Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

春節の北京 Ⅳ

2010-02-26 21:38:34 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

北京最後の朝は前日と打って変わり暖かくお天気が良く万里の長城に行くには最適の日だった。8時にチェックアウトしてガイドの陳さんが迎えに来た車に乗り込んだ。車はドイツ車のセダン型だったが、メーターを見ると30万キロを越えた年季の入った物だった。

高速道路を1時間くらい走ると燕山山脈に近づいてきた。陳さんは「燕山山脈は木のない岩山」と言った。その通り、麓の農地も荒れた痩せた土地のように見えた。何が出来るのか尋ねると、陳さんは「小麦...柿も出来ます。」と言った後、「北京に出稼ぎに出てます。」と言った。そして、万里の長城は人海戦術で造られたが、数年で亡くなる人が多く、長城の内側に埋められたと言った。

私達は標高1015mの所にある八達嶺長城に着いた。入り口から傾斜の緩やかな北側の女坂を登った。「北四楼まで上がれば良い」と言っていたが其処から1時間以上掛かると思っていた一番高い八楼までそう時間が掛からなかった。其処にはロープウエイもあった。

背中にカイロを2つ貼り歩いたが、マスクからもれる息で眼鏡が曇り、足元の段差が一定ではなく危ないので、マスクを外した。しかし、眼鏡の曇りは消えない。驚いた事に、眼鏡は薄く凍っていた。水を飲もうとしたら、ペットボトルの水も凍っていた。初めての体験であるこんな寒さは!長城からぼんやり見える外側もずっと平原が続き、大陸の圧倒的な広さを感じた。夏は夜間でも入場出来ると言う事で、ライトがところどころに設置されていた。

しかし、降りる頃には登ってくる人が多く、楼の出入り口は2つしかないのに両方から入り「前走」と言いながら押してきてもみくちゃになりながら歩いた。狭い楼の中で写真を撮るのにモデルの様にポーズを取って、通行を止めている人たちを数人見かけた。これもお国振りか

11時に待ち合わせで、入り口の広場で陳さんに会うと、「日本からの観光客が少ない」とぼやいた。「オリンピックは多かったでしょ。上海万博には又多いですよ。」と言うと「私には関係ない...最近は大型のツアーが無い」とこぼしていた。

案内された休息室はみやげ物店で「おねえーさん、おねえーさん見て」とヒスイや水晶を勧められた。ノワタリさんはカシミヤのショールを購入し、ハヤシさんは其処で頂いたお茶が美味しかったと言ってお茶を買った。一つ気になる名前は忘れたが、暗いところで光る黄緑色の水晶を手にした。ノワタリさんは「何もないいい石よ」と言ったが5万円だと言う。「お金が無い」と言うと3万円になり、1万円だと言う猫目石を持ってきた。迷ったが、天然石は今必要が無いので止めた。

 その後、飲茶の昼食に行ったが、七宝焼きの工房の隣に土産物とレストランがある所だった。数台の観光バスが止まっていた。私達が入れなかった紫禁城の玉座の実寸大の写真のある現代の名工の作品が展示されている室内に入った途端、足からもの背中にかけ、すごい寒気が走った。2個カイロを付けている事を忘れるくらいだった。この場所に何があったのだろうか

案内された二階のレストランは日が射し暖かく、テーブルに着くとフカひれとアワビのスープを勧められた。100元だと言う。日本の事を考えたら、確かに安い。

しかし、朝食を沢山食べている私達は小腹が空いた位なので断った。それは後運ばれてきた物を見ると正解だった。蒸篭でなく、プラスチックの一人前ぐらいの小皿に生暖かく、パサパサで汁も出ない小ロンポウ4個か5個、同じような餃子、味の無いおかゆ、腰の無いきしめんの様な焼きそば、後肉料理が2皿、ゴマ団子、いったい1人前だったら、小ロンポウや餃子は何個なんだろう。これで一人100元。それだけ出すと、食事中にもかかわらず、支払いを請求してきた。一番美味しかったのはテーブルに置いてあった揚げたピーナッツとハヤシさんが、ぼやいた。ノワタリさんは陳さんの勧める紹興酒を其処で買った。箸も進まず、残して席を立つと、どのテーブルも食べ残しの山であった。

大体食事の時間は1時間だと言うが、30分も掛からず、早目に、飛行場に向かった。

出発ロビーには、喫茶もレストランも無く、テイクアウトのコーヒーショップがあったが、外国線だというのに、中国語しか通じない。おまけに紙コップなのに割高で、日本円で500円近くした。

飛行機に乗り込み、日本流の細やかなサービスに触れた時、ANAで良かったと実感した。ノワタリさんは4月にインドに行く予定だが、インドの女神様が現れているらしく、もうその旅の事を計画していた。

羽田に降りた時、雨が降っていたが、マスク無しでやっと大きく深呼吸をした。

ブランドのペンダントや時計、バッグを持った20歳代の女の子を見た時、「あっ、日本だ」と改めて実感した。周りの人の顔も微妙に違い、安堵した。すべての手続きを終え、開いているファーストフードの店でコーラやお茶を飲んでお別れした。

2泊3日の短い旅だったが、北京では、若い20歳前後の衛兵と働いている人が目に付いた。立派な建物と道路、富国強兵という言葉が浮かんだ。日本の化粧品の売り場も目にしたが、私達が目にしたのはほとんどすっぴんで高価な装飾品を身にまとっている人には会わなかった。ただ一人、ネイルアートをして、きれいに化粧している若い女性を地下鉄で見かけたくらいだ。マスコミで言われている超お金持ちは1週間も休みがあるので、どこか外国にでも行っているのだろうか

いつも思うことだが、もっと語学が出来れば、楽しく現地の人とコミュニケーション出来ただろう。しかし、ホテルを出ると中国語しか通じなかった。行くまでは躊躇したが、すべてがものめずらしく楽しかった。

 この旅の一番参考になったのはおののいもさん著てくてく北京で、旅にでなくても楽しめる本だと思う。有難うございました。


春節の北京 Ⅲ

2010-02-24 19:29:28 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

祈年殿

駅を間違えた為、崇文門から1時間位私達は歩いた。街が大きいからか通りも長く広かった。やっと祈年殿の屋根は見えてきたが、歩けども歩けども辿りつかなかった。おまけに北門の周辺は再開発地区らしく、道の両側の建物も古く住んでいる人がいるのかどうか分らないくらいで、築50年くらいの5、6階建てのアパートと塀の中の古い家屋(フートン?)は壊しかけの所が多く、住んでいる人も少なく、ショッピングセンター も閉鎖されていて、寂しく埃っぽかった。時折、花火や爆竹の音が中から聞こえていた。

また、閉まっていたらどうしようと危惧していたが、開いていた。北門から入ると、壁や木々にお正月の飾りがしてあった。ノワタリさんは「神社と同じようなエネルギーが流れているわ。」と呟き、左に行こうとした私に「右です。」と言った。

祈年殿は清の皇帝が五穀豊穣を祈った所だと言う。ここも地方からの人が多く、祈年殿の中を覗こうとしたら、ニンニクの匂いの息がきつく諦めた。公園内は大変広く故宮博物院の4倍だそうだが、先に歩きすぎて疲れていた。その後、公園内のお手洗いに行ったが、多くの人と鍵の閉らないトイレに面食らった。出ると、1週間前の残雪の上に靴底をこすり、汚れを落とした。

直接神に祈ったという圜丘の天心石は多くの人でいっぱいで上がる事は出来なかった。

南門から出てタクシーで昨日「没座」と断られた王府井のレストランに行った。ガイドブックに魚料理などが載っていたので肉を食べないハヤシさんには良いだろうと思ったが、メニューは1品でお正月料理の?羊のしゃぶしゃぶしかなく、みんな鍋をかこんでいた。朝、ホテルのレストランで目いっぱい食べていた私には重過ぎる。3人分頼んだ事を私達は後悔した。肉の串焼き、ゴマ餅、しゃぶしゃぶには肉が4皿、野菜、えび、春雨、豆腐、麺、真冬なのにスイカ、にんにくの丸煮...どうりでみんなの息が臭ったはずだ。

腹を決めて、肉は食べないハヤシさんも張り切って食べたが、真っ先に私がギブアップした。肉はやはり半皿残った。ここのお手洗いも、先に入った人たちはドアを半開きで用を足していた。鍵が壊れているのかと心配したが壊れていない。年配者は戸を閉める習慣が無いのだろうか。

北京の地下鉄は各車両に14インチくらいのモニター画面が出入り口近くにあり、日本でも顔なじみのジャッキー.チェンの映画やビビアン.スーの映画の宣伝を流しており、退屈しなかった。立っていると、前に座っている伯父さんは、席が空いたのを教えてくれた。お礼を言って座ろうとしたらもう他の人に座られてしまった。その伯父さんは「座れなかったからお礼はいいよ」とニコニコ笑って言ったが、また、空くと教えてくれた。駅に着くと、今風のパープルに染めた頭の男の子が二人やって来た。

ノワタリさんは始皇帝に縁のある処に行かねばならないという。ホテルに帰り、ガイドブックを調べる事にしたが、探してもそれは無い。万里の長城に次の日の午前中に行く事にした。北京に近い万里の長城は明の時代のものであるが、これを最初に造ったのは始皇帝であるからだろう。

早速、ガイドの陳さんに連絡を取った。電話の向こうの彼女はオフモードで沈んだ声で出てきたが、万里の長城の手配とマッサージの依頼をすると俄然声は活気付き、料金と時間を連絡してきた。車付き、昼食なしで日本円で一人¥8,000だという。ガイドブックで調べるとまあ妥当なところか。彼女のその後の段取りの良かった事、コンセルジュにモーニングコールまで頼んでいた。

夕方の1時間半、私達は全身と足のマッサージをしてもらった。国柄の違いかマッサージ嬢達は足に移る頃には解らないと思って勝手におしゃべりをし、うとうとしていたのが目覚めてしまった。その夜は早く休むつもりが、またまた、爆竹こそ無かったものの、花火の音が夜半まで続き、眠れなかった。

 

 

 


春節の北京Ⅱ

2010-02-22 23:27:31 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

ホテルのレストランの飾り

私達は朝8時過ぎにホテルを出発し、天安門広場にある毛主席記念堂Ⅱ地下鉄で向かった。重く暗い空、松、ヒマラヤ杉などを見かけたが、大気汚染で木が弱っているのか、汚れなのか全体に紗がかかったような色で、年がら年中みかんの青々とした緑に囲まれている私には、生気を感じなかった。

ホテルが金融街に在る為、近くにも衛兵が立っていた。昨晩の爆竹や花火の残骸は大きなものだけ片付けられ、歩道の隅の植え込みの中に掃きこまれていた。この清掃作業だけ、おじいさんが作業していた。後は何処でも働いているのは20歳前後の若い人が目に付いた。

昨日地下鉄駅の前の歩道橋の上に小さな子供を連れた女の物乞いがいた。毛布の中から小さく黒ずんだ手が見えていた。まだ、人民元を使っていなかったので100元しかない。どうしようかと迷ったが、見ているのもつらく、目をそらして足早に通り過ぎた。しかし、私が昨日通った駅への道は遠回りで、ハヤシさんが近くの入り口を見つけ、その物乞いの親子には会う事はなかった。帰国してからも、なぜ出さなかったのか引っかかった。不思議な国である共産主義なのに乞食がいる。

地下鉄の入場口には必ず、新型インフルエンザを気にして、消毒機としてあったが持ち物を空港にある機内持ち込みの手荷物を検査するようなベルトコンベアに載せ、検査なのか消毒なのか解らないが、通さなければならなかった。うっかり通り過ぎようとすると、きつい声で係員の20歳前後の3,4人の男女に注意された。 

天安門広場に入ろうとすると、又、手荷物検査である。テントの中に入り、ベルトコンベアにバッグを載せた。出てきたので取ろうとすると、今度は開けろと言う。「白い粉も武器も火薬ももってないわい。」と言いたかったが、言葉が解らない。むっとしながら、「ほいしゃ!」と勢いよく両手で真ん中を広げ、底まで見えるように大きく開けた。中に手を入れ、一つ一つ、調べるかと思いきや、気の抜けた声で「バイバイ」と言う。後ろにいた二人は何も言われなかった。後で自分の姿に気付いた。ニット帽を深く被り、めがねとマスク、不審に思われたらしい。

広場は風が強く吹きさらしで寒く、不織布マスクはすぐに息が水になりベタベタになった。衛兵達が行進している姿も見られた。日中戦争の慰霊碑もあり、そこに居るのが場違いで複雑な思いがしたので、「何で私がここに来ないといけないのよ~」とぼやくと、ノワタリさんは「(日中戦争の事を)知る義務がある。」と言うメッセージを受け取り、私に言った。

毛主席記念堂

意気込んで行った毛主席の遺体が水晶で作られた棺に安置されていると言う毛主席記念堂はお正月で15日まで休館、衛兵が建物の前と柵の前にも衛兵が居た。

仕方なく、柵の前でノワタリさんはテレパシーで交信し、この場に立てた事のお礼を言い、不幸な日中戦争を詫び、平和を祈った。

天安門の内側

紫禁城

その後、天安門の中に入り紫禁城に向かった。天安門のお堀は真っ白に凍っていた。黒や赤だけでなく、ブルー、グリン、ピンク、パープル、イエローとカラフルな色のダウンコートが目に付いた。昨日のガイドさんが言ったように今日は地元の北京っ子でなく地方からの見物客が多いらしい。若い女の子も化粧をした人に出会わず、ほとんどすっぴんの人ばかりだった。ラストエンペラーの映画を想像しながら歩いたが、紫禁城も休み、中山公園も休み、日本だって正月は休んでいる所が多いから当たり前かと諦めた。毛沢東さんもえらい日に呼んでくれたものだ。残念!

翌日行く予定だった天壇公園に行く事にした。ここも開いていれば良いが...と思った。


春節の北京 Ⅰ

2010-02-21 00:11:26 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

昨年の11月、ノワタリさんが「毛沢東がニコニコ笑って出てきたんですよう。行かないといけませんね~。」と連絡が来た。でも気が進まない。

「いつですか?」

「来年の2月、2月14日に天安門広場に行くみたいです。」と言う。

考えてみれば、旧正月である。中国は旧正月を賑やかにお祝いする風習がある。

北京の夕暮れ

12月中に2泊3日のフリーパックを探し、準備をした。前回のイタリーの失敗もあり、ホテルだけは5つ星にした。

両親に伝えると、父は「中国に神社があるか?」と言い、母は「共産国で恐ろしいから、何かあるといけない」と二人は口々に反対したが、「ノワタリさんが行かれるのだから」と2,3日後に了承を得た。

しかし、今年の1月の北京の最低気温は―20度くらいと耳にしたので、マイナスの気温をほとんど体感した事がないの私は着る物から迷った。母は「着る事も無いから着てちょうだい」と言って、ミンクのコートをたんすの奥から出して来た。

暖かそうだがそんな物を着ていたら物取りに襲われそうだからといって断った。昔見たハリウッド映画で毛皮のコートを着ていたおばさんのコートの先から、いっせいにミンクの頭が出てきて口を開けて威嚇したのを思い出し、毛皮は着る気がしない。

結局、ネットの地球の歩き方を参考にして、ダウンコートと毛糸の帽子、マフラー、ブーツが良いというので、寒気が伝わりにくいだろうと思い、数年履いていなかった厚底の靴を履いていくことにした。これが後問題を起こした。

先週の金曜の最終便で羽田に発ち、翌、羽田発の午前便で北京に行く予定だった。

地元の空港に着いた時、何故か左足だけが傾いている。歩き方が悪いのかとも思ったが、フニャフニャとした感覚である。永い間しまいぱなしにしていた靴の底はウレタン製で裂け目が走り、中が白く見えてきていた。ノワタリさんとハヤシさんに連絡を取り、買ってきてもらおうと思ったが連絡が付かなかった。仕方が無いので出来るだけ無駄な歩きは止め、やっとの事で羽田のホテルに着いたが、それが限界で部屋へ案内される途中、ポロポロと靴底は剥がれて足跡のように続いて落ちていった。(恥ずかしいので当然、目を盗んで拾った)空港内のホテルにして良かったと思ったが、旅の始まりがこれでは先が思いやられた。

ハヤシさんに靴を持ってきて頂き、出発した。は空いていた。考えてみれば、中国の企業は1週間休みだし、故郷で春節を迎える人は大方帰国しているだろう。

を一歩出た途端、まだ外に出ていないのに煤煙の匂いが強烈に襲ってきた。空港は閑散として人がいないのにとても広く大きい。世界一だそうだ。他の国よりも入国の審査は厳しく、中々順番は来なかった。ロビーを出ると送迎のは来ていたが、他のツアー客は無く私たち3人だけだった。案内人は30歳代の女性だった。郊外は高層ビルが建設中でガイドは坪120万円だとため息を付くように言った、それとドイツ車が目に付いた。

の中で、水晶の印鑑を勧められたり、万里の長城のオプショナルツアーの勧誘があったが、私達は寒いからと断り、交通手段は地下鉄とタクシーを使うと言って全て断った。別れ際に何かあったら連絡するからと言って番号を貰った。

ホテルは5つ星だと言うことで安心していたが、ベッドだけ3つ入れてあったが、後のアメニティグッズも備品もよほど水質が悪いらしく歯磨き用のミネラルウオーターも全て2つしか用意されておらず、それをフロントに連絡しようとしたが番号が見つからず、直ぐ外出する予定がもたついた。ちょうど隣の部屋の前に係員がいたので連絡をしてもらい、彼女の指示ですべて用意してもらった。片言の中国語で少し話したら、今年の干支の寅のぬいぐるみを貰った。後で落ち着いてみたら、にコンセルジュの直通番号が小さく表示されていた。

天壇公園に行こうとしたら、休みだとドアボーイに言われたので、天安門に行く事にした。近くの地下鉄駅を教えてもらって出かけた。夕暮れの天安門と、王府井に出かけた。

王府井付近

大晦日で休んでいるレストランが多く、ガイドブックにあった所も満席で断られ、東方新天地というショッピングモールの地下のレストラン街の中の入り口に3.4人の若く綺麗な案内嬢が並んでいる上海料理の店で夕飯を頂いた。そこも満席で10分余り待ったが、お茶のサービスもあり店も広くきれいで多くの従業員がいた。中国野菜の料理、野菜の餡の餃子や肉餃子など5皿ほどとお茶を1ポットを注文した。薄味で美味しく一人日本円で1300位で安かったが、チャーハンだけは香料の匂いで私は食べれなかった。

帰りは花火や爆竹が通りのあちこちで打ち上げられ、火薬の匂いの中を避けながホテルの窓から

(驚いた事に、この白いのはレースのカーテンでなく、窓の外の汚れ)

ら歩いた。路上には花火の空筒があちこちに転がっており、爆竹のカスも散乱していた。人事ながら、誰が片付けるのだろうと思った。

その晩は、花火大会のように空高く大輪の花火が上がると言うのではなく、13階窓から見下ろすような感じで、誰が上げるのかあちこちに移動しながら一度に6,7箇所から花火が上がっていた。ものめずらしいのも綺麗なのも始の20分ぐらいで、うるささは半端でなく、花火と爆竹の音はすざましく、カーテンを閉めていると、まるでパレスチナの紛争地域か、戦地の最前線にいるみたいでひっきりなしにドーンドーン、ヒュルヒュル、ヒューンヒューン、パチパチパチと乾いた音がした。

夜が更けるにしたがって爆音は大きくなり、真夜中過ぎまで続いた。カーテンを開けるとよほど近くであげてるらしく、火薬の匂いが部屋中に漂ってきて なかなか寝付けなかった。


負の連鎖

2010-02-11 11:53:45 | 日々のつぶやき

先日書いた残留波動で不幸の続く友人に偶然図書館で出合った。

開口一番に「年賀状、有難う。ごめんね出さなくて、それどころじゃなかったもので」と彼女は言った。

「もしかして、誰か亡くなられたの?」「そうなの」と言って目を伏せた。

彼女が頼りにしてい妹さんかと尋ねたら、「妹じゃないのよ。」と言われたので少し安堵したが、後他にとても落ち込むとしたら...。そうするうちに、互いの知り合いがやって来て3人で私の家で2時間程、おしゃべりして別れた。その間中、手元にあったセージの葉をいぶしていた。

夜、気になって彼女に連絡を取った。「若しかして、息子さん?」と尋ねると、「そうなの。心臓麻痺で」と言われた。絶句して返す言葉も無かった。家を手放す原因になったのはその息子さんなのだが、その時飛び出したので一緒に暮らしてはいなかった。何処まで、負の連鎖は続くのだろう。

翌日、夜お参りに行こうと思い、お線香を買った。しかし、風邪を引いたらしく鼻水がだらだらと流れ、気分が悪くなってしまった。薬を飲んでも、背中にホッカイロを貼ってもぜんぜん効かない。その日は諦め、早く横になったが、眠れない。

翌朝、風邪の症状は嘘のように全く無くなったが、背中が重い!又来たみたいと思い、ノワタリさんに連絡を取った。やはり憑けていた。成仏されていないのだろう。だけなのに...情けない。

「近くの家に引越していたら挽回できたのにね。」と言われた。「どうしてこんなに不幸が続くの?」とお尋ねした。「今世で収めないと、来世はその続きで断ち切るまで続く」と言われた。今週末、又北京に行く。帰るまでは動かないに言われた。風邪を引いたのは足止めされていたのだろうかと思う。