鮨を取って頂き、みんなで談笑して最終便で帰った。


2009年4月大阪Ⅱ

2011-06-17 21:40:10 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

翌日の朝、叔母の家の御祓いと清めとなった。私達が休んだ真向かいの部屋は入ると息苦しく、ノワタリさんは「生きたまま埋められた男がいる」と言われた。其処は2階であるが家の向かい側は突然土地の高さが4,5階の高さになっている。たぶん此処も古墳だっただろうと思う。亡くなった主人に殉じて埋められた家来だったのだろうか。

ノワタリさんが歌っている間光ずっと明真言を上げた。なぜか声が男性のように低い声になっていた。其処が治まった後、その部屋の階下にある風呂場やトイレも祓った後盛り塩を置いた。家の周囲も清めた後、仁徳天皇陵へ出かけた。

 陵の前の公園で何か催し物があるらしく人は多かったが、御陵の方はぼつぼつと観光客がいるだけであった。此処はとても気持ちよい。

ノワタリさんが歌われてご挨拶した後、私達に振り返り「仁徳天皇がお姿を現され『この国の行く末を見守っている』と言われた」と言われた。仁徳天皇は色が白く面長なお顔の方であったという。

その後、御陵山古墳へ向かったが下調べしたはずの叔父が民家の立ち並ぶ細く曲がりくねった道に入って行った。あれ???大丈夫なのかしらんと思いながら付いて行った。しかも叔父は33ナンバーで細いにもかかわらずスピードは緩めない。

クランク続きの所で、車を擦り左側にあった車の飾りが外れて落ちた。その塀には沢山の傷跡があった。広い道へ出てから歩いてそれを取りに行ったが5分も経たないのに跡形も無く何も無かった。たぶん家人が再々あるのですぐに片付けたのだろうか。叔父の車は鋲の穴が横一列に開いたままになっていた。

そんな事もあったがどうにか御陵山古墳に着いた。お堀の前でノワタリさんは神事を始めたがなぜか中途半端な終わり方をされた。何があったかははっきり覚えていない。近くの駐車場に入りの方向転換をしようとしたら、運転ミスか?急に暴走し近くにあったに当てないようにハンドルを切ると後部座席で正座していた叔母達は前の背もたれに頭をぶつけ、わめいた。又、私の運転を嫌がる人間が増えた。

この古墳の主は不明であるが、どうも亡くなられ方が良くない。皇族には違いないらしいが殺されたみたいだと後で聞いた。

その後、羽曳野市内のアップダウンのある道を走り、お好み焼き屋さんへ行き、昼食を取った。叔母は食べきれないほど、具材の違うお好み焼きを注文した。確かに大阪のお好み焼きは美味しかったが食べ過ぎて苦しかった。

そして最後の天王寺公園へ電車で向かった。広い公園内を茶臼屋を探して歩いた。堀の向こうに小さな山があった。ここも古墳だった。

真田幸村の亡くなった所だという。其処を清め祝詞や般若心経と光明真言をあげ、ノワタリさんは歌われた。山を下ると六問銭の家紋と最後の経緯が書いてあった。私が子供の頃、まだ映画などで猿飛佐助や霧隠才蔵が大きながまの上に乗り、巻物を口にくわえ忍術を使う映画を見たことを思い出した。実際は多勢に無勢で奮闘し、疲れ休んでいた所を襲われ亡くなった書いてあったように思う。周囲にビルや堀の外に料亭などが見えるこの場所が激戦地だった形跡はそれを記した立看板しか見あたらなかった。

すべて終わると夕方になっていた。近くの近鉄デパートへ行き、みんなでお茶を飲み、私とノワタリさんと横浜の叔母は新大阪へ向かいそこでお別れした。妹は宮崎行きのバスに乗るというので出発まで梅田へ出た。後日、バスの話を聞いて吹きだしてしまった。

近くにとても足の臭い若い男のがいて、耐えれなかったと言う。

 

 

 


2009年4月大阪

2011-06-16 23:42:07 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

この旅から2009年に移る。その前に私は参加しなかったが、9月に5月の青森行きのの雑誌の中にあったその年サミットのある洞爺湖周辺とその中にある観音島と札幌の神社へ行かれた。この分を含めてノワタリさんは北海道の沿岸と離島、大雪山と行かれたが、一度も私は参加する事が無く、北海道とは縁がないらしい。

4月の初旬大阪の叔母からがあり、今となっては何を相談されたかも覚えていない。しかし、ノワタリさんに連絡している時にその町周辺は古墳が多い事を伝えた。「他にありませんか?行きたいと思いますから、調べてください。」と言われた。

驚いた事にその町に源義家の墓が在る事が分かった。源氏と言えば東国のイメージがあり以外だった。元々は河内源氏だと言う。京都に朝廷があったので考えてみれば、不思議ではない。

大阪の古墳の資料を送り、その中で行く所を幾つか決めた。しかし、ノワタリさんは「茶臼山」と言う地名が引っかかる。しかし、茶臼山古墳と出ていたのは「茨城市の大田茶臼山古墳で方向違いで行けれない」と伝えた。

数日して、真田幸村が鎧姿で現れたと言うので、調べてみると、無くなったのは天王寺公園内の茶臼山だった。それで其処へも行かなければならないと言われた。

4月25日関東から出てきたノワタリさんと横浜の叔母、宮崎からやってきた妹と新大阪で合流し、叔父が迎えに来た。みんなが一緒に乗れるを借りるように頼んでいたのに、聞かず大阪の叔母はちゃっかりしているので友人のとマイカーにしてしまい2台で分散する事になった。

まず最初に橿原神宮へご挨拶から始まった。私の運転するには二人の叔母が乗り込み、にぎやかっだった。昭和12年生まれの横浜の叔母は幼稚園で習ったと言う「神武天皇は悪者共を退治しに~。」との中で歌ったが、それから先が無い。「それから先は?」と尋ねると覚えていないと言う。そして「小学校へ上がったら教壇の上に飾られている昭和天皇と香淳皇后のお写真に毎朝お辞儀をしてね。」と言った。

応神天皇陵

そして誉田山古墳応神天皇陵へ行った。堀の前でお清めしてノワタリさんは歌われた。其処は綺麗に手入れされ、気持ちが良かった。面積では2位だが、体積では1位だと言う。御陵の大きさはその天皇の権力の強さだろうか。

 

その後、応神天皇の后である仲津姫陵へ行ったが入り口脇にはすぐ民家がある。たぶん其処も元々は陵内ではなかろうかと思った。しかし、周辺を見回せばアップダウンがありノワタリさんはその辺も御付の人の身分の高い人の古墳だと言われた。古墳内に家を建てている人に影響はないのだろうかと気になった。その後、応神天皇の親である仲哀天皇陵へ御陵へ行ったが、それまでの気持ちよさは感じられなかった。此処も近くまで民家が迫っていた。

その後ヤマトタケル命の白鳥陵へお参りした。ノワタリさんは結構長く歌われた。歌声の明るさでで其処の埋葬者の様子が分かる。

どこも叔母の家から近く叔父は「散歩コース」だと言っていた。この町は古墳の中に暮らしていると思った。たぶん、天皇家の古墳は保存されていても、豪族などの小さな古墳は造成され宅地化したのだろう。

 

それからしばらく走り源義家の墓へ向かった。叔父は下見しており、手際良く案内してくれ、麓の畑の入り口に停車して細い山道を上がった。其処はとても寂しいところだった。義家の墓は一際大きかったがその近くに一族の物だろうか墓がいくつもあった。義家の墓の周りをお清召して周り、私達は祝詞や般若心経をあげノワタリは歌われた。そのまま奥の方へ進んで行くとブドウ畑の前に悪法で有名な生類哀れみの令を進言した隆光僧正の墓があった。とても暗く薄気味悪い。

ノワタリさんは「もう300年以上経っているのに人の恨みがすごくて暗いところで苦しんでるからあまり、近づかない方がいいわよ。」と言われ、私達は走ってその場を離れた。それから、河内源氏の菩提寺へ行き、お参りしたが、もう4時を過ぎており、お墓へ行くには適した時間ではない。案の定私一人、ぽつんと系図版を見ていると、「危ない!」と言われ、ノワタリさんに背中を叩かれた。

私に憑こうとしていたらしい。ここでその日は終わり、叔母の案内で夕食でかけると、25年前まで前の家に住んでいた遠縁のセイコちゃんや子供の頃しか会った事が無い従姉妹夫婦と一緒になった。わいわいと盛り上がったが、セイコちゃんの顔は激変して面影は無く、無くなったおばあさんの顔になっていた。おまけに乳がんの後遺症で腕はリンパがたまり太もものような大きさだった。妹と1歳違いだったので仲良くしていたのに妹を避け、様子がおかしい。

おばの家に帰宅した後、ノワタリさんがセイコちゃんの家を霊視したり、心配しておかあさんが持たせた沢山のお守りを効く物とそうでない物をより分け、エネルギーを流してから帰らせた。しかし、婚家の墓も仏壇もほったらかしなので根本的には改善されない。

そう言うことで私達は遅くまでおしゃべりをして過ごした。