Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

懐かしのテレビ

2011-07-31 22:37:00 | 日々のつぶやき

今日は、午後3時半くらいから5まで昼寝をした。グッスリ寝たがずっと足の裏がビリビリしてマイナスが抜けていってたみたいである。母の起こされた後、両膝下が重く感じられた。

おかげで、ちょっと鬱ぎみだったのがすっきりした。

地デジ移行から1週間、私の部屋のテレビは映らない。砂嵐がガーガー鳴るだけである見たいものがあれば茶の間のテレビにケーブルテレビが映るのでまだ、録画が出来るので捨てないでいる。しかし、まだ録画した事は無い。

今朝、チャンネルネコで私の大好きな岸田森様が出ている「怪奇大作戦」を見た。懐かしい草野大吾、戸浦六行がゲストで、岸田森様も晩年のより鋭角的なった顔でなく、髪の毛もまだ大丈夫で病的感じはせず、1番ハンサムな頃だ。

見ていて気付いたが、顔のアップが多いのとその頃の人の服装は今と比べてキチンとして上品だ。やその後発達して形態が変った物を除けば、あまり違和感はない。ただ、公的な建物は木造で粗末だった。

同じ頃、放送されたと思うが時代劇チャンネルに放送されていた「月影兵庫」に私と母ははまっていた。こちらは白黒だった。残念、先週の木曜で終わってしまった。二人が飲んで大暴れするのは毎回だが、ストーリーがしっかりして、お上の権威も無く漫才の掛け合いみたいな会話で面白かった。ただ、亡くなった俳優さんばかり出演してる話もあり、父と母は懐かしがって喜んで見ていた。

しかし、その頃と比べると最近のは予算が無いのか手抜きで面白くなかった。でも習慣化で部屋に帰ると大して見てもいないのにつけていた。

人の声や姿を見ることで安心していたのであろうか?ラジオ派の私でも数日はちょっと間が抜け寂しく感じ、野球に興味の無い私はナイター中継の夜は特につまらなく、もっと時間を有効に使えるのではと期待していたが、友人とのおしゃべりなどをして終わってしまった。

この際、悪習はやめようと思い晩酌のも止める事にした。


前世と夢

2011-07-27 14:12:39 | 日々のつぶやき

憑けてきたことを書いたが、で話していてノワタリさんは「こんなに永く旅を続けてきたのに変ね~。ね~え、あなた左肩が痛くない~?」と聞かれた。そういえば左肩から肩甲骨に掛けてそんな気がした。

「あなたの前世を幾つか見せてもらったけど、前世の物が浮かび上がったのかしら。」

「戦と策略でどろどろの所ばかりに多く居たみたいだから、良くないのは覚悟してたんだけど。」と言いながら、恥ずかしくなる。まだ、抱えている物が多いのか???

「いいや、みんなそんな時代だったから仕方ないのよ。」と言って慰めて下さった。

しかし、悲しい事に私の知っている限りお姫様は王子様と結ばれました。めでたし、めでたしと言う事はない。ロマンスも綺麗なドレスも着物も無い。学生時代の友人達も私の結婚生活が想像つかないと言っていた。そういう私自信もピンと来ないまま孫のいないばあさんになりつつある。

知っている限り戦場で、刀を振り回しているか、策略を練ってだましだまされて牢で最後を迎えたとか、良い所で殿様に海産物を献上する海女で海中で溺れ死んだとかと言うものばかりで平穏に暮らした事ってあったのかしらと思う。

海と言えば今朝、とても青くきれいな海の夢を見た。映像を出せないのが残念!

妹とせっせと料理をしていた。丁寧に書いてあるレシピ本をパラパラと捲っていた。いつも適当に作っているすき焼きなので本格的に作るのはと思いそこで手が止った。しかし、作っている料理はすき焼きではない。

大皿に盛ったお煮しめのような料理を抱えて運んだ。その家には海辺の木造の建物で土間を歩き、夏の建具で簾戸のある板の間には白い割烹着で白い日本手ぬぐいをしたおばさん達とランニングに半ズボン姿の男の子が飯台の前に数人いた。幾つかの大皿に料理が盛ってあった。しかし、何か忘れ物をしたと言って私だけ外へ出た。家の横には葦が茂っていてその裏の白い壁の家をブルトーザーで壊しているのを見た。海辺まで行くと、波打ち際の柵の向こうの砂浜になぜかポツポツと一定の間隔で素焼きの茶色の昔の墓のシキビ立にけいとうの花が一輪づつ活けてあり、海水の表面から半分くらいでているのを目にした。車のトランクから細い木切れを取り、又家に入るともう誰もおらず、料理も片付いていて跡形も無かった。食べ損ねたと意地汚く残念がっていた。しかし、昭和30年代かそれ以前のなつかしくのんびりした風景だ。

又外へ出て見回すと、向こうの方でで数人の人が網を引いている作業をしているのが見え、私は少し高さのある崖の上からとても青く澄んだ海を見ているところでの着信音で目が覚めた。

あの光景は一体なんだろう?とてもリアルで綺麗だった。

 

 


憑いて来た

2011-07-24 21:25:08 | 日々のつぶやき

昨日はは夕方から母と近くのへ行き、外で食事をして帰った。この10日間の間に、3度も憑けてしまい、ほとほと心身共に疲れた。今回はきつく自分ではどうする事もできず、この体質が腹立だしい。その中の2つの出所は同じ所である。

それは今月の初め、知り合いの叔母さんで5月ごろから、真夜中の2時になると必ずチャイムが鳴り、それは夜中の12時から明け方まで数回鳴り出したと言う。その家は階段を上がったところにあるから、人のいたずらとは考えにくい。そのままにしていたら放蕩の限りを尽くし、行方知れずで遺骨も戒名もないままになっている義兄が玄関の戸を開けようとしているのを必死の形相で防いでいる亡くなったご主人の夢を見たと言って来た。丁度今年はその義兄の十七回忌だと言う。

ただ事では無いと思い、ノワタリさんに連絡を取りお力をお借りした。

しかし、その家の仏壇を覗くと、ご本尊様以外によくぞこんなにと思うくらいお不動様、阿弥陀様、毘沙門天様、大日如来様他数体の仏像と絵があり、「叔母さん、これらは仏さんを守ってるんじゃないから仏壇から取り出して」と言い、処分するように伝えると、「それは助けてもらったから、他で祀るわ。」と言って強行に拒まれた。

ご苦労が多かったのでそれらの仏像にすがったのは良く分かるが、ご本尊様とお位牌以外は入れるべきでは無い。そしてその家の昔からの信心されている神様以外は沢山置くと、どなたも誰かがするだろうと思い、手を出さないとノワタリさんに教えられた。この場合、どなたも守ってはいないそうである。

義兄の供養も終わり、その叔母さんはその家の代々の水子さんの霊と、ご自分の水子さんの霊を21日間掛けてご供養をされていた。10日くらいたった時、の向こうで「階段を踏み外し8段転んで肩と背中を強打した。」と弱弱しい声で言い、手当てを頼まれたので1時間くらい手当てをしに行ったが、通されたのは中の間で窓が無く、風通しが良くないのが気になった。

その晩から、どうも変!憑けてきたみたいだ。その人も、先祖事をし始めたので色々と出てくる。転ばれたのも負をそうやって出しているのだと言う。

その後は、歯医者から戻ると何故か疲れを感じた。また、憑けたらしい。隣の椅子に座ってた人かしら?しかし、その翌日は座っているのも辛く夜はすぐ横になっていた。

ノワタリさんにお頼みして遠隔してもらうと「何処へ行ったの?古い水子さんをつけてますよ。着物のすそから細い足を出しています。」と言われ、「呻き声がすごいんです。」と言われた。遠隔されている間も私の左の足の裏はずっと引きつったように痛みが出た。成仏したいのがくっついてくるらしい。この最近余り無かったんだけど…

それから3日も経たない内に21日間の供養が終わり、そのお宅にお手伝いに行き無事終わったと思っていたら、その叔母さんのを受けてしまった。しかし、叔母さんは泣いて喜ばれ「地獄に仏だね。」と言われたが、その家と叔母さんも禊が払えるまで一時ご苦労だろうと思うが。

しかし、お腹が痛む。左脇腹が痛く背中が重い。私は消化器系はいたって丈夫、おかしい?と思い、ノワタリさんの手をまた、煩わせてしまった。「普通ならば、歌が出るんだけど、また、呻き声だったのよ。」と言われた。でもノワタリさんはその叔母さん個人を遠隔する前から涙が出ていたのでご苦労された事をキャッチされていた。

私だけでなく、数日前から背中が痛いと言って「コラーゲンを飲んでなかったからかしら」とぼやいていた母も憑けていた。親子ともに払って頂いた。ほんとに情けない。トホホである。

しかし、その叔母さんもお一人で気丈にがんばっているのに、数日前、美容院で「また、老人の万引きがあったんだって。」と美容師さんが話し始めた。私は地元紙を取っていないので知らなかったが、このところそういう事件がこのところ多く発生しているらしい。中にはお惣菜パックを万引きしたという事件もあったらしい。

お年よりは少ない年金でやりくりされ、介護保険料は上がり、年金は年々削られているので生活が厳しい。年寄りがお金を持っているというのはほんの一部で企業年金と2本立て言う人は田舎には少ない。うちの両親もあの戦争の弾をくぐって苦労したのは私達なのにとぼやく。

人口を増やす為に子供手当てをするというのは分かるが、それより先に就業できるようにすれば、みんな家庭を持ちやすい。しかし、卒業と共に失業者になるか、派遣社員である。

政府はずっと国民に痛み強いるだけで、自分達は全くノー天気で負担していない。どこかに水戸黄門様はいないのか!


足摺岬

2011-07-21 11:44:37 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

先日の日曜日、妹夫婦と気になっていた石を見る為に出掛けた。

太平洋沿いに出ると海は台風の影響を受け、白波が立っていた。足摺スカイラインまで来ると時折、雨が降ってきた。合羽を着て森の中へ入ると蝉の大合唱でとても賑やかだった。登っていると、いくら蒸れない合羽と言えども暑く、不快指数はマックスになり、膝痛のある私は両手にストックを持ち、それにすがって登っていった。

その石は足摺の山中にあり、以前2度ノワタリさんのお供をしていった事があるが、ノワタリさんも知り合いから「私は2日間探したが行けなかった。だけどあなたなら行くことが出来るだろう。」と言われた。偶然にも知っている人に出会い、行く事できた。

今回、その石の事を書こうと思っていたが、まだあまり知られていないらしく、ネットで探しても書いていない。

訪れる人も少ないのでそのままのエネルギーを保っている事もあり伏せる事にした。この写真のようにそれぞれの石はエネルギーを発して白くもやが掛かって写っているが、実際は木々を写した写真のようにかすんではいない。

上にあるお社まで来ると蝉の鳴き声は一切無く静かになった。お社を清め、お参りして全て終わった途端、又蝉の大合唱が始まった。気づくと不快感は消え、心地よい風が吹き、妹夫婦は不思議そうに肩こりの症状が気にならなくなくなったといっていた。当然下りは膝に負担が掛からないように歩き、妹とストックを分けて道沿いのロープを持ち降りた。

その後、スカイラインを下り、海岸沿いにウスバエまで走った。この半島は面白く海岸は晴れていた。ウスバエの岩場まで降りると流石に釣り人は一人もいなかった。

竜宮神社をお参りする為にお社に近づくと、お社の中に白い杯のような物が見えたのでお神酒をあげようとして扉を開けると、中には綺麗な乙姫様の小さな像が祀られていた。

気の毒な事にワンカップの酒のビンはゴキブリがいて、白い紙包みにはアリが沢山たかっていた。妹が紙包みを開けると飴だった。それを片付け、新たに、お神酒と塩とお水をあげ、お参りした。

海はしけていて、下のほうに降りると危ないので、仕方なくその辺でお神酒や塩、お水を撒き、用意してきた榊の葉は海から陸に向かって吹く風に乗り残念ながら海の方へは行かなかった。

しかし、祝詞を上げ、竜神様の御真言をあげていると突然ザーと大粒の雨と共に風が海に吹き、おかげで撒いたものは雨水と共に海に流れたのではないかと思った。

その雨も5分ぐらいで止み、又晴れて蒸し暑くなってきた。

時計を見ると午後1時半だったので風神アネモスの喫茶まで行き昼食を取り、そのお庭へ行くと、その庭を管理されていた老夫婦は亡くなられたのかどこか施設に入られたのか分らないが、その家は空き家になっており、庭には雑草がポツポツと生えて少し荒れた感じがした。

足摺岬近くの白山神社をお参りした後、またスカイラインを通り、唐人駄馬へ行こうとすると山道は雨、そのまま唐人駄馬へ着くと雨は止み、県外ナンバーの車が2台止まっていた。千丈岩へ上がり、スカイラインの方を見ると黒い雲、海の方は晴れているのが見え、変な所だ。これでは天気予報も難しい...

石の上に居ると、また人がやって来たので場所を譲り降りた。先程とは違う車が止まっていた。連休なので次々と人が来るらしい。

そこから足摺岬をでて四万十市を周り宿毛に出て帰路に着いた。途中、地物の食材を使った食堂に入り、夕飯を取った。私と妹はあわびととろろの丼、義弟は鯛めし(炊いた物でなく、刺身を生卵とタレをつけた物  これが美味しい!)そしてめずらしいのでレア鰹のカツと言うのを注文するとサラダ仕立てでとても美味しく、赤ワインが欲しい。今度鰹を買ったら、試してみたいと思った。

翌日、宮崎へ帰る妹達はお昼の便だったのを台風が近づいているので少し早い便にすると言って9時過ぎに出たが欠航だった。仕方なくしまなみを通り、山陽道周りで12時間掛けて帰宅した。しかし、宮崎県に入った頃 少し御尻は痛くなったが、疲れは無いと言っていた。

私も歯茎の治療に火曜日に歯医者へ行くと、数年間悩まされていた歯根ホウシュは1ヶ月ぐらい前から段々落ち着いてきていたものの、気にならない位小さくなっていた。歯科医は「こんな天気は腫れが大きくなるんですが、これだったらお盆までに処置できますね。」と言った。

また、接骨院へ行くと膝の水が無くなっている事を言われた。だが、O脚による痛みはある。運動と体操で筋力を付けるしかない。

なんと!不思議な事地場の良いエネルギーのおかげでしょうか?  感謝です。

 

 


旅の終わり

2011-07-19 16:30:56 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

前回の那智、玉置の後2010年は2月に北京、4月にインド、6月に口蹄疫病の出た宮崎に行った。その後7月にシベリアへ行くように言われたが、二人とも気が進まず、下調べはしたものの行く機会を逃し、行かなかった。その後、足場固めと言われると同時に近くの川や海の清めをして周る事になった。

しかし、私にはノワタリさんのような力は無い為、見よう見まねで行うだけである。私の手では及ばない場合、遠隔で同時にして頂いた。四国を取り囲んでいる瀬戸内海、宇和海、太平洋とお清したが紀伊水道はしていなかった。

今年2月に新燃岳が噴火した事から、御神鏡を鳴門の渦が巻いている所へマーちゃんが納めたので四国の周囲はすべて清めた。しかし、一度では済むわけでなく、川も足摺の海もノワタリさんと数回行った後も出かけた。

前回玉置神社は5回と書いたが、後で6回行った事に気付いた。不思議な神社である。行き始めた頃は禊が出来ていないのでまず、1回目は出発の前日、運転していて追突された。その時はなんとも無かったが、後日その後遺症は軽かったが数日間出た。

2度目は下山途中でガードレールにぶつけるという事故を起こした。

3度目は前日登った弥山で下山途中で日が暮れてしまい、ノワタリさんの力でどうにか麓までたどり着けた。それらの話は詳しく書いているが、その後は玉置に訪れてももうそのような事は起こらなかった。

ノワタリさんの家でも以前から祀られていた天照大神様の他、玉置神社へ訪れた時から国常立命様が入られ、良く龍神様が現れ、ククリ姫様その後ダキ二天様を祀られた。

9年前とは世の中も神社の雰囲気も様子も変わった。玉置神社の存在は偶然知り合いからお借りした「浜本末造」さんの世界一家天皇論3部作との出会いから始まりお参りしたことからだった。2003年にお会いしてから旅が始まったが、本格的に同行し、計画を立て始めたのもそれからだった。

お清めして歩いた神社とか奥宮は田舎が多く、おかげで普通の観光旅行であればまず行かないだろうと思うが、何処も年を追う事に寂れて行き、全国チェーンの店舗の看板だけが増えていくのを目にした。一体、私は何を見せられているのだろうと思う事も多かった。

しかし、日常離れしたその旅の間はワクワクする事が多く異次元に迷い込んだみたいに感じ、お別れして一人になるとそのギャップに戸惑い、寂しさを感じた。しかし、麻薬のようにその旅の楽しさに取り付かれ、その為にに働いたようなもので、どちらが本当なのか分からない感覚に為る事もあった。

そして私を取り巻く環境も変わっていき、良い方に変化した。たがいにぶつかり合っていた母との関係も良くなり、長い間頭を悩ませていた先祖事も納まり、土地の問題も鎮まっていった。お会いするまでの私ではとんがったままでポキンと折れそうでは今のように精神的に図太くなく世の中に適応出来なかったのではと思う。

ノワタリさんとそのお友達のおかげで読む本の傾向も変わり、阿蘇の旅に参加した時、「日月神事」「竹内文書」とか中丸薫さんの存在を知った。その頃親しくしていた人のご主人が精神世界とか宗教書を多く持っていたのでお借りしたのと、ネットで今は無くなってしまったが「スターゲイト」と言うホームぺ―ジとなわ.ふみとさんの「2012年の黙示録」と言うサイトに掲載されている本を選び読んで行った。

その間で読んだ小説は村上龍の「半島を出よ」と高橋克彦の「龍の棺」と「ミレニアム」シリーズだけである。

今読んでいるような類の本は町の書店ではほとんど無く、トンデモ本扱いだったのが、3,4年前からだんだん増えて行きコーナーが出来、平積みに為っている本もある。

旅の下調べをするうちに多くの書物を読むようにもなり、その結果歴史は勝者の都合の良いように書き換えられ、私達はあらゆるメディアを通じて刷り込まれ、洗脳されていった事を遅ればせながら知り、何事も額面通り受け取れなくなり、悲しい事に裏を詮索するようになった。

NHKでさえ、三面記事のようなニュースやゴシップのような物を大きく取り上げ大事なニュースは言わないか、さらっと流すだけで母はBS1の午後10時のニュースを見るようになった。気付けばのドラマは殺人事件ものが多く殺人が普通の出来事でない事を否定してるみたいで他は答えの分かったクイズと芸の無い芸人が面白くない事をわめいているだけで、視聴者をバカにしているので、私の部屋のは買い換えない事にした。

作為的だと思うがいつも学校の歴史の明治以降の歴史は駆け足で済ませ深く掘り下げる事も無く、先の大戦の事は戦時中外地へ行き、数年間海軍主計課で働いていた父の話と報道される話は大きく違っていた。

また、50年近く負の現象ばかり悩まされ、よくぞ取り込まれなかったと今では思うが、苦しんでいたのが神の存在とその力をノワタリさんを通じて見せられると共に助けられ、大いに勇気付けられている。

浅間山に登ったのが最後なのかもしれない。と何度も書いたが、その時「忙しくなるぞ。」と言うお言葉を頂いたが、どうも旅が忙しくなるのではないらしい。7月に入ってから「だんだん危なくなるから出ない方がいいわ。」と言われた。

7月15日の夜9時過ぎ地震が起きたが、その日旧暦も1ヶ月遅れの6月15日で大潮、天体の関係、太陽のフレアと普通でない状態が揃っていた。深さが60キロだったのであのくらいで済んだのだろうと思うがそれが深さが浅ければ、大事に為っていたのではと思う。

6月に富士山の浅間神社で少し緩和されるようなお言葉を言われたのはそれではなかろうかと思う。また、多くの能力のある人達も動かれたに違いないと思う。

寂しいがノワタリさんが言われるには、もう以前のように集合しての旅は終わり、違う使われ方をするみたいである。