Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

ミカン山の天辺の神社

2012-04-29 11:13:26 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

2日目は、昨夜遅く就寝したにもかかわらず、ノワタリさんと二人朝5時に起床してお風呂に入って身を清め6時には家を出た。

みんなとの集合は9時半、それまでに海のお清め、氏神様、荒れてしまったお伊勢さんのお清めをしてしまう心算だ。

夜中は大雨、大風であったが、強風は残っている物の、どうにか雨は降らずに守っていた。

町外れの海岸へ行き、何時もの御神酒、お塩、水の他、榊を3本海へ入れ祈った。ノワタリさんは海に向かって「ウォオオ~、」と歌われる。歌いだされると風はいっそう強くなり、海へ投げ入れた榊は岸に寄せられた。そして私は、龍神様の語真言を唱えた。

急ぎ足で、氏神様である八幡様へ向かった。今まで二度行ったが、二度ともお掃除をしている人がいたりしてお清めをする事ができなかったが、今回初めて心起きなく誰もいないので出来た。

石段を上っていると藤の花が落ちていた。何処にあるのだろうと思っていたら、大分離れた後ろの大山積様の横から飛んできていた。摂社、末社まですると、途中で何もかも無くなり、また1セット車へ取りに戻った。

今回は地酒の1升瓶を6本用意したが、境内をお清めしながらこの御神酒の醸造元の亡くなられた社長さんはこの神社の敬神会の副総代であったことを思い出し、このお酒で良かったと内心思った。朝早く、悪天候で誰もいないこともあり、大変気持ち良かった。

車の中で、東北の東照宮が倒産した話をした。結婚式場の過剰設備が原因だったが、神社も金儲けに忙しく、本来のお役目を果たしていない所が多い。

最後に、お伊勢さんへ行った。

鳥居から、清めた。右の鳥居の柱の根元にお神酒を撒いていると、魚の腐ったようなに臭いがプンと鼻をさした。二人で「え!なんで魚の生臭い臭いがするんだろう。」と言って顔を見合わせた。

前回は、境内へ足を踏み入れるのも躊躇するほど厳しかった。清めた後、「足がヒリヒリして痛い。」と言われていたノワタリさんがやっと普通に歩けた。

この神社が、元の海岸近くにあった頃が、この町が一番輝いていた時であった。しかし、埋め立てが進みこの場所へ移った頃はまだ、専任の宮司さんもいて知り合いのおばさんから、此処で結婚式もしたと聞いた事があるが、今は昔の事で、拝殿は壊れて無くなり、本殿だけがひっそりと山際にある。

元は神社関係者の住まいだと思うが、今は全く関係ない人が住んでいるらしく、境内へ入ると不信そうな顔で睨まれた。

挨拶をして「お清めさせてもらいます。」と言っても、無言であった。やがてそのおばさんも姿を消し、二人でここも思う存分お清めし、ノワタリさんが歌われ、ご挨拶をした。

そうしたら、全く清清しい空気になった。「生れ変った。」との上からのメッセージを頂いた。

「この町の神社はどこも荒れててダメなんですよ。」とぼやくと、「それが出来なかった。」と、また上からのお言葉。

時計を見ると、8時半になっていた。急いで帰宅し、みんなで朝食を取り終えた所に、従姉妹のタカコちゃん親子と友達のユキちゃんとチエさんが揃い、2台でミカン山へ。

下見を半月前にしたものの、どっちを向いてもミカンで同じ景色、分かれ道の度、戸惑ってしまう。

やはり間違えてしまい、またUターンしようにも広い所まで走らねばならなかった。

「目印に何かを撒くとか、柿の木があるとかだったら、分かるのにね。」とチエさんが言った。

おまけにカーブを曲がる度、コンテナケースやモノレールのカバーなどが飛んできて道路の真ん中に落ちているので スピードを落とし、時にはよけれず道端に退ける事も遭った。

上になると、テレビ塔や携帯の電波塔が目印になり走りやすくなったが、とても急な坂、はウイ~ンウィ~ン悲鳴を上げ極端に進まない。

軽では4人は重いのか?それとも1升瓶が重いのか?歩くほどの速度でしか進まない。セカンドにしてやっと参道近くまで上り、そこで徒歩となった。

人一人歩けるほどの道を上がると鐘楼があり、みんなで一人づつついた。ゴォ~ンと良い音だった。その上に石鎚神社、手分けしてお清めし、ナホちゃんが昨日に引き続いて鈴を振り、その後ろをみんなで拍手しながら3周し、ノワタリさんが歌われ、ご挨拶をしていると、こんな事初めてなのだが二度ストップが掛かった。

ちょっと気になったが、その後上の神社へ進んだ。

薄っすらと金比羅様の文字、地図のお社は此処とその横であったが、前回反対側へ降りる道かと思い行かなかったが、左側の道が気になり、私一人左の道を進んだ。お社のような物が見える。其処が一番この山で高い所だから、お社があって当然だ。

此処の金比羅さんでユキちゃんが「上から神様が降りてこられた。」と言っていた。

先程ノワタリさんのご挨拶の中断の訳はこのお社が本当の石鎚神社だったからだった。先日の下見の後、Sからので「やはり、石鎚さんだから鎖もある。」と言われていたが、鳥居の先は絶壁で鎖を登るようになっていた。

キューキューと何かの鳴き声かと思えば、木の枝のこすれあう音頂上は下よりも風が強く、どの親城の後ろにも防風の為の石垣が組んであった。

下の神社と大きさが違い、ずっと厳かであった。神事の間風にあおられて木々がざわめき、擦れてキューキューと鳴いた。ノワタリさんは地面にひれ伏して祈られ、歌われた。

「普段誰も来ないところに、8人がお参りに来たのでたいそう喜ばれているわ。」と言われたが、ノワタリさんが来られ、このような神事をされた事に対してとても喜ばれたのだろうと思う。

みんな心地よく、此処へお参りできたことを喜んだ。

このお社では以前もどこかの神社であったが、カメラのレンズ越に赤に近いオレンジ色の光の柱が数本見えた。そんな時は、プリントすると消えている。しかし、上の方は靄って御神気が写っていた。

私とよく似た体質であるユキちゃんは「みんなに色んな所へ誘われて行ったけど、何か違うと思っていたけど、私の来るべき所は此処の神社だったんだわ。」と、言って喜んだ。

ユキちゃんもチエさんも本当の地元である。この山の麓の生まれである。

下の4つ集落の神様をこ何時のころから祀ってあり、その間に小さなお稲荷さんがあった。ノワタリさんはおきつねさんを大事そうに胸に抱え、抱きしめながら歌われ後水に濡らしたティッシュで丁寧に拭ききれいにした後、ご挨拶をされみんなで杉の葉で掃きお社を掃除した。

その後下へ向かい風の神様(龍神様)に祈り歌われた。共鳴するように風はいっそう強くゴォーゴォーと吹き、木々はざわめいた。この山の御祭神様方と風の神様、龍神様とお出ましになられ、喜ばれた。

その後御祭神様の名前が分からないお社で、鈴が1個外れて転がった。それを直そうとしたら、

「其処にそのまま。」と言われ、其処に必要なのだろう。

小さな町である。ほとんど中心部は海の埋め立て地であるから、問題も多い土地である。

前回、津波が来たらそっくりこの町は水没してしまうだろうと思いながら、走ったが、今回は全くそんな事を思いはしなかった。とてもみんな興奮していて、「石鎚さんのお山開きになったらこの神社へお参りしよう。その時はSにオセンダツしてもらおうね。」と私達は勝手に決め、お山の神様と同じで嬉しく楽しかった。

でも、下山中も 案の定、道を間違え、海沿いに下りる心算がずっと4つの集落の上を走り北側の端の道を降りるようになった。

みんな「お参りした神様の分区の上を走らされたのよ。」と言って笑った。たぶん後ろから着いてきたタカコちゃんは間違えたなと気づいただろう。

1時過ぎになっていたが昼食はみんな揃って先日開店したばかりのKの店へ行った。入り口には数組の客が待っていたが予約を入れていたのですんなり入れた。こんな時時間が惜しいので無駄には出来ない。

Kの事を「納まる所に納まったわね。」とのノワタリさんの言葉に安堵した。久々のkのパスタは美味しかった。

外へ出ると、とうとう雨が降り出した。山の上にいる間もたせてもらったことに感謝。

ユキちゃんとチエさんと別れた後おチョウさんのお墓参りに行った。慌てていったのでいお清めようの物だけ持参して、お線香とお供えする御神酒を持って行くのを忘れてしまった。もう一度、近くに行くようである。

タカコちゃん親子や姪は初めてである。私達子孫が揃ってお参りできることをありがたく思った。

姪は「アヤちゃんに似てる人ね。」

「おちょうさんは大そうな美人なんだけど。」と言うと、ノワタリさんが「目の光が同じですよ。」とフォローされた。

帰宅して事務所見ていただくと、「昔と違ってずっと良くなってますけど、やはりまだ一階の一部分だけ寒気が残っている。」と言われた。厳しいものである。

仏壇を置く訳にいかないので、ローソクとお線香とたっぷりの丼の水をあげているが、此処に観音様を祀れば良いとアドバイスを頂いた。

斜向かいの家の3階に江戸時代に岩の一番上にその辺の船大工達が祀っていた神様があったのが、埋め立て時に神事もせずに取っ払っているので、其処に榊と水と塩、御神酒を供えていたが、其処にもお社と御鏡を置けば良いと教えていただいた。

父の姿を見たノワタリさんは「お父さんはまだまだ大丈夫ですよ。」と仰られ、妹に伝えると安心した。

母はチラシ寿司、鯛の刺身とお吸い物を沢山作り、友達達の分も用意していた。いつもなら、後疲れて寝込む事が多いので今回もしなくて言いと言っていたのだが、是非作りたいと言って、私たちがお参りしている間に張り切って作っていた。

まだ、4時半であったがみんなが「美味しい!美味しい!」と言うので母は上機嫌である。余ったのはノワタリさんとタカコちゃんが持ち帰った。

この作り方を習っとかないとねと妹と言うと、「まだまだこの味を楽しめますよ。」とのお言葉、ありがたいことである。いがみ合っていたのが嘘みたいである。

どれだけの余生があるかは分からないが、心穏やかに過ごせるのは私達家族に取って一番幸せなことだと思う。

5時半に妹達とノワタリさんを空港へ送っていった。

いろいろ有ったが、それが私たちを強くしていった事を言われた。何事も無駄ではなかったと言う事か。

妹の結婚にしても当初親は猛烈に反対して、結婚式はしたものの、姪が出来るまであまり行き来はしなかったが、妹と結婚しなければ、妹の主人は自殺したと言われた。

妹が精神的ささえになり、もうその心配は無いと言われた。

妹はいつも「向こうの先祖に引っ張られた。」と笑いながら言っている。

空港でお茶を飲みながら、今度何時お会いできるか本当に分からなくなってきたので別れを惜しんだ。Hからの玉置神社の連絡はまだ無い。大三島の鶴姫像の岩場がすっぽりでてその岩場も下から1m50位の高さである。そんな事を思うと迫っているような気がする。

今回、2日とも台風並みの低気圧と言われながらも、何のさわりも無く暑くも寒くも無く、日差しも無く丁度良いお参り日和であった。上と、ノワタリさんに感謝。

翌日、山へ上がった軽自動車の右後輪のタイヤがパンクしているに気づいた。走っている間、誰もそんな事を気づいたものもおらず、よく無事であった事と思った。

直してもらったが、ネジ式釘が刺さっていたそうである。帰路に高速を使うタカコちゃんの車で無く良かったと思った。

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大山祇神社のおみくじ

2012-04-28 17:24:35 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

2日目の旅に移る前に、おみくじの事を書き落としていたことに気づいた。

大山衹神社でノワタリさんを除いて、おみくじを引いた。妹は関心がなさそうだったが、私が「ここは凶が多いんだよね。団体で引いた時も三分の一くらいの30人くらいの数が凶だったのよ。」と言ったとたん、「私も」と言って引いた。

結果は妹とタカコちゃんが凶、私と姪のナホちゃんは半吉で二人づつ引いた番号も同じだったので内容も同じだった。

しかし、凶であっても内容に書かれていることは悪くはなかった。妹は引き寄せたのであろうか?

「今がどん底だと思えばいいじゃない。昔、浅草の浅草寺でおみくじを引こうとしたら、横にいた高校生の男の子達三人がぶつぶつ言ってたのよ。その子達みんな凶、私も凶、後で来た女性も凶、高校生が『おまえ、また引けよ。』と言ってた。」と、言うと、タカコちゃんが「また、引けばいいのよね。」と言ったが、「今日は大目に凶を出す日って日替わりで決めてたりして。」と言って笑った。

そして、妹が来る1週間前の事、「父が弱ったのかな?一日中朝から、うたた寝をしてるのよ。おじいさんも、亡くなる年にはよくうたた寝してたから、もうお迎えがちかいのかしら?」と電話で伝えていた。

妹は最後になるかもと思いながら、姪と一緒にやって来た。東京にいる下の子にもそう伝えると、

「おじいちゃんは嫌だ。」と言ったと言う。

「それじゃあ、お婆ちゃんは?」と笑った。姪たちは母がワンマンで厳しかった事を覚えている。

それだけでなく、父はよくふら付き、あちこちに体をぶつけ転ぶ。

近所の接骨院の先生が「もしかしたら、パーキンソンの初期かも?」と言われたので調べると、パーキンソンであるかないかは、MRIで調べればわかると書いてあった。

母が、「この近く父は脳外科でMRIで調べたけど、何もなかったと言っていたから...、もしかしたら、焼酎?」という事になった。

そうするうちにその先生から「あの年で、3杯はすごいよね。」とか、「昨日ふら付いてたけど無事に帰れた?」とかと言う言葉が、耳に入った。

原因は飲酒だった。ふら付きも、うたた寝も飲酒のせいだった。近所の酒屋の自販機でチューハイを買っていた。すべてはも焼酎を飲みだしてからの事で、350ミリのビールにするとそれは治まった。

妹が来たときには落ち着いていた。

笑い話であるが、気付かせて頂いた事を感謝している。そのままであれば、遅かれ早かれ脳をやられたであろうと思う。

 

 

 

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2012年4月道後、 大三島

2012-04-26 21:44:14 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

21日朝、始発便でノワタリさんは松山に来られた。ミラクルで楽しい旅の始まりだった。

今朝もノワタリさんと話したが、「まだ1週間も経っていないのにずっと時間が経ったような気がして。」と言われる。私も始めの頃、関西が多く、大阪駅へ一人で帰った時、その旅とのギャップが大きく、数時間前なのにはるか昔のような感じがした事を何時も思っていた。まるで浦島太郎のような気がした。

今回も前日の夜から興奮して眠れない。ラジオのニュースによると、前日の夜中250ミリの雨が宮崎の青島で降り、この量はこの季節1ヶ月分の降水量だと放送していたが、こちらも時折雨は降ったが、たぶん浄化で私たちの行動に障る事は無いだろうと思った。

ノワタリさんとの旅では何時も先に大雨、大風が吹いた後で浄化された後に行く様になる事が多かった。先月もそうであったように。

妹と姪は前日の夜中から走ってきたが、到着予定が7時のはずが高速が延びたので5時に着いた。以前眠りヒメだった私を思い7時まで車庫で仮眠したと言う。もうその頃には起床していたのにと言うと後で妹はぼやいた。

ノワタリさん自身も始発の電車では心もとなくタクシーをお飛ばして羽田へ出られた。みんなが待ちに待った時であった。

もうこれが、最後かもしれないと思っている。数年経てばまた逢えるかもしれないが…

空港で従姉妹のタカコちゃんと一緒になったところで静かなコーヒーショップにて朝食を済ませ、いざ道後へと思ったいたら、その近くの護国神社ということになった。

曇天で時折、小雨が降るがお参りしている時はありがたい事に何時もごとく降らなかった。

妹が九州を出てくる頃はやはり大雨であったと言う。

其処から護国神社までにはかって私の住んだ忌まわしい下宿がある。5,6年前の夜横を通っただけで気分が悪くなり気が進まなかったが、今回はノワタリさんがご一緒だから受けてもたぶん大丈夫だろうと思い出発した。

しかし、それらしき建物は無い。数件の新しい建物が道路沿いにあった。1年前に道路の拡張工事があり、様子が変わっていた。たぶん道路より1番奥の建物に住んでいる人は少なかれ影響があるであろうと思う。

間一髪で私は免れたが上の住人が自殺した。私もとても怖い思いをした事があり、なぜか半年たった頃、帰る気がしなかった。部屋の辺りが暗かったのを覚えている。

護国神社へ着くとこれから行く大三島のご一行が御祈祷を受けていた。神社前の小川に問題があり、 神社の隅っこの橋の上でみんなでお清めした。やはりその体質である姪が「引き込まれそうに暗い」と呟いた。

昔試験勉強をしていたらおまわりさんがやって来て窃盗犯が逃げ込んだと言われ驚いた事があった。

その後道後のお稲荷さんへタカコちゃんの案内でアミダクジのような裏道を走った。

そこでタカコちゃんの紹介でノワタリさんにお世話になった人達が来ていた。残念ながら、SDカードを入れ忘れていた為、その神社での写真が無い。

みんなでお清めし、ノワタリさんはお稲荷さんにお礼を言い、そこでお世話になった方々にエネルギーを入れ、お言葉を伝えられた。

其処は伏見稲荷さん系であるらしい、お世話になった時沢山のお稲荷さんがでて来たそうである。

その間、珍しいぼっちゃん列車が入って来たり、バスが立体駐車場の回転盤で方向転換をするのを見た。その後、12時の時報と同時にからくりで温泉や坊ちゃんの登場人物が出てくるのを目にして、商店街から道後温泉本館まで歩いた。途中、地元の知り合いの勧めの店で坊ちゃん団子と醤油餅を買った。さすが、地元の人の進めの品でどちらも美味しく、みんなが満足して喜んだ。

其処でしか売っていなくて、さすが手作りは違うと思った。

予定より遅くなっていたので大三島まで急いで走った。

お参りの前に、早みんなおなかがぺこぺこで参拝前に昼食を取った。

アサリラーメンと鯛ラーメンにに分かれた。それと鯛めし、私の地元では鯛めしとは鯛の刺身入りの卵掛けご飯(だし入り)であるが、父はそれにお茶掛けにする。ここでは炊き込みであった。

卵掛けの方が珍しく、ノワタリさんに一度食べていただきたいと後で思ったが…

大山積神社は新緑の季節、楠木は古い葉を落としながら新緑の季節を迎え始めていた。旧正月頃にお参りした時よりもめっきり参拝者は少なかった。

この神社の存在を口にした事で後々つながったこ事を不思議に思う。

その後、鶴姫様の像の方へ行ったが今回は様子が違っていた。

何時もならせいぜい出ていても台座までなのがそっくり岩場が出ていて下から歩いて像の前まで行った。上から見ていると憂いを含み悲しそうに見えていたお顔の表情がまじかで見ると、10代の娘のたおやかなお顔であったのに「あれ、鶴姫様のお顔が違う!」と言ってしまった。

いくら大潮と言えども此処まで潮が引くのは気になる。先日の二見が浦といい、異常であるのではと思うが、地元の者ではないので其処までは分からない。

それから、阿奈波神社をみんなでお清めした。やはり、寂しい。

来島大橋を見ながら、みんなで塩ソフトクリームを食べた。甘い中にもほんのり塩味がして後味が残らず美味しかった。

大三島を出たのは4時頃、帰りは瀬戸内海を見ながら松山へ向かい、タカコちゃんと別れ家路に着く。寄り道をしたので着いたのは8時近くになっていた。

もう両親は済ませていたので、私の部屋で食事をしていると、母が嬉しそうにやって来てノワタリさんにお礼を言い、話が弾んだ。

ノワタリさんも言われたが、妹も母が若くなったと言っていた。

こんなに和やかに私達が会話が出来るのは不思議でもあり、待ち望んでいた事であった。母が席を外した時に、私達3人のカルマが解消された事を告げられた。

前世で私達3人は男性で互いに戦っていたみたいである。妹は「昔の事を思い出すと、未だに腹が立ってくる。」と強気口調で言った。

翌日は季節はずれの強い低気圧で台風並みの天気になるから、ミカン山の農道は危ないだろうから行かない方が良い。」と父からの伝言を母が伝えたが、私達は

「何時も、そうなんよ。お清めをしてくれるから、今晩の内に大雨は降ってしまうわよ。」と、みんな平然としていた。

それでも、9時を過ぎてもまたノワタリさんにお世話になった人が来たりして就寝したのは真夜中であった。

 

 

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書き終えて

2012-04-19 22:35:30 | 日々のつぶやき

自分の事ばかり書いていたので、面白くも無かったと思うが、私はすっきりした。

先日のブログを書こうとしていたら、母が祖母の話をした。

祖父との結婚は2度目であった。

その前の相手が嫌いでしょうがなかったと言うことは聞いていて知っていたが、最後に言われた言葉は「お前は そんなにわしが嫌いか!」と言われたらしい。

それを聞くと、私だけのように両親は言うけれど、私の性分も血筋だとおもった。

書き終えた事をノワタリさんに伝えると、「よかったですね。丁度良いタイミングで終えて。」と言われたが、1月に今回の予定は入っていたがそうなるべくして書き終えたと思う。

本当に先祖事、土地の因縁、憑け易い体質は解消されたみたいである。この1ヶ月、お塩とセイジの葉、ブレスを忘れても連れて帰ってくることはなかった。

やっと片付き、自分の人生と後を引き継ぐ者に負を残さずに済みそうである。

今世だけでなく、今までの前世を含めての総決算を57年余りかけてしたと言うことだった。

だが、知っているだけで私の前世はほとんど戦場か牢の中で亡くなっている。たぶん、穏やかな一生もあったのだろうが強く残っている記憶が見せるのだろう。

今世で首を刎ねる訳にもいかないので、くびのねんざとか、顔面裂傷、脚、腕と言っていたらきりが無いほど怪我をしたし、紙一重で助かった事故もあった。

ノワタリさんも3度死に掛けたといわれた。前世の一つにジャンヌ.ダルクだったので、火責め水攻めで、子供の頃、囲炉裏に掛けてある大なべの熱湯を被り数日間生死をさ迷うほどの火傷をされ、その後は井戸に落ち、崖から自転車で落ちた事があったと言われた。その後は精神的なご苦労があったと言う。この世界に通じる者は何がしかの試練が多い。

一番最初に夢に出てきたのは何度開けても鉄格子で開けても開けても鉄格子の中から出る事が出来ず、夢の中で恐ろしくて泣いた。

その話をすると、「昔の臭いがするわ、真っ暗中にいるのね。」と言われた。幽閉されたらしい。

全部ではないが、私達は旅の間に自分がかって生きた場所に導かれる事が何度か遇った。

先程のジャンヌ.ダルクにしても、マリーアントワネットがノワタリさんの所に出て来て「来てほしい」と言われた事がきっかけで、調べている内に時代も違うのにそちらへ導かれ、ジャンヌダルクの足跡をたどる様になったり、宮島へ行く前、夢の中に若武者が出てきたり、津軽では南部に負けて、首を刎ねられる私の姿をノワタリさんが見せられたりとか、ローマではまた牢の中で自殺する姿や、ノワタリさんはキリスト教徒でコロッセオの競技場に出され恋人とローマから逃げる姿を見たりした。

ただ、まだ分からないのはノワタリさんとの前世でのご縁である。

弟橘媛様が私の所に出られた事とノワタリさんが倭媛様の側近の女官であった事からすると、ヤマトタケル命と弟橘媛様の遺児である若建王を倭媛様が育てられたと読んだ事があるので、その辺に私も居たのではと思うがそのうち、必要があれば分かるであろう。

また、1ヶ月前箱根へ行く前から、私の実生活にも変化が起きつつあった。

長年勤めていた者が病気になり、3月に入って風邪を引いたとか熱がでたとかで休む事が多かった。結局、不摂生な生活がたたり腎臓を悪くしてしまった。一時は透析をしないといけないかもと言われたが、幸いその必要はなくなりい20日あまりで自宅療養することになった。

年明けから、うすうすそんな気がしていた。そして近いうちにその担当のお得意の整理をするだろうと思っていたので、別段驚きはしなかった。

今月はその事で忙しい。そのうちそのリズムになれるだろうと、チエさんと話した。

今日、市場へ仕事に行く人が先月から魚が無いので仕事をする日が少ないと言われていたが、人を雇って漁をしていた会社が廃業するので、もう本当に仕事が無くなると言われていた。

この町から漁業が無くなるともう何も産業は無い。

こんな時にノワタリさんが来られるのも何かに縁か、「何処へ行かれますか。」とお聞きした時に、「海が見えるので、海のお清めですね。」と言われていたのも不思議である。

「世の中の立替もだけど、個人個人も立替があるわね。」と先月言われた言葉通りである。

 

 

 

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予期せぬ出来事

2012-04-18 00:38:26 | 日々のつぶやき

先週のお天気のよい朝、外が騒がしい。

ピキピキピキとツバメが大きな声で鳴いている。また、ヒヨが来ているのかしらと思い、ベランダにでると、二羽のツバメが巣の周辺を飛び回っていた。

三角関係である。子供の頃、近くのお米屋さんへお使いに行った時、家の中にある巣の近くで2羽のツバメが飛び回って鳴いていた。

おじさんが「三角関係だよ。ツバメでもあるんだな。」と言ったが、本当かしら?と思いつつ帰った。

巣の中に1羽は座っている。巣の横取りか?三角関係かは分からないが、じっと見ているとやがて飛び回っていた2羽は前の電線に止まっていた。その後は静になったので納まったみたいであった。

さて、本題に!

「恋をする」でなく、「恋に落ちる」と言う表現があるが、違いは何だろう?英語にもfall in love と言う表現がある。

私的には予期せず恋をしてどつぼに入ってしまったと言う感じではないかと思う。

一目ぼれなんて無いだろうと思っていた。人に好意を持つ時って、第一印象は感じのよい人から始まり、じわじわとその人柄を知ってからと思っていた。

25年以上も前の事だった。

あるサークルの新年会で隣合わせに座ったのがきっかけだった。1次会も終わり、2次会にその中の人の奥さんのお店に10人あまりの人間が行った。

その店を出てポツポツ歩いて帰っていたら、後ろから「もう1件、行きましょう。」と誘われ、一緒に出た女性と3人で盛り上がって飲んだ。ただ、それだけの事だった。

2,3日した日曜の午後、斜向かいの母屋から自分の家に入ろうと外に出た時、一台の車が止まった。

先日の人であったが「此処が、家ですか?」と聞かれ、答えたくらいだった。

その次の週のサークルの後でまた、先日のお店へ行き、同じメンバーで飲んだ。お店のママさんは友人の友達だったので安心感もあった。

その頃、その人が家庭持ちであることを知ったが、まぁ~、お酒を飲むぐらいならいいか、何にも悪い事じゃないわよ。それまでも男友達と飲むこともあるものと自分に言い聞かせた。

しかし、面倒な事は嫌なので誰かを誘い一人で行く事は無かった。

1月の半ばから3月の間、10日に一度くらいの割合で何時ものお店で飲んで、わいわいと楽しくお酒を飲んだ。その人は大変お酒が強く、キープしたボトルも2回くらいしかもたなかった。

母は娘が午前様に帰ってくるのに気づき、ある晩誰もいないはずの玄関のドアを開けると母がすごい形相で仁王立ちなり私を待ち構えていた。いきなりひっぱたかれたが、笑い上戸なのかそれとも楽しいお酒だったのか?ゲラゲラ笑うだけで張り合いをなくし、母はあきれ果てたと言う。

やがてサークルには顔をあまり出さなくなり、町で見かけたとか言って電話をもらう様になりサークルと違う日に誘われるようになった。

仕方が無いので妹や友人やkにまで頼んで付き合わせた。

3月の末そのサークルで行事があり、また打ち上げでその店に数人が行った。その日はみんな大変遅くなり、その日初めて帰り道を送ってもらった。

帰宅してまもなくま夜中の電話、何を話したのかも覚えてはいない。声を聞くだけで充分だったのが、週末の土曜にドライブに誘われた。

自分の中でこれが限度であると決めて出かけた。

誘われたはずがなぜか私の車、隣町で夜桜見物、肝心の桜はまだ2部咲きで寒いだけですぐに車に帰り、その後は国道沿いの喫茶へ入った。

何時もうす暗い店で隣に座るだけで、明るい灯りの下対面で座ったが重苦しい空気である。互いに思っていた事は同じであろう。

何時もと違いしらふで話す言葉も見つからなかった。

やっと、「明るい日の中で会えないような事は嫌だからもう電話もして欲しくない。」と告げるのが精一杯。

それで終わった。私にに幸いしたのはその人の会社が無くなり、1,2ヵ月後町を出て行かれて出会う事は無かった。

後で思うと、たぶん出会った頃には会社の事はうすうす分かっていて胸に抱えていたのであんなに飲んでいたのでは?と思う。

私の方はといえば、私に起きた事が妹にも起き、結婚話で揉めていた。家の中では毎晩その話でうんざりしてみんなバラバラで身の置き場が無かった。

その直後、妹が飛び出して行き、話が急展開して祈祷師の世話になり、時間は少し掛かったが落ち着いていった。

未だにその人の事はよく知らない。学生時代の彼女が釜石か宮古の方に居るという話しか覚えていない。

知らなくても人を好きになれるという事を知った。たぶんその人も、私の事をよく知らないままだっただろうと思う。

その年の寒くなった頃、見覚えのあるセーターとショルダーバッグを掛けているその人の後ろ姿を見かけた。

程なく、家に1本の間違い電話が掛かってきた。取ったのは母、母が聞いた事のないスナックの名を言った。以前、よく夜遅くスナックと間違えて電話が掛かってきていた話をしていたのでたぶん、その人であったのだろうと思った。

勘のよい母は電話帳でその店の電話番号を調べ「全然、違うじゃないの」と不信そうな顔をした。

その後、kからその人が一旦郷里に帰り就職したが、また前職の同業会社に入りなおしこの町に来た事を知らされた。kの所にきたそうだった。

しかし、逢う事はなかった。

理性では納得できるが、感情は伴わない。そのギャップにしばらく苦しんだ。心は自分の物でありながらコントロールするのが難しく、ままにならない。

こういう時は次の恋愛をするのがよいとかいうが、明るく振舞っても自分をごまかす事は出来なかった。

それまでよく読んでいた村上春樹の小説も「ノルウエイの森」の新聞広告に一人で居るのが寂しくなるというような事が書いてあって未だに読んでいない。

四半世紀も経ち、私の中でその人はお酒をよく飲んでいたので、肝臓を患って亡くなっているか、生きてても病気になっているだろうと勝手に決めていたが、最近その人がその後バリバリと第一線で仕事をされていた事を知った。その顔写真に面影はあってもその頃の1,5倍の大きさになって時の流れを感じた。

ノワタリさんとは10年近いお付き合いになるが、「この人のそういう部分には触れてはいけない」と、思っていたと昨年言われた。しかし、こうやって開け放す事で開放されるらしい。

数年前、最終便の飛行機でノワタリさん宅へ行く途中の電車の中で席を譲ってもらった事をきっかけにおしゃべりをしたした人から別れ際にメールのアドレスをもらい、戸惑ったがまだ、自分が異性としてみてもらった事になぜか安堵した。当然 返事は出していない。

 

 

 

 

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