Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

真夜中の電話

2015-11-29 22:58:23 | 霊現象

 真夜中の電話と言っても色っぽい話ではない。携帯をほとんどの人が持っている今時家族に隠れてこそこそと固定電話で 話す人もいないだろう。

今年の6月頃から、今まで私に対して起きていた霊現象はなぜか☎がキャッチするようになった。

突然☎がけたたましい音で鳴り出しとっても無言。しかし、置いた途端また、けたたましくなり続ける。おかしなことにダイヤルを押す時間差も無くなり出し、夕方から明け方まで鳴りっぱなしでそれは長い時は2,3日続く。

以前も、2,3回あった。後で気づいたのだが3つ古い霊を憑けていた友人に会おうとした時だった。

私の家の電話の外線は2本あり、代表としてメインのナンバーだけが電話帳に載っていて、知っている人しかこの番号にかけてくることは無く、メインの番号がふさがっている時にその番号がなるようになっている。

余りにもうるさいのでそうなったら、家中のケーブルを抜いて防いでいるが、休日に事務所の2つの☎のケーブルを抜かずにほっといたら、隣家から不審の思われてしまった。

突然鳴り出し、おかしなことに昼間は無く、夕方近くからその現象は起きている。それも週末の金曜から日曜にかけてが多い。

何度も起きると、特別驚く事も無くなり外線ボタンを押してどういう音が聞こえるかと聞く余裕も出来た。

「ザー」と言う音が続いた後切れてツーツーと鳴りだし、外線ボタンを切るとまたベルが鳴りだしたり、何も音がせずそのまま数分切れなかったり色々である。

しかし、9月頃明け方☎が鳴りだした。

高齢者の親類が多いので何かあったのかと思い受話器を取ると、

「おかけになった電話番号は現在使われていません…」との音声ガイダンスが流れ時計を見ると、4時18分だった。それからいつものごとく電話が鳴りだした。

NTTにといあわせると、外線2本ともに異常があれば故障だが、1本だけでは故障ではないと言われそのままにしている。

余りに何度も起きるので、慣れっこになってしまったが、

始めは分かず、戸惑い何度もノワタリさんにおたづねすると、

「寒気がしますね~。何かしら」と言われた。

そのうち自分で気づいた。その日であった人や起きた事を振り返ると人の私に対しての怒りや頼って来る人の思い。そのほかに本当にヤバいものだったり、警告やあの世の友人からの訴えとか様々で微妙に音の鳴り方が違った。友人の場合後日夢に出たので何を訴えたかったかは分かったが、人の思い程怖い物は無いが、電話のおかげで以前ほどしんどい思いをしなくなった。


母屋のリフォーム Ⅱ

2015-11-28 22:29:18 | 日々のつぶやき

 一階も二階ももう大工さんの仕事は終わり、一人の大工さんを残し、ベテランの大工さん二人は他の職場へ移って行った。二階の外側の廊下にある突っ張り棒タイプの棚を他に移す為、手が届かないので手伝って頂いた。手をかけた途端、

「あれ???」と言う。今度は何事と訝しる私に

「濡れてる…。なんでここが?」と言われてじっと見ると壁に水が伝わっている。他も調べると、お床も、押し入れの天井も濡れていた。調べると、どうも三階の窓の軒の鋼板継ぎ合わせが浅くそこから前日の雨が漏れていた。ここも10年前に九州から来た業者にしてもらった物だった。

結局、三階の大屋根の瓦を除いて、二階の屋根の補修となり、左官さん、板金屋さん、塗装屋さんと増えていき、ついでに手すりやシャッターの塗り替えもした後で、本格的に梅雨の大雨が降りだした。

最後に、電気工事業者が配電盤やリフトのコンデンサーを新しく取り替えられたが、それもひどいもので、毎年点検しているにもかかわらず、いづれも1969年から全く取り替えておらず、漏電防止装置もついてなくリフトなどパチパチと音がして危ない状態だったと伝えられた。時々、ヒューズが飛んでいたのも納得。その当時に無かった家電が増えているのでもうそれでは対応出来なかったはず。

数年前、隣町の住宅密集地で夜無人の家から漏電で火が出た。うちも住宅密集地、火を出したら大事である。二人とも背筋が寒くなり、よく無事だったと思った。

後日あきれた事に、点検に来た今まで25年任せていた業者に伝えると、

「消防署はそんなとこ視やせん。」とあきれた事に知らん顔。これでは本末転倒である。しかし、今回お世話になった電気屋さんが、

「消化器が3本余っているんだけど、良かったら買ってもらえないだろうか。」と言われ、お世話になったこともあり、3本取り替えたが、それを見たそれまでの業者はえらく腹を立てて、自分にもこのくらいの仕事は出来ると文句を言いたいだけ言って、もう点検はしないと向こうから断って来たので、縁が切れた。

母屋だけでなく、あちこち手直ししてもらい、2キロほど離れた倉庫と隠居も直してもらったので全ての事が終わったのは7月の連休前だった。本当に床下から屋根までであった。しかし、私達は何と危うい家に住んでいたのだろうかと思ったが、ノワタリさんに二階まで直した事を伝えた時、

「間に合った。」との言葉が出た。やはり、地震が来るのだろうか…。

それにしても、何が起こるかは分からないが、私達は助けられ感謝しかない。

 二か月もあちこちと直しているのでご近所さん達に、

「さぞ、掛かったでしょ。」と言われ度、母は

「はい、私の葬式代だしたよ。あんた私の葬式代出してね。」と、私に振る。

「ええ、スーツケース買ってあげるわ。」と、毎回答えたが、計画なく進めて行ったので、いったいいくら掛かるかもはっきりとわからなかった。流し台を新しく買わなかった事もあり、とても良心的で思ったよりも大分掛からなかった上に、

「2,3日のつもりが2か月続けて仕事をさせて頂き有難いです。」と、お世話になったのは私達なのに謙虚にお礼を言われた。その後ずっと仕事がつまり、友人のユキちゃんに紹介したが、来春まで出来ないそうである。

有難い事に、自分の仕事が終わってもベテラン大工さんは湿気が気になると言ってやって来て、上から見ただけで木材の色で湿気があるかどうか分かるらしく、床下を這って行って水があるかどうか調べられた。

その大工さん曰く、日本の家が持たなくなったのは70年代にツーバイフォー工法が入って来て、昔のような前から後ろまで床下が見渡せるような建物は建てられず、ガチガチにコンクリートで固めた土台を作らなければ違反になるとの事だった。

「建築までアメリカさんの法律だ。湿気の多いこの国には向かないのに…。」と、諦めるように言われた。その後、私は家の土台を見ながら歩くことが多くなった。新しい家ほど、空気抜きが小さかったり、目につかなくなっている。

 このリフォームの件だけでなく、今年は数か月ごとになにがしかの問題が起こり、落ち着いて整理されていき、必要な人(物)が現れ、不要な物と縁が切れて行くように感じる事が多かった。

 

 

 

 

 

 


母屋のリフォーム

2015-11-19 20:57:29 | 日々のつぶやき

 これも必要なことだったと今は思うが, 予定外の事で5月下旬から7月の連休前日まで掛り床下から屋根まで母屋のリフォームを丸々2か月間かかり、二人ともひどく疲れた。

母屋も、亡くなった祖父がずっと昔うちのお風呂場あたりでやくざの出入りで人が亡くなっている事を私に言った事があったが、その祖父もそこで亡くなったのではないが風呂場で意識を無くし、そのまま救急車で運ばれて亡くなった。ここ20年近く使っていなかったので盛り塩と綺麗な水を置いていた。よくこんな状態で無事に暮らせたと思う。

穢れ地で 先祖事もきっちり出来ていないという事はこんな事にも影響するのかと思った。

その時点で、私は来年90歳になる母との二人暮らしである。考えたくはないがいづれ一人暮らしになるのもそう遠くないだろうと思うので、築46年になる母屋のリフォームを私は全くする気は無かった。

しかし、5月の下旬 昨年夏から調子の悪くパイプクリーナーを時々使ってごまかしていたが流しが全く流れなくなり、業者を頼むことにした。なぜかいつもの水道工事と電気工事をされる会社は頼む気がせず、以前私の家をリフォームされた大工さんを頼んだ。

すぐ来られ、外からはダメだった。

母は以前から不満を持っていたらしく、リフォームを言い出したが、流しだけか、水回り全体するかで意見が分かれた。

 その翌日、大工の親方は50代と60代のベテラン大工さんたちを連れてやって来た。

流し台を動かした途端、タイルの壁は何とも言えないものすごい音を立てて全部崩れ落ちて来た。その音を裏の倉庫で聞いていたが何が起きたのかわからなかった。幸い誰も怪我なく安堵したが、

「ここで食事してる最中にタイルが降ってきたら、死にかねんかったな~。」と言われたが、台所はもう使い物にならず、リフォームするしかなかった。

母は台所と茶の間、廊下、洗面所を直す事を決めた。

30年前のリフォームはひどく悪質なものでまるで詐欺まがいだった。それから床をはぐ度、「ちょっと来て。」と呼ばれるたび私達は、ひどく悪質な手抜き仕事に驚き、疲れ果て毎晩ぐったりして早くから休み、時には事務所のシャッターを降ろす事も忘れていた事もあった。

台所の床を剥ぐと、下から30年前の壁の残骸が出て来たがそれはまだ優しいほうで、茶の間の畳の下は塩化ビニールのタイルの上にただ載せただけで隅っこは腐りかけ、そのせいか知らないが母は毎年梅雨頃になると、

「痒い、痒い。」とこぼし、バルサンを焚いたり、畳に針を刺し殺虫剤を入れたりしたが、気休めぐらいで効果はあまりなかった。

それだけでなく、流し前のクッションフロア材の下も腐って落ちる寸前、廊下の下にはなぜか洗面所と流しの汚水が漏れて真っ黒なヘドロ状態で溜っていた。

表面には油が浮きギラギラとし、蛆虫が涌いていて見ただけで、ゾッとした。それでも文句も言わず、長靴を履いて黙々と汲み出された。さすがにお腹辺りに痒みを感じると言われ、殺虫剤を手渡した。

おまけに茶の間の使ってないガラス障子のサイズは小さく、大柄な男性であれば完全に頭を打つような大きさだった。

そこまでくると、もうお手洗いもお風呂も直そうと言う事になった。

よく無事だったと言う事は毎回で、水洗ではあるが男便所と和式の女便所は白アリ一家が食い尽くして、天井までもう食べる木も無くなり引っ越した後で、境の壁を蹴ると、一発で倒れ、柱は紙のように表面だけあり、床も落ちる寸前だったが、体重の軽い小柄な母だけだったので免れていたのだろうと思うが、万が一落ちていたら、軽くてももう寝たきりになってただろうと思う。

「なんでそんな業者を頼んだの?何処よ?」と聞くと、

「近所の○○さんの親戚よ。この家を建てた時の現場監督さんだったけど独立したの…夜逃げしたわ。」と言う。ろくなことをしていないのでうまく仕事が行かなかったのだろうと思う。

お二人の大工さんは昔の職人気質で、毎日朝は7時半過ぎには来られ、夕方も5時まできっちり仕事をされた後、きちんと掃除をしてご挨拶をして帰られた。

母は勤勉な大工さんの仕事ぶりを喜んで、余りにも汚い仕事をさせてしまったと言い、半月経った週末仕出し弁当を振舞った。

が、困った事にすべてが予定外だった為、青写真なしに進めている為キッチンの形をどうするか迷った。私のフォーム前の家のほとんど使っていないL字型システムキッチンを使う事を提案し、寸法を測り、対面型キッチンにする事にした事で、話は前向きになりスムーズに進んだ。その後は 床材やキッチンパネルやクロスや照明器具を決めたりと結構忙しかった。

請け負った大工さんは並行して他の仕事もされていたが、予定していた仕事が施工主がエコポイントを申請してなかなか下りず、丁度手が空いていたのでこの仕事が出来た。後、リフォームだけでなく建築の話もあり今年はずっと詰まっていたので本当にこの時期で良かったと思う。

ある程度希望を伝えると、後は大工さん任せで、あれこれ3人で検討され、有難い事にカウンター下に結構大きい食器入れを作っていただいた。お一人は元々指物大工さんだった。その頃には後二人3,40代の大工さんが2人増えそれぞれ持ち場を替え、湿気の多い床にはコンクリートを流した後、床下用の湿気取の備長炭の袋を敷き詰め、空気抜きの小窓を付けた。

私の町は、数年前に大手の建設会社が数件倒産した為、建材屋まで連鎖倒産してしまい建材店が1件しかなくなっていた。それで、在庫もあまり置いていないので高い。了解を得て 自分でネットで洗面台と便器は買い、快く取り付けてもらったが、ちゃんと間取りを決める前に購入したので、システムバスにする事に決めた時、限られたスペースに買った70㎝幅の洗面台と洗濯機をどう置くかご苦労されたが、それまでの風呂場の向きを替える事で、収まりきぼ通りや掃除用具や小物を入れる可動式の棚まで出来た。

年配の大工さんは

「家は手を入れれば入れるほど、持つ。ここは屋根も外回りもちゃんとしてるし、鉄骨造だから十分使えるよ。」と、言われ、そのうち壊すと思っていたが、その考えを改めた。今では愛着がわいて来たいる。

1か月ほど経ち、1階の仕事が進んでいる時、母は真面目で腕の良い大工さんだからと今度は2階の表の間の床板と畳を直す事を思いついた。2階の表の二間続きの座敷は男性が歩くと響くので気になっていた。

見て頂くと、また驚いた事に今度は構造上の問題があり、1階に柱を2箇所に立てる必要があった。その後2階の床板と畳替えをし、廊下も直した。

不要な物をこの際片づけようと男手があるうちに納戸をかたづけて、思い切って和ダンス、整理ダンス、布団ダンスと合計7つの箪笥と道具入れを捨て隠居から持ち帰った布団やは戦後の物のない時代に作った母の嫁入り布団や不要な物を2トントラックで数回処分してもらった。そうしてやっと落ち着いたと思っていたが、そうは問屋が卸さなかった。

 

 

 

 


知らぬが仏

2015-11-13 08:24:01 | 日々のつぶやき

 今年の1月 ちょっとした不注意から転倒し大怪我をした。

頭をかばい、右腕を下に転んだ。その時、来ていたダウンジャケットの袖からパフッと音がして鼻先に空気が飛んで来た。運よくメガネ割れずに外れて飛んでいき、(メガネは無傷)私は右を下に万歳をするような形で道路に打ち付けられた。右肩から下が千切れてしまったのではなかろうかと思うような激痛を感じた。すぐに起き上がったが、見た目の外傷はないので周りの人たちは安堵された。皆さん私が大けがをしたと思われたらしい。

しかし、ようやっと起き上がったものの右肩を中心に右上半身にひどい激痛で、病院へ行こうにも日曜日、運よく2日前に風邪気味で病院へ行った時、解熱鎮痛剤をもらっていて飲んでいたのと冷シップを持っていたので翌日までどうにか我慢することが出来た。でも指先まで痛く箸を持つ事も出来なかったが、幸い右腕がパンパンに腫れあがる事も無かったので骨折は免れ、打撲だろうと思った。

唯一怪我をした事の無かった右腕まで…、武将だったことが前世に多いと言われたが、これでは四肢バラバラになって死んだのではと思ってしまう。

月曜の朝8時、開くのを待ち一番先にいつもの接骨院に飛び込んだ。先生は、右腕が後ろに回る事を確認され、ブラブラしていないので、打撲と靭帯の損傷と言う診断結果で治療をして頂いた。

肩の骨折は腫れあがる事はなく肩の血が下がって二の腕から肘にかけて内出血がでると言われたが、その通りに肩の血が下がって赤紫になった。

それでもいつも通り仕事はしたものの、キーボードを打つ指が痛い。その上、チエさんが熱があり早引けした。翌日連絡がありインフルエンザの事。 週末に出勤してくると同時に私の方がインフルエンザになった。しかし、鎮痛解熱剤を飲んでいたので高熱は出ず、だるかった。

週末休んだだけですぐ起きたが、1月、2月は仕事を終えるとすぐ横になり寝ていたので余りその辺の記憶は無い。それから私は毎朝日課のように接骨院に通って治療を受けた。

ただ困ったのは五十肩のように肩が痛く手が上がらないので着替えもままならず、物も持ち上げることが出来ない。そして洗髪する事も出来ず、洗濯物を干すことが難しいので踏み台を使って干した。そのうち右肩ばかりかばっていたら、腰も痛くなり整体にも通いほぐしてもらったが、少々の痛みを感じても車の運転もしていた。

その上信じられない事に1月末決算の棚卸もし、2月の初旬には高知への出張もし、30歳近く下の従妹の結婚式にもには参加した。母は体調不良を伝えてキャンセルする事を勧めたが、参列する親族が少ないので強行軍で早朝から日帰りするつもりで出かけた。案の定高齢の伯父や叔母は参列せず、遠くの従妹たちも来ていないので、先方は親族20人いるのにこちらは 両親兄弟を除くと母屋の従弟と私だけだけの寂しいものだった。(叔母の実家の弟は数年前に亡くなり子供もおらず、離婚して一人ものだった)

午後1時から始まった披露宴は4時を過ぎても終了せず、さすがに弱った体にはきつく予定をしていたフェリーのも乗れず、臼杵まで出て帰りひどく疲れてしまった。

その体調で九州へ行き、人込みに出た事で今度は違う型のインフルエンザになり、今度は、39度以上の熱が出てしまい、今度は数日間寝床から起きれなかった。

そんな日々を過ごし3月になり、大分体調も回復してきた時、損保に入っている事に気づき連絡を取ると 整形外科へ行くように言われた。

腕の良い医師は手術中でもう一軒のやぶで嫌味な病院へ行き、レントゲンを撮ると、驚いた事に

「骨折してますけど、すごい!!ずれずに綺麗にくっついている。」と言われ、医者も感心していたが、私の方が「え~!」と声をあげそうになった。

くっついているのに三角巾で腕を支えられ、シップ薬と鎮痛剤を渡され、1週間後に来るように言われた。しかし、普通に腕を使っていたので、病院を出るとすぐに三角巾を外して自転車で帰宅した。

その時、60日程で骨はくっつくと聞いたのに、一週間後 三角巾でつらずに行くと、医者はひどく不機嫌で、

「安静にしていないと治らないよ。」と言う…。でもとっくに60日は過ぎているが、 後日調べると、普通整形外科へ行くと、3か月間三角巾で腕を支え安静にし、できるだけ肩に負担を掛けないようにして 又その後そのくらいの期間をかけてリハビリを普通はするらしい事が分かった。それで医者は不機嫌だったのだろう。

どうも私は大事な期間寝るばかりしていたので安静にすることが出来たのと、接骨院で治療しながらリハビリもし、普通の半分の時間で復帰することが出来たらしい。

おまけに、父が亡くなり気が張り無理をしていた事もあり、転倒する前に甲状腺機能低下になっていたが、休んでいたのでその後正常になっていた。

知らないと言いう事は本当に有難い。骨折していたにもかかわらず、余り支障なく普通に生活をしていた。しかし、痛みを感じずに手が上がるようになったのは夏だった。 

 

 

 


懐かしい人

2015-11-11 17:43:34 | 霊現象

 昨年書き終えてから、以前のようにしょっちゅう憑けたり、受けたりしてノワタリさんにお世話をかけることは滅多に無く、その方ではまずまずの快適な日々を過ごしていた。

「夢であえたら」と昔今よりも高く美しい声で吉田美奈子が歌っていたが、いくらそう念じても実際夢で逢える事は無い。

この最近、10日程の間に学生時代の友人が2度出て来た。今まで、全く夢に現れた事は無かったのに、、、何かある。

一度目は何を話したか分からないが、二人で仲良く話しながら歩いていた。目覚めた時、とてもリアルで傍にいるような不思議な感覚だった。

二度目はまた、一緒に旅行したことも無いのに私達は出雲大社へ行くと言う夢で、全く道中も神社も出ない実際の出雲大社とは全く違う景色の処で水辺の草むらにただボーっと立っていた。風が吹き明るい景色ではなく、ちょっと寒々しい。少し先に同じような対岸の草むらが見える。後ろに黄土色の壁が朽ちかけ 中の竹の枝組が見えている古い日本家屋の一部が見えていたが、其処が宿らしく顔は見えないが、女将らしき人にどうやら帰りのJRのチケットを頼んでいたらしく渡された。

私の方が遠いのと途中の乗り換え時間が一緒の便だと長くなるとの理由で便で私の方が一便早いのに乗らなければならなくなっていた。一緒に帰りながらおしゃべりしたかったのにと思っていたが、仕方ない。でも、どういうルートなのだろうか福岡の方へ行くみたいだった。

その後なぜか、建物の中に靴のケースが3つほどあり、その中の一足の黒い靴をプレゼントされたらしくもう履いていた。せっかく持って来てもらったので靴屋さんに返す前にもう一足買う事にした。一つは黒の紐靴、もう一つは茶色の七センチヒールの踵のかっちりした古めかしい見覚えのある靴だったが、私はその茶色の靴を買った。実際、私はプレゼントされたり、したりすることは嫌いなので、花とか小さなぬいぐるみをもらった事はあるが、靴などもらったことは無い。

しかし、2万円払って5千円の釣りをもらうなんてなんとこざかしく生々しく、笑いそうである。

又、外の水辺の草むらで私は渋々別れを告げて立ち去ろうとするところで、目が覚めた。この夢も、カラーで草むらの緑と家の中の電球の色が強く残り、妙にリアルな感覚だった。

なんか変だな~ととても気になった。その数日前、右の額を思いっきり椅子の背もたれにぶつけ、たんこぶになった。またその翌日同じところを向きを変えた途端、壁の角にぶつけ、今度は2センチほどの傷になり、顔を洗う度しみて痛かった。

おまけに玄関のセンサーライトは誰もいないのに30分くらいの間に勝手に2度点いた。最近はこんな事なかったのに誰か来たかな?そういえば、朝でも小さなラップ音もする…。

そんな気がかりな事があり、ノワタリさんに連絡を取った。

「気にしすぎかしら~。今まで夢に見るって事もなかったのに…。でももしかして大きな地震が近くに起きるんじゃないかしらと思ってね。」

「う~ん、黒い影がみえるわね~。水辺っていうのもね~。」と、言いながら、半分靴の話などしてと笑っていたら、次の瞬間、

「覚悟、覚悟しろって」と上の言葉を伝えられた。

「お別れに来たのね。」

「なんで私の処に?」

「分かるから…」と言われたが、分かっていてもどうする事も出来ない。用心するよう伝える事も出来ない。伝えたとしても、引かれて拒絶されるだけである。以前「目に見えない事はわからない。」と言われている。

もどかしく複雑な思いである。

以前も仲の良かった友人が亡くなって四十九まで私の処にいたが、亡くなってはいなくても後ろはわかってるらしいが、外れてほしい。

それから2,3日後靴の事を思い出した。

すっかり忘れていたのに自転車に二人乗りしていて靴の踵を巻き込んでしまい、買ったばかりのおニューの靴の踵の皮に大きく傷が入った事があった。その時の靴とよく似ている事を、潜在意識には残っていることを改めて確認した。