Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

24時間テレビの思いで 1978年8月

2020-08-23 21:28:58 | 日々のつぶやき

 第一回目の24時間テレビ放送があった夜、ユキちゃんと二人友人の結婚式で宇都宮に来ていた。

その夜は結婚式の行われたホテルに宿を取って頂いたのだが、部屋に入るとポツンと部屋の真ん中に扇風機が1台置いてあった。

ウ~ン何故???、どういう事か分からないが深夜12:00で冷房は切られ、その後の対処であったことが張り紙で理解した。前日朝1便で羽田へ行き、東京で結婚する友人への手土産に彼女のあだ名だった亀のぬいぐるみを買い、夕方に宇都宮市に到着し 夕飯後市内の当時カリフォルニアシャワーと言う曲が流行っていた渡辺貞夫によく似た感じのマスターのおられるジャズ喫茶へ行き1時間ほど休んで9時前にホテルへ帰った。前日の宿は結婚式の行われたホテルではなく別でたいそうな名前のホテルだったが、信じれないくらい設備の悪いホテルで後で知って恥ずかしい思いをする事になるのだが外線電話は部屋に繋がってなかった。

部屋へ帰ると、外出している間横浜の叔母から☎が何度かあったらしく、パジャマに着替えた途端フロントから連絡があった。

部屋で外線電話に繋がらないとは知らず、1階のフロントまで行かねばならないと言う事で、慌ててエレベーターに乗り込むと、時間帯も悪く屋上のビアガーデンの客でいっぱい…。私は薄物のパジャマ…。出直す訳にも行かず、20歳前半の私は恥ずかしいんだけどこれ以上待たすわけにもいかず壁に向かって立ち、酔客の視線とヤジを無視して我慢した。

そしてまた今夜は冷房無…。窓を開ければ、夜中の突貫工事でアスファルト道路を掘るガガガガー

と耳を劈く騒音、諦めて扇風機をお世話になる事にしたが、疲れているからすぐに寝付くだろうと思ったのは大間違いで二人で交互に布団から貞子のように這い出してタイマーを回しほとんど寝ずにぼんやりした頭で朝になった。

その時、24時間テレビと言うものの放送があったが、全く内容は覚えていない。マラソンもチャリティもなかったのではなかろうか?ただ、タイマーを回す度テレビを目にしたが夜中のお友達であった。

 翌日私達は止せばいいのに欲張ってここまで来たら、 益子!!とばかり、ふらつく頭と足取りで炎天下の中益子へ行った。しかし、焼き物を見て食事を取ろうとしてもやっと見つけた食堂は外まで多くの人の行列で1時間待っても多分順番は来ないであろうと諦めて町をフラフラ歩いた。

 睡眠不足と空腹と暑さで二人とも倒れそうになっている時、土産物屋のおばあさんが

「休んで行きなさいよ。」と優しく声を掛けられた。よほどひどい顔をしてよろついていたのだろう。

そのお店の奥の座敷にずうずしく上がり込みで梅干しを入れた熱いお茶を頂いたおかげでその頃は熱中症と言う言葉は無く日射病と言ってたのだろうと思うが、もう倒れる寸前になっていたと思う。私達はそれで生き返りその晩、有難い事に無事に横浜まで帰る事が出来た。

私達が四国から来たと言うと、大そう喜ばれて親切にして頂いたが、その人は焼き物店のご隠居さんだった。30分ぐらい休ませて頂き、一息ついたところでおしゃべりをしたり、買い物をして益子を出た。

 そう言えば、亡くなった祖父も毎朝 食事の最後に家で漬けた小梅を3個干入れた熱いお茶を飲み、

「朝の梅干しは災難を除ける。」と言っていたが、私はそれまで梅干しを口にした事が無く、単なる年寄りの口癖ぐらいにしか思っていなかった。お爺さんごめんなさい。

それ以来、夏ばて対策として熱いお茶に梅干しは欠かせない物になったが、ビタミンと塩分、確かに理に適っている。

毎年24時間テレビの放送がある度、このドタバタとして旅行を思い出す。

コメント
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