Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2007年6月大三島

2011-02-11 19:58:05 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

翌日の日曜は早起きして体を浄めて6時前に大山祇神社に向かった。境内には誰もいない境内の木々はとても綺麗ですがすがしく樹齢2600年とか3000年とか言われる楠木と朝日が気持ち良い。

奥の院

境内を出て奥に向かっていると奥の院の表示があるのをウチダさんが見つけた。放置されたみかん畑の奥にあった。上記の写真の木の根元の穴が入り口で、樹齢300年と言う。生樹のご門と言う名前だった。

お参りして、境内に帰ると、お掃除をされていたが、早朝の空気とは明らかに違っていた。出来るならば神社は早朝に行くのが良いと実感した。

宿で朝食をとり、一休みしてから、ユリの花束をもって、鶴姫様の像と磐長姫様の祀られている阿奈波神社にお参りに出かけた。

昨晩は家々の前に石灯籠に灯が灯り綺麗であったが、昼間のとおり沿いの商店はほとんど閉まっているか更地になり、寂しいものだった。フェリー乗り場から続く表参道であったのが、フェリーは無くなり、神社の付近には大きな観光施設が出来て、この通りを他所から来た人間には分かりにくくなっていた。その時はまだ、高速2千円とか一部無料とかは無かったが、便利になりすぎて日帰りの参拝者が大方である。四国に橋が3本もは必要ないと思うし、生活道路となっている人意外は必要ないと思う。乗らない人には不公平だ。おまけに便利だったフェリーも倒産したり、廃業が続いていて失業者が増え、田舎がだんだん寂れてきてしまった。万が一の事で橋が使えなくなった場合も容易に構えられないだろうと思う。

鶴姫様は海の中で大山祇神社と町を見守るように居られた。花束を海にささげ、いつものごとくお浄めしてノワタリさんは歌われ、わたし達は般若心経や光明真言を唱えた。その先に阿奈波神社があったがどちらもとても寂しい。長命富貴の神様だというが山陰で暗く感じた。その後、大三島に行く度、その二人のお姫様の所にも足を運ぶようになった。

その後、島を出て松山に向かった。途中の玉川湖も石手川ダムは水量が少なく、干上がりそうだった。道後温泉近くに着いたのはもうお昼、うどん屋さんで昼食を頂くが、もう運転する事がなくなった男性二人はお昼からとなった。

ノワタリさんのご好意で30年間頭を悩ましてきた元墓の処理をして頂くようになり、そこまで言ってくださると言う。男性二人はその間道後温泉に行き、その後地酒のアンテナショップで酒を買う予定だと言う。

私は松山から、業者に連絡を取り、お墓山の麓で待ち合わせするようにした。

いつもの粗塩、御神酒、水の他、お線香とシキビを途中で買い求め、お墓に行った。

うちの元墓をご覧になられたノワタリさんは「こりゃ、うらまれるわ。」と言われた。父も母ももう上がる事が数年前から出来なくなっていた険しい獣道である。子孫に残すとうらまれると言う。

近くには無縁さんになった墓と放置されたみかん畑と雑木林が在るだけだが、眺めだけは良い。そこで動くのが嫌だと言われていたご先祖がノワタリさんに従ったので、墓石から御魂抜きをした。そして6月の内にその墓石をすべて土の中に収めるように言われた。そのやり方を私と業者さんに言われた。その時は遠隔でされると言う。有り難い事であった。

ほとんどの石は古く、明治以前の物なのでそう大きくない。中にはお地蔵さんのような物や自然の石の物もあるが、2段になり数は多い。下山途中、野生のびわがたわわに実っていた。この辺ではあちらこちらになっており、別段私には珍しくない。ノワタリさんは数個もいで食べると、「わぁ~甘い、美味しい。」と喜んだ。下に下りてJAの前を通ると「枇杷詰め放題300円」と大きく書いたダンボールを見てわたし達は駆け込んだ。S玉の枇杷を袋に詰め込んだが、その倍くらいを最終日らしくサービスで入れてもらい、それが土産になった。製品よりもみかんにしても甘味が強く、美味しい。

松山に戻る途中、野生の枇杷を見つける度、ノワタリさんは「あ!枇杷」「阿!枇杷」と喜んだ。

後の二人に連絡を取ったが、中々やって来ない。その年、路上駐車の取り締まりが厳しくなり、乗っていても時間が長くなると注意され、ヒヤヒヤした。自分達は電車で行くと言う二人を間に合わないからと強引に説き伏せ、思い思いの地酒を持ってやってきた時は出来上がっていた。そして空港でも他には無いと言って栗焼酎を買った。

そこで夕飯に地元料理のさつまとか、地元のお肉料理を食べ、支払いをしたら、4人分経費として預かっていた残額とぴったり同じ金額で0になった。こんな事初めてなので驚いた。

彼らは羽田へ 私は又一人でボツボツ帰宅した。父一人だったのでどうしてるかと心配になっていたが、体は元気な父が気分が悪いと言って入れ替わりに休んだ。一人でいたのが不安だったのだろう。

 今回の写真もノワタリさんが撮られたものです。

 


2007年6月吉備津神社 吉備津彦神社

2011-02-11 15:55:58 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

200年6月16,17日の土日で、岡山の吉備津神社、吉備津彦神社と讃岐の崇徳上皇様の御陵と翌日大山祇神社にお参りした。

その1週間前、母が入院した。予定ではまだ、1年か半年先だと思っていたペースメーカーの入れ替えが電池の残量が少なく、慌てて入院した。

父一人を置いていく事がとても心配だった。気丈な母が入院した途端、父は軽い痴呆が出た。

誰も居ないダイニングキッチンに行くととても暑い、6月だから暑いのは当然だが、異常に暑い。ふとガス台を見ると、何も乗っていないのに、火は点いている。10分以上点いたままみたいだった。そういう事が、1週間足らずの間に2回あった。IHヒーターにすれば、安全だろうが、ペースメーカーを入れている母には使えない。電池が飛んでしまうのだ。

ペースメーカーを入れて母は元気になったが、皮肉な事にが普及しているので外出を怖がる。公共の乗り物の改札口や乗り降りでほとんどの人がを持っているため、20cm離れていれば良いというが恐怖だと言う。松山の病院の帰り、電車に乗ると、下校時の高校生達が座席に坐ると一斉にメールを打ち出した姿を見て、2度と電車には乗らなくなった。販売店やCMでも言って欲しいと思う。

話が逸れてしまったが、その2日間外のガスの元栓を閉め使えないようにして、仕出しを頼んだり、チエさんと隣のおばさんにお頼みして出かけた。

幸い父は母が帰宅すると元に戻った。

富士山 から

瀬戸大橋をで渡、岡山空港で合流した。今回も5月のメンバーで4人だった。

まず吉備津神社からと言うことでウチダさんに運転をしてもらい出発した。その途中、大きな鳥居が目に付きそちらへ向かうと、最上稲荷、日本三大稲荷だという。

駐車場から門前町を通りぬけ、境内に入ると、白い石のインド風の門が見えた。仁王門だという。何かちょっと違うお線香の香りが漂っている。

その前にもお線香を売っていたが、本殿も大きく立派で大きなしめ縄もあったが、札所のお寺さんのように前にロウソク立てとお線香を立てる所があった。お坊さんらしき人の姿も見える。

境内はとても広く色んな神様を祀った七十七末社までお参りした。後で分かったが、此処は日蓮宗のお寺で最上稲荷山妙教寺で昔の神仏習合の形が残っているお寺さんだった。

北随神門より

備中一の宮である吉備津神社にお参りした。残念なら、50年に一度の本殿は屋根の葺き替え工事中だった。

長い回廊

長い回廊を歩いた。私は雨月物語の吉備津の釜の話に出てくる竈殿を探した。丁度中に人がいるらしく隙間から、釜のような物をちょっと見かけたが、あの話に出てくるような不気味さは無かった。神社に在るのだからそうだろう。吉備津彦に敗れた温羅の頭がその下にあるという。広い境内にはアジサイが咲いていたが、その年少雨のため、アジサイは元気でなかった。

その後、備後一宮である吉備津彦神社に向かった。

ほんの数分走っただけなのに備中と備前の違いだった。先程は本殿の姿は囲われて見れなかったが、今回は厳かな雰囲気である。他に参拝者もなく、門前に食堂や売店もなかった。

お参りして境内の左奥にある中山への登山道を登った。

八大龍王の石祠                        元宮イワクラ

登っていくと、八大龍王の石祠、元宮イワクラとあり、ノワタリさんの指示に従いお浄めした。その後石の上の方に「天」と彫ってある天柱岩があり、又、茶臼山へと繋がる道に戻り、環状石雛、奥宮イワクラ、鏡宮イワクラと大きな石が沢山頂上のあちらこちらにあり、浄めて行き、その場のエネルギーを頂いた。

大吉備津彦の御陵まで行きお参りした後、ウチダさんが思いがけない行動をとった。横の方の囲いを越え入ってしまった。誰もいないと思っていたら、監視カメラがあるらしく、スピーカーから大きな声で注意をされた。さすが天皇家の御陵だ。

このまま進むと吉備津神社に降りるらしいが、もあるので吉備津彦神社まで戻り、吉備津神社前の食堂で遅い昼食をとり、山際の道を進み黒住教の御本部をお参りした。

その後、瀬戸大橋を渡り、(私は半日で瀬戸大橋を往復した。)白峰宮にお参りした後、五色台の崇徳天皇陵に向かった。白峰宮は天皇寺と隣接しており、神社には人がいないが88ヶ所参りの参拝者がお寺には多かった。

崇徳上皇白峰陵

五色台の白峰寺に着いた時はもう夕方の5時を過ぎており、門は閉まっていたが、その奥を進むと崇徳上皇の白峰陵に近づく事は出来た。近くに管理人さんの小屋はあったが、誰もいなかった。このような時間に怨霊で有名な御陵に行く事はノワタリさんがいなければ怖くて中止しただろう。ここも雨月物語にでてくる場所だ。しかし、不気味さは無く、後に四国の守り神になられたと言う事だからであろうか。

暗くなる前にわたし達は下山した。瀬戸内海を見ながら、みかん畑の中を走っていると、今夜の宿の人からがかかって来た。

まだ暗くなってはいないが夕飯の時間である。今治に着いてから連絡をする事で了承してもらった。高速を走り、しまなみで日没を見たかったが、今治市内で暗くなってしまった。宿に着いた時はもう真っ暗だった。

その夜の宿は大山祇神社近くの茶梅という旅館で、1ヶ月前電話で予約を1部屋4人でいれると、

「女性4名ですね。」と言われた。「いいえ、男性2名います」と答えると、「ご家族ですか?」と又突っ込まれた。「いいえ」と答えると、「ご親戚ですか?」と言われた。バカ正直に「いいえ」と言うと「えっっと」と言われたので「料金節約の為1部屋です。」と答えた。

そういうこともあり、食事の時接待してくださった方はわたしたちの関係を聞きたがった。白装束で現れた私達を見て「お参り仲間です。」と言うと納得され、「料金は2部屋でも1部屋と変らないから2部屋取りました。」と言われた。

もう他の宿泊客は食事が済んでいる私達だけである。8時を過ぎており宿の人に気の毒だったが、貝の兜蒸しを始め、新鮮な魚介類の御造りや天ぷらでみんな喜んでがすすんだ。今日も長い一日だった。

 

 


2007年5月剣山

2011-02-06 16:57:45 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

翌日は早起きして出かけることになった。

食事の前に朝風呂に入ったので、着替えと貴重品を入れた袋と洗面具と化粧品を入れた袋を持っていた。ちょっとお手洗いにと思い、食堂横のに入った。洗面台が4個ほど並んだ奥にトイレはあったが、油断して2個とも洗面台においてしまったが、慌てて貴重品の袋だけ持って入った。しばらくすると戸が開き、誰か入ってきた気配がした。しかし、すぐ出て行った。

昨晩は私達は遅かったので食堂で他のグループを見かけることは無かったが、若い人たちのグループが多かった。食事を済ませ、バンガローに帰ろうとすると、1つ袋が無い事に気付いた。

脱衣場、トイレと自分の行った場所に何度も探したが、見当たらない。一見するとその袋は手提げになっておりバッグのように見える。

仕方なく、宿の方に紛失した事を告げ、もし出てきた場合の番号に連絡していただくようにした。みんなの旅費を私が預かっているので、そのまま貴重品を置きっぱなしにしていたらと、冷汗がでた。どうせあの袋には大した物は入っていなかった。

バンガローの近くには奥祖谷を周遊するモノレールが在ったが、まだ早いので動いてなかった。とても木々に囲まれ空気がすがすがしく、今度はゆっくり過ごしに来たいと思った。

剣神社と光の柱

思っていたよりも早く剣山見の越しに着いたが、リフトが動くまで、1時間近くあり剣神社をお参りして、寒いので近くの売店の中で暖をとった。

また、自分のカメラをの中に置き忘れたりして、みんなに迷惑を掛けてしまった。私は沢山の荷物を持てないみたいだ。

リフトに乗ると、周辺の山の中腹以上のところに集落があるのが見える。下の道路はずっと後で出来た物だからにしても、不思議だ。15分くらいでと登山道に着いた。大剣神社からのコースを歩いた。

大剣神社

剣山本宮宝蔵石神社

上記の左右の写真は同じ場所である。右は手振れではない。頂上ヒュッテの屋根はぶれていない。ノワタリさんが全部写された物だが、右は石のエネルギーが出てそうなったと言われた。

大剣神社の後ろにも大きな岩、石灰石だと言う。頂上の宝蔵石に安徳天皇が御剣を納めたという伝説があると言う。しかし、頂上はなだらかで、同じ四国の石鎚山と大きく異なっていた。

 神社をお参りして、宝蔵石をお清めして、あたりを散策してヒュッテで温まりながらおでんを食べたり、コーヒーを飲んだ。此処は山の上にも関わらず、下と同じくらいの値段で安かった。

しかし下山途中でであった足の不自由なお年寄りを家族が連れられて神社に行かれているのを見てご本人も家族の方も偉いなぁと思った。

リフトの下りは遠くを見ている間は良いが、足元が地面と遠く離れており、前屈みになっている訳では無いが落っこちそうで怖かった。

運転は性格が出ると言うが、いつも運転しているウチダさんのは穏やかで安心して乗れる。今回山道の悪路をヒラサワさんがした。カーブでもスピードは緩めず、前にが居ようものなら、「オラオラ、どけ~い」と言わんばかりに後ろに付く、譲ってくれたら、独り言のように「いい子、いい子だ」と言う。余りにも荒っぽくせっかちな運転にノワタリさんが酔ってしまいそうになり声を上げた。私もイラチだがその上を行くみたいだ。

下山して穴吹の方向にでた。ほかの神社を探していたのが見つからず、上記の写真の神社にたどり着いた。

探していた所は大水で流された集落に在ったらしいのだが、此処も川のそばで、急な石段を昇らないといけないのかしらと思ったら、丁度横に坂みたいがあった。境内内を清め、ノワタリさんの指示で拝殿、本殿裏まで清めた後、お参りした。ノワタリさんが、歌われた後、「日本語じゃない言葉が聞こえる。」と言われた。どうもユダヤらしい。剣山も祖谷も不思議な所だと改めて思った。

くねくねと細くカーブの多い道を進んだ途中、もう人は住んでいないのではないかと思われる埃っぽくなっているゴーストタウンのような道沿いの集落があった。

その途中、宿から置き忘れの届けが在ったと言って連絡があった。しかし、絶対に置忘れではない。もう午後で宿を出たのは7時台だ。そして2度3度探したのだから、でも置きっぱなしにした私の不注意だ。着払いにしてもらう事にした。

やっと昼食の取れる店が見つかったのは吉野川近くの穴吹町のブルービラ穴吹だった。それまで4人でそれらしき店を探したが無かった。其処は温泉もあり、温泉客がほとんどで昼をとっくに過ぎた時間では食堂には人は居なかった。

最後に行った神社

今回も、その時調べてリストアップしたホームページが見つからなかった。たぶん神社庁のホームページだったと思うが、名前の分からない神社が最後である。脇町にある神社だったと思う。社務所は無いが氏子の方たちが大切にお守りされている様子だった。境内を清めていると、本殿の裏側にがいるのをヒラサワさんが見つけた。どうも苦手らしい。剣山と違ってとても温かかった。

最終のなのでまだ時間に余裕があり、何か観光スポットということで其処からそう遠くない阿波の土中を見に行ったが、みんな興味が無くしたから見ただけで、周辺のみやげ物店でを飲んだ。来る途中丸○○神社と言う看板を数回見たので其処へ行こうと店の人に教えてもらい、走った。

着いた所は普通の家で神社で無く、どうも男性の性器を御神体にしているらしく観光用であった。寄るのを止めたが、それを店の人に聞いたのが恥ずかしかった。どこか神社と思い、ナビに出ている神社を追っかけて行くと、みかん畑の行き詰まりになり、やっとの事で宝庫転換して出ることが出来た。ノワタリさんが「決められた神社以外に行く必要は内のです。これが上の戒めです。」ときっぱり言われた。

私達は吉野川周辺を行ったり来たりしていたがその言葉で空港に向かった。思い返すと、確かに欲張って他に行こうとすると、何か起きて出来なかった事があった。

それならば、どこか温泉で休んだ方が良かったかもと思った。

空港で別れたが、今度はナビが無くとも高速なので心配なかった。

 


2007年5月金比羅さんと剣山

2011-02-05 22:21:55 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

4月に引き続き5月も四国だった。その翌6月も四国で3ヶ月連続で何か四国にあるのかしらとその年思った。

5月19日の朝1便でノワタリさん達と高松空港で合流した。其処まで自分ので行ったが、通称ヨサクと言われる酷道439号線を走る自信が無いのでヴィッツを借りた。今回はウチダさん、ヒラサワさん男性二人がいるので運転は心強い。

空港近くでラジオから小学生の頃流行った懐かしいフランスギャルの「夢見るシャンソン人形」が流れてきた。かわいらしいかしかと思っていたら本当の愛なんて歌の中だけよ~」と歌っている。寂しく、夢の無い辛らつな歌詞に驚いた。

まず最初に讃岐の一宮である田村神社にお参りした。

私達が入ったのは裏参道からだった。鐘楼があり、慰霊碑、桃太郎、十二支、七福神の石像があり賑やかだった。私は88箇所の札所でも隣接しているのかと思ったがそうではなかった。近くに石の産地があるからだろうか。

ヤマトトモモソヒメ命、吉備津彦命、猿田彦命、高倉下命、天村雲命がご祭神さまで祭られている。境内は明るく軽やかだった。ご挨拶をして出た。

その後、高速を使い金比羅さんへ向かった。

琴平に着き、まずは名物の讃岐うどんを参道近くの虎屋で頂、みんなで堪能した。その後石段横の店を見ながら上った。

御本殿横の睦魂神社

奥社 厳魂神社

奥社横 上のほうに天狗の面がある

御本宮と前に立つだけでとてもエネルギーの濃い睦魂神社とお参りして奥宮に向かった。

御本宮までは人が多いが、奥宮への参道はほとんど人が居なく静かだった。

常盤神社、白峰神社、菅原神社とあったが、菅原道真は讃岐の国の国司であったそうだ。

奥社は厳魂神社と言い、厳魂彦命が祀られている。横の岩壁の上の方に天狗の面が2つあった。

その後、ノワタリさんと私は金比羅さんの天狗が一休みしたと言う金陵の庭の大楠の木をお参りして、琴平を出た。ウチダさんとヒラサワさんはたぶんを買っていたのではないかしら…

ウチダさんが祖谷の集落にある栗枝渡(クリシト)八幡神社に行きたいと言うので、池田にでて大歩危から祖谷に向かった。45号線に入り、トンネルを出ると、目の前に秘境の湯という看板が見えてきたが、眼下には観光地で賑々しく秘境と言う趣はきえていた。

かずら橋の近くを通ると、川の向こうに大きな駐車場か何か建物と土産物があった。30年前に民宿に泊まったが夜は真っ暗で静かで、もなく、何もなく大きく様変わりしていた。しかし、其処を過ぎ奥祖谷に向かっていくと、道は狭くなり、曲がりくねった悪路である。

探していた栗枝渡八幡神社のある集落の表示を見つけ、山の中に入って行った。集落のような物は見当たらない森林の中だった。少し走り抜け上のほうに行くとやっと集落があった。しかし、鳥居のような物は無い。集落を抜けるとやっと鳥居があった。

住吉神社

しかし其処は住吉神社だった。お参りしてのワタリさんの指示でお清めした。また、ずんずん上に向かって走ると、通行止めになり其処から先は道が無かった。こんな時、男性の運転は安心できる。

ひっくり返して集落に入り、丁度通りかかった若い女性に教えてもらうと、山際にあったが鳥居は無かった。みんな「この山奥にあんな若い綺麗な女の子がいるなんて」と言った。それまで見かけたのはお年寄りばかりだったので以外だった。

その神社は安徳天皇を荼毘にふしたというが、敵方の守り神である八幡神とは解せない。又、元はクリシト八幡神社でなく、クリスト神社と書いてあった。キリストと関係あるのだろうか?剣山に契約の箱があるとか、平家の落人伝説でカムフラージュしているが元はユダヤと言う話を読んだ事があるが、ウチダさんによると、ユダヤ教とキリスト教は全く別物と言われていたが…翌日もそれと同じような事があった。

その日の宿は剣山近くの「いやしの温泉郷」と言う所だった。周囲に集落も何も無いのに私達の前を軽トラックでに入りにきた御夫婦を見かけたのには「みんな何処から来たのだろう」と驚いた。私達は残念ながら、本館は取れず、バンガローである。

大分日が長くなっていたが、露天に入り、周囲の山深い自然に囲まれ気持ちが良く長湯をしてしまった。夕飯を頂く時にはもう8時近くでレストランは人が少なくなっていた。夕飯はとても美味しかったが、どうも男性2人は、名物の祖谷そばのつゆが口に合わないらしくぼやいた。私からすると、関東の真っ黒な醤油のつゆは口合わない。

バンガローは広く、板の間はキッチンと囲炉裏が付いていた。そこで翌日の予定とかを話した後、畳の間に布団を4つ敷くには頭をひねった。

4つ並べる事もできず、田の字に頭を合わせ布団を敷いた。長い1日が終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 


足元の怪

2011-02-04 11:51:26 | 霊現象

事務所の私の席に座ると、いつも寒い。

曰くのある地所だが、4隅に盛り塩、椅子のちょうど後ろには神棚もあることだし高をくくっていた。

チエさんが数日前、「この席に座ると寒いわ。どうしてかしら?」と言う。」そして「いつもネコちゃんあぁ~寒い、寒いと口癖になってる」と、言われた。

今年は例年よりも寒く、ひざ掛けと足元に温風器を置いているのに寒さを感じる。

言われてみれば、足元から寒い風が吹き上げてくる。???なぜ?ドアには遠く、床に穴があるわけでなく、机は三方にガードがあり、風が吹き込む事は無い。

足元の奥に竹墨を盛っているのを見つけた。

これは1年半くらい前に置いた物だ。もう期限切れなのだろう。

案の定取り除いて、盛り塩を置くと寒気を感じなくなった。

しかし、寒さが緩んできたこの数日私は背中がゾクゾクして微熱がでて、背中にホッカイロを張っても治まらず気分が悪い。昨日から、父が金比羅参りに行くので古い札をもって行くと言うので、2キロほど離れた倉庫にお守りを取りに行くと、倉庫の真ん中に盛り塩があるのが目に付いた。

昨年も、行ったはずなのに何故か気づかなかった。

その盛り塩は知り合いの荷物を数年預かっていたので1年半前、出た後置きっぱなしにしていた。

塩一袋を1階、2階ともに真ん中にボール紙をしいておいたが湿気を含んで氷のように硬くなり、紙は3倍の厚さになり、床は湿気でしみになっていた。

墨の事もあり、あわてて塩を置き換えた。15日間ほど置こうと思う。

何事も古いのはマイナスを吸い過ぎて返ってマイナスを出す。期限切れに注意。