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一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

39番札所延光寺

2019-06-27 21:30:56 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

 足摺半島から駆け足で宿毛の39番札所の院延光寺へ向かった。着いた時はもう夕方の5時半近くなり日は傾きかけていた。正式には赤亀寺山院延光寺と言われこの亀は竜宮から梵鐘を背負ってきた伝説から来たものであるという。由来はホームページwww.88shikokuhenro.jp/39enkoji/からどうぞ。

それでもまだ、数人のお参りのお遍路さんの姿を見かけた。そんなに大きなお寺さんではないが、売店もなく静かで、夕方にもかかわらず、とても気の良いお寺さんだった。後で、地元の知り合いに聞くと、

「気が滅入った時に行ってボーっとするのよ。」と言われたが、本当に癒される空気の処だと思った。

私たちはこれまで神社へお参りすることは多くて母のお供で行くことはあってもそれ以外もあまりお寺さんへ行くことは無かった。

2012年の11月ノワタリさんとユキちゃんと妹と、篠山へ行き宿毛に泊り、翌朝月山神社へ行く前に ユキちゃんのお姉さんの処へ行き、亡くなられたご主人の供養をして頂いた。墓地が無いことを理由にお姉さんは数年前に亡くなられたご主人の遺骨を手元から離す事が出来ないでいた。供養の間お姉さんは遺骨を抱きしめ涙ぐんでおられたが一日も早く墓地に埋葬して故人を落ち着くようにと言われた。

その後、墓地を探しているとこの延光寺さんに空きが1つあり、翌年の春のお彼岸に間に合うようにお墓を作り落ち着いた。

ユキちゃんがお参りに行くと門を入るとこの亀の石像がお出迎えで、すぐに先の亀の正体を知らせて来た。このお寺さんは高知側からの登り口に近い。それから56号線を通るたび、お寺の名前をずっと見ながら走っていたがなかなか機会がなかった。

しかし、私も初めて唐人駄馬に誘われ行く半月前見た夢の一緒に空を飛んだ犬から変身した亀、なぜ亀が出て来たのかわからなかった。尾っぽのある吉兆の印の亀と取り、喜んでいた。夢の亀は釣鐘を載せてはいなかったがこれなのかと思う。

振り返ってみると私もこの足摺半島がこの世界へ飛び込んだ原点である。夢の事はこのブログの書き始めの頃書いている。

お祀りされているのは薬師如来様だった。境内の中に眼洗い井戸、弘法大師が「宝医水」と呼ばれた井戸があり、説明書きではその水を布に浸して目の周りを浸せばよいとかいてあったので大急ぎで車まで戻りペットボトルを取りに行き持ち帰った。

母はそれで目を浸した後、目薬を差しているが気持ち良いそうである。

仁王門前でちょうど夕日が入った。本当に門を出るころ日没となり、急ぎ足で帰路についた。

 


令和5月3日足摺

2019-06-10 08:51:05 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

 3月11日の午後最高震度3の地震が起きた。震源を調べると愛媛の南部で篠山に近かく、以前のノワタリさんの言葉(ここから…)を思い出しその事から私たちは機会を見つけて出かける事を相談した。

でも、篠山ではなく、足摺と篠山の麓の高知県側の39番札所の延光寺に出かける事にした。

 前回、2人だけで唐人駄馬、ウスバエ、コンドル岩を周ったがユキちゃんを歓迎するように禊の大雨であった。上から下までビショビショになり人に会わなかったからよいものの上からシャツもズボンにまとわりつき透けて下の肌色がむき出しになった。

彼女が見たくくり姫様はまるで姫だるまのようなお姿だった。コンドル岩の途中にある御神体はそれまで気づかなかったが、それまで正面だと思っていた面を外れその時草刈りをしてご神体がしっかりお姿を現していたので 登山道から見ると、姫だるまのような形であるのに驚いた。

その時、私たちは着替えを持参していたのと 偶然車の中に革の伸びた靴が1足あったことから、彼女も困らずに済んだ。土砂降りの雨は下山と共に嘘のように晴れた。

 今回は晴天で前回のようなことは無かったが、唐人駄馬はきれいに樹木が刈られて岩の存在をアピールしていた。

所々に小さな橋や梯子をかけてあり動きやすくなっていたが、訪れる人も多くなったのだろうと思う。

千丈岩でしばらく休んでエネルギーを頂いたが、ボツボツと人が切れずにやって来て居座るのもまずいので腰を上げた。ゆっくりしすぎて時間がないのでコンドル岩も風神アネモスの庭も省略してウスバエに向かった。

連休という事もあり、駐車場には数台の車があったがそれは釣り人の物であった。

視界が開くまで薄暗い林ノ中を通らねばならず、以前はお地蔵さんが祀られてある一角は余り良い気がしなかったが今回はそれを感じなかった。

この周辺は良い釣り場らしく海面に近い所々に釣り人がおり、沖の岩場にも渡船で運ばれた釣り人たちがいた。冬の海と違い穏やかなので潮を被ることもなくのんびりと楽しんでいる様子だったが、釣り人の邪魔をするわけにもいかず、私たちは沖の方には下りて行かず、竜宮神社の手前からお清めをした。すると反応するように不思議な形の雲が次々と現れて何か答えられてるのかなという気がした。(パノラマ写真の一部)

 

 


2018年11月篠山神社

2019-05-26 15:44:44 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

 ノワタリさんの元を離れてからも、私たちにご縁のある場所にボツボツと周っていた。順序は後先になるがこの後また今月の連休に足摺へ行った。

この篠山がそれに関連するので今回先に書くことにした。

昨年の7月の大雨の影響が出ていると思い、私たちは軽のバンで走った。予想通り山道は荒れていてあちこちから水が噴き出し、ロープを張りって普段工事をしている様子であった。小さなバンでもやっと走れるほどの道幅になっている処もあった。

残念ながらドジな私はスマホを車の中に忘れてしまい、ユキちゃんのを借りて2,3枚写したので山の様子は書くしかない。

 駐車場を出て参道を登っていくと、土が流され岩がむき出しになったり陶器やガラスの破片が落ちているのが目についた。

今回はユキちゃんとこの篠山にご縁のある妹との3人でお参りした。

妹はこの3年前に検査に引っ掛かり、肺癌と決めつけられ過呼吸になり心療内科の薬がきつく体調不良を起こしていた。後日肺癌でないことが分かったが、いくつかの病院を回ったが改善できないでいた。

やっと山頂近くの神社に付いたところ、いくつもある石灯籠は壊れてしまいまともな物はなく足元に1個だけ☼とその裏に☽の石灯篭の頭が寄せておいてあった。

御神体である池を清めてしばらく山頂の景色を見てから下山した。

後日、ユキちゃんが驚いたような声で

「雲だと思っていたら、どうも竜神さんみたいなんだけど…」と言って送って来たのが上記の写真である。

 


美郷町 百済の里

2014-06-19 21:47:15 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

先週末、妹家族と先日の黒い仏像をお浄めする為宮崎の美郷町まで出かけた。久々の旅であるのでもう気分はルンルン。

しかし、今回は妹の旦那さんの病気や姪の拾った悪霊の事もあり、気を引き締めなければならない。

土曜の朝、私達は神戸から夜行バスで到着した姪夫婦と合流し、宮崎のお伊勢さんと呼ばれる日向の大御神社にご挨拶して行くことにした。高速が大分伸びていて以前よりもずっと速く着いた。

その日は数日前の大雨とうって変わり梅雨の晴れ間の上天気。

海岸の柱状岩がとても珍しく、やはり太平洋の波は荒々しく、今回も遠くにサーフィンをしているのが見える。

ご挨拶後、私達はその辺の岩場からいつもの塩、水、お神酒を撒き、巫女鈴を振りながらお清めをし、その後手足を浸けて手をひらひらと左右に動かし、海のエネルギーを頂いいた。この事が後で大きな意味があった事にその時は分からなかった。

そして、後日遠隔でエネルギーをノワタリさんに入れてもらうため、体調の悪い母と魔と除けの為、姪と肌守りを買った。

そして隣接する鵜戸神社へお参りした。右の写真は上り龍の姿に見えると言われると言われる洞窟。

その後耳川沿いに走り、仏像のある南郷町へ向かった。

神門神社前 横に見えるのは百済の館

建物の中にあるので仏像に直接お浄め出来ないので、先に百済の王が祀られていると言う神社にお参りし、手分けして清めた。この神社も712年に創建されたと言う。

入場料を払い門をくぐると、正倉院と同じ建物があった。

写真ではわかりにくいが下の柱でも2メートルの高さがあり樹齢400年以上経ったヒノキで、奈良の正倉院と素材も寸分の違いもなく作られている。

ガイドのおじさんが一つ一つ丁寧に説明され、中に中々入ることが出来ず、私達は早く仏像に会いたかった。

やっと案内され中に入ると涼しくヒノキの匂いが漂っていた。

建物は3つに分かれていてまず宝物の収められている右側から。入った途端正面の壁天井までびっしりと鉾先が敷き詰めてあり圧倒された。戦後先の神社の補修をする時、屋根裏から出て来たそうである。

その他たくさんの銅鏡や万葉集の歌人の歌と板絵、大きな甕、百済王の持ち物である仏像と馬齢と馬鉾、その頃の百済の布地に書き留められた物があったが、残念ながら城の数が違うと言われ、本物とは認められていないそうだ。

でも、中丸さんの本で城の取りっこをしているのでずれが出るのではと思うが…。

本物は写すわけにいかないので展示ケースの上に在ったポスターを隠れて写したがぶれてお顔が分からない。

誰もその仏像の事は先日見学した時在った事も曖昧で、姪の婿さんが夜中にうなされるくらいなのでキビシイ顔をされた明王様かと思いきや20センチくらいの小さなもので穏やかなお顔をされていた。他に仏像は全くないので間違いないが、1000年以上経っていても持ち主の思いがあるのだろう。

その後、左の部屋で百済王族伝説の証である師走祭のビデオを見せてもらった。

詳しくは神門神社 西の正倉院http://www.gurunet-miyazaki.com/kankouti/mikadojinjya/mikadojinjya.htm

を参照してください。

百済滅亡後、逃れて来た王族も壬申の乱の時、敵味方に分かれて戦い、大友皇子に付いた百済王と二人の王子は2隻の船で逃れたが、着いたところは日向の国でも別ゝの浜に漂着し、この地へ逃れた王は流れ矢に当たり亡くなったと言う。

90キロ離れた木城町にたどり着いた第一王子も奮戦むなしく討死し、そこの比木神社に祀られ、旧暦の師走にご神体を担いで歩き神門神社で親子の対面をするという神事が師走祭だと言う。残された百済の人々がはじめられたのだろうか?でも昔の人々は人の魂、霊に対してとても真摯な姿で向き合っていると感じた。

師走祭りは木城町と美郷町南郷区(旧南郷村)にまたがって1000年以上も前から脈々と引き継がれ、異国の地で亡くなった百済王一族を慰める祭りです。
昔話風百済王伝説はこちらをご覧ください。

旧歴の正月の前(西暦では1月最後の週末)に、比木神社に祀られている百済の福智王の御神体が神門神社に祀られている父の帝嘉王に対面する儀式です。
木城町から神門まで18名の神職などが御神体を棒の先に担いだ(これは御輿の始まりの形とも言われています。)御神幸行列により行われ、南郷区神門で対面、歓迎の様子を表しています。(グルネット宮崎よりhttp://www.gurunet-miyazaki.com/topics/maturi/siwasumaturi/siwasumaturi.htm)

そのおり漂着した浜で海に入り、禊をすると言うのを聞いた時、偶然ながら私達が海に手足を入れたのもこのためだったのだと思った。

妹たちは

「前回、来た時は意識していなかったけど、今度はよくわかったわ。」と言い、中丸薫さんの本を読み直していたので当時の状況がよく理解できた。壬申の乱は国内だけでなく半島を含め、下手をすると唐に飲み込まれたかもしれない状況だったみたいだ。

お役目が済んだ私達はホットして下にある百済館に行くのも忘れ、近くの山霧という温泉に駆け込んだ。

土曜と言うのに温泉が豊富な宮崎だからだろうか客はまばらで、ゆっくり手足を伸ばした。かけ流しのお湯でとてもツルツルとして良い温泉だった。

ノワタリさんに報告すると、姪の婿さんに

「あなたが立役者ですよ。ご苦労さまでした。」と言われ、ノワタリさんは先の将門さんや比叡山焼き討ちで亡くなられた御魂を7月上旬まで21日間供養されているが、

「お寺さんだから、十分に供養されていると思うんだけど、子供たちがね、地面の中からムクムクと出てくるのよ。そしてジャンダルクまで現れてね。またこれも供養ね。」と言われた。ジャンヌダルクは彼女の前世の一つであれもこれも一度に出てきて大忙しである。いったい何だろう? 


大山祇神社と未来心の丘

2013-02-13 21:32:22 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

先日の2月10日に大山祇神社へお参りに行った。

途中、ユキちゃんや従姉妹のタカコチャン親子と合流したので朝7時過ぎに家を出ても到着したのは11時前だった。

連休で旧正月と言うのもあり、何時もよりずっと人は多く、駐車場にはずらっと観光バスが並んでいて、旗を持ち観光客を案内しているガイドさんの姿も多い。

まだ午前中ということだろうか人が多くとも境内に入ると空気の違いを感じた。

松山に出るまで高速道路を走っていると、何時もと違って山々が太陽に照らされ、まるで阿蘇の外輪山を見ているような気がした。

やはり、それは私だけでなくユキちゃんも「今日の太陽の光が違うわ。」と言う。

その日は旧正月でもあり、新月が重なっていた。何か関係があるのだろうか。

日輪も写っているが、門の右側の柱に緑色の光がある。何かは分からないが、ノワタリさんに話すと、「良いものですよ。」と言われた。後日写真を送付すれば、はっきりするだろう。

お宮参りや後でまた行くと結婚式を挙げた方達と出合ったが、御祈祷を頼んだ人も多いらしく、境内をぐるっと周って来ても太鼓のドンドンという音や笛の音が響いていた。

そのまま、鶴姫さんや岩長媛様の祀られている阿奈波神社へ行こうと思っていたが、お昼時は食堂が込み合うので食事を先に済ませることにした。

何時もより、鶴姫像も明るい。手分けしてお清めし、近くに釣をされている人がいたので幾分鈴も控えめに振り、白やピンク、黄色の混じった菊の花束を海に流し、祝詞、般若心経や御真言を私があげている間、ユキちゃんは目を閉じていて、

「上から、金色の光が降りてきてる。」と言ったが、鶴姫様の周りの岩は金色に光っている。

その後、一人であれば行くのをしり込みしてしまう阿奈波神社へ向かった。歩きながら、「ちょっと暗いし、一人だったら寂しいから嫌なのよね。」と話しながら行ったが、

着いてお清めをしていると、

「『本当はこんな色で綺麗だったのよ。』と言って、とてもあざやかなお社を見せられたわ。」とユキちゃんが言った。

今回、以前のような暗さは無い。

お社のすぐ横の山際になぜか媛神様なのに男根が幾つも祀ってある。最初行った時は気づかなかったが、2度目に行った時に「何で?」と思い、ノワタリさんに伝えると、「今度行ったら、其処もお清めしてください。」と、言われたが、

多分、始めはお社だけだったのに、後で作ったのでは?それがこの媛神さまは嫌なんじゃないかしら?それで暗さの元はそれ何では?と言う事に私達の間ではなった。

もう一度、大山祇神社にご挨拶をして、多々羅大橋を渡り、広島県に入り生口島の耕三寺の未来心の丘へ行った。

耕三寺は西日光と言われているそうだが、入場料の1200円にはびっくりした。

境内に入ると、お香の匂いが漂い、色鮮やかな建物と、大きな観音様の像があった。

イタリアから大理石を輸入して作ったといわれる山頂の大理石の庭園を夕方の民放のニュース出見ていたので是非、行ってみたかった。

お天気にも恵まれ、暖かい日だったので心地よく、そんなに高さがあるわけではないが見晴らしもよく、瀬戸内の穏やかな海と大理石の白いモニュメントもあり、まるでエーゲ海にいるような気分である。すんなり帰るのには惜しく、まるでその景色の一部であるかのように溶け込んでいる喫茶室で私達は休んだ。室内も白い壁で外の大理石と一体化しているようであったが、他に客はいなかった。

 しかし、私達だけでなく、降りながら「良いものを見せて貰いました。」と言うお爺さんの声を聞いた。

私達も、先の大三島と又違っているがとても心地よい時間を過ごし、気づけば夕方の4時になっていてそこを離れた。

松山でタカコちゃん達と別れ、ユキちゃんと話していると、

「後、10年って聞こえたのよ。これから10年間周るのかな~。お参りって言う大儀名文があるから出やすいのよ。又誘ってね。」と言う。

彼女も痴呆になりかけた姑と病のある舅の介護があるので、日帰りならば動ける。抱えているものもあり、10年前にノワタリさんと友人の中で一番最初に出合っていながら、昨年まで一緒に行動する事が出来なかったが、ようやく動く事が出来だした。

多分私達はこれから10年間行動を共にするのだろうと思いながら、新月の闇夜の中を走った。