Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

大晦日の雪

2009-12-31 21:42:07 | 日々のつぶやき

今日は雪、薄っすらと屋根に積んだ。昼過ぎまで休むことなく雪は降り続いたのでお使いに出かけた時、商店街はほとんど人通りがなく、お店もシャッターを下ろしているところが多かった。中学1年の時、20センチくらいの積雪になった。その頃は、雪が降ろうと商店街は人が多くにぎやかだった。

私はその日、近所の空き地でグショグショになりながら大喜びで雪だるまを作った。正午過ぎの事だった。町の中心の丘の上にある中学校が火事になった。理科の実験の後始末から火が出たということだった。間の悪い事に積雪の為、消防車は丘の上に登ることが出来ず、手間取ったので現場の到着が遅れた。

コの字型にあった校舎は一の字になり、体育館が残った。翌元旦の登校日に行くと、ほとんど焼けてしまって真っ黒の炭状態で地面近くに無残な残骸があった。火事の時、丁度部活活動でいた同級生が「雪があるから融けて水になるかと思ったら、雪を積んだ屋根を火が走った。」と言い、体育館に火が移らないよう放水し、燃えやすい緞帳などを除けたと言う。

3学期が始まるまでに、体育館を6つにベニヤで区切り、少し狭かったがそこで授業を受けた。(7組は何処だったのだろう)体育館は暖かく良かったのだが、窓が小さく少ないので給食が終わっても食べ物の臭いが籠ったのには弱った。ベニヤ板1枚なので、隣の教室の声がよく聞こえた。音楽だけは、近くの公会堂に行ったが、広過ぎるホールの隅っこにぽつんと40人余りが座ったが、とても寒く歌を歌う処ではなかった。

家庭科に使うミシンも焼失し、寄付して頂く家庭に先生と、数人の同級生と放課後リヤカーを引いてもらいに行ったりした。たった3ヶ月間の体育館の授業だったが楽しく、今となっては良い思い出だ。

昔は雪が降っても学校が休みになるということはなく、高校の頃、山奥に住んでいた同級生は3時間目頃、徒歩でやって来た。大風の日、海岸沿いを通る同級生は潮を被り、ジャージに着替えて授業を受けた。そんな事を外の雪景色を見て思い出した。


年末の出来事

2009-12-28 23:52:30 | 日々のつぶやき

あっという間に年末になった。玉置から帰って、毎晩お風呂でみかんを食べながら、本を読んでボーとしているうちに日が過ぎてしまった。今回の玉置神社は2年前に行った時と変り、又静かな昔の趣を取り戻していた。この2,3年前は不思議なくらい若い人が多くて駐車場もでいっぱいだった。今回も鳥居前に以前はなかっためはり寿司の屋台が出ていたのでびっくりした。那智の滝もノワタリさんのお供をして3度目だが、1番水量が多く豪快であった。

今までは、事故に遭ったりして身体的な事だったが、今回は私のみ、精神的に苦しい事が起きた。「許す」という事を勉強しなければならないのだろうか?残念ながら私はそんなに度量が大きくない、これからの課題だろう。

やっと今晩、年賀状も書き上げた。この年末の22日になってFAXが壊れた。取引先から、真っ黒な用紙が流れてきたと言われローラーのガタガタという音がして、気付けば流れていない。又、土曜日に8台ある電話機の主体の1台が壊れた。相手の声は聞こえるが、こちらの声が聞こえないらしい。

かろうじて、FAXは受信だけは出来る。電話機もボタン操作でやっと使う事が出来たが時間の問題だろう。後、パソコンが壊れた時の用心にせっせとバックアップしている。久々に機械物がやられた。ノワタリさんいわく最後のあがきらしい。(これまでも10年くらいまでのトラブルと私のはよく壊れた)

メールで発注して何とかしのいだが、それが使えない87歳の父がイラついているので年が明けたら、買い換えようと思う。そんなこんなでばたばたするばかりで疲れ果てた。

今夜、フィギアスケートを見ていたら、ずいぶん昔、伊東みどりが活躍している頃、NHK杯の解説を佐野稔と渡辺絵美がしていたのを思い出した。大会も終盤になる頃から、渡辺絵美のコメントに必ず鼻にかかったちょっと甘い声で「私の時は。。。」というのが付いてきた。ちょっと鼻に付き、うんざりして「あんたの事はどうでもいい」と言いそうだった。

競技も終わり、空のスケートリンクが画面に映り、今回の大会の総括を二人の解説者が話していたら、またしても、「私の時は」「私の時は」と言う渡辺絵美に佐野稔も切れていたみたいで、鋭い突っ込みを入れ、皮肉っぽく切り返していた。渡辺絵美も冷静な声でなく感情的になリキャーキャーという声になり、二人は公共の電波という事も忘れたみたいでバトルをおっぱじめた途端、番組はアナウンサーの声に替り終わった。

へたな漫才より面白く、もっと聞きたかったが、二人の顔は映らずとも想像しただけでおかしく妹と大笑いした。たぶん、NHKにジャンジャン抗議の電話が行っただろう。私はこの時から、佐野稔が贔屓になった。しかし翌年は、渡辺絵美はそのままだったが、五十嵐文男に代わり、ありきたりの普通の解説で掛け合いのようなやり取りは無くがっかりした。

 


2005年10月 弥山 玉置神社 2

2009-12-09 22:48:11 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

十津川

私達が泊まった宿は十津川荘というこじんまりした和風の旅館だった。一間のお床と違い棚があり二間続きの立派な和室に泊めて頂いた。泥まみれのリュックが部屋の隅に新聞紙をしいて置いてあった。本当に遅く行った上に、泥まみれだったのでご迷惑をかけてしまった。又、泊めていただきたいと思うがいつも和歌山側から行くので残念ながら機会がない。

翌朝、廊下の窓から川が見えた。いつもなら早起きしているのに、疲れが出て遅くなり、朝食時に会った他の客から、朝露天風呂にはいっていると大きな虹を見たと言われ、喜んでいた。私達は遅かったので見ていないが、ゆっくり川の見える露天に入ってくつろいだ。

その後、川に降り写経したものを流した。ノワタリさんは祈られていた。私は余りにも多いので、内心川を汚すと付近の人に注意されるのではと心配したが誰も居らず、静に流れながら沈んでいった。もう一部はライターで火を点けると、フワ~と空を飛び燃えて、瞬く間に燃え尽き、お役目終了。

玉置神社

白山社

玉石社

玉置山山頂

私達はこの年、二度目の玉置神社だったが、今回初めてのウチダさんは行きたい神社の一つだったので玉置神社の各お社を回った。丁度お祭りで、社務所は人が多く、私たちも御祈祷をお頼みしたら、偶然旅に出かける前ヒストリーチャンネルの司馬遼太郎の「街道を行く」と言う番組に出ていた狩野派の豪華な花鳥図の襖絵の和室で祈祷して頂いた。

玉石社をお清めしてお参りし、山頂に登ったが、下りは大変で足が動かず、蟹歩きで一歩一歩降りたのでとても時間が掛かった。そのせいで、時間がギリギになりウチダさんは飛ばして田辺駅に向かった。ヴィッツはウィ~ンウィ~ンとうなり声を上げて走り、ウチダさんが「その気はあるのだが、残念実力が伴わない」と嘆いた。それでも数台の車を追い越し、田辺の郊外でとてものろい軽トラックの後ろを付いて走る羽目になり、駅に着くと同時に電車は出て行ってしまった。飛行機には乗れず、大阪まで一緒に行き、新幹線で帰られた。やっぱり、玉置に行くと何かある。

この時、おニューだった私の合羽(お尻は裂けていたが)と登山靴は寒気が酷いので捨てた。

その一ヵ月後、私は参加しなかったが、ノワタリさん達は同じ十津川村の竹筒の高倉下の神様と同じ御祭神の新潟の弥彦神社に参拝された。後日、「天照大神様が姿を現され、人型に赤く夕日が出た。」と言われた。それは半年後のワタリさんの写真に同じものが写った。

その後、玉置には2006年、2007年とお参りしたが、またこの週末お参りする。

10月に三峯神社から埼玉県の神社をお参りした時、「今年はこれで終わりね」と言われていたが、末に連絡が来て「玉置です、今回は玉置だけだからゆっくり出来ますよ」と言われて言われた。段取りをつけ、乗り物の予約寸前に「那智の滝もです」と連絡が来た。そのうちにメンバーも増え、妹婿が八つの頭を持った蛇が夢に現れて気にしていると言うがあった。ヤマタノオロチだ。ノワタリさんに夢の事を伝えると、妹婿も行くべきだという事になった。その時、「これで揃った。」という神様からのメッセージを受け取られた。その後、叔父も参加する事になり、何故か私の身内ばかりだ。ノワタリさんによると、今までのは露払いのようなもので、今回は違うそうだ。どんな旅になるのかわからないが、ワクワクしている。

 

 

 


2005年10月 弥山 玉置神社

2009-12-02 10:05:13 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

弥山 天河神社奥宮

小さなオーブが沢山写っている

10月22日、始発で出てこられたノワタリさんと今回が初めてのウチダさんと京都駅で合流し、近鉄に乗り換え大和八木駅まで行きレンタカーで出発した。前回の事故の事もあり、それからはヴィッツばかり利用している。

今回、浜本末造さんの本に書いてあるように、魂の思疑を融かすため、般若心経を写経し6枚を3部書き、1部は神社の境内の隅に埋め、1部は川に流し、1部は燃や目的で写経したものを18枚持参した。前回、この奥宮でそれをされていたご夫婦に会ったので私たちも実行したいと思っていたからだ。その本によると行く事が出来無い人は他の人に頼んでも良いと書いてあったので、私は家族、友人の分も持参したので計10人分にもなってしまった。この事が後で大変な事になってしまった。

予定外の事だったが、ウチダさんが「ここまで来たら、ぜひ橿原神宮にお参りしたい」と言う。遅くなるとやばいなと内心思ったが、ご挨拶だけでもと結局参拝した。

その上、慣れないナビでもたつき思うように進めない。途中、お清めの塩、水、酒を買う為コンビニに寄ったり、何故か途中の道の駅の催し物に寄り道したりして大幅に予定がずれた。

車を行者還りトンネルの入り口近くの駐車場に停め二人を待つ間に買った昼食用のお弁当も食べる暇もなく、上り始めた。その日は風も強く、前日とは打って変わっての悪天候で時折雨の降る寒い日だった。登山道で出会う下山してくる人たちは口々に「今日は山小屋でお泊りですか?」と尋ね、「いいえ」と言うと、「絶対、無理」と皆さん同じ事を呆れ顔で言った。

しかし、気持ちとは裏腹足は進まない。おまけに靴紐が解けて何度も結びなおした。前回は、登山靴でもなかったのに今回みたいにきつくはなかった。ノワタリさんも私も度々、休んだ。そのうち、雨は、雪交じりのミゾレになった。

やっと奥宮に着き、お清めをし、お参りした後、スコップを取り出し、土の中にそそくさと埋めた。悪天候なので、空が暗い。早くしないとマズイのでお弁当も食べず、私達は全速力で山を駆け下りたが、やはり、靴紐が解けていけない。私が二人の足を引っ張ってしまった。その上、解けた紐をそのままにしたら、足首を捻挫してしまった。痛い足を引きずりながら、それでも走るしかなかった。

最後の難所の急な山道まだ来た時、日が暮れてしまった。ブナの木立に覆われているのもあり、もう何も見えない。足元は木の根が不ぞろいの階段のようになっていて歩けるものではない。このままでは、山で一夜を過ごすしかないと思った。ウチダさんがライターの火をつけたが、かえって暗がりに慣れつつあった目が又見えなくなった。

ノワタリさんが「大丈夫、付いてきて」と言って先頭にたち進みながら、「ここ!」「ここ!」と言われ、ウチダさん、私が続いた。しかし歩くのは危ないので、お尻を地面に落とし、お尻歩きをした。何かが地面一面うっすら夜光虫のように光っていたが、あれは何だろう芍薬の葉?ブナの葉?しかないはずだが...

やっと下りたが、その先には川があり小さなつり橋と沢沿いを歩かなければならない。一難さって又一難である。それもノワタリさんの誘導でどうにか車道まで出た。

が、しかし、全くの闇夜で駐車場も見えない。道の向こうは川である。どうしようと思っていると、丁度そこへ一台の車が走ってきた。走り去っていくだろうと思っていたら、それはライトをつけたまま駐車場に止った。天の助けだとこの時は手を合わせたいくらい嬉しかった。ライトのついている間に大急ぎで車に乗り込み出発した。

車に乗り込んだ途端、安堵感から、どっと疲れがでたが、オーバーでなく本当に無事であった事を喜び、感謝した。ノワタリさんにお尋ねすると、「光が一筋ずっと照らしてくれたのが見えたのよ。」とおっしゃる。やっぱり、ノワタリさんってすごいと思った。

こんな事になったのは馬鹿みたいに10人分もの写経を持参したせいである。10人分のカルマは重い、重すぎる。翌日気が付いたが、合羽もリュックも登山靴もすごい寒気だった。お二人にご迷惑をかけてしまった。ゴメンナサイ。

予定では、天河神社に時間があればお参りするはずだったがそれも夜になり出来なかった。宿の方にも遅くなると連絡しようとしたがも圏外で川合近くまで行かないと繋がらなかった。

ウチダさんもお疲れなのに一人で真っ暗な知らない道をナビ頼みで走った。途中、車に会う事もほとんどなく、キツネか狸に惑わされそうな感じがした。大塔村が地すべりで通れず、迂回路を大回りしてやっと温泉地温泉に着いたが、案内板が人気の無い国道にポッカリと白く浮かび上がっていた。

宿は国道裏の川沿いに在ったが、イザ車を下りようとしたら、強張って足が動かない山を全速力で駆け下りたせいである。宿のお部屋に通されても、私達は、階段を這って上がった。宿の方には気の毒だったが、先に風呂で汗を流して、夕食を頂いた。

処の珍しい食材の鹿の肉などが出ていたが茶碗片手に3人とも目がふさがってしまい、余り進まなかった。ノワタリさんに捻挫した足を手当てしていただき、痛みは消えた。その夜の記憶は余りなく、爆睡だった。