Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

不死身のオイワちゃん

2013-01-25 20:50:07 | ネコ

オイワちゃんはうちの猫ではなくノラだった。そのため写真は無い。

自分で餌を取るという事は出来なかったのでたぶん捨て猫だったのだろう。

うちには絶えず数匹の猫が居たので臭いがしたのだろう、それで益々猫が寄って来たり、自分の家では飼えないと思う人がわざと家の前に置き、朝戸を明けると戸口に小さな箱に子猫が2,3匹入れられて置いてある事もあった。

オイワちゃんは白に黒い模様があり、小振りの猫だったが、目が細くてブスで、余り身繕いをしないのか、いつも薄汚れていた。

気がつけば、家の周辺に居り時々カリカリをやっていたが、竹輪を与えているおじさんもあり、そちらの方が良いらしく、ない時だけねだりに来た。

その頃はブスのノラと言っていて格別名前はついていなかった。

ある時、交通事故にあったらしく、顔は腫れ上がり、益々細い目が潰れかけ、怪談話のお岩さんのような顔になり、体は因幡の白兎のように毛が無くなってピンク色の丸裸になっていた。

それでも竹輪を投げるおじさんのおかげで自力で元気になっていった。

毛はなくても黒い毛の生えていた所は薄っすら黒く、生えて来ると元通りの白黒模様だった。

そのことからうちでは「不死身のオイワちゃん」と言う名が付いたが、近所の同級生のシュウ君は「年がら腹ぼての淫乱猫」と言っていた。

確かにオイワのおなかは何時も膨らんでいたが、不思議と子猫連れている姿を見るのはまれだった。

うちの飼い猫で一番ハンサムで7,8キロもあり大きかったボンちゃんが近所の駐車場でずっと年上のオイワちゃんと交じっている姿を何度か目にしたことがあった。

私でなくみんなが、ボンちゃんに「相手を選べよ~。」と言ったが、猫の世界では案外もてたのかもしれない。

ボンが交通事故で亡くなってから、数ヶ月経った頃、部屋の戸を開けると、オイワちゃんとグレーに黒の縞模様のかわいいネコがベッドから飛び出してきて、余りにも突然の事で驚き「ギャ~!」とさけんでしっまった。

猫入り口(障子のひとますを開けたもの)からベランダにそそくさと逃げていったが、その後その子猫の姿も見ることはなかった。

オイワちゃんは多分10年以上生きて、ミーコと違い晩年は近くの散髪屋さんのおばさんにかわいがられ、餓えることなく一生を終えた。もう20年位前の事だ。


トントとバク Ⅱ

2012-02-17 00:17:46 | ネコ

1ヶ月あまり経った6月の夜、毎日根気よく探していたバクがトントを連れ帰ってきた。もう私達は何処かで交通事故にでもあったのだろうと諦めていたので、とても嬉しく、奇跡に近いと思った。

嬉しさのあまり、バクは人間のようにトントの背に何度も抱きつきすりすりして「ニャァ~、ニャァ~」と声を出して喜んでいたが、それよりも空腹でボロボロになっていたトントはそれよりも餌を食べる事に夢中になっていた。さすが、利口なバクちゃん!

そんな事もあったが、その年の夏の終わり、今度はバクが姿を消した。私が嫌がる頭の紐状になった瘡蓋を剥いだ後の事で、後ろめたい。ゴメンナサイ。

結局、奇跡は起こらずそれっきりだった。

残ったトントはアホなのか、バクのように探しているようにも見えなかった。私と父は自転車で名を呼びながら走り回ったが、帰ってくることはなかった。

しかし、トントも2度目の交通事故ではビッコになりながら「フニャ~」と言いながら帰ってきたが、窓に駆け上がることも出来なかったが幸い急所を外れていたので手術をして助かった。

この猫だけはに乗せても怖がらず、1度目の交通事故で轢かれても、窓に前足をかけ車窓の風景を楽しんでいた。一度目は脱腸で幸いにも人間の腿用のサポーターに穴をあけをはかせることで手術をせずに1週間ほどで固まった。

入院している病院から獣医さんが電話をしてくださり、「フニャ~。」と言う弱々しい鳴き声を聞かせてくださり、こちらも「トンちゃ~ん。」と呼びかけた。

年がら年中ノラと喧嘩して傷だらけで耳は原型をとどめていなかった。店の叔母さんが「汚いトン」ともう他にもネコが来ていたのでそう呼んでいた。

そんなトントだったが、4月のある日のお昼前倉庫へ行ってリフトに荷を載せた途端、ガタン、ガタンと大きな音がして見上げると長さ1m余りのH型鉄骨が上から落ちてきた。とっさに身をよけ交わしたが、足元でバウンドして足首をかすり、擦り傷になった。

突然のショックからか、寒気と気分が悪くなり帰宅してから休んだ。

夕方5時半頃、寝ている私の部屋に母が「大変、大変、トンが近くの県道ではねられた。」と言って駆け込んできた。近くの人が知らせに来てくれたらしく、すぐに連れに行った。

横断歩道の真ん中にトントはいたが、驚いた事に左の頭が陥没して目が飛び出てかっと口を開いて舌もでている姿だった。

身代わりだ…。あのまま鉄骨が頭上に落ちていたら、きっと私はこういう姿で死んでいたに違いない。6歳まで生きただろうか?交通事故や突然姿を消したネコも多かった。病であれば、看病している間に気持ちの整理もつくが、やりきれない悲しさと寂しさに襲われ、その度泣いた。

このトントだけではなく、私の身代わりと明らかに確信するような事がその後も起きた。

不思議な事に、業者に頼んでリフトの点検をしてもらったが、外れたということもなく異常もなく、落ちてきた鉄骨はどこにあったか不明であった。

20年間に餌を食べに来る猫を合わせると30匹くらい面倒を見たが、地場が悪い性か、最近のフクちゃんとぶうちゃんを除けるとみんな短命であたった。

数年前、フクが亡くなってから、ノワタリさんと相談してネコ供養をして、みんなに守ってくれた礼を言った。

みんな私たちを守る為、生まれてきたのだとノワタリさんは言われたが、それも悲しい。

今ならば、もっとうまくネコと暮らせると思うが、残念留守がちな私と高齢の両親ではネコが寂しい思いをしてかわいそうなので飼う事を諦めている。

 

フクちゃん


トントとバク

2012-02-16 21:42:26 | ネコ

卒業時に、一階の住人に世話をしてもらい連れ帰った猫のトコちゃんが1歳の誕生日を迎えぬまま、癌で死んでしまいもう飼わないと決めていた。

しかし、寂しく隣家との背戸をノラがよく走っていたので、父と二人餌を撒きこっそり様子を覗いていたりして紛らわしていた。

それから半年たった頃、父が港近くの駐車場にいる捨て猫に餌をやった事から、その近所の知り合いの子供が親に言われて、家に小さなバスケットに子猫を入れて連れてきた。

トント

父はこの数日その子ネコが鳴きながらさ迷っているのを数回見てしまい、たまらなくなったそうである。そう言う事からその子は家の飼い猫になった。

名前を付けるのに迷ったが赤トラネコだったので映画の「ハリーとトント」からトントと付けた。しかし、トントとは呼び辛くいつしか「トン」になってしまった。

トントくんは兄弟4匹で捨てられていたそうであるが、1匹はまもなく亡くなり、後の2匹も子供達が連れ帰り、一番声のでかいこの子が残っていたそうである。

とても人懐っこく、賑やかで面白く分かり易いネコだった。1週間位たった頃、トントくんにそっくりなネコを見かけた。兄弟ネコである。小学1年生と幼稚園の姉妹が連れていたが、家では飼えないので家でそれも飼うようになった。

バク

お姉ちゃんは家では飼えないので「飼って欲しい」と言ったが、妹は「家の猫だ、返せ。」と言う。

そんな事もあり、毎日姉妹は家へ来て猫達と小一時間ぐらい遊んでいた。

後から来た猫はじゃれあってもどうしても体のでかいトントの下になってしまうので、腕白になれと思い「パク」とつけたが、これも言い辛く「バク」となってしまった。

バク君はおとなしく、利口で控えめで母のお気に入りだった。その頃、魚屋さんがマグロのそぼろにする背の所をトロ箱に1杯ずつ持ってくるようになり、それが我が家のネコの餌になり、一食分ずつ袋に入れて冷凍するようになり、たちまち冷凍庫はこの餌で占拠されてしまった。

「ネコは嫌い」と言いながら、母が食事の世話をしていた。

鍋にマグロを煮てからネコ椀に入れるのだが、トントは待ちきれずいつも湯気のでているマグロを爪で引っ掛け周囲に出して熱いものだから「あう、あう」と声を出しながら猫舌のはずなのに食べていた。バクはおとなしく下手をするとトントに食べられてしまうので分けていた。

1ヶ月位後、夜市でおばあさんと生気のない暗い顔をしたお母さんに連れられた姉妹とすれ違った。それが彼女達を見た最後であった。

その夜中、彼女達は無理心中を図った母親に殺されていた。母親は助かったが…

数ヶ月前に父親が病死していて家庭内の不和もあったとかで、お母さんはノイローゼになっていて先を儚んでそういう事になったらしい事を聞いた。同情もあり近所の人達が減刑の嘆願書を出したと後日聞いた。

猫達がいなければ、知らない間柄である。毎日のように来ていたので、私たち家族は絶句した。生きていれば、もう40歳近くになっていたであろう。

トントは外で出会うと、帰りたくない時はわざと目を外して知らんぷりをし、帰宅途中であれば大声で「にゃ~」と擦り寄って付いて付いてきた。

バクにはそういう所はなかったが、どこかのネコが尻尾を麦の穂のように膨らませて喧嘩をしていると思えば、バクちゃんだった。

一度うれしそうに白い物を食べていると思えば、よく見るとそれはするめいかの自家製の一夜干しで誰かが干していたのだろうと思うが、猫の体には良くないので取り上げてこっそり捨てたが、バクはとても不満そうだった。

そして家の前に食料品店ができた時も、店番が2人もいるのに目を盗んでガラスケースの戸を開け、ちくわやじゃこ天などを数回持ち帰り慌てて支払いに行ったこともあった。

2匹とも病気もせず元気だったが、よく野良と喧嘩して頭は私鉄駅の沿線のようにバリバリにかさぶたが出来たりしてたくましくなった。楽しく過ごしていたが、2年経った4月の29日の夜友人と電話で話していると急にトントが居なくなり、翌日になっても帰ってこなかった。

父と探し回ったが、見つからなかった。猫が帰ってくるというまじないもしたが、効果はなかった。

 


ぶうちゃん

2010-09-14 20:52:58 | ネコ

昔、この季節よく猫を拾った。ぶうも30年近く前の9月の10日にやって来た。

ブスで、メスなのに5,8キロもある豚猫で、無精者の愛想なし猫だった。妹はブスぶっちゃんなどと呼んでいた。

チビ、チビといつまで経っても名前がつかず、呼んでいたのだが、獣医さんのところで名前を聞かれ、妹がとっさに出たのがぶうこだった。

その日、魚市場近くでとても小さなグレーの猫を拾った。集金かばんに入る生後1ヶ月経つか経たないかの子猫だった。一旦、事務所に帰り、猫を置いてまた、集金に出かけた。

しかし、夕方帰ってみると猫は、母に捨てられていた。近くの公園に捨てられたらしい。

気になってしまい、夕食後 妹を誘い、近くの公園に探しに出かけた。

薄暗くなった公園を二人で探して歩いたが、見当たらなかった。その猫はいなかったが、知り合いの小学生が他の子猫を抱いて座っていた。

妹が声を掛けて抱かせてもらった途端、「私、塾があるから」と言って、そそくさと逃げられてしまった。猫は傷だらけでぐったりしていた。

どうしようかと思ったが置いていく訳にもいかず、妹の部屋に連れ帰った。その夜、傷口を洗い、ちょうどあった動物用のテラマイシンを塗った。どういう訳か全身傷だらけで化膿して張れていたり、膿が出ていた。

数日後、傷も良くなり元気になったが、また、捨てられる事を心配して、ずっと妹の部屋に隠していたが、1週間ぐらいで見つかってしまった。

その頃、うちには他に2,3匹の猫がいたので、母は気に入らなかったが、猫好きの父の応援もあり、おいてもらう事になった。

ぐったりしていたので、気づかなかったが、なでようと手を伸ばすと、「ウゥ~、シャァ~!」と威嚇して、引っかいたり噛んだりして来た。よほどひどい目に遭い、人間不信になっていたみたいだった。他の猫ともなじまず、その後来た猫には威嚇し、自分より小さな猫や犬には与太り歩きをして威張った性もない性格の悪い小心者だった。

その頃、父と私は2,300メートル離れた路地裏を数匹の野良が走って行くのを見かけた。その中にぶうそっくりのオスがいたのを見た。しかし、半年もしないうちにいなくなってしまった。兄弟だったのだろう。

半年もすると、家人には威嚇しなくなったが、全く、トイレが駄目で、母を怒らせた。

ぶうのお気に入りの場所は洗面所の2段になった籐の脱衣籠の下側でやってしまう。臭いも強烈だが、おしっこは籐の網目から床に流れ、改装して張り替えたばかりの床板が変色して毛羽立った。猫からすると足が濡れず快適だったのだろう。新しく張ったクロスはつめを研がれてボロボロになってしまった。いくら怒っても効果が無く、我慢できなくなった母はある日、買い物籠に入れそう遠くない市立病院の裏庭に置いて来てしまった。

4,5日経った土曜日、ぶうは帰ってきた。普通ならば、その日の内に帰ってくるはずなのに...遅い。しかも表を歩いていた小学生が「この猫学校におったで、僕ら餌やったで」と言う。どうも小学校に居座って餌を貰っていたのが、土曜は給食も無いので帰ってきたみたいだった。

それからもう捨てられる事はなく、うちの猫になった。しかし、尻癖の悪さと何処でもつめを研ぐのには閉口した。

2年も経つと体は大きくなり、まるで白に黒縞模様の事もあり、まるでホルスタインのように巨体をゆるがせながら歩き、知らない人は「ウッツ!」と言う有様だった。

片方の模様は肩からミャンマーからインド腰の辺りにアラビア半島の地図のような模様で、もう片方は真ん中にアフリカ大陸のような模様で地理の勉強が出来そうだった。私はおい第三大陸猫とか、発展途上国猫とか言っていた。

しかもおバカさんで、うちに来ていたウオベさんがよくやっていた猫の知能テストはさっぱりで、書類戸棚に入れて、ガラス戸を締め、何分で出るかと言うのをしても、出てこないので指1本ぐらいの隙間を作っても、ぶうは恨めしそうな顔をしてじっと見ているだけで、自力では出てこない。

ちくわを柳の枝から紐で吊るし、どうやってとるか反応をみても、動かず、「ここ」「ここ」と枝で指図しても、全く動かず、他の猫はすばやく、取ってしまうのにこの猫ばかりは無反応だった。

それでももうそろそろと、不妊手術に行けば、すでにおなかには子供がいて私達は驚いた。バカな私はどの猫の子か気になり毛など生えていないのに「どんな色ですか?」と尋ねてしまった。

そして獣医さんは「何を食べさせているのですか?皮下脂肪がまっ黄色ですよ。」と呆れられた。その頃、毎日家の猫たちはマグロの背のおすし屋さんでそぼろになる部分をトロ箱で買い、(捨てる所だったから、安かった)1食分ずつ冷凍庫に入れ、毎回ゆでたものを母は口では嫌いと言いながら食べさせていた。今思えば何と贅沢 今はそのリヤカーで来る猫好きの魚屋さんもいない。

妹が嫁ぎ、妹の部屋で寝ていたのが母屋に居座りだすと、商品を台無しにし、家を傷つける事に母の堪忍袋が切れ、とうとう動物用の檻に入れられた。

途端、ぶうの怒りはすざましく、ギャァギャァとそれまで聞いた事の無いような大きな声叫び続け、目はキィットつりあがり、どうすればよいか困った。

結局、L字形の広いベランダに檻の戸を開け放し、ダンボールで覆いをし、古毛布や古いコタツ布団を敷いたり、掛けたりして猫小屋を作った。近くには植木や専用のトイレを置き、猫ならば玄関の屋根伝いに出入り自由だったが彼女はそれをする事は1度も無く、其処が気に入ったみたいで部屋にも入ることなくベランダの主になり、時折、手すりの上から、声を掛けてきた。冬は湯たんぽ付で時々、毛布や布団を干して居心地良くした。

バカであるかと思えば、しっかり食べる事は抜け目なかった。母が干していたソウダカツオを毎日食べ続け、気が着いた時は空っぽになっていた。

亡くなるまで、その暮らしに満足していたみたいだったが、膝に小豆粒くらいの腫瘍が出来たが、数年は大きさが変らなかったのが、14才頃急に大きくなり直径2cm近くなり、取り除く手術を受けた。

しかし、取り除いてもまた、同じ所に出来てしまった。(もう抗癌剤しかないと言われた)その後、16歳近くなってぶうは亡くなったが部屋に入れても、もう動く事もできず、最後の3ヶ月は飲まず、食わずで大きかった体は小さくなって亡くなった。ポツポツと桜の花が咲き始めた3月の下旬の事だった。


かわいそうなミーコ一族 Ⅰ

2010-08-16 13:01:18 | ネコ

今月の10日はフクちゃんの命日でチエさんにひまわりの花を頂き、二人でフクと他の猫ちゃん達の冥福を祈った。

フクと同じ年のミーコという猫が近所にいた。

ミーコはとても利口で穏やかなかわいらしいネコだったが、人生?の振幅が大きく良い時とそうでない時の差が大きかった。初めて見かけたのは、一つ向こうの通りだった。その通りのおばあさんの飼い猫と聞いた。

しかし、ミーコのおなかが大きくなった頃、飼い主は市営住宅に入り、ミーコを置き去りにしてしまった。その家の後の入居したおばあさんの兄弟が家の近くに住んでおり、「留守がちだから、ネコに餌をやって欲しい。」と言われたそうである。おばあさんは沖にある島から病院に通う為その家を借りたそうである。

そういう訳でミーコは近くの家に通ってきた。そのうちにミーコは5匹の子猫を出産した。

せっせと餌を運び育てていたが、猫を嫌う人もあり、餌をやっていた人も周囲に遠慮してミーコに餌をやらなくなってしまった。かわいそうなのは子猫たちである。

私は気になってしまい、時々こっそりと子猫に餌を持っていった。5匹の内、2匹は居なくなり、目のふちにアイラインを引いような子顔の美人のメス猫、これはたいそう気が強く、餌をやっても他のにとられないように「シャー!」と火を噴き寄せない。これはイヤミ猫と名づけた。

後、鼻の上が黒くなっている用心深く、とても小柄なメス猫、私はハナグロと名づけ、それをかばうように一緒に居るかわいいオス猫をお兄ちゃんと名づけた。

そのうちハナグロ兄弟は家の裏の倉庫に来たがノラの習性が抜けず、餌をやってもカリカリを好まず、結局、ご飯の鰹節とか、魚の残りを喜び、手を出してもなかなか寄り付かず、餌だけは家で食べ、倉庫をねぐらにし、昼間はその辺で遊んでいた。

一方ミーコは又おなかが大きくなり、近くの一人暮らしのおばあさんがミーコの事を思い余ってタクシーで病院に連れて行き、人工分娩をして子供を処分したあと不妊手術をして飼い猫にした。

その後、軽トラックで来る魚屋さんに毎日上等な魚を買ってもらい、刺身三昧の暮らしのお嬢様暮らしになり、その辺をうろついている我が子には知らん振りであった。

家に来た翌年、ハナグロのおなかは大きくなり、あんな小さな体で子供が出来るのだろうかと思っていたら、4匹の猫を出産した。子猫がチョロチョロし始めた頃、ハナグロは「後はよろしく頼むわ」と目で訴えたと思ったら、姿を消した。

1匹の赤トラの子猫は程なく、交通事故に遭い死んでしまい、(それでも残った兄弟達は死骸のそばを離れなかった)残った3匹のお母さんと一緒の白に背中が黒の縞模様の子たちが事務所に置いた餌を毎日数回食べにやって来た。一番体の大きい猫が甲高い声で「ご飯頂戴」とでも言うようにミャーミャーと言いながら入ってくる。おわんにてんこ盛りに誰かが入れるのだが、ミャーミャーと泣いた子は体は大きいのにつもはじかれて最後になってしまう。その甲高い声から私はオカマ猫と名づけ、その兄弟達を含めてオカマ3兄弟と呼んだ。

朝はシャッターを開けるとすぐやって来て、食事が終わるとヒューヒューとすばやく去ってしまう。触ろうとすると怯えてヒューと逃げそうになるので、できるだけ目をあわさないよう知らん振りをした。斜め前の空き家に住んでいたみたいだった。

お兄ちゃん猫はカリカリが御気に召さないみたいでリヤカーで引いて来る魚屋さんに餌をもらいだしたのでこない日だけ家にきた。しかし、寒くなりかけた11月の下旬、何か古いものを食べたらしく、嘔吐と下痢でぐったりなって家にやって来た。すぐさま獣医さんに連れて行き面倒みてこの子もちゃんと家猫になるかしらと思っていたら、良くなると自由な半ノラなってしまい、姿をあまり現さなくなった。しかし、体の具合が悪くなるとやって来ていた。

イヤミ猫は100m先の猫好きの奥さんに餌の面倒をみてもらい、これも半ノラの自由な生活をしているみたいだった。そこも「ちゃんと飼いたいと思っていたのにならない。」と言われていた。数年は穏やかに猫たちも過ごした。

しかし、オカマ兄弟も1匹消え、2匹消え、突然姿を消した。たぶん、春が来てよそにいい所が出来たのだろうと思う事にしたが、オカマちゃんだけは相変わらず、通ってきていた。時折、お兄ちゃんと鉢合わせして、伯父甥の間柄で喧嘩をしていた。

オカマが姿を消した頃、魚屋さんも廃業して他所に行かれ来なくなってから、お兄ちゃんはカリカリを食べに来て住み付いた。その頃はかってのかわいらしい面影はなく、片目は喧嘩の為白濁し、交通事故の後遺症でびっこになっていた。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と表で呼んでいたら、通りを歩いていた体格の良い男性が「はい」と返事をされ、恥ずかしい思いをした。

お兄ちゃんは12歳くらいで姿を消したが、居なくなる3年くらい前から、疥癬になり、病院に通ったが毎年初夏になると症状が現れ完治できなかった。フクとは互いに知らん振りをしていたが、2月の寒い日ずっとストーブに当たっていたが、ひょろりと外に出て行った。私はその日夕方まで留守にしていたので父から後で聞いた。

出て行って30分ほどでまた帰ってきたが、どうも私を探していたらしかったが、諦め又出て行った。それから帰ってこない。大分弱っていたみたいだ。もっと大切にしてやったらと後で悔やまれたが仕方ない事と諦めるしかなかった。

ミーコの飼い主のおばあちゃんは癌になり、私に「飼って欲しい。ミーコの事を思うと心配で。」とよく言われたが、大変2匹は仲が悪く、顔をあわすとオス猫みたいな組み付き合いの喧嘩をしていたので受ける訳に行かなかった。

自分のテリトリーだと思っていた町内に突然ミーコが来たのでフクは気に入らない。

フクの方からミーコの家に押しかけ喧嘩をしていたが、ミーコが大きくなったのでしまいにはフクの方が負け続け、小さくなっていた。

とうとうおばあちゃんは亡くなり、またミーコは10年余りでノラになった。しかし、前の家の人が餌だけはやっていたが、ある日、おばあちゃんの家を開けた時、おばあちゃんを探し、ミーコもするりと一緒に入り、気付かず締めてしまったらしく、閉じ込められてしまった。

2,3日経ってミーコを見つけた時は、美人の顔が台無しで、必死で戸を開けようとしたらしく、口がゆがみ、キバが変形していた。

そんな事があった後、お兄ちゃんが姿を消した1ヵ月後ミーコは近くの県道で交通事故に遭い亡くなったと言う。おばあちゃんが亡くなって半年後の事だった。

イヤミ猫も飼いネコになりきる事が出来なかったが、近くの空き地に沢山の子供や孫と暮らしていた。時々餌をやっていただけなのだが、初めて私の家の前まできて「お世話になったわね」?とでもいいそうな目をして去って行った。それが最後だった。一族郎党はその空き地や周辺の空き家に住み着いていたが、家が建つことになり、みんな近くの駐車場に移って行った。しかし、駐車場の借主達から、「糞が臭い、危ない」と苦情が相次ぎ、持ち主が猫を全部捕まえ、どこか山の方に捨てたらしいと聞いた。

私の家にも猫はいない、近所で幅を利かせていた黒い縞模様の猫も見かける事も無くなった。ノラ猫も野良犬もいない。味気ない日々である。