Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

老人税

2012-06-29 22:55:35 | 日々のつぶやき

玉置から帰って、眠り姫(眠りばばあ)になっていた。お風呂で寝て、また布団に入りなおして寝て、5時に目覚めたはずが、また二度三度と7時まで寝る事が多かったので、人並みの時間に戻ったのかしら?

数年前、老人税と言う副島隆彦さんの本が出た。

その後、その本の内容どおり、年金は年を追う事に減額され、相続税は改正され 基礎控除減額され率は上がり増税となった。その上、今回の消費税まで上がる事になり、増税の道をたどっているが、議員も公務員も一向に減らない。

この地方を代表している議員も全員、消費税増税に賛成である。民意を分かっていない!バカヤロー!

月末なので、父に所得税の追徴が来ているので支払いに行くと経理をしているチエさんが母に伝えた。

「21年に遡っての税?何納得がいかないわ。」と言って何時もならチエさんに任せるのに自分が市役所へ出かけた。

支払い窓口の銀行員に「他にも追徴税の人ってありますか?」と尋ねるが、明確な答えは無く、税務科へ案内された。

仕事をしているようでなく後方の席でリラックスして雑談している人が多々有ったというが、結構長い間待たされた挙句、間違いがわかった。

おまけに2年分の延滞利子まで付いている。本当に追徴金で有れば、自分達の計算ミスなのにそれまでつけている事に母はかんかんに怒って、

「年金は減額されても増額される事はないのに一体どうなっているんですか?今まで信用してそのまま支払ってきたけれど、見直してこちらで計算してから出ないと払えませんね。」と言ったそうである。

徴収票を返してくれるように言ったそうであるが、母は「考える事がある。」と言って渡さなかった。

帰宅して、「23年分がこの計算ならば間違っているのでまた、月曜に出向く。」と、息巻き、「情けない奴!、本当に行って良かったわ。」と言っていた。

今日は、公務員のボーナスの日である。自治体が赤字でもそれが出るというのは不思議である。

その地方の平均年収に準じるべきで、先の阿久根市の市長の主張は正論でちょっと過激過ぎたが、っこの事を全国に知らしめるのには良かったと思うが…

国民の資産の70%を金持ち老人が持っているというが、ド田舎では 厚生年金、共済年金というのは少なく、お年寄りの多くは国民年金が多数である。しかも産業が無い為若い人はおらず独居老人が多いので、今でさえ生活するのがいっぱいで、十把一絡げにしてしまうのも問題がある。

人口3000人にも満たない町へ行くと、その町の商店主は「買い物に来る人はほとんど無く、外商で持っているが、ほとんど納品で利が薄い。」と言われ、「お年よりは生活が精一杯。」と言われた。

ある町の70歳代の雑貨屋さんは「お店は開店休業で私も、貯金を崩して生活してますよ。」と言われる。

スーパーの入り口には「万引きは犯罪です。」と、大きく書いてある。以前は中高生が多かったが、今はお年寄りである。

年金の減額ばかりでなく、介護保険の負担が重くのしかかる。その保険も一度も使用していない人に何らかの恩典もなく、相互扶助というが それまでそれなりに仕事をしていた人が全くの身障者になり目に付く乱用の人もいる。

施設は次々と出来ているが、そればかりに資金は使われ、働く人も賃金は安い。

老人病院の医者が家の前で数年前、給料明細書を落として行ったので見ると、なんと時間外手当を含んで190万余りあった。その病院など 外来はほとんど無く、寝たきりの延命治療の管だらけの患者ばかりである。

友人のお父さんが末期の癌になった時、おばさんはご商売をされながら、店の奥の茶の間に寝せ毎日往診に来てもらい看取られた。時折、帰ってくる友人達もお父さんと話しながら、普段と変わらないよう接した。

私も両親の最後は病院でなく出来れば、そうしたいと思っている。入院するだけでも病人の心情的には不安になり環境を変えないほうが良いのではと思う。

医療を充実するするのも良いが、まず寝たきりにならないように指導すべきである。

保育園のように、毎日お年寄りを迎えに来る車を見るが、昔のようにお年寄りにも何か仕事を与え、生きる張り合いを持たせるべきである。動けなくなれば、それも仕方ないが、一種の姥捨て山としか見えない。

政府は取る方ばかりに血道をあげるが、使う方は全くでたらめである。少しでも快方に向かう病人とかに使うのであれば良いが、少しその辺は考慮すべきだと思う。

軽症患者のリハビリ施設として、政府の豊潤な資金でどこの町にも店舗や飲食施設が出来て病院がビジネスを国の資金でしているようなものである。一体どうなっているんだ。

近くに総選挙があっても、投票はしない。顔ぶれは一緒でどうしようもなく 税金泥棒だと言いたい。

どんな選挙でも、投票率が低ければ、無効にしてほしいと思う。

こんな事を言ってはいけないが、何か大災害が東京に起こり、地方交付金が全く出せなくなった時、本当の地方の自立が出来るのではと思うが、それまでは口先だけで政治かも役人もごまかすだけであろう。

 


熊野大斎原 12年6月

2012-06-25 22:56:17 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

大斎原に着いたのは3時40分くらいだっただろうか?余り時間が無い。4時過ぎには出ないとに間に合いかねないのでここも大急ぎである。

手分けしてお清めグッズをみんなで持ち走った。鳥居の周辺からのお清めである。やはり昨年の台風で浸かっていた。まだ、泥汚れが石の上の方に少し残っていた。

「もう此処はみんな銘々でしましょう。」と、言われ境内の中を振りまきながら歩いていると、

「ありがとう」と言う女性の声をノワタリさんが受け取った。

ご神前の周りと中に外から振込み、祝詞を上げた。ノワタリさんは珍しく歌だけでなく、ひふみ祝詞をあげられていた。

そして慰霊碑で光明真言と南無阿弥陀仏と唱えた。

Sはここでも高らかにほら貝を吹いていた。

境内を出ようと鳥居の所まで歩いていると、幼稚園か1年生くらいの女の子を連れた若い家族連れとすれ違った。その親子はSがほら貝を吹いている姿を目を輝かせて嬉しそうに見ていた。

そういえば、私達も生のほら貝の音を聞くのは初めてだ。

大急ぎでお清めとご挨拶を済ませ、に乗り込んだがナビは2時間余りかかる予定時間を示した。

1時間半も有れば着くと思うが、あちこち一方通行になっているのと 1車線で以前遅い車を抜くに抜けずJRに間に合わなかった事があるので気を抜けない。予定ではとれとれ市場に行くはずだったが無理である。

そうなると、道沿いにそ市の場の看板が余計に目に付く…「とれとれ市場あと10キロ」とか。

だんだん時間は短くなり5時半過ぎには着きそうである。

叔母が「食事は出来なくても、買い物くらいできるかしら?」と言ったが、「お魚をくわえて出るくらいなら。」と答えたが、結局ちょっと慌ただしいのでよらない事にした。

ナビが「目的地付近になりました。」と言った途端、安堵感から、前の車に付いて行ってしまい、誰もいない交差点でUターンをしたが、前に警察の建物があり 、みんなを唖然とさせた。

冷汗ものでやっと着くと、お茶を飲む余裕もあり、そこで和歌山ならではの梅ソフトクリームやジュースを飲んで一休みしてお別れした。

別れ際に「今度は大本ですよ。」と、ノワタリさんは囁かれた。また、旅の予定が入ったが9月頃の予定になる。そうしているうちにが入ってきた。昨日は霧で何も見えなかったが、観覧車が近くに見える。改めてこんな風景かと思いながら外を見回した。1年中で1番昼が長いので6時と言って昼間と変わらない。

私達はこれからが長い…。私は大阪湾岸を通って淡路島のルートを思っていたが、瀬戸大橋経由の方が良いと言われ、そのルートを設定した。ナビの到着時間はなんと午前3時をゆうくり過ぎていた。

紀ノ川サービスエリアまで私の運転で其処で夕飯を取り、先月スピード違反をして思うように速度を出せないのと、初めての道なので四国に渡るまではSに替わった。

本当に和歌山は広い。大阪に入った時、幾分近くなったのもありみんなホッとした。暗くなっても山の端が薄明るく白く、心地よい。やがて都会の光の洪水に巻き込まれて行った。

妹も私もこんな光景は久しぶりであり、ワクワクした。

の中でほら貝の音色の事をSが話した。

「どちらの神様にも受け入れられたと思う。」と言い、受け入れられない場合はかすれたり、音色が思うように出ないそうである。ほら貝の事は良く分からないが、高らかに音が伸びていたと思う。

その後はおバカな話ばかりをして笑いながら走り、山陽道から四国へ入り、妹に替わった。ナビの到着時間は2時過ぎになっていた。

隣町でSと別れ、帰宅したのはやはり2時を過ぎていた。走り回ったのにそう疲れたとは思わなかったし、まるで浦島太郎のような感覚になっていた。

あの二日間は雨が降っても外に出る時は傘も合羽も必要なくかといってでもなくで暑くなくお天気には恵まれた。帰宅してからまた、大雨や台風の影響で浸水したり、崩れたりしたみたいでそれを思うと気が重い。

前日の大雨でキャンセル続きで、玉置も大斎原も人目を気にせず、邪魔も入らずお清めが出来た事をありがたく思う。そしてその大雨と強風でお清め前に洗い流されて準備されていたように思う。

後日、ノワタリさんと話していて「今回のお清めはすごかったですね。」と言うと、

「あれだけの清めってなんだろうね。」と話していたら、

「再生って入りました。玉置の再生なんですね。あそこは残りますね。」と言われた。前日、違う大地が出てきたり、陸が海になったりするから、また玉置山も元に戻るのかと書いたが、それは無く残るそうである。その為、上空からも浄化したそうである。

初めて出あった時、「神社のお清めしています。」と言われた事を思い出す。

「参拝者が願い事ばかりして神社が曇っているのを祓うのが仕事で元の状態にするんです。」

今回はその旅であった。Sは猿田彦と言うか助っ人であったらしい。

 


玉置神社 三柱神社から山頂まで

2012-06-24 09:34:31 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

玉置神社 三柱神社から山頂まで

その後、三柱神社へお参りするがその時はもう塩しか残っていなかった。今回はお水が汲めたので2本と飲料用に500ミリ1本を汲んだ。2007年には、山岳の神社なので水は貴重ですと言われ水は出なかった。

お神酒は社務所で「神代杉」と言う2合か3合の小瓶のお酒を3本買い用意した。

三柱神社の手水舎の杓はすべてある女優さんの名前が書いてあり、2年の間にまた変わったと思った。

その1本をご神前に供えた後、周囲を清めた。出雲霊社、真名井神社と清め、水と御神酒は木々にも撒き、地面に塩を振りながら歩いたので、玉石社に着いた時は、もうお神酒は1本しか残ってなかった。

そこで遠隔でノワタリさんが山頂までお神酒を撒いた事にしてエネルギーを流していると、他の参拝者が来たので先にお参りしてもらった後、ゆっくりお参りした。

それでも、ふりふりしながら歩くのでお神酒が少量の為、お水はたっぷりめに撒いたのでそれも頂上に着くまでに無くなり、飲み水用しか残らずそれもお清めように使う事になった。

やっと山頂に着き、三石の周りからずっと清め、みんなで手を繋ぎ、数回、左回りに回った後、歌われ、私達は祝詞を上げた。この場所はとても大事な場所らしく、数年前も雨の中今回と同じように手を繋ぎ回った。

Sはそれまでもお社の前でほら貝を吹いたが、雨が上がった山頂では良く響く。

この山頂は霊峰で玉置峯とか牟婁岳と言われていたと言う。そう言えば、昨日の白浜の温泉と同じ名前だ。気になって調べると、昔紀伊半島の南部は牟婁郡と呼ばれていたそうだ。

この神社を知るきっかけになった浜本末造さんの「般若心経と万世一系の謎」の中にムロの名前がついて入る所はムー大陸と関係が有ると書いてあったのを思い出した。

その事を帰宅してからノワタリさんと話すと、玉置も元は4000年前に海底が隆起した所、また、沈んだ所が浮上し、反対に隆起した所が沈むと書いてあったのでそれが近いのかも?それに私達が遭遇するのかも?残る人類は3分の1と言われているのでどうなるのやら分からないが、それはそう遠くなさそうな気がする。もう一度、浜本さんの3部作を読み直そうと思う。

初めて来た時、ノワタリさんはその本を読んでいないのに、本に書かれている事が、幾つか起きた。それはその時に書いているが、十津川村に入った途端、ノワタリさんが苦しみだし、「誰か男の神様が出してくれ!」と言ったり、三柱神社の3匹のおきつねさんが綿帽子を被った花嫁姿でホテルにその夜出てきたりした。

男の神様は思兼命さまで、産みの苦しみだったと言われ、

「『出してくれ~、出してくれ~。』とおなかの中で言ってるの、苦しい~。」とノワタリさんは苦しそうに「はぁ~はぁ~」と横でもだえ、とても不思議でどうして良いか分からず、そんな事を初めて目にしたので面食らってしまった。

下山した後、御祓いを受けた。

準備の間、それぞれ、社務所で買い物をしたり、国宝の襖絵を見た。

神主さんはここでも昨日の悪天候で37名の御祓いがキャンセルとなった事を言われた。キャンセルが無ければ、たぶん私達に順番は来なかっただろう。

今回が3度目だが毎回神主さんが違う。今回の方はまるで観光地で手馴れたガイドさんのようで榊の奉納の仕方などを説明されて一人ひとりでなく一斉にした。

御祭神様方に比べると、親しみやすいがとても軽い感じであった。

お払いの後、この神社の説明を受けたが、崇神天皇の像をお尋ねすると、全部処分したとの事?

お祭りの時に大切に飾ってあったのに何か変?

Sは部屋を見回して説明前から「此処は聖護院系だな」と言っていたが、その通りだった。

その後、神代杉と夫婦杉をお参りして神社を出た。

Sは儀礼に乗っ取り、ほら貝を吹いて出た。此処ならば、誰もいくら吹いても喜ぶ事はあっても文句は出ないので高らかに吹きまくっていた。

余りにもお清めに時間がかり、とっくにお昼を過ぎていて時間が無いので急いで大斎原へ向かって走った。

途中、道の駅で昼食とするがもう2時半だった。後でとれとれ市場で回転寿司と思っていたのでそばとめはり寿司や雉丼をそれぞれ頂いた。

高菜の漬物で巻いてあるめはり寿司の名前の由来を尋ねると、昔は目を見張るほど大きかったのでその名が付いたそうだ。

そこでみんな土産を買い、ノワタリさんと叔母は其処から宅配便にすると言って片っ端から買い物をして荷造りをしたりその後お茶を飲んだりしたので思いのほか時間が掛かった。

 

 

 

 


玉置神社12年6月

2012-06-23 15:23:13 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

玉置神社 参道より本殿まで

何度も玉置神社に参拝しているが、今回ほど異例の事はなかった。

昨年の紀伊半島に甚大な被害を与えた台風のせいで今まで泊まった幾つかの宿はまだ営業しておらず、明治の大水害で壊滅的な被害を受け、たくさんの方が亡くなったので川の近くの宿は今まで避けてきたが、今回は其処にするしかなかった。

予定では、6月16日に新宮の神倉神社に参拝、翌朝玉置神社に参拝、大斎原にお参りしてその後とれとれ市場に寄ってから白浜空港までノワタリさん達を送って帰るはずだった。

また車で四国から往復するというのも初めてであった。

同級生のSが初めて参加した。宿に連絡して本人の言うとおり「布団部屋でも何でも良いから入れてください。」と連絡すると、宿の人は笑いながら「4畳半が有ります。」と言われた。

その後、1週間前になり二人ほど追加…となりそうだったが、空港で8人乗りのレンタカーを用意してと思ったが、生憎宿がダメだった。やはり玉置は人を選ぶ…

15日の夜10時に大雨の降っている中を出発した。隣町でSを拾い高速を走るが滝のような雨で50キロ制限で高速もゆっくりである。雨は東に進むにつれ小降りになり、途中石鎚サービスエリアでSと運転を替わった。

其処からは快調に走り、徳島港には出発の1時間前の2時頃着き、出発まで車で仮眠を取った。

和歌山に着き、白浜までの道中は小雨は降るものの運転に差し障るほどではなかった。

ノワタリさん達と合流する前に白浜の牟婁の湯にゆっくり浸かり身支度を整えて、8時半頃空港に着いた。

合流してから、一緒にゆっくり朝食をとるはずだった。

しかし、空港に着くと濃霧と大雨で8時45分着のは下りてこられない。

何時もそういう場合、ノワタリさんは龍神様にお頼みして難なく進むので大して気にしていなかったが、何度も「上空を旋回しています。」との館内放送があるのみで一向に下りては来なかった。

レンタカー会社の人やタクシーの運転手が同じように出迎えていたが、運転手さんが「こんなに長く旋回するのも珍しいな、何時もなら15分から20分くらいなのに…」と言われた。

目を閉じ祈り始めると額や背中と足の裏にジ~ンとノワタリさんのエネルギーを感じた。懸命にされているのが分かる。こんなにしているのに下りれないなんておかしい…

9時35分過ぎに「最終体制に入りました。着陸できない場合は、関西空港か羽田へ引疲き返します。」との放送があり、やっと下りてくるものだと思いホッとしたのも束の間、「欠航」の表示が出て「関西空港へ着陸いたします。」との放送が流れた。

昨晩から運転してに浸かり疲れがでてボーとしているSに「関空まで行くわよ。」と、声を掛け大急ぎで空港を出た。みんな絶対、羽田には帰らないと思っていたと口々に言っていた。

結局、温泉のオープン前にSが用意したまき寿司やパンを頂いたのが朝食で、それも無ければ、私達は昼過ぎまで腹ペコになってしまうところだった。待っている間、落ち着かずただボーっとしているだけで、お茶すら飲まなかった。

方向音痴のノワタリさんと70半ばの叔母であるから、まず動けないだろうと思い走っていると、が掛かり、私達が和歌山市内につかない間にもう着陸していた。

後で考えれば、和歌山駅まで叔母ならば行けたと思ったが、関空までひたすら走った。遠い…

12時を過ぎて待ち合わせの日航ホテル前に着いた。二人は長時間が小さいので上空でかなり揺れたらしく、「墜落する前ってあんなのかしら?横にも揺れてすごかったのよ。」と言いとても疲れていた。

また来た道を引き返し、途中紀ノ川サービスエリアで遅い昼食を取ったがいざ、車に乗り込もうとしたらキイが無い。リュックをひっくり返すが無い…。

テーブル周りと歩いた所を探すが無い。案内所に行っても無い。なんで今回はこんなに足止めされるのだろうと落ち込みそうだったが、テーブルが5人では狭いので替わった時、叔母が無意識に自分のバッグに入れていた。

予定を変更して新宮の神倉神社に行くのは取りやめ、十津川村の宿にまっすぐ行く事にした。

其処からは疲れているSに替わり 妹の運転となった。雨ももうほとんど降らず田辺で高速を下り、川沿いの山道を走ると、昨年の台風の爪あとは思ったよりも大きく、あちこちで地すべりと道路の陥没で片側通行で止められた。

やっと、十津川村に入ってもこちらも同様だった。

5時前に宿に着くと、この大雨で他の客はキャンセルで私達だけの貸切だと言われ、Sも隣の6畳間を用意されていた。

部屋は川が見え眺めよく、大水で一部茶色に濁っていたものの私達の宿の付近は深いグリーン色で山々は靄が掛かり霞んで山水画のような景色。

一休みしてお茶を飲んでいると、ノワタリさんは叔母のネックレスとリングにエネルギーを入れた後、Sの水晶のブレスが気になるらしく、「何も入ってなくて空だよ。」と言い、エネルギーを入れた後、メンテナンスの仕方を教えた。

ブレスは傍目にもキラキラと輝きが違った。

その後まず、露天風呂に入り、昼間の疲れをとり、夕飯を頂いた。

そこで、今回なぜが長時間上空を旋回しなければならなかったか?

ノワタリさんが「その訳がわかったわ。上からのお清めをさせられたのよ。今回は着く前から、の中からその辺一帯の浄化だった。」と言われた。上空で旋回している間、ずっとエネルギーを流して下に振りまかれ浄化されたという事だった。

今、思えばあの時も朝方まで大雨、またその後も台風の影響で大雨、昨年の台風のようにならず大難を小難にしたのではと思う。そして昨年被害に遭った場所も上空から清められたのではないかと思う。

山の中ではのあまごの塩焼きやマスの刺身や山菜の天ぷらなど珍しい食材が並び、私達だけであるので宿のご主人も話しに加わり、玉置山の話しで盛り上がり食事を終えたのは9時半であった。

昼間の疲れがあるので早々に休むことにしたが、やはりこの時間になると、寒気がする。

車から粗塩を1袋持ってきて灰皿、湯のみを使いあちこちに盛塩をした。それから内風呂で入浴する私達にノワタリさんが風呂に1つかみ塩を入れるようにアドバイスしてくれた。

内風呂は岩風呂で広いが、壁が川と同じような濃いグリーン色でおまけに照明が薄暗いのであまりじっくりといる気もせず、そそくさと入って部屋に帰り休んだ。

危惧したが、塩のお陰か何も無くゆっくりとみんな休んだ。

朝の岩風呂は明るく、外の山と川の景色が見え昨晩のような恐ろしさは無かった。とても気持ちよく浸かった。朝食を取り、8時に宿を出て其処からは何度も来ているので私の運転となった。

宿のご主人が168号線の十津川から五条へ向いては土砂崩れがあり進めないと放送があったと言われた。もう陸の孤島状態である。広い村なのに昔7つあった中学校も今は1つだと、壁に写真が飾られ書いてあった。どこも田舎は過疎化が進んでいる。

橋を渡り 山道にしてもあちらこちら石が落ちていたのでゆっくりと走った。1台の車とすれ違ったがもう下山なのか?駐車場に着くと、他に2台ほど止めてあったが、売店も片隅に出来て、トイレも綺麗立て替えられていた。

世界遺産になり、この神社の存在が知られてくると、お参りするたびに参拝者は増え、若い人の姿をよく見るようになり、雰囲気も変わっていった。今回は前日の悪天候のせいか少ない。

本殿まで 三柱神社、玉石社、頂上とお清めのものは4組あればよかろうと思ったが、お水はまた汲めるので、お塩だけ余計に1袋足してみんなで手分けしてリュックに入れた。

まず1の鳥居でご挨拶して入り、Sがほら貝を吹いた。良い音色でよく響く、、プオ~、プオ~、と聞こえ、口で調節すると言ったが今度は高音でまたプオ~、プオ~と山に響いた。

以前はご神前やイワクラの前でウチダさんが岩笛を吹いていたのを思い出した。

しかし、入るとお清めである。数歩歩いて清め、数歩歩いて清め、今回は清めの感覚が短い。

しばらく行くと白山社だったが、今回「山の神」と石碑が建っていた。そこでお清めし、ご挨拶して進み、木の鳥居2本並んだ参道に入る。靄の中に杉の木立が龍のように伸びていて幽玄な雰囲気でまるで水墨画のようである。朝早いので気も良い。しかし、もう1組目のお清めグッズは使い切り、2組目となった。これでは持たないとあせってきた。

昨晩の大雨は清めの雨だったのだろうか?大きなカエルが2匹で迎えてくれた。そこでもSがほら貝を吹く。山の中にこだまする。気持ちよさそうだ。3000年の樹齢と言われる神代杉の下を通り進み、通り沿いの杉の木にも御神酒と水を掛けながら歩いた。

やっと手水舎に着いたが、もうすでに御祈祷をしているらしく太鼓のドンドンと叩く音が聞こえてきた。そこで2組目も使い終わった。

 この神社の御祭神様は国の根幹に関わる神様ばかりである。神武東征の時にご祈念したからであろう。そこでご挨拶をし、ノワタリさんは歌われ、私たちは銘々祝詞をあげたりした。此処も、前日の悪天候のせいで参拝者に会わなかった。

摂社である若宮社と神武社にお参りし、大日社ではSがご真言を唱えていた。私と妹はその裏手にある剣の所へ行った。初めて訪れた時には柵は無かったが、今は柵で仕切られている。

境内の中に、しめ縄を張った2本の杉の御神木が並んで立っていた。そこでノワタリさんはしばらくうたわれていた。

「外にあるのも夫婦杉だけどここも地の中で繋がっていて夫婦杉なのよ。」と言われた。

お参り後、本殿でみんなでおみくじを引いた。大吉と吉とかでなく、神の教えと言う言葉がみんなその置かれている状況にそれぞれ合っていて不思議だと思った。ただ、書いてある言葉をかみ締め、気になっていた事をもう一度考え直そうと思った。

  大日殿裏の剣

 

 


エネルギーの無駄使い

2012-06-11 22:32:41 | 日々のつぶやき

第一次オイルショックの頃、深夜営業の店は12時まで、屋外の照明やライトアップも規制された。

その頃、学生だった私達は食事か飲んだ帰りに城山で鬼ごっこをした。走って逃げていると照明が消えた。規制で9時に消されたのだ。突然、真っ暗になった。

その途端、「あ痛たたた…」と中の一人が躓いて脛を抱え、もう一人はお城の裏手の雑木林に白いものが浮かんだとか何とか言って血相を変えて走ってきた。

そういう事があったので止めてポツポツと歩いて下山し帰宅した。今考えると、肝試しに近い。

その頃、ラジオもテレビもNHKは日付が変わると日の丸の旗がなびく映像に君が代が流れて終了した。

たぶん民放もテレビはそれに順じたのではないかと思う。

今、生活パターンが違うと言われるかもしれないが、ほとんどの人は夜に寝て朝起きる事には変わりないはずである。

24時間営業の店も要らない。強盗事件も減るだろうし、光に吸い寄せられた蛾のようにコンビニの駐車場にたむろする子供達もいなくなるだろう。

深夜のテレビ放送も要らない。どうせTVショッピングか再放送か笑えないお笑いしかない。昔に比べるとBSもあり増えて広告収入に障るのかもしれないが、それらを自粛するだけでも相当のエネルギーは減少するはずである。

何故、昔のように規制しないのか?営業に差し障る団体の力が掛かるのか?素朴な疑問である。

10年余り前、初めての海外旅行はバリ島だった。そこで妹が何気なしにを点けた。

「此処の放送はまじめな番組ばかりよ。日本みたいにちゃらちゃらしたのはなかったわ。」と言った。

その頃でもつまらない番組が多かったのに今はいっそうである。

まじめな教育番組をしろと言っている訳ではない。お笑いであればおなかを抱えて老若男女みんなが笑えるような番組もない。

ただ、見てても残らず、アホになって行きそうなものばかりを垂れ流して国民全部をアホにする気かというようなものばかりでエネルギーの無駄使いである。

原発を再稼動する以前に、使い道をもう一度点検すべきだろうと思う。

田舎に24時間営業の店は要らぬ。必要な物は営業時間に買い置きするだろし、メタボの人間も減るだろう。

実際私の町でもコンビニが出来ては消え、出来ては消えで儲けるのは本部だけである。

早起きだと思っていた鶏は単に、コンビニの明かりで狂ってしまっただけで4,6時中鳴き叫んでいる。凶悪な事件も多いが人間も狂わされているんではないか?