Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

ふられ続けた日 出雲大社のお参り

2010-11-29 22:03:36 | 日々のつぶやき

もう11月も終わる。先週の21日、父とチエさんと3人で出雲大社のお参りに出かけた。日帰りの為、早朝5時過ぎに出発し遅くとも11時までには到着する予定だった。雲ひとつ無い上天気で大山がと手も綺麗だった。

高速を出て、出雲大社に近づいた時ナビが横道を示した。しかし、鳥居が見えているのと先日誤った道を示した事もあり、そのまま直進した。これが、大きな間違いで鳥居は門前町のもので、神社はずっと奥だった。渋滞に巻き込まれ、臨時の駐車場に着いた時は1時近くなっていた。

まず、お参りと出雲大社に向かったが、これまで見た事が無いほどの多くの人。それも若い人が多い。最近流行のパワースッポトめぐりだろうか?祓社の前も30人くらいの人が並び、時間が無いので石段の前からご挨拶した。

それからも人の列であった。手水舎でも数分待った。拝殿の前では3列くらいに並び、手水舎を超え、松の馬場の横まで並んでいた。分からず並んだおばさん達もいたみたいだあったが、先に進むとその横は拝殿前でもちょっと待つだけで済んだ。

しかし、余りの人の多さで境内のご神気はちっとも感じられなかった。平成の大遷宮ということで工事中で素鷲社の前に立つ事もできず、御開帳になっている西十九社の前で3人ずれの若い男女がお参りしていたが近寄れる雰囲気ではなかった。何か宗教に入った人のご挨拶の仕方だった。

お参りを済ませ、名物のおそばを食べようと荒木屋まで歩くと、沢山の人、順番待ちの名簿を見ると30人位あったので、引返し神社を通り過ぎて2件目に行くと、目の前で「おそば 終わりました」と看板が出された。仕方なく神社横に入ると、出てきた人が「まだ、1時間待たないといけない。」と言った。父は疲れて、歩く足はふわふわと雲の上を歩くみたいに力なく、だんだん右によってきて危ないので車で近くの島根ワイナリーまで行った。

しかし、レストランは満席で少し待たねばならなっかったので、売店の方に行った。父とチエさんはワインの試飲をしてから数本のワインと大好きなホウキボウを買い、遅い昼食にバーベキューをいただいた。よたよたとしていた父がアルコールが入ったせいかシャキと歩き出したのがおかしかった。

このままでは神社に来た実感が無く、不完全燃焼ぎみだったので、日御碕神社に足を伸ばした。

鳥居をくぐると、先程とは違いとても良い気がした。父は50年ぶりだという。

ちらほらと若い男女の姿を見かけたが、普通にお参りされていた。ご挨拶をして出てから、駐車場前の売店で私と父はサザエのつぼ焼き、チエさんはイカの姿焼きを食べた。チエさんは胃が重いと言っていたが、それが後ずっと夕食を取れなかったので帰って幸いする事になった。

その後、高速に乗ると帰宅時間は10時半とナビは示した。しかし、玉造で軽い渋滞。「この先5キロ以上渋滞で1時間以上遅れる」とナビが何度も言った。その割にはと思っていたら、米子自動車道に入った途端、暗闇にず~と赤いテールランプの帯。

追い越し車線から数台の車が割り込んできた。職業運転手であるはずのバスの割り込みが多い。強引に入ってくる。1車線から2車線になり、追い越し車線の車は進むが本線の私達は進まない。合流する所で又割り込みが続いていた。

ずっと後ろの方から追い越し車線を走ってくる車が出ると、堰を切ったように何台も後に続く、私は絶対割り込ませないぞとま車間距離を狭め、ブレーキを踏み続けた。しかし、進まない。ガソリンが心配になってきた。せめてサービスエリアのスタンドが開いている時間にたどり着けるよう龍神様にお頼みした。

4時半に出雲を出て蒜山のサービスエリアに着くと7時30分過ぎだった。しかし、此処もいっぱいで車を停めるところも無く、係員が総出で駐車の整理をしていたのでガソリンだけ入れて出た。

順調に走ったのはわずかで、又事故による渋滞に巻き込まれ、中国自動車道に入る近くまで車は進まず、高梁パーキングエリアに着いた時は9時20分だった。遅い夕食を取ろうと食堂に入ると、みんな疲れ果てた顔をしていた。しかも注文してすぐ9時半になり「ラストおーだーです。」との店の人の声がした。そこで私はやっとそばを食べた。出雲そばでは無くやまかけだったが…

そこで母に連絡をすると、むっとしたような声で「起きているから、又後で連絡して」と言われた。母は帰宅するのが3時ごろだと思っていたらしい。

岡山自動車道を過ぎ、四国に向かうと先程の渋滞が嘘のようにぐっと車は少なくなった。愛媛県に入って母に連絡すると今度は大分安心したみたいだった。

隣町まで帰ると今度は濃い霧で分岐口すら分からないくらいでゆっくりと進んだ。夜霧と歌に歌われる歌詞はとてもロマンチックだが実際は厄介で危ないものだと思った。

往復で100キロ走り、深夜1時にチエさん宅に着いた。帰宅しても眠れず3時過ぎにやっと休んだ。

ノワタリさんに事の顛末を話すと、「招かれて行くのと、好きで行くのとでは違うのよ。」と言われた。

パワースポットめぐり、1000円効果、ゲゲゲとで山陰は多くの人でした。もうこんな日には出かけないと思った。雪を被った大山の姿を見れたのと日御碕神社にお参りできたことだけだった。

 

 

 

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ついてない一日

2010-11-19 20:52:46 | 日々のつぶやき

午後から60キロ先の町まで営業にでた。町外れまで来た時、ブレスをし忘れている事に気がついた。戻るには時間が無い。そのまま進んだ。

先日父がゴルフ場の浴室の脱衣場にブレスを忘れた為、それを途中でもらいに行ったが、ナビの指示どうりに右に進むと誤りでお寺の駐車場に入ってしまった。通りがかりの人におしえてもらい、狭い坂道で」方向を何度もハンドルを切り直し、どうにかゴルフ場に着いた。

建物の近くに停めようと探すが、中々近くに空きは無い。一つ見つけ、すぐ出すのだからと思い、頭から突っ込んだ。やれやれと思うのも束の間、よく見ると左の車とすれすれである事に気付いた。おまけにその左の車はベンツ、右は真新しいプリウスだった。

又、当てないように気をつけハンドルを数回切りなおし、出してフロントの前に停めてブレスを受け取りゴルフ場を出た。どっと疲れがでたが、これからが仕事である。高速に乗りなおし、パーキングエリアで一休みしていたら、免許書を持っていないことに気が着いた。今日は慎重に停められないように走らなくてはと思った。

仕事を終え、後一軒残っている配達先に行く為、往路とは違う海沿いの道を走った。しかし、品物が間違っており、帰ったらすぐ出直そうかと後の算段を考えていたら、それまで慎重に走っていたのがうっかり、トンネルの中で後ろからウ~ッ

とけたたましいサイレンの音が聞こえてきた。

トンネルの外で白バイがやって来た。そのおまわりさんはもう若くなく私と同年輩ぐらいの人だった。穏やかに「出てましたね。何キロ出てたか気付いてましたか?」と声掛けてきた。「いいえ、ボーとしてましたから」「トンネルって出て無いようでも結構出てるんですよ」と言われた。

免許書の提示を求められたが、それは無い。かばんやジャケットを探すふりをしたが、無い。「昨日の上着に入れたままかしら、無いわ」と言ったが、「今ね、不携帯も厳しくてね、見逃せないんですよ。点数は付かないけど、罰金が三千円要ります。」との事。

ずっとゴールドの後、4,5年前に捕まった事があるだけだったので悪質者ではないと言うこともあり、イヤミを言われる事も無く署名捺印と身分証明書代わりの保険所を提示して1万5千円プラス3千円の納付書を渡され帰った。

明後日出雲大社まで出かける予定の私にその罰金は大きいが、何故か今まで3,4回捕まった時ほどの腹ただしさと悔しさは無い。反対に落ち着いていなかったのが不思議な安堵感を感じた。

今日はずっと地に足が着いていない状態であった。三隣亡かしらと帰宅して暦を見るとそうではなかった。免許書が無いという警告があったにもかかわらず、こういう結果になった。しかし、落ち着いてきたので出雲大社に行く時は気をつけよう。

 

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デジャブ?

2010-11-17 22:18:39 | 霊現象

5年前のこの頃の寒い日、知り合いのご主人が脳梗塞で倒れた。その知り合いの家は山の中腹にあり、前日の夜麓の店へいつもの事だが単車でパンを買いに行かれた。帰宅してからのご主人の様子がおかしく、表情も無くろれつが回らなくなった。他の町に住んでいる息子さん夫婦に連絡をとり、病院に行ったが既に手遅れで2時間以内であれば、軽く済んだのかもしれないが、寝たきりになってしまった。

「死んだ方がまし」だと言ってリハビリもせずお気の毒に、今も寝たきりである。

その後夫婦は毎日朝夕、犬の散歩に戦国時代に落城した出城跡の付近に行っていた。今から20年位前、私もその場所にミニバイクで走った事がある。みかん畑を走りぬけ、何も無い草原になっていた。そこは城があるだけに町を一望でき、ずっと沖の宇和海まで見渡せる。その先は下りになり、貯水池とその管理の建物があった。

眺めがよく、此処に住んだらいいなと思った時、小さなたて看板が目に入った。長宗我部軍と呼応した隣町の城主とに攻められ落城したいきさつと年月日が書いてある物だった。

呼んだ途端、黒澤明の乱の落城シーンが思い出され、城の入り口付近で血まみれになっている兵士達が浮かんできた。私は大慌てで一目散にその場から走り去った事があった。

そんな事があったので何か憑いているのではと思い、ノワタリさんに連絡すると、お清めするようにと言われた。ノワタリさんにもその天辺の草むらがビジョンで見えていた。

日曜の朝、その場に御神酒、水、塩をリュックに入れ、その年の春ノワタリさんにもらった観音経と祝詞集と鈴をもって出かけた。近くまで車で行き、みかん山を探して歩いた。しかし、その場所が見当たらない。古ぼけたお堂とお墓…その近くのみかん畑の隅に立て看板はあったが、全く景色が違っている。しかし、その墓とお堂の周りを清めた。

たて看板を移動させたのかというと、その下の方に貯水池はあるから変っていないはず、あの草むらは???

納得できずぐるぐると山を回ったが見当たらず、時間だけが過ぎていき、もう10時になっていた。その日は諦めてまた、次の日曜日に出かけた。

八朔相撲がそのお堂の近くにあったのでよく知っていると言う友達がきてくれたが、「貯水池などが出来、子供の頃とは様変わりしてしまっている。」と言ってすぐに帰ってしまった。仕方なく、山の反対側に行くと大きくりっぱな五輪の塔があった。しかし、城主の姓と違うので個人の物だろうと思い其処から離れたが、後で思うとどうもその子孫が作ったものみたいだった。

その近くの林の中に城の石段らしき物が残っていたのでその周辺を清めて帰ったが、気付くと観音経本が無くなっていた。それで誰かの役に立つのであれば良いがと思った。

あの天辺の草むらは何処?現在のたて看板はみかん畑の隅、しかし、天辺ではない。結局解らずじまい。

しかし、その夜ノワタリさんに連絡すると、「また、寒気が…」と言われ、遠隔で霊視されると白装束で残バラ髪の武将の姿が現れ、喜んでいたと言われた。でも、倒れられた方の役には立てられなかった。

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不安感

2010-11-13 20:40:33 | 日々のつぶやき

いったいこの国はどう゛いう方向に向いていくのだろう?昨今のニュースを聞いていたら、私達は何処の国の国民だろうかと思う。

尖閣諸島の事にしても私達国民はニュースで一応報道はあったものの今回の映像が出たのは遅いくらいである。なぜ、秘密にしなければならないのかと思う。よくぞ、ネットに出してくれたと言いたい。

いきなり、管総理はTPPの事を言い出したが、十分な説明も無い。農業問題が言われているが、水産物にしてもスーパーには大方が様々な国の魚が並んでいる。20年くらい前、私の叔母の家に栗山があった。その頃既に、「一般の消費者には出てもわずかで、業務用は韓国から皮をはいだ物が出回るため、もう駄目よ。」と言い、梨、柿、ぶどうなどの果物と米や野菜を作っていた専業農家だったが、他の職業に転業し、今では叔母一人が遊び半分で野菜と米を作っているが、それもイノシシやハクビシンや狸に荒らされている。一次産業の多い地方は益々寂れていくと思う。晴耕雨読の生活が夢だが ネットで田舎暮らしの物件をよく見る。参加している不動産屋に偏りがあるので出ている物件に四国は少ない。しかし、農地付きの古民家が多いのに驚く、しかも土地代だけぐらいの安さで。

TPPが成立したら、大企業は安価な人件費の国に移り、益々働く所は無くなってしまうだろう。私の周りには20歳代から40前の独身者が多い。地方の中小企業は潰れてしまい、地場産業は衰退し、大手の工場は閉鎖して引き上げてしまい仕事も無く、あっても家庭をもてるほどの給料は無い。この数年の間に人を育てる事をせず、誰でもマニュアル通りでする日給月給のような仕事か、介護である。

大企業は外資が入り多国籍になり、利益の優先であり、産業の空洞化は進むだろう。雇用対策というが、無策である。

就職氷河期よりも今年は厳しい。子供にお金の掛からない年齢に対して子供手当てを出すよりも、学校を卒業しても仕事が無く奨学資金が返せなくなっている人も多いのだから、優秀な人材を育てる為に奨学資金の充実する方が良いだろうし、人を使い捨てにせず、家庭を持てるようにすれば子供増えていくだろう。

介護保険が出来るまで結構の年齢のいった人でも農散期の農家のおばさんやその病院に老人が入院している婦人などが掛け持ちで介護の仕事をして費用を捻出し生涯現役で働く人も多かったが、今は農家と自営で無い限り、施設に入ってしまう事が多い。

なぜ、老人の自立を促進するような事をしないのだろうかとも思う。介護保険も良いが、それが施設費ばかりに使われ、ほんとに必要な人には周ってこない。

年次報告要望書と規制緩和でアメリカにいい加減にされ、今度は中国とロシア…。いつかポーランドのように分割され国が無くなるのではないかと危惧する事が多い。

自民党政時も県議は大多数が土建や。どんな山奥に行っても豪邸があると○○建設と言う看板を見る事が多く、自分達が政治の実権を持っているぞというような態度の地方議員とその取り巻き達にうんざりしていたが、政権が変わっても大して変わらない。政権を獲る事にしがみつき、国民目線にはなっていない。

8年になるノワタリさんとの旅で多数の神社を周ったが、何処も寂れ、お年寄りしかいない。暗く閉店と空き地になったアーケード街、閉まったままの大型店舗、通行量の少ない立派な道路、耕作されていない農地…、同じ場所に数年経って行くと、人もいないのに全国チェーンのあらゆる業種の看板ばかり目に付いた。私は何を見せられているのだろうとその度思った。

先の衆議院選挙の時、電話でのアンケートがあった。私は地元の民主党候補にも自民党にも入れる気は無かったのでそうつたえると、「政治を変えようとは思わないのか」と、声を荒げてその女性は言い、なぜ民主に入れないのかとも聞いてきた。「候補者が嫌いだ」と答えた。やはり、小沢チルドレンと呼ばれるド素人だった。

この政権になってますます地方はさびれ、町に出ても通行人の姿は見えず、地物の新鮮な食材を使い食事を出す店はなくなっていきつつある。チンするだけの店が幅を利かせている。

日月神事を読んだ時、青い物なら何でも口にしないといけない時が来ると書いてあったが、本当に来そうな気がする。

 

 

 

 

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出雲の旅なんですが

2010-11-01 22:42:12 | 日々のつぶやき
目から来る肩こりも先週に続き温泉や岩盤浴に行き、少し楽になったが、7月から2006年12月の出雲の旅の事を書こうと写真などを準備していたのが、書けずにいる。
それまでに私は4回参拝していたが、1度目は学生の頃三次に住んでいる友人の所に遊びに行き、足を伸ばした。
2度目は、友達のムッちゃんと行き当たりばったりの旅をしていた時、広島から松江まで出た時、どの方向へ行くかと相談した時、二人とも縁結びなんて迷信と言って、鳥取に向かった。しかしその夜から台風に遭い、鳥取砂丘は風紋が消え風情が無く単なる大きな砂山だった。その数年後の30歳を迎える前の12月にムッちゃんから「やっぱり、出雲大社に言ってくる。」というをもらったが、年末で忙しく私は行けなかった。日を改め、旧正月に今度はノブちゃんと出雲大社とレオナール藤田展が広島にあったので出かけた。境内を回っていると、後ろからおじさんに「あんた達、回り方が逆だよ。」と注意された。
3度目は境港に商用があり、4度目は職場の旅行で行き、丁度旧暦の10月で境内のお社はすべて開いていたのでとても得をした気持ちになったが、ついで詣りは良くないらしい。
1度目に逆に回ったのがいけなかったのかしらん???と思ったが、三次の友人は卒業した年にさっさと結婚し孫もいる。3度目に一緒に行ったノブちゃんは数年前、50歳過ぎて嫁ぎ未だにルンルンである。ただ、「あんなの迷信よ」と言ったムッちゃんと私は一人だ。
縁が無いと思っていたが、そういう縁ではなく、ノワタリさんと出合わせてもらったことはすごい、不思議だ。普通に考えると出会う確率は低いと思う。
四国に住んでいる私と、神奈川に住んでいるノワタリさんが会うとい事は神の計らいとしか思えない。大国主の命様の別の名前で祀られている金比羅様で出合った事も。
その事をノワタリさんに旅の始めの阿蘇のホテルで言った事がある。
また、9月にボツボツ書こうと思っていると、太田龍著の「縄文日本文明一万5千年史序論」という本を読んだので益々遠のいた。
その中に出雲教に追われ、豊鋤入姫様と倭姫様があちらこちらと天照大御神様を祀る場所を求めて逃亡した事が書いてあった。その後のヤマトタケルの遠征の話でも近畿地方のみしか治められてなかった事は想像がつく。
それまで周って来た神社が崇神天皇が開いた所が多かった事もなんとなく理解できる。
ノワタリさんの前世の一つが倭姫様の側近だったので、その旅の事をお尋ねすると、やはりその本の内容のように大変過酷であったらしい。
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