Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2005年9月 海のお清め

2009-11-30 08:57:14 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

冬のかもめ

2,3日前の暖かい日の午後、かもめが1羽ぽつんとブイの上に乗り、休んでいた。よく見る光景だが、私は好きだ。写真を撮った後、視線を感じ振り返ると、後ろの家の2階の窓から、おばあちゃんもかもめを見ていた。目が合って互いに微笑んだ。

200年9月 ノワタリさんが、私の町にやってくる事になった。何かと、お世話になっている人達と喜んで心待ちにした。ぜひ、自慢の魚料理を食べて頂こうと思っていたら、「海の物も、畑の物も口にしてはいけない。」とのメッセージを受け取られおり、お米持参で来られた。「海から、大勢の人が次から、次と上がって来るのを見たから、う~ん、魚は食べれないわね。」と言われた。でも、畑のものは関係ないと思うんだけど...。

海で亡くなった人たちの慰霊と、私の町の神社をお参りすることと、ノワタリさんの神棚に在った御神鏡を海に収める為、来られた。

真夏のように暑く日のきつい日だった。お昼過ぎには、仕事で知り合ったフジワラ姉妹とそのお友達3人が来て、あっという間に大人数になった。若い女の子達はきゃぴきゃぴとにぎやかだ。

総勢7人で行動した。まず、近くの湾の奥に手分けして清めノワタリさんの御神鏡を海に納めた。鏡は揺れて光を反射しながらゆっくりと底に沈んでいった。沈んでもしばらく底から光を放っていた。

その後、町外れの湾の外近くまで行き、いかだの上から、海のお清めをした。祝詞をあげていると、船が通った訳でもないのに突然、ザワザワザワと波が押し寄せてきて、いかだが数回大きく揺れた。「あ、喜ばれてるわ」と思ったら、女の子達は始めての不思議な現象にキャーキャーと喜んでいた。

近くの宮島様にお参りした。ここは小さな社だけだが、地元の人達がきっちりとお守りしていられた。町の中に入るまでに私の神棚の鏡も海に投げ込んだ。先ほどと同じく、海の底に沈むまで中で光を反射していた。

今度は町の北側にある多賀様に行った。ノワタリさんは境内に入るなり「ここは兼業ですね。」と言った。確かにその通りだが、なぜ、解るのだろう。お清めしてお参りして、その上の大山ツミの神様に行くと社殿は潰れて、木材は山積みになっていた。みんなでせっせと御神酒をかけ、塩を撒き、お水をかけた。その日はそれで日暮れになり神社参りは終了。翌日も、残念ながら、氏神様以外はすべてそういう神社ばかりだった。

友人のイタリアンレストランに行ったが、ノワタリさんは口にするものがなく、パスタの麺のみ召し上がった。その夜は、お世話になった人、ご相談のある人と途切れることなくやって来て、最後の人が帰ったのは深夜だった。本当にお疲れ様です。

翌朝も、磁場の悪い私の家と仏壇を見て頂き、また、町に出かけた。まず商店街にある金比羅さんにいったが、ここは鳥居も台風で壊れ、拝殿もなくなり、ぼうぼうの草むらの中に神殿があるだけだった。御神木も近所の人が「葉が落ちる」と言って伐採している有様だった。その前に住んでいるノワタリさんにお世話になった友人のご主人いわく「時々、牛の糞の臭いがする。それは牛車に乗って神様がやってきてるのではないか。」と笑いながら言ってらした。ノワタリさんは「ちゃんと御祀りされたら、この商店街ももっと活気があるのにね。」と言われていた。

50年前ぐらいまで港にあり、この町を守ってこられた大神宮様は埋め立て後、他の場所に移してあったが、その名残として元の場所に小さな祠のみ残っていた。お参りすると、「お酒をかけてくれ」と言われ、柵の外から、御神酒をかけた。

その大神宮様は人に聞くと、移転した頃は社務所も、結婚式場もあったが、結婚式場は空手道場となり、残っているのは大きな石の鳥居と荒れ果てた御神殿のみで、高校の通学路で毎日前を通っていたにもかかわらず、私は気付かなかったし、ほとんどの人から忘れられていた。鳥居をくぐっただけで、気分が悪くなり、ノワタリさんは「足が痛い!痛い!」とつま先歩きで歩かれていた。塩、水、酒を撒くと幾分和らいだ。神殿もくもの巣だらけでお清めしていると、隅にある家(元は宮司さんの住まいだと思う)から、おばさんが不審そうな顔をして覗いていたので、わけを話し、「ご祭神様」を尋ねると、関心なく「知らない」と言われた。たぶんお伊勢さんだと思うのだがそれも不明だ。今でも、一人で行けと言われたら、絶対嫌だ。怖い!

氏神様にもお参りしたが、「これだけの立派な所なのにもったいない。」と言われた。そうなんだ。宮司がえげつないほど金儲けに奔っていて身が入ってないのだ。

結局、私の町の神社はほとんど機能していないのではないかと思う。

最後に先祖の住んでいた家の敷地の隅にご先祖が子孫の繁栄を願って建てたという神社に行った。今はみかん畑になっている。ノワタリさんと知り合った頃、お友達の占い師さんに言われて知ったので私も行くのが初めてだった。線路で分断され、道が無いのでみかん畑を横切って入ったが、鳥居の中は背の高さまである雑草に覆われ進めず、蛇が出るのではないかと思うぐらいで、しかたなくお社めがけて、塩、水、お神酒を投げ込み祝詞をあげた。これで終了。

ノワタリさんを空港まで送るとフジワラ姉妹とお友達が来ており、その中の一人が塩屋さんの娘さんで、私達がドバドバとお塩を使うのでお塩を10キロお土産に頂いた。2日間、ノワタリさんは大忙しでお疲れになったのではと思う。有難う御座いました。

 


2005年広島 宮島 2

2009-11-29 11:50:48 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

弥山山頂

不動岩前

その後、宮島に渡り、日が暮れるまで厳島神社を始め、町の中を周った。残念ながら、朱色の大鳥居は干潮で、海に浮かぶ姿は見れず、社殿の回廊も砂浜に建っていて、何か間が抜けていた。清盛神社を周り、宮島歴史民族資料館に行った。立派な商家の佇まいだったが、中を歩いているとノワタリさんが、「痛い、誰かここで斬られてる」と言って痛そうに体に手を当てていた。裏の倉庫のような資料館に教科書に載っていた清盛像や、島のミニチュアがあり、人が住んでいるのは厳島神社の周辺だけで後は、ポイント、ポイントに神社があった。やはりここは神の島で普通じゃないと思った。しかし、寒気のするものもあった。二位の尼の像だった。壇ノ浦で入水してこの島に遺体がうち上げられたと書いてあった。縁のある島に着くなんて...

その後、水族館を通り、大本神社まで行った。その浜辺の景色が気になった。

以前も書いたかもしれないが、6月の末頃、父と二人出雲大社に行くという夢を見た。夜の真っ暗な峠の上で下に見える侘しい灯りを見ている。(この光景は以前も見た事がある)峠を下りると出雲大社に着いたところだったが、昼間になり、現実の風景とは全く違い、鳥居も無い。門を入ると、昔の建物があり、その奥に松林が見える。その向こうは海らしい。建物の横に大勢の人が鎧をつけて立っている。武者行列かしら...その横に斜め横にしか見えないが立っている人たちと違い、綺麗な鎧姿の若い男性が座っている姿が見えた。肘宛というか籠手?それが白地に朱の鹿の子かアサノハのような柄の印伝?の様な物をしているのを見た。それは目が覚めても強烈に覚えていた。それをノワタリさんに話すと、その男性は私の前世の一つで、その時代父と一緒だったと言う。その後、彼は落馬か何かあり、右の腰下から怪我をして両脇を抱えられて落ち延びている姿を見られた。実際、私も子供の頃、事故で右腰から足先まで骨にヒビが入りギブスをした事があった。長くなったがその時の浜辺では?と思った。400年以上経っているので考えすぎかしら。

大願時に行き、厳島神社の裏を通り町に出たが、何か頭が痛い。二位の尼だけでなく、安徳天皇の女官達であろうか、その官位の付いた名前らしき人たちを祀ってある所があった。

その夜、フェリー乗り場前の屋上に温泉のあるホテルに泊まった。

翌朝、バスで紅葉谷公園を通り。ロープウエイで弥山に登った。ロープウエイからの展望も良く、森林の上を通り、瀬戸内海をずっと遠くまで見渡せた。まるで海の上を飛んでいるみたいだった。その途中、ロープウエイを乗り換える前、ノワタリさんが不思議なビジョンを見た。「山の中に集落のようなものが見える」と言った。前日のミニチュアには山の中に集落は無かった。後で気付いたが、陶軍の敗残兵が山の中に潜み、夜な夜な貝などを採りに下に下りたと言うのを何処かで読んだ。たぶんそれだろうと思う。

獅子岩駅に降り、まさか下山は別ルートになると思わず、サルが居ると言うのでコインロッカーにノワタリさんはナップサックを入れた。天河神社も弁財天様、奥野宮のある山も弥山、この宮島のご祭神も山も同じ名前、何かあるのかしら?

弥山本堂、三鬼堂、霊火堂、文殊堂、観音堂と周り、奇岩の沢山ある山頂まで行き、店やで一息ついた。山頂からの眺めはとても良く、角度を変えれば四方が見えたように思う。潮の道引きで水が上がったり下がったりすると言う不思議な干満岩に手を入れたが水は無かった。水掛地蔵堂、弥山神社に行ったが、残念ながら時間が無く、奥の院には行けなかった。

仁王門跡という名前が気になり、それを目指して駆け下りた。動く度に携帯に付けていた鈴がずとかわいらしい音を鳴らしていた。どうもここも戦場跡みたいだった。そこを過ぎると、小さな川沿いにそって駆け下り、降りたところは昨日の大本神社の前に出た。私達は合戦の跡をずっと降りてきたみたいだった。これも鈴での音で清めたらしい。

その後、土産物店街にでて、熱々の紅葉饅頭を食べたり、それぞれお土産を買い、遅い昼食に宮島の牡蠣を頂いた。平和記念日の午後なのでか町は昨日よりもずっと人が多く、外国人の姿も目に付いた。

妹が、友人二人に入試のお守りにしゃもじを買い、ノワタリさんに御祈念してもらったが、不思議そうな顔をされ、「どちらだったか、御祈念してたら水が押し寄せてくるのが見えたのよ...変ね~」と言われていた。その1ヵ月後、台風14号の被害に遭い、新築して間もない家が全部浸水した。

宿に帰り、売店で綺麗な絵ローソクを買い、宮島を離れた。広島に着いてもお茶を飲む事もでき無いので、味気ないがそこで三方に別れた。もう夕方であった。

ノワタリさんのナップサックは幸いお金は入れていなかったが、後日郵送してもらった。

 


2005年広島 宮島

2009-11-27 09:31:44 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

2005年8月の平和記念日の前日の広島に行った。原爆が投下されて60年もたっているのに水を口にしてはいけないと言われていた。当然、食べ物も駄目で残念ながら広島風のお好み焼きも食べる事ができない。一番最初に着いた私は駅の構内の飲食店の看板を横目に見ながら、ペットボトルの水を買った。しばらくして、ノワタリさんと妹と駅で合流した。いつもの酒や水、塩の他お花やお線香を用意してきたが、駅の売店にそれは多く置いてあった。まずお茶を飲んで一息つくと言う所だが今回はそれもままならない。

すぐタクシーに乗り平和記念公園の方に出かけた。角を曲がった途端、ノワタリさんが「あら、やだ~呼んでるわ。おいでおいでって言ってる。」と言って苦笑した。その方向を見るとコンクリートの建物の上の赤い鳥居のお稲荷さんが見えた。それは帰りによる事にした。前日とあって、催し物の案内や平和団体がスピーカーで叫びながら行進しているのを目にした。

まず最初に、爆心地に行った。もし、普通の家が建っているのなら怖いなと思ったが、繁華街の駐車場だった。説明版があり、それを読みながら付近を歩いた。

平和公園の中に入ると沢山の人お掃除をしたり、翌日の準備をされていた。

原爆死没者慰霊碑、原爆供養塔、いろいろな石碑、平和の鐘、周ってお参りした。亡くなられた同胞の方達の慰霊碑に韓国の人達もお参りされていた。はすの花が咲いていたように思う。そしてドーム前の川でお水や塩、御神酒を撒き、花を流し、ノワタリさんは歌われた。その間私達は般若心経、観音経、光明真言を唱え、お参りした。護岸は綺麗に整備してあり、水は綺麗だった。しばらく祈り、又公園内に入ると、原爆の子の像があり、沢山の千羽鶴が奉納されていた。そこに来ると人も多かった。そこを離れ 人気の無いベンチで一休みして、昼食代わりに持参したラスクを口にした。

30年前、友人がもっと河口の方に住んでいる時、「今でも川から人骨が出るのよ。」と言っていたのを思い出した。母が呉の海軍工廠に挺身隊で行っている頃、学徒動員で多くの学生達が来ていたが、先生になるといって広島に帰った学生達達が運の悪い事に犠牲になったと言う話を思い出した。毎年、この頃原爆の特番が多いがその頃被災に遭う会う前の町の地図を復元したという番組あった。戦争とは言え、一般の市民を犠牲にしてしまうとは惨い。小学校5,6年の頃その写真集が図書館にあり、開けたが余にも惨く最後まで見ることは出来なかった。今、この国、世界のあちこちににたくさんの原子力発電が作られているが、ミサイル一つで一瞬にこれ以上の被害がでてしまう。生活の利便性と引き換えにそんな危険と背中合わせに私達は生活している恐怖を感じた。

大田川は先ほどの川とは全く違い、船が多く停留していたが生活排水で濁り、臭さかった。こちらの川で亡くなられた方も多いはずだが...と思っていたら、ノワタリさんが「ここもお清めよ。」と言われたので、近くのコンビニに走り、川辺まで降りて水、塩、御神酒を撒いたが、1度では済まず、何度も何度もコンビニを往復した。花が無いので丁度川沿いの木に赤い花が咲いていたので、それをみんなでもぎ取って川に投げ込んだ。又そこで、ノワタリさんが歌われ、私達はお経を上げた。歌が終わる頃、澱んでいた川の水は花と一緒に流れていき、臭いも鼻につかなくなった。「喜んでいるわ」とノワタリさんが言われた。駅に行く前に先ほどお呼びのあった神社でを降りて、びっくりした。「水木しげる、荒又宏、京極夏彦」という怪しげなお三方の名前の書いてある幟がはためいている。

それだけでも怖い稲生神社と書いていなり神社と読むそうだ。ご祭神様は豊受大神、大国主命、稲生武太夫公霊神とある。この最後の神様が妖怪退治をされたと言うので幟の訳は解った。五穀豊穣、商売繁盛、魔よけのご利益があるそうだ。享保年間の大火災を免れた事から火災よけの神様であるとも書いてあった。

コーヒーを飲む事も、食事も出来ないので宮島の船乗り場までJRで出た。船乗り場でもうここまで来ればよいだろうと思い、シューアイスを買って食べたが、袋を見て、大笑いした。製造は広島市内だった。

 

 

 

 

 


沖縄慰霊の旅 2005年6月

2009-11-24 23:12:22 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

2005年の6月沖縄の終戦の日までにノワタリさんは1週間掛けて一人で周られた。私は計画だけで同行していないので、残念ながら写真は無い。

今回の目的は、慰霊ともう一つ、御神鏡を沖縄の海に奉納する事だった。ネットを調べ、例のごとく資料を送り、行くポイントを絞り込み悪戦苦闘しながら予定を立てた。唯、前年の北海道よりはずっと楽だった。沖縄に行った事が無い私がプランを練るのだから、ノワタリさんも行ってからご苦労だっただろうと思う。こうやって書こうとしたら、参考にしたサイトが見つからない。ノワタリさんと話していると少しづつ思い出して来た。

津島丸記念館を見つけた時、数年前NHKの教育で放送されたアニメを思い出した。私はこの話をそれで始めて知った。子供達の乗った船が米軍の魚雷を受け沈没市、生き残っても又沖縄戦で亡くなった子供や家族を失った子が多かったことを。もっと放映されば良いのにと思う。多くの人は私と同じように知らないだろう。

母の親戚の者も、沖縄で亡くなったとして葬式も済ませていたが、戦後ひょっこり帰ってきた。運良く地下の塹壕で気を失っていて捕虜になっていた。そのおじさんは前歯が数本欠けていたのをハワイあたり?に連れて行ってもらい治療してもらったと言う。結局、国籍は関係なくその上官の人柄だろうか?

父の同級生も3人1945年の4月の同じ日に戦死している。計画を立てている段階で気が重かった。

ノワタリさんは本島だけでなく、波照間島だけは遠くて行けなかったが、伊江島、渡嘉敷島と周られた。軍関係の壕、激戦地、石碑、平和祈念公園、米須霊域、喜屋武岬と行かれたが、何処も気の毒でかわいそうだったが、白梅の塔の辺りの病院跡は大変だったと言われた。普通の人が行かないような壕に数箇所行ったと言われた。「すぐに足音がして後ろにいるのよ。」と言われていた。本当にむごい光景ばかり見えていたらしい。

御神鏡はアマミキヨとミネリキョという(イザナギイザナミの神様のような神様)神の島と言われている伊計島の海に奉納された。その島着いた日、丁度女の神様の祭りで女性ばかりで祝っていたと言う。その海の先を見ながら、その前年に行ったグアムを感慨深げに眺めたと言われた。又、予定は無かったが、その島の真ん中に日本人の偉い人の墓?があるという事で御参りされた。

帰られてから、しばらく体調は戻らなかったと言われた。私もこの頃から、資料を調べるだけで、影響を受けてしまい体調がおかしく成りだした。本を読んでも同じで、最近やっとマイナスを受けないように香を焚くのが解った。今回も神戸の分も香を焚きながら書いた。

ノワタリさんのお供をし始めて、現実の歴史、現場に行かなくとも地図を見ながら、時刻表と首っぴきで計画を練るので勉強になる。ブログを書く時又記憶を頼り、調べなおしてするのは復習みたいだ。

先週、風邪気味な事もありストレスがたまっていたらしく、私は大散財をしそうになっていた。着もしないファーの着いたコートにクロコのバッグ、エルメスの時計を買いそうになっていた。30年近く所属していた会を辞めて無性に寂しくなった事や、仕事も失敗ばかりでクサクサすることが多かったが、もう成り行きに任す事にしたら楽になった。今夜、ノワタリさんに話すと、「揺さぶりだったわね。」と言われた。お恥ずかしい~。

昨日、抜けない風邪をすっきりさせようと両親を誘って近くの温泉に行った。サウナを出たり入ったりしていたら声を掛けてきた人がいた。20年くらい前のサークルで一緒だった同じ年の女性だった。彼女は子宮癌を患ってから、脚にリンパ液がたまってパンパンに腫れていた。サウナで血流を良くしたら大分良いそうでマッサージされていた。そういう大変な病気を持ちながら明るく前向きで、前の会社がなくなって、学校に3年間通いパソコンや介護を勉強したと言う。50歳過ぎては新たに就職も難しくで片道2時間かかる会社に通って頑張っている。ストレスがたまると、又新たな癌が見つかると言う。しかし以前の彼女からは想像出来ないくらい変わっていたが私は生きる元気を頂いた。

 

 

 


阪神淡路慰霊の旅2005年4月その2

2009-11-23 10:14:02 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

保久良神社岩群

その日、神戸に着いてから金鳥山の中腹の保久良神社に向かった。もう暮れかけていたが、散歩に来た人たちが疎らにいた。境内は綺麗に修復されてあり、折れた鳥居の石は並べて在ったが、古くから「灘の一つ火」と言われた石灯篭も飛んだと書いてあった。そこは大阪湾までずっと見舞わせる眺望の良さだった。古代の祀場の後があるという境内はしめ縄のある磐座と岩が点在して不思議な場所だった。冬の朝、6時前でもお参りや散歩にこられた方が犠牲になったと言う。

お参りした後、麓の岡本の学生街の喫茶で一息つき、今日は終了。

宿にしている三宮のビジネスホテルから、美味しい神戸牛を頂こうと外に出たが、宿代よりもずっとお値段が高いのでびっくりした。年がら年中、動いている私達は贅沢は出来ない。ずっとリーズナブルな三田牛のお店で頂く事にした。週末のレストランは若い人達でほぼ満席だった。せっかくおしゃれな神戸に来ても買い物も、観光も無い旅である。後で妹に言うと、「その辺には安くて美味しいお店が沢山在るのに」といって笑っていた。

翌日曜日は阪神電車沿いの墓地や記念碑のあるところを周っていった。その中の墓地でノワタリさんに観音経の経本を頂いたので、つまりながら、観音経も唱えて行った。

芦屋まで来た時、津地町は1件のみ半壊も倒壊もせず、後は被災したと書いてあったが、道は綺麗なタイル張りになり、大方の家が新しく整然と建っており、公園の石碑を見なければ被災したとはわからないほどであった。前日、バスから見た長田とは大きな違いだと感じた。

電車を乗り換え、阪急で伊丹に着いたときは2時近くになっていた。昼食を取る店を探し駅ビル内を歩いたが、空きスペースになっている所が多かった。不景気と震災のせいだろうか?

昆陽池公園までタクシーで行ったが、出入り口にを数台見かけた。何か事件でもと思ったが、集会があり公園の中は沢山の人だった。広い公園内を石碑を探して歩き回った。1時間以上歩き回り暑さで疲れ果てた頃、池の側に黒い御影石の石碑を見つけた。思ったよりも小さな物で「あなたの思いを灯してください失った命の数をろうそくの灯火にこめて」と彫ってあった。周囲の喧騒の中私達はその前でお参りし、ノワタリさんは歌を歌われた。

公園を出て、タクシーを拾おうとしてもなかなか見当たらず、探しながら歩いた。やっと拾ったで、最後の目的地山田神社へ行った。住宅街の曲がりくねった細い道の中に人気も無くひっそりと佇んでいた。ここも鳥居が崩壊したと言う。お参りして今回は終了。

少し時間があったので、近くの湯の華廊と言う新しいスーパー銭湯に案内してもらい旅の垢を落とす事にした。有馬温泉?のような茶色い色をした露天風呂や塩サウナがあった。そのサウナに入ると、知らない人でも順番に背中を塩でマッサージしてくれた。さすが関西の人、分け隔てなく人なつっこく「手が届かないだろうから、あんたも後の人にしてあげて」と言われ、来る火来る人が背中をさすりあい和気あいあいとした。私の田舎にも出来たが、互いに知らない人には知らん振りで、私はバスブラシで背中をこすっている。

さっぱりした後、午後5時半頃、JR猪名寺駅から新大阪に向かい、ノワタリさんとお茶を飲んでお別れした。

翌朝、帰宅してお昼のニュースを見てびっくりしてしまった。JR福知山線の事故である。1日ずれていて周り方によるとノワタリさんも遭遇したかもしれない。背筋が凍りつきそうだった。だから、日曜までと念を押されたのだと思った。

この年、6月沖縄、8月広島と慰霊の旅が続いた。後でノワタリさんと話して気付いたが、震災が10年目、大戦から60年だった。