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一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2011年6月箱根

2011-06-11 23:38:11 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

箱根神社

翌日は江ノ島でもと思っていたら、妹がの中で箱根のパンフレットを持ち帰った事から箱根神社と九頭龍神社へお参りすることになった。妹はまだ箱根に一度も行った事が無いと言う。横浜の叔母の家のを貸すと言われたが、私達は横浜市内を走る自信は無い。

それで小田原までで行き、其処からを借りる事にした。ほんの数日前、ノワタリさんは箱根へ行かれたが今回も同行してもらうようになった。

妹の運転で箱根新道を通って行ったが、思ったよりも近くすぐに元箱根に着いた。その日は曇りでちょっと肌寒く、残念ながら富士の姿は見えなかった。

私達は元箱根にを停め神社まで歩いた。ノワタリさんと出会った8年前に来た時は何処も人が多かったが今回は震災の影響だろうか少し寂しかったが神社は参拝者は多かった。特に九頭龍神社の方は列を作っていた。後日調べると縁結びで有名だそうだ。

その後、次の九頭龍神社の本宮へ行くのに湖畔を歩いて戻っていたら湖は風があり結構波が高かった。でプリンスホテルまで行くと、道が無いと言われ上の道に上がったが、その後で其処の駐車場に停めていけばよかったことに気付いた。しかし、そのまま湖尻まで進む事にした。

本当に湖の中からが出てきそうな感じだった。

湖尻から3人で緑のトンネルの中をお清めの塩や酒、塩を持ってボツボツ歩いて行ったが、うっかり運動靴に履き替えなかった事を後悔した。ストッキングでは靴の中で足がすべりアップダウンの多い道は歩きにくかった。サイクリングの人やウォーキングの人とよくすれ違った。

九頭龍神社は入り口で入場料を払って入った。神社で入場料がいるなんて珍しいと思った。しかし、中はきれいに手入れしてありゴミ一つ見当たらなかった。

まず白龍神社へお参りした。ここの鳥居もお社もすべて白く塗られていた。うっかりしての中に置いて来てしまい、妹のの写真である。湖畔の遊歩道を歩き、九頭龍神社へ行くと、参拝者が次々とやって来たのでご挨拶して湖畔に出て手分けして湖を清め、ノワタリさんは歌われた。私達は龍神様の御真言を唱えた。以前、観光船で見て気になっていた鳥居はこの神社だった事が分かった。

湖にある鳥居は霧が出てきてとても幻想的だった。突然、視界の隅に霧の中から音も無く遊覧船が入った。姿からして遊覧船ではなく幽霊船みたいだと言って笑った。

市杵島姫様のお社にご挨拶をすると、「お達者で!」と声を掛けられたと言う。「え!神様が」とまた意外なお言葉に笑ってしまった。

もう一度九頭龍神社にご挨拶しようとすると、一人の女性が熱心に祈っておられたが、時間が無いので私達もお参りしたら、ノワタリさんが「胸で大きく十時をきるのが見えた。」と言われ、以前二見ヶ浦の夫婦岩前で写した写真に私達の胸に十字架の影が写ったり、剣山を下った所の神社でノワタリさんが日本語でない言葉で祈っているのを聞いたりした事を思い出した。

そして除福伝説が思い浮かんできた。そういえばこの近くに宮ノ下と言う地名もあると、また、十和田湖でノワタリさんは湖畔は早くから開け、水を巡って争いも多かったと言われたので此処も早くから開けていたのではと思った。

湖畔を歩きながら出口に向かっていると案内板にプリンスホテルのマークがあることに気付いた。通りで入場料がいるはずだ。見回すと、コテージや東屋もあった。そう思いながら湖尻まで歩いて戻る途中、このホテルから続く広い敷き地が余計な事だが戦前は何処の宮様の持ち物だったのだろうかと気になった。そしてその敷地の境を出た頃、急に足元でカサコソと落ち葉が音をたて飛んできたとおもったら、突風で後ろから私達の背中を押された。その時ノワタリさんが「押し出した。」との言葉を貰った。今回はお言葉が多く、気さくであった。

に乗る頃には小雨が降ってきた。近くで昼食を取らなければ、もう時間が無いので迷っている暇は無い。目に付いたおそばやさんで軽く済ませ、、湖畔を一周しようと思いスカイラインを走ったが霧が濃く全く何も見えなかった。これではお金を払って霧の中を走ったものの様であった。

大急ぎで羽田に出てノワタリさんに中華料理をご馳走になった。私より30分早い便なので妹が一足先に出た後、十三湊でノワタリさんが見られた槍を持って走っている男の話になった。「ただの兵士じゃないのよ。立派な鎧を身に着けてたから武将よ。」と慰められたが「でも、負けた方でしょ。」「ええ、首を刎ねられてるわ」と言われた。

前回津軽の旅で首が痛く重かった事を書いた時、藤原経清さんかと思っていたら私の前世の一つだった。私はこのブログでも2度ほど書いたが、よく怪我をする。骨折、ヒビ、裂傷で10針縫ったとか今までにあり、捻挫を意入れると片手では足りない。そそっかしいからだと思っていたが、それは過去を浄化しているのだと教えられた。

妹は「緑色の着物が見える。おひい様じゃないけど…」「お局様ですか?」とお尋ねすると、「宮廷の女官です。おひい様の側近ですね。」と言われたので、帰宅してから伝えると、「貴族だと思ってた。」とぬけぬけと言う。以前はその他大勢の百姓と言っていたくせに!

今回の旅は終わったが、一時休みがあったがまた続けてきそうな気がした。

羽田も節電で動く歩道も中央部は止められており、右ひざが痛くなってきた私には重いかばんがきつくなっていた。松山行きは遠くやっと歩道が動き出した所で荷物を下に置いていつもならば歩いているのにそのまま乗った。

からの東京の夜景も当然の事ながら灯りが寂しくなっていた。年末に危惧した事は起こり始めてきたのだろうか。

帰った翌日、富士山へノワタリさんは呼ばれた。麓から2合目の浅間神社へ行かれるようになった。また、その後、3月11日の大地震で行けなかった浅間山へ今月中に登るようになった。

 

 

 


2011年6月麻賀多神社と香取神宮

2011-06-11 15:17:17 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

本来ならば、引き続いて2008年の旅を書く予定だったが、急に成田の麻賀多神社に行く事になった。

先月の事、ノワタリさんの前に聖徳太子が数日間現れて消えなかったと言う。始めは子供の姿で現れ、後昔の紙幣のお姿で出られたと言う。なぜ?とノワタリさんは不思議がっていたが、月末に岡本天明さんが神主の格好で紙垂を目の前で振られる姿が消えないと言われた。三重の方は奥様が亡くなられているので、麻賀多神社へ行かねばならないのだろうという事だった。

今回は遠くないので当日の4日の朝一便で羽田で九州から出てきた妹やノワタリさんと今回運転をしてもらうウチダさんと合流した。

久しぶりだったのでの中は賑やかだった。

大杉の御神木

麻賀多神社に着くと、が沢山停まっていた。ウチダさんが「珍しいな此処にこんなに居るなんて」と言い、たぶんパワースポット巡りの若い人達だろうと思っていたら、鳥居から10人余りのリュックを背負った人たちが出てきた。地元の史跡めぐりでもしているのだろうか中年ばかりだった。それでも境内に人は多かった。

拝殿にご挨拶した後。天之日津久神社でウチダさんは岩笛を吹き、ノワタリさんはお清めされ、祈っていると「時代が変る。」というメッセージを受け取られた。どのような時代が来るのか分からない。日月神事に出てくるような時代かもしれないが、落ち着くまでは神事と同じ様に大変な事が待つ受けているような気がする。

ウチダさんによるとこの天之日津久神社のお社は昔放火に遭い、それで石になったそうである。

その後、境内の他のお社にご挨拶をした。印旛国造神社と馬来田郎女神社と言う珍しい神社が気になった。国造や郎女などと学校時代に歴史の時間で耳にして以来だ。当然、この神社を創建されたので祀ってあるのだろう。それと聖徳太子が出られた謎が解けた。推古天皇の時代に造られたと記してあった。境内にも大杉の御神木があったが、この辺一体に杉林が多かった。

その足でこの神社を作られた国造の古墳の所に奥宮があると言うのでそこへ行こうとしたが、「いつも迷いながら行くので順路がはっきりしないし、住宅街でこれといった目印が無い。」とウチダさんがやはり迷われた。辺りはウチダさんの言われる通り、古墳が多く道路もアップダウンが多かった。

「舟形で800番台の番地で幼稚園があったんだけどな」と言われ、幼稚園を目印に走ったが、たどり着けない。偶然在った電話ボックスの電話帳で調べるとくすのき幼稚園でその番地にナビをあわせ やっとたどり着いたが、そう遠くはなかった。

其処はとても良いエネルギーだとノワタリさんが言われていた。

ここも杉林に囲まれ、とても静かだった。ここで私達はお清めをし、お参りした。ここでもウチダさんは岩笛を吹き、ノワタリさんは歌われた後、ウチダさん「岩笛、喜ばれたわよ。」と声を掛けられた。穏やかで良いエネルギーの所だった。

その後遅い昼食を取り、何処へ行くか決めた。ノワタリさんは平将門さんの祀られている茨城の国王神社へ行きたそうだったが、時間が無く今回は香取神宮へ行くことにした。

しかし、何処へ行くにも山を越えなければならない四国と違い、ずっと山などは見えず土地勘も無いのでどの方向へ向かっているかも分らないが、関東平野の広さと交通の便利さを感じた。

桜門

要石

 行く道筋、香取神宮のお社は黒い色に金のラインが入ってとてもモダンで綺麗だとウチダさんが行っていた。それと伊勢神宮以外で正式に神宮と名乗れたのは此処とあと鹿島神宮だと教えられた。

私と妹は今回初めてである。香取市内へ入ると、ブルーのシートをかぶせてある屋根が目に付きだした。古く立派な商家なども気の毒に痛んでいた。ここから海岸へ向かうと、被害の大きかった旭市だとウチダさんは説明してくれたが、人事では無い。今ならば、あちこちからの救援はあっても、東海地震をはじめ3つ起きてしまうともう救援の手など当にできない。

神社の周辺もブルーシートの屋根が目に付く、門前の店屋のおばさんたちが呼び声を掛けてくるが、ウチダさんに言わせると「あまり元気がないな~。以前はもっと元気があって粘ってたけど。」と言うが、結構客引きは賑やかだった。しかし、午後3時も過ぎると、参拝者はそう多くない。

神社の参道の緑は優しく綺麗な色だったが、石灯籠があちこちで倒れて壊れていたて3月11日の大地震の強さを感じた。

言葉通り、朱塗りの門に黒に金色のラインでどっしりとして立派だった。藤原氏の財力か?藤原氏はこの神社と鹿島神宮が本元で春日大社は分社でこちらの出だと言う。

先程の成田周辺には古墳も多いと聞いたが、その昔ここは近畿と違った文化圏内で栄えたのだろう。

面白い事にノワタリさんは「金が掛かっている。」と言う言葉を頂き、苦笑いをした。その後、地震の元の大なまずを押さえていると言う要石の方へ行った。要石の前のお稲荷さんのお社の足元の狛犬は犬でなくお狐さんの姿で珍らしい格好をしていた。

鳥居の外へ出ると店屋のおばさんたちの姿はもう無かった。羽田まで送ってもらうともうすでに午後5時を過ぎていた。其処からバスで横浜へ出た。