Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

長~い友達

2013-06-29 23:38:47 | 日々のつぶやき

木曜日父とがんセンターにペットCT検査を受けるつもりで出かけたが、医者の初診だけであった。

午後1時に予約していたが、1時間前に着き、問診表を書いて待っていると、受付係りが

「少し遅れるのでベッドで休まれますか?」と高齢者の為か言われた。

医者は開口一番、

「抗癌剤治療をするには毎週通うようになりますが、無理ですよね。」と言われ、遠まわしに来るなといわれているような気がしたが、

「いいえ、私が連れてまいりますから、大丈夫です。」と答えると、

「私も、地元の病院の方と同じで治療法は無いと思います。抗癌剤と言うのは合っても進行を止める事はできても根本的に直ると言うことは無いです。ただ、その年齢では副作用が強いので返って寿命を縮めるだけだろうと思います。」と言われてしまい、此処に来れば何らかの治療が見つかると希望を持っていたのが、打ち砕けてしまった。

その後 幾つかの問診があり、食欲を聞かれた時、父は

「いいえ、ありません。」と答えたが、思わず横で

「そんな事はありません。食事を抜くと言うことはありませんが」と言ってしまった。

すると看護婦さんが、

「御年なりですよね。」と言ってフォローしたので可笑しかった。

ただ、地元の病院の紹介状にペットCT検査希望と書いてあったらしく、その準備として、父は採血に向い部屋を出て行った後、

「それではペットを受ける必要が無いのでは?」

「予約は入れておきますが、キャンセルは出来ます。」

「お友達の90歳代のお父さんが放射線治療を此処で受けたので、できるかと思いましたが。」とお尋ねすると、

「放射線治療をすると腸に穴を開ける恐れがありますから出来ません。高血圧、緑内障もありますから...。心筋梗塞とか脳梗塞を起こす事もありますから、何もしない方が良いと思います。」

と、念を押すように言われた。

「あの~、父のがんは進んでるのですか?」

「いいえ、それほどでもありません。」と、はっきり言われたので、礼を言って部屋を出た。

冷静に考えれば、痛みも無く、食欲もそんなに落ちてはいない。ただ、幽霊さんを憑けたのもありえらく疲れていたのが気になっていた。

告知を受けた時気落ちして病人になってしまい数日間、雑炊を食べていた。それも有事の際に用意していた物が賞味期限が切れたので台所に持っていたものだった。

その後外へ出ると、急におなかが空いたのを感じた。父も私もペット検査を受けるつもりだったので、朝スムージーを飲んだだけで、おなかはぺこぺこだった。もう午後2過ぎになっていたので軽い昼食を取る為、うどん屋さんに入ったが父はザルうどんをたいらげたので、やはり食欲が無いとは言えない。

翌日、父は

「あのうどん屋、旨かったな。」と言い

「昆布出しがよく利いてたね。」と、私も言ったが本当に美味しかった。

その晩、母は治療法が無い事を知ると落胆したが、実家の兄もがん宣告を受けたが治療もせずもう3年も無事に生きているし、他にも数年生きて寿命なのかがんが進んで亡くなったのか分からない人が結構あることを思い出し、気を取り直した。

「寿命があっても後数年だしね...。最後はこちらの病院で看てもらえば良いわね。○○食堂のおばあさんも97歳で癌で亡くなられたけど、最後の2ヶ月だけ入院したって言われたからね。うちで好きなようにのんびりしたらいいわよ。」と、父でなく自分に言い聞かせるように言った。

その数日前、免疫力を上げるのが良いと書いて有ったので、体温を上げるためスチームの足湯器を買ったり、ユキちゃんからプロトン水のスプレーをもらい、そして腹巻使用した。

一番最初にノワタリさんにご相談した時「神頼みだね~。」と言われたとおりになった。

癌センターの事を報告すると、ノワタリさんもすい臓がんのご主人を3年間ご自宅でお世話されたので、

「開腹手術すると、癌が広がって3ヶ月だったから、手術はしなかったんです。それでも1年間はそのまま普通に勤めましたが、その間試すように、次々と旅が入ってきましてね...。最後だけ病院に入院しましたけど。」

「ええ!私も試されるのかしら?」

「大丈夫ですよ。今までしてますから、お父さんも癌と敵対せず、共存ですね。そうすれば癌もおとなしくなりますよ。あ、それと近くで良いですから、時折神社にお参りしてくださいね。神様の懐にゆだねましょう。」と言われた。

そして父がこの半月左目の前に花束がよく見え、瞬きをすると消えるということが続いているが、何か父はそれを不吉な知らせのように恐れているのでお尋ねすると、

「う~ん、それは何も感じないけど、病が良くなって頂いた花束と思えば良いんじゃない。今朝は遠隔していると、観音様らしきお姿が出たんです。」

「あの父の椅子の後ろに、火事なくなられた仏様と正観音様のお写真と白衣観音様の絵を飾ってます。」

「神仏に守られてますね。」と言われた。

数日前に、父の告知を受ける2日前の日曜日トイレ掃除をしていて手がすべり10*15cmくらいの大きなスポンジを便器の中に落としてしまい、あっという間も無く流れていき、その後詰ったようで一瞬水が盛り上がるがゴゴゴ~ォと言う音がして水位が下がった状態になった。

自分でもラバーカップで何十回も押したがらちがあかないので業者を呼び、便器をはずしてみてもらったが、スポンジはへばりついたらしく、相変わらず直らず、手数料とパッキン代の請求書だけ来た。

スポンジなので水は流れるので、もう諦めてそのまま使い続けていたのが、それまで溜りに溜まったのか水が便器の縁まで盛り上がって来て慌ててラバーカップで数十回パフパフと押しては水を流しを数回繰り返した所で、それまでのゴゴゴ~ォと言う音はしなくなり、詰っていたスポンジは流れ正常になった。

そんな事があり、なぜかこれが父の病気の象徴のような気がして、やる事はやって後はお任せと言うような気がしている。

私達が病院へ行くのと、20日ほど前から危篤状態だったチエさんのお舅さんのお葬式と重なり前日にお得意に連絡を取り、臨時休業にしたが、今月はそういうことばかりで落ち着かず、誰かが毎日病院へ行っていたが、先月メインにしているメーカーの値上げがあり、ろくすっぽ外交に出ることも無く、集金に走る事も無くても済んでいるので感謝である。

今年の夏は暇であろうと思っていたのが、こんな事が待ち受けていたなんて...と思うが、家族との時間を大切にしていこうと思う。

私の両親は高齢でも決して老人ではなく私と大して年齢の違わない壮年の感覚であった事に気づいた。当然治療法が無いのでペット検査はキャンセルし、また地元の病院に掛かる事にした。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生の収支決算

2013-06-22 23:42:19 | 日々のつぶやき

前回ひどい話を書いてお恥ずかしい。

そのお口直しに...と言うわけではないが、もう亡くなられて久しいが、波乱万丈の人生を送られた潔くてステキなあるお婆ちゃんの含蓄のある言葉を書きたいと思う。

私が生まれる以前、お隣に住んでいたので子供の頃よく遊びに来られていて、祖母にはかわいがられなかったが、私と母はそのおばあちゃんにかわいがられた。

そのお婆ちゃんが晩年、よく話された話である。

その人は子供の頃、実母を亡くし、継母が嫁いできた。シンデレラと同様虐められた。

女学校の入学式を翌日に迎えた夜、すべて入学に必要な物も揃えていたのに、お父さんが継母に言いくるめられ、一転女学校でなく紡績工場に勤めるようになってしまい、泣く泣く女工さんになったと言う。

その悔しさと落胆は想像しただけでも...。

やがて年頃になり、嫁いだ家は盛衰の幅が大きく、ご本人の言葉では

「その頃、余り良くなかったから、私に話が来たのよ。」と、言われたが、元々商才もありしっかりものでよく働かれ、朝鮮戦争時、大口の取引先にお婆ちゃんが気に入られて瞬く間に大きくなったが、その後、そのお婆ちゃんの才覚で次に始めた事業も順調に発展して行き、財産を増やした。そうなると家事を義理の妹をお手伝いに雇い、そういう婦人が集まりいわゆる有閑マダムの会を作り、着物やアクセサリーを競った。

おばあちゃんは

「そんな生活をしてなかったから、してみたかったのよ。」と言われたが、昭和50年代になり世の中が変わって行き、反対に事業は思わしくなり清算される事になった。

その頃、ご主人は病で入院中で、ご本人が立ち会えばよかったのに、娘婿に任せたのが間違いで、人にだまされて数千万残るはずが、反対に借金が残った。

その後数年間、だました相手は当然だが、娘婿まで恨み、殺して一緒に海にでも入ろうかと思ったくらいだったと言って悔み、家の中がギクシャクしていた。

「そんな大事な話しなら、おばちゃんがなんで行かなかったのよ。」と母が言うと、

「ああ、そうだね。私にも落ち度があったんだね。」と言われ、その頃、気苦労が多く病気がちだった母もそのおばあちゃんに誘われ、精神修養の会に入り方の力が抜け、自分の置かれた境遇を恨む事もなくなった。

その後勤めだした娘夫婦の替わりに小学生だったお孫さん達3人のお世話と家事をされた。

「若い頃、妹を使って家事をしなかったから、今させてもらってるのよ。これで人生の帳尻が合うわ。」とにこやかに言われ、残った不動産を活用したりして 借金が無くなって丁度1年後、80歳過ぎで癌になり亡くなられたが、思いは残さなかったであろうと思う。

晩年の口癖は

「人生の収支決算を合わす。」だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それから

2013-06-18 22:50:53 | 日々のつぶやき

今日は父の治療法を決めると言う事で病院へ行ったが、変な方向(良い展開)に向いていった。

「本人はもう高齢ですから、家でゆっくりしたいと申してますが、癌センターで見てもらったら?とも思いますが、どうしてよいのやら、高齢ですから進みませんかね?どのくらいの大きさですか?」

医者は写真を見ながら、

「3センチ強です。進むかどうかはわかりません。」

「進行性の癌ですか?」

「細胞を取らないと分かりません。細胞を取ろうにもそれが出来ませんが、癌センターなら、ペットがあるので分かると思います。」

「じゃあ、癌センターで調べていただいて、こちらに帰るということも出来ますよね?」

「行く体力がありますか?」

「それは大丈夫だと思いますが。」

「セカンドオピニオンということもありますが、消化器科に紹介状を書いて連絡を取りますから、あしたご連絡を取ります。」と言われ、電話番号を知らせて帰った。

父は私が強引に癌センター行きを勧めて、医者を怒らせて帰るのでは?と危惧していたみたいだが、話はスムーズに進んだ。

ノワタリさんにも遠隔をして頂いているので、父の手当てをした後 連絡を取ると、

「薬の臭いがしますね。」

「私は飲んでないから、父のですね。」まだ、足の裏からジンジンと出ていた。

「どんな感触ですか?私のほうははっきりしないんです。」と言われる。

「3日目くらいから、反応がありましたが、強烈な痛みはまだ出てきません。」と答え、癌センターで調べてもらう事になったことを伝えた。

しかし、父は良いと言われる事はせっせとし、もうプールには行っていないので病人にならないよう周りからの助言に従って、朝は一人で夕飯後は母と散歩をし始めた。

チエさんの義兄は地元の病院では手術が出来ないと言われたが、癌センターでは体力をつけてから手術するようになったと言われる。

元気だと思っていた父が急にこういう事になり、父も私達も心の準備ができていなかったので大そう慌てたが、多分父は癌だとしてもあまり苦しむ事はなく穏やかに過ごせるのではと思っている。

これまで、癌とか脳腫瘍とかになった友人の娘さんや、姪御さんをノワタリさんに紹介したことがある。いづれも30歳台の方だったが、脳腫瘍の人は入院しても手術が延び延びになり結局、手術をせずに済んだ。この場合、住んでいる所が悪く 家払いから始めたが、最初はとても暗い声だったのがそのうち笑い声までで出した。幼児と乳飲み子を抱えていたので本当に辛かっただろうと思う。

もう一人は少し時間はかかったが、放射線治療をして治まった。

 平原綾香のジュピターの歌の事を書いたコメントを頂いたが、その歌の通り、無償の愛を知る為に起きてきたことだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れていく叔母

2013-06-16 21:54:35 | 日々のつぶやき

土曜の朝、事務所のシャッターを開けるとスルスルと蛇が戸の間にいて出て来た。思いもかけなかったので「きゃ~ぁ」と大きな叫び声をあげてしまった。

叫び声で、前の家の小学生姉妹が出て来て、逃げていく蛇を見つめていた。

住宅密集地で蛇がでるなんて珍しく、ホースくらいの太さで1メートル20くらいあっただろうか?

私も驚いたが、蛇の方も逃げ出し近くの植木鉢の下に隠れ、子供達はとても蛇に興奮して植木鉢の下を棒で突いて出そうとした。

「ほっといたら、何処かへ逃げていくでしょ。」と言って、その場を離れたが、30分後近所おじさんに蛇は捕まえられ近くの海に投げ込まれた。

子供達は蛇をやっつけたと意気揚々として帰ってきた。

「何も殺さなくても...」と言いかけたら、

「蛇は殺せないから、海へ投げ込んだけど、泳ぐからどっかへ行くよ。」と言われたので、安堵した。

その日、いつも上京するたび世話になっていた叔母と従兄弟が墓参りに来る予定だった。

叔母は急に痴呆になり、医者から好きな所へ連れて行くように言われたらしく、10日ほど前に連絡が来た。

しかし、叔母と電話で話してもなんら変わりはなかったが、3月頃から従兄弟が言うには物忘れが激しく、朝から5品ほどおかずを作っていた人が料理するのもままならず、人相も激変したと言う。

心配してノワタリさん宅へ連れて行き、エネルギーを入れてもらったが、その頃不整脈で検査をしたりしてそれがきっかけだったのだろうか?

その時、彼女から電話を頂き、叔母が本当に悪い事を聞いた。

「今までの疲れが出たんですね。肉体よりも精神的な疲れですね。しっかりされて何もかもひっぱて行った人なのにね。ご主人がね...」

叔母と叔父は表面的には何も無いが、心底では繋がっていないようだ。

予定では叔父の実家のお墓とうちのお墓に行く予定だったが、生憎の雨で行けれないので午前中にやって来たる程の事も無く、両親と会話しても受け答えは普通で別段痴呆とは思えなかった。

小雨になったところで叔父さんのほうへ行き、亡くなった兄弟のお参りに出かけ、この時期だけ取れる手長えびを食べさせるレストランへ行き、満足されたようだった。

その後、幼なじみの店に行ったりしても変わった様子は見られなかったが、ただ、

「最近、物忘れが多くてね。」と、数回口にするのを聞いただけだった。

しかし、午前中に墓参りを終えて別れ際、昨日父の病気を話した事を全く覚えていないのである。

「かわいそうに...昔の話はしっかり覚えているのに」と、母は愕然とした。

寂しい事である、唯一頼りになるしっかりした叔母だったのに、でも別れ際に

「教えてもらった日拝、毎朝してるのよ。天照大神様って言って祈ってるわ。」と、ニコニコ笑いながら言ったが、これ以上進まない事を私も日拝して祈るしかない。

「仕事を取り上げると益々悪くなるから、気をつけてあげて」と、ノワタリさんはアドバイスしているが、

「どうしてなんですかね?急に」

「本人が持っていたものかもしれません。それが今出てきた...、それと、処分しないいけないものを手放す事が出来なかった。」

「玄関の絵ですか?寒気がするから処分するようにって言われたといってましたが、」

「それだけじゃないんです。寝室にも結構飾り物がありました。でも、手放す事が出来なかったんです。」と、寂しそうな声で言われた。

私も数年前過去の自分が染みこんでいる衣類やアクセサリーを処分した事に始まり、指摘されたものは何度か処分したので、大体の事は分かる。

家の中にマイナスを発する物があるので良い事は無い。

前回書き落としたが、父の膀胱炎も冷えが原因、本当に寒気はヤバイ事を実感したが、結構きつい事が 続く。生きていくとこういう事か?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父との縁(えにし)

2013-06-15 16:56:14 | 日々のつぶやき

父は祖父のようにピンころりんと逝くと思っていたのが医者に告知され動揺していたが、数日過ぎると落ち着いてきて、家でゆっくり過ごしたいと言い出した。

母は

「どうせ生きても、二,三年で寿命かもしれないから、やっぱり家にいる方がいいわ。」と、言い、

その方向へ進むみたいである。

母も、今週ペースメーカーの検診で、今年の秋にには入れ替えらしい。

金曜の朝、今度はチエさんの義兄が肺がんで、すぐにがんセンターへまわされた事を聞いた。

昨年の検診時、

「少し、様子を見ましょう…。」の言葉だったが、今年はかなり進んでいるみたいで、昨年、他の病院へ行っていたらと悔やんだ。

チエさんのご主人は心筋梗塞を患ったので、今週カテーテルで調べると、また新たにほかの所が詰まっていた。しかし、お父さんが危篤状態なので股関節の手術の予定が経たたず、仕事が終わっても毎日病院へ行き、忙しい。

今朝は今朝で、尿の出が数日前から悪く近くの病院へ行ったが、その時だけでまたでないと言うので、泌尿科へ連れて行くと、膀胱炎でペニシリンを打ってもらうと落ち着いた。

そんなこんなで今週毎日、誰かは病院へ通う日々だったが、そんな年周りになったのかと思う。

チエさんの義兄と比べると、父には猶予がまだある。

父はノワタリさんに言われた事をせっせとしている。そのうち御真言もスラスラと言える様になるだろう。

「長生きしすぎた...。」と寂しそうに言う。同級生の三分の一以上は戦争で亡くなり、この10年余りでくしの歯が欠けるように亡くなって行き 存命なのは片手も無く、自分自身の事が出来るとなると、まだ少ない。よく遊びに来られていた、おじいちゃん達もいつの間にかあの世に逝かれ、昨年1級上の幼なじみも亡くなり、今のお友達は一回り下かそれよりもずっと下の人達である。

改めて、高齢でも介護保険を使うことなくしっかりしている親がそろっている事をありがたく思うと同時に感謝。

旅を始めて、2年余り経った時、広島と宮島へ行った。その10日ほど前、父と出雲大社へ行く夢を見た。

その夢の中で、峠の様な山の上から、暗い海ととぼなとぼなとついている小さな灯りを見下ろしていた。その後出雲大社についたと思ったら、全く実際の神社とは違うものだったが、そこに数十人の兵がいて、一人若い武将の姿を見た。斜め後ろだったので、はっきりとした顔は分からなかったが、綺麗な鎧を身に付け、印伝の赤いアサノハ柄の肘宛をしていたのをしっかり覚えている。

宮島の水族館横の古戦場に行った時、海沿いの松林の感じが400年余り立っているが、夢の中の場所とどことなく良く似ている事に気づいた。

念を押すように、父と闇夜の海を見たのは、それは残された陶晴賢軍の兵士達が山の中で隠れ住み、夜に浜辺に降りて貝を堀り食料としたそうであるが、宮島のロープウェイを乗り換えようとした時、また、ノワタリさんが古いセピア色の写真のように山の中の兵士たちの姿を見て、私達に伝えたが、その時は分からなかったので、

「山の中に集落はありませんよ。」と言ってしまった。

その話をノワタリさんに話すと、それは私の前世の一つと言われ、すぐにその続きがビジョンで現れ、その武将は戦場で何か右の腰から下を怪我をして歩けず、両脇を抱えられて落延びている姿を見せられた。

今思うと、抱えて落延びて行ってた一人は父だ。

私達は戦友、生死をともにしているので深い所で繋がっているとノワタリさんは言われた。

この前世の武将が今世に一番影響があるとノワタリに言われたが、私は父に助けられている。

先日の夢のブルーは暮れかけと空けかけだったが、心根次第でどちらにでも行くことだと捉えた。

出来る限りの事をしようと思っている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする