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Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2008年11月江ノ島

2011-06-15 11:45:25 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

                          

最後の日、その日は予定が叔母の家でのんびりしていると、ノワタリさんから連絡があり「昨日行けれなかった江ノ島の洞岩屋へ行きませんか。」と誘われ、一人で電車に乗り江ノ島で合流した。妹は東京の姪の方へ行っており、従兄弟達はまだ休んでいた。

参道は昨晩よりも人は少なかったが、神社には参拝者がポツポツといた。辺津宮の田寸津媛様にご挨拶し、奉安殿の2つの弁天様像を見た。妙音弁財天様は裸身でとてもおきれいで色っぽく、はっぴ弁才天様は凛々しかった。同じ弁才天様なのに全く異なった雰囲気だ。

そして奥津宮まで来た時、従兄弟のマーちゃんが追っかけてやってきた。その入り口の天井の亀は名前通りどの方向から見ても目が合った。

此処の龍宮様はマーちゃんとご縁があるらしく、ノワタリさんにこちらへ御参りに来るようにと勧められていた。その後、昨晩入れなかった岩屋と呼ばれる洞窟へ行った。

その洞窟は奥から風が吹いてきて富士山と通じていると言う。ロウソクに火を灯して入った。お不動様、弘法大師、阿弥陀さまと他いろいろな仏像があったその奥から風が吹いてくる。雰囲気を盛り上げる為だろうが幻想的な音楽が流れていたが、ない方が良いのではとノワタリさんと言った。

其処を出て、上の店で海を見ながら3人で昼食を取りマーちゃんと別れた。

それより前か後か、何処か良く分からないがないが通り沿いの店で焼きイカを食べた。店主はノワタリさんと懇意らしく、親しそうに話していた。

江ノ島のどこかは知らないが潮の流れで水死体が流れ着く場所があると言う。そこへ以前ノワタリさんはお清めに行かれたとその時お聞きした。以前、知り合いのお店に来ていた人が其処に祈祷師が来ているのを知り、自分も見て欲しいと頼んだが断られた。

「なぜ断ったの?」と尋ねると「私がやられる!あそこの家は多くの水死体が打ち上げられた場所に建ってるのよ。」と言われた。

その後、頼んだ人は精神病院へ入った。友人に聞くと、入退院を繰り返していると言う。その話を昔精神病院の看護婦をお母さんがされていた友人に話すと、「○○か××と言う姓じゃない」と、聞かれた。その2件は隣りあわせで、精神病患者が出ているという。

そんな事もあり、自慢する風でなく淡々と話されたノワタリさんに内心びっくりした。

その旅は其処で終了し、東京へ出て叔母と従姉妹と妹と会い、食事をして一人空港へ向かった。その頃にはこの3日間上天気だったのが、小雨が降り始めていた。


2008年11月浅間神社と江ノ島

2011-06-14 21:10:22 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

その晩、横浜の叔母夫婦におすし屋さんに連れて行ってもらった。しかし、従兄弟のハルちゃんは「僕はあそこは合わないんだ。後、気分が悪くなるんだよ。」と言って来なかった。

お店に入り個室に案内される時、何か段々降って行く感覚がした。どの部屋も客で埋まっており、大繁盛の様子であった。

蟹、お造りの盛り合わせ、鮨と山のように出てきたが、3人とも手が出ない。お腹が張り食べれない。

帰宅してから、その夜皆は遅くまで居間でお茶を飲み談笑しているのに今度はお腹が下ってきて寝室とトイレを何回も行き来する有様だった。

夜中に「キャッ!」言う姪の声に驚き、妹が灯りを点けると天井から私の胸に白く光る糸状の物が見えたと言う。「調子の悪い時、手を当ててるからでしょ。光っているのなら悪い物ではないわ。」と言って安心させた。

翌日は北口本宮冨士浅間神社にお参りし、麓から2合目の御室浅間神社へお参りし、新屋山神社奥宮と本社、江ノ島へ行く予定でハードである。

仕事のあるハヤシさんとバイトの姪と叔母が退き、従兄弟のマーちゃんが加わった。

薄暗いうちから出発した。

まず北口本宮浅間神社へお参りした。横の駐車場から入って行ったが、境内の中にきれいな小川が流れ本当に気持ちよい。杉木立の中を進むと広くて古くてどっしりしたお社が見えて来た。朝早くから人は多く七五三の子供の姿もあった。

 ご挨拶した後、中の茶屋へ向かった。

2合目の御室浅間神社までの登山となった。

駐車場には数台の車がいた。どの辺りかは覚えていないが石の鳥居の両脇に狛犬ならぬ狛サル?がかわいく手を合わせ立っていた。道はだんだん険しくなり、道の凹んだ穴ぼこやあちらこちらに大きな霜柱が立っていて珍しいので其処をシャリシャリと踏みながら歩いていた。しかし、昨晩の事もあり、私はみんなから後れていった。体力の低下を実感道脇に落ちていた棒を杖代わりに歩いたが、登山靴でもなかったのもあり、よく転んだ。やっと建物が見える。着いたかなと思ったら、1合目の鈴原天照神社だった。お清めしてご挨拶して、又登り続けたが、いっそう傾斜がきつくなった。

みんなが先に行こうと開き直って、ふうふうと休みながら登った。

やっと着き、休む暇も無く鳥居からお社の周りを手分けしてお清めし、ノワタリさんが歌われ、私達は祝詞をあげ祈った。すると、ノワタリさんが「今日はコノハナサクヤ媛様がおちついていらっしゃって良かったわ。」と言われた。2年前行かれ時はとても興奮されていて「媛様、お鎮まりくださいませ。」と何度も申し上げ、落ち着かれたそうであるとお聞きした。その頃、水蒸気が出ているとかと言うニュースを聞いた事があり、危なかったそうである。

下山は登り以上にきつく、表面が凍っていた所もあり、私だけでなく何人もが転びながら降りた。

その後はで新屋山神社の奥宮へ行った。入り口付近で大きな御札を大切そうに抱えてきた男性とすれ違った。宮司さんが居られて紙垂でお払いをされたが「商売繁盛、良縁祈願、大願成就…」と言われ、思わず何だこりゃと思った。説明どおりストーンサークルの周囲を三回周ろうと行くと、お社の他馬の置物があり私達だけでなく後から来た人たちと周った。

何か変だなと思っていたら、ハルちゃんが「この前来た時はこんなに手を入れてなくてよかったんだけどな。」と行った。それでも次々と参拝者はやってきた。後で調べると金運が良くなると書かれたらしい。しかし、ちっとも私の金運は良くならなかった。

そしてその本社へ御参りに行った。手水舎でペットボトルに御神水を2本ほど頂き、お参りすると此処は靴を脱いで拝殿へ上がるようになっていた。願いがかなう石と言うものもあったが、誰も触らなかった。ご神前の前へ座るとお三宝に千円札数枚と硬貨が10枚ほど載せてあるのが目に付いた。先程、ご神水を頂いた事もあり、千円載せて退座すると、後で気付くと羊羹を人数分頂いていた。

もう、お昼もとっくに過ぎていたが、国道にでるとなかなか駐車場が空いている店が無い。そのうち渋滞になり、先を急ぐので高速に載ると又渋滞で進まない。結局、3時頃サービスエリアで銘々がおにぎりやサンドイッチを買って済ませた。

高速を降りて、裏道を走り江ノ島へ急いだ。片瀬の海岸からは目の前に江ノ島は見えるのにさっぱり進まない。橋の上で日は落ち、真っ暗になったところでやっと駐車場に入れた。何か神社で催し物があるのかしらと思ったが、地元の人に聞くと連休の中日で多いそうだ。若いカップルが目に付く。昔、アベックで弁天様をお参りすると、女神様が嫉妬して別れると聞いた事があったが。。。

何処も食べ物屋は込み合っている。

夜の神社は参道ほどは人がいなかった。一つ一つお参りして、奥の洞窟近くの海岸へ降りた。

対岸の灯りが遠くに見えた。夜釣の人の姿もあったが、その後上に上がるともうお店は終い支度になっていた。しかし、島の中のお店は相変わらずいっぱいで、島から出て鎌倉市内のおそばやさんで夕食を済ませた後、みんな疲れが出たこともあり、又甘味処へより帰宅した。


2008年11月弟橘媛様像と成田

2011-06-12 23:19:38 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

また、2008年の旅に戻る。以前にも書いたがこの年の9月仕事中、からの台車を全速力で押して走っていて急に取っ手が倒れ、頭からアスファルトに転倒した。倒れても台車は走り続け、その性で顔の左半分は擦り傷になり、首は捻挫してしまった。

頬から顎にかけた1番深い傷跡は半年以上消えなかった。首の捻挫は先日のノワタリさんの言葉で気付いたが、今世でまた首をきられる訳にもいかず、捻挫と言うことで浄化されたのだろう。ありがたいことに4,5件向こうに接骨院があるおかげで、私は片輪にならずんでいる。

その傷もやっと癒えた11月下旬の連休に弟橘媛様の像にお参りする為に上京した。

2003年の11月にノワタリさんに案内されて走水神社、二宮の吾妻神社はお参りしていたが、時間が無く行けなかった富津に行く事が目的だった。

今から20年前、霊能力のある友人の兄さんが私に対しての弟橘媛様からのメッセージを伝えてくれた事が始まりだった。

朝早く、ノワタリさんと横浜の叔母や従兄弟、妹、姪、ハヤシさんで多いので前日からレンタカーを借りて出発した。アクアラインを通ると、あっという間に千葉県に着いた。残念ながらその時を忘れていて海面上にが沢山集まってきているような筋が出来ていた。

丁度対岸は海に入られた観音崎である。はるか遠くにぼんやりと対岸が見えた。ヤマトタケル命を助ける為、覚悟して海に入られたが、媛様のお付の者も全員入水されたと言う。お付の者達は媛様のような覚悟は無かったらしく、その思いが走水神社でノワタリさんが受け取られた事を思い出した。

像の周りを手分けして清めていたら、姪が「私、此処覚えてる~、以前この近くで合宿をしたの。その時帰った後、気胸になったの。」と言ったら、ノワタリさんが「その時に弟橘媛さまが助けられたのよ。」と言われた。確かに胸が痛いと言って姪が新宿に住む従兄弟の所へ行き、始めは喘息が出たのだろうと思っていたのが治まらないので、病院へ連れて行って貰った事で事なきをえた事があったのでお礼を言った。ほって置くと死ぬ事もあると聞いた。みんなでお参りした後、海を清め、祝詞をあげた後、お花を投げ込もうとしたら、「もう一箇所にいるみたいだから、少し残して。」とノワタリさんが言われた。

ノワタリさんが歌われているのをで撮った写真を見ると水平線が白くぼんやり光っているのに写真を載せていて気付いた。これは媛様が喜ばれているのだろうと思う。でも、なぜ弟橘媛様が私の前に出られたかは未だに分からない。

その後、予定に無かったが東京観音へお参りに行った。

観音様に着いた時、入り口付近に観音様のお社があった。しかし、花は枯れ、お社も埃っぽかった。

上は私のの物であるが、その次の2枚はノワタリさんが祈っておられる時に写したが、光に観音様が包まれているようになっている。

下はお清めした後で、大変すがすがしくなっているような気がする。大きな観音様の像の展望台へは頭の中を踏むようで行かなかった。

その後、高速を走り成田へ向かった。成田さんの門前はとても賑やかで、うなぎの良いにおいがしていたが、途中のサービスエリアで遅い朝食を取っていたのでまだ食事をする事が出来なかった。お不動さんにご挨拶をして、私達は門前のレトロな町を歩いて買い物を楽しんだ。

栗羊羹を買いにみんなで入ると、お店の人はみんな白いコートに白いズボンだったので「看護婦さんの旅行ですか?」と、聞いてきた。いくらなんでも病院外では仕事でない限り、白では無いでしょと言いそうだった。ちょっと古めかしい喫茶に入っても満席でお店の人に聞くと「連休だからかしら、普段こんなに多くないですよ。」と言われた。美味しそうな食べ物屋さんが並び私はワクワクした気分だった。美味しい物を良く知っている叔母は土産に佃煮を買ってくれ、家に持ち帰ると父が「うまいうまい!」言いながら一人で食べてしまった。

の中で叔母が買った団子を食べながら、先日行った麻賀多神社へ向かった。その時駐車場には他に車は無かった。たった、3年でこんなに違うとは!

天之日津久神社は思っていたよりも小さなお社で杉木立の木漏れ日の中に静に佇んでいた。今回行った時よりもず参拝者は少なく、心置きなくみんなでお社をお清めることが出来た。みんなでゆっくりとお参りする事が出来た。

社務所には誰も居られなかったが、一人の叔父さんが由来書を手渡ししてくれ説明をしてくださった。

この日、行きたかったお媛様の所と天之日津久神社に行く事が出来て私はとても満足した。

 


2011年6月箱根

2011-06-11 23:38:11 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

箱根神社

翌日は江ノ島でもと思っていたら、妹がの中で箱根のパンフレットを持ち帰った事から箱根神社と九頭龍神社へお参りすることになった。妹はまだ箱根に一度も行った事が無いと言う。横浜の叔母の家のを貸すと言われたが、私達は横浜市内を走る自信は無い。

それで小田原までで行き、其処からを借りる事にした。ほんの数日前、ノワタリさんは箱根へ行かれたが今回も同行してもらうようになった。

妹の運転で箱根新道を通って行ったが、思ったよりも近くすぐに元箱根に着いた。その日は曇りでちょっと肌寒く、残念ながら富士の姿は見えなかった。

私達は元箱根にを停め神社まで歩いた。ノワタリさんと出会った8年前に来た時は何処も人が多かったが今回は震災の影響だろうか少し寂しかったが神社は参拝者は多かった。特に九頭龍神社の方は列を作っていた。後日調べると縁結びで有名だそうだ。

その後、次の九頭龍神社の本宮へ行くのに湖畔を歩いて戻っていたら湖は風があり結構波が高かった。でプリンスホテルまで行くと、道が無いと言われ上の道に上がったが、その後で其処の駐車場に停めていけばよかったことに気付いた。しかし、そのまま湖尻まで進む事にした。

本当に湖の中からが出てきそうな感じだった。

湖尻から3人で緑のトンネルの中をお清めの塩や酒、塩を持ってボツボツ歩いて行ったが、うっかり運動靴に履き替えなかった事を後悔した。ストッキングでは靴の中で足がすべりアップダウンの多い道は歩きにくかった。サイクリングの人やウォーキングの人とよくすれ違った。

九頭龍神社は入り口で入場料を払って入った。神社で入場料がいるなんて珍しいと思った。しかし、中はきれいに手入れしてありゴミ一つ見当たらなかった。

まず白龍神社へお参りした。ここの鳥居もお社もすべて白く塗られていた。うっかりしての中に置いて来てしまい、妹のの写真である。湖畔の遊歩道を歩き、九頭龍神社へ行くと、参拝者が次々とやって来たのでご挨拶して湖畔に出て手分けして湖を清め、ノワタリさんは歌われた。私達は龍神様の御真言を唱えた。以前、観光船で見て気になっていた鳥居はこの神社だった事が分かった。

湖にある鳥居は霧が出てきてとても幻想的だった。突然、視界の隅に霧の中から音も無く遊覧船が入った。姿からして遊覧船ではなく幽霊船みたいだと言って笑った。

市杵島姫様のお社にご挨拶をすると、「お達者で!」と声を掛けられたと言う。「え!神様が」とまた意外なお言葉に笑ってしまった。

もう一度九頭龍神社にご挨拶しようとすると、一人の女性が熱心に祈っておられたが、時間が無いので私達もお参りしたら、ノワタリさんが「胸で大きく十時をきるのが見えた。」と言われ、以前二見ヶ浦の夫婦岩前で写した写真に私達の胸に十字架の影が写ったり、剣山を下った所の神社でノワタリさんが日本語でない言葉で祈っているのを聞いたりした事を思い出した。

そして除福伝説が思い浮かんできた。そういえばこの近くに宮ノ下と言う地名もあると、また、十和田湖でノワタリさんは湖畔は早くから開け、水を巡って争いも多かったと言われたので此処も早くから開けていたのではと思った。

湖畔を歩きながら出口に向かっていると案内板にプリンスホテルのマークがあることに気付いた。通りで入場料がいるはずだ。見回すと、コテージや東屋もあった。そう思いながら湖尻まで歩いて戻る途中、このホテルから続く広い敷き地が余計な事だが戦前は何処の宮様の持ち物だったのだろうかと気になった。そしてその敷地の境を出た頃、急に足元でカサコソと落ち葉が音をたて飛んできたとおもったら、突風で後ろから私達の背中を押された。その時ノワタリさんが「押し出した。」との言葉を貰った。今回はお言葉が多く、気さくであった。

に乗る頃には小雨が降ってきた。近くで昼食を取らなければ、もう時間が無いので迷っている暇は無い。目に付いたおそばやさんで軽く済ませ、、湖畔を一周しようと思いスカイラインを走ったが霧が濃く全く何も見えなかった。これではお金を払って霧の中を走ったものの様であった。

大急ぎで羽田に出てノワタリさんに中華料理をご馳走になった。私より30分早い便なので妹が一足先に出た後、十三湊でノワタリさんが見られた槍を持って走っている男の話になった。「ただの兵士じゃないのよ。立派な鎧を身に着けてたから武将よ。」と慰められたが「でも、負けた方でしょ。」「ええ、首を刎ねられてるわ」と言われた。

前回津軽の旅で首が痛く重かった事を書いた時、藤原経清さんかと思っていたら私の前世の一つだった。私はこのブログでも2度ほど書いたが、よく怪我をする。骨折、ヒビ、裂傷で10針縫ったとか今までにあり、捻挫を意入れると片手では足りない。そそっかしいからだと思っていたが、それは過去を浄化しているのだと教えられた。

妹は「緑色の着物が見える。おひい様じゃないけど…」「お局様ですか?」とお尋ねすると、「宮廷の女官です。おひい様の側近ですね。」と言われたので、帰宅してから伝えると、「貴族だと思ってた。」とぬけぬけと言う。以前はその他大勢の百姓と言っていたくせに!

今回の旅は終わったが、一時休みがあったがまた続けてきそうな気がした。

羽田も節電で動く歩道も中央部は止められており、右ひざが痛くなってきた私には重いかばんがきつくなっていた。松山行きは遠くやっと歩道が動き出した所で荷物を下に置いていつもならば歩いているのにそのまま乗った。

からの東京の夜景も当然の事ながら灯りが寂しくなっていた。年末に危惧した事は起こり始めてきたのだろうか。

帰った翌日、富士山へノワタリさんは呼ばれた。麓から2合目の浅間神社へ行かれるようになった。また、その後、3月11日の大地震で行けなかった浅間山へ今月中に登るようになった。

 

 

 


2011年6月麻賀多神社と香取神宮

2011-06-11 15:17:17 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

本来ならば、引き続いて2008年の旅を書く予定だったが、急に成田の麻賀多神社に行く事になった。

先月の事、ノワタリさんの前に聖徳太子が数日間現れて消えなかったと言う。始めは子供の姿で現れ、後昔の紙幣のお姿で出られたと言う。なぜ?とノワタリさんは不思議がっていたが、月末に岡本天明さんが神主の格好で紙垂を目の前で振られる姿が消えないと言われた。三重の方は奥様が亡くなられているので、麻賀多神社へ行かねばならないのだろうという事だった。

今回は遠くないので当日の4日の朝一便で羽田で九州から出てきた妹やノワタリさんと今回運転をしてもらうウチダさんと合流した。

久しぶりだったのでの中は賑やかだった。

大杉の御神木

麻賀多神社に着くと、が沢山停まっていた。ウチダさんが「珍しいな此処にこんなに居るなんて」と言い、たぶんパワースポット巡りの若い人達だろうと思っていたら、鳥居から10人余りのリュックを背負った人たちが出てきた。地元の史跡めぐりでもしているのだろうか中年ばかりだった。それでも境内に人は多かった。

拝殿にご挨拶した後。天之日津久神社でウチダさんは岩笛を吹き、ノワタリさんはお清めされ、祈っていると「時代が変る。」というメッセージを受け取られた。どのような時代が来るのか分からない。日月神事に出てくるような時代かもしれないが、落ち着くまでは神事と同じ様に大変な事が待つ受けているような気がする。

ウチダさんによるとこの天之日津久神社のお社は昔放火に遭い、それで石になったそうである。

その後、境内の他のお社にご挨拶をした。印旛国造神社と馬来田郎女神社と言う珍しい神社が気になった。国造や郎女などと学校時代に歴史の時間で耳にして以来だ。当然、この神社を創建されたので祀ってあるのだろう。それと聖徳太子が出られた謎が解けた。推古天皇の時代に造られたと記してあった。境内にも大杉の御神木があったが、この辺一体に杉林が多かった。

その足でこの神社を作られた国造の古墳の所に奥宮があると言うのでそこへ行こうとしたが、「いつも迷いながら行くので順路がはっきりしないし、住宅街でこれといった目印が無い。」とウチダさんがやはり迷われた。辺りはウチダさんの言われる通り、古墳が多く道路もアップダウンが多かった。

「舟形で800番台の番地で幼稚園があったんだけどな」と言われ、幼稚園を目印に走ったが、たどり着けない。偶然在った電話ボックスの電話帳で調べるとくすのき幼稚園でその番地にナビをあわせ やっとたどり着いたが、そう遠くはなかった。

其処はとても良いエネルギーだとノワタリさんが言われていた。

ここも杉林に囲まれ、とても静かだった。ここで私達はお清めをし、お参りした。ここでもウチダさんは岩笛を吹き、ノワタリさんは歌われた後、ウチダさん「岩笛、喜ばれたわよ。」と声を掛けられた。穏やかで良いエネルギーの所だった。

その後遅い昼食を取り、何処へ行くか決めた。ノワタリさんは平将門さんの祀られている茨城の国王神社へ行きたそうだったが、時間が無く今回は香取神宮へ行くことにした。

しかし、何処へ行くにも山を越えなければならない四国と違い、ずっと山などは見えず土地勘も無いのでどの方向へ向かっているかも分らないが、関東平野の広さと交通の便利さを感じた。

桜門

要石

 行く道筋、香取神宮のお社は黒い色に金のラインが入ってとてもモダンで綺麗だとウチダさんが行っていた。それと伊勢神宮以外で正式に神宮と名乗れたのは此処とあと鹿島神宮だと教えられた。

私と妹は今回初めてである。香取市内へ入ると、ブルーのシートをかぶせてある屋根が目に付きだした。古く立派な商家なども気の毒に痛んでいた。ここから海岸へ向かうと、被害の大きかった旭市だとウチダさんは説明してくれたが、人事では無い。今ならば、あちこちからの救援はあっても、東海地震をはじめ3つ起きてしまうともう救援の手など当にできない。

神社の周辺もブルーシートの屋根が目に付く、門前の店屋のおばさんたちが呼び声を掛けてくるが、ウチダさんに言わせると「あまり元気がないな~。以前はもっと元気があって粘ってたけど。」と言うが、結構客引きは賑やかだった。しかし、午後3時も過ぎると、参拝者はそう多くない。

神社の参道の緑は優しく綺麗な色だったが、石灯籠があちこちで倒れて壊れていたて3月11日の大地震の強さを感じた。

言葉通り、朱塗りの門に黒に金色のラインでどっしりとして立派だった。藤原氏の財力か?藤原氏はこの神社と鹿島神宮が本元で春日大社は分社でこちらの出だと言う。

先程の成田周辺には古墳も多いと聞いたが、その昔ここは近畿と違った文化圏内で栄えたのだろう。

面白い事にノワタリさんは「金が掛かっている。」と言う言葉を頂き、苦笑いをした。その後、地震の元の大なまずを押さえていると言う要石の方へ行った。要石の前のお稲荷さんのお社の足元の狛犬は犬でなくお狐さんの姿で珍らしい格好をしていた。

鳥居の外へ出ると店屋のおばさんたちの姿はもう無かった。羽田まで送ってもらうともうすでに午後5時を過ぎていた。其処からバスで横浜へ出た。