今回のダニエル氏透析拒否騒動で、私は色々なことを考えましたし、またこのブログに記事をupしたことで、色々な考え方があることを知りました。
医療にも介護にも限界はあります。
治らない病気を治すことは出来ないし、動かない身体を動かすことは出来ない。
それでも、患者もしくは利用者が治療や介護を受けることを拒否さえしなければ、まだなんとかなります___「なんとかなる」というのは、医療者や介護者が「まだやる仕事はある」という意味です。
「まだ仕事がある(できる)」というのは医療・介護者本位の言い方です。
ここから先は、医療関係者の皆様にとっては大変不愉快な文章になるかも知れません。
不快に思われる方はスルーして下さって結構ですし、異論反論のある方はあとでコメントを下さってもいいです。
もしかしたら自分の発言に責任が持てなくなって、後日削除するかも知れません。
私の仕事に対する覚悟はその程度なので、ホント勘弁してください。
私は、利用者に対して
「こんなに一生懸命やっているのにわかってもらえない」
と思うとき、
「ああ自分って駄目な支援者だなあ」
と感じます。
ケアマネや介護サービス事業者が一生懸命仕事をする、利用者の依頼や希望や都合に合わせてサービスや社会資源を見つける、連絡調整を行う、介護を実施する。
大変です。
うまくいかないときはイライラしてしまうし、頑張っているのに苦情が出れば落ち込むし、こっちだって必死なんだよと文句や愚痴も言いたくなる。
でも、こんな軽薄ブログを書いている私でも、支援者として、愚痴や文句のおしまいに必ず心の中で思うようにしていることはあります。
それは
1番大変なのは利用者なのだ
ということです。
1番大切で、1番忘れがちなことですね。
今回ダニエルさんの一件で、私がこのひがしクリニックの医療者、ことに森の神に対して思ったことは、医療者に患者を指導する権限はないということです。
「医療者」を「支援者」に、「患者」を「利用者」に言い換えて読み、私たちケアマネや介護サービス事業者の仕事となぞらえてみても同じです。
透析患者さんに限らず、世の中には色んな病気や要介護状態の方がいます。
自己中心的だったり、暴力的な人だったり、アタマにくるような人がいます。
それでも、医療者は治療するのが仕事です。
介護者は介護するのが仕事です。
患者や利用者がそれを拒否すれば、その仕事は終わってしまいます。
でも、いい支援者は、相手の拒否・拒絶の背景や理由を理解し、そこに再び仕事を見つけることのできる人です。
治療を拒否して悲惨な最期を迎えること、介護を拒絶して寂しい死に方を選択することは、果たしてその人が本当に望んでいることでしょうか。
会いたくないとかやりたくないとか、死んでもいいとかどうなってもいいとか、それはその人の本気から出た言葉なのでしょうか。
また、その言葉を言質にし、
患者が望んだことです
とか
利用者の自己決定です
と納得して治療や介護を中断すれば私たちの仕事は終了なのでしょうか。
そこから先は本当に踏み込めないのか、介入できないのか、もし出来ないとしたらそれは何故なのか。
私たち支援者側の都合や怠慢や驕りではないのか。
私たちは常にそれを考えていかなくてはならないと、社会福祉援助技術で習ったはずではないのか。
看護や介護にベストを尽くす、相手の思いや悩みを、自分勝手も自己憐憫もひっくるめて受容してケアに当たる、それが相手を尊重することであって、認めることのはずです。
私たちは頑張って世話をした、さんざんわがままも聞いてやった、イヤな相手でも我慢して相手をした、それでもイヤならもう終わりです、どこか他所で治療でも介護でも受けて下さい。
それは仕事じゃない、指導ですらない、罰です。
医療関係者にも支援事業者にも、そんな権限はないはずです。
ましてやダニエル氏は、医療関係者が見捨てたほどわがままな自分を、たったひとりだけ理解しようとしてくれた支援者がいることに気付いて、そこで治療を再開しようとしたのに、森の神はそれすら断ち切ろうとした、これが罰でなくてなんなのでしょうか。
うちの病院がイヤなら、治療だけでなく介護も他所で受けて下さい、それは人の生命を預かる仕事をしている人の当然の仕打ちなのでしょうか。
申し訳ないのですが、私は1部のナースの皆さんの資格にくっついている「看護師」の「師」の意味が本当によくわかりません。
師とは指導教育を行うもの、尊敬に値する技芸や技術を持つものに与えられる接尾語のはず。
今回のことで、森の神たちひがしクリニックのナースはダニエルさんに何を指導教育し、どの部分で尊敬されなくてはならないのか私にはまったく理解できませんでした。
私の大切な父親を含め、透析を受けている人の大半は糖尿病などの生活習慣病で内臓をダメにして、大事な税金で自分たちの自堕落な生活のツケを払ってもらっている方たちです。
透析患者さんはわがままな方が多い。
確かにそうです。
生きていたいなら黙ってナースのいうことを聞き、大人しく指導や治療を受けていればいい。
透析の拒否なんてもっての他。
死にたければ勝手に死んでもらっていい、それが自己責任、自己決定だと。
膨れ上がる医療費が国の財政を圧迫しているから、削減のためにもそのほうがいいと。
これはとっても危険な考え方ですよね。
医療を介護に置き換えてみてもいいし、なんなら生活保護に置き換えてみてもいい。
透析だろうが他の病気だろうが、身体障害だろうが精神障害だろうが、病気や障害形態で医療や介護を分けて語ってはいけないと思います。
公害病ならかわいそうで、透析ならダメなのか__違うはずです。
先天性の傷害なら国費でなんとかしても、交通事故ならダメなのか__違うはずです。
どうやってその病気になったのか、どうしてそんな傷害を持つ結果になったのか、どんな生活で要介護状態になったのか、私たちには関係ないはずです。
それがすべてひっくるめてその人の個性です。
イヤなら治療を受けなければいいとか、拒否するなら介護認定なんて受けなければいいとか、文句があるなら働けとか、それを言うなら私たちが仕事を捨てればいいだけで、患者や利用者や障害者や被保護者はそうはいかない、それが違いだと思います。
大変なのは利用者のほうで
泣きたいのは患者のほう。
いつだって私たちはそれを忘れずにいなくてはならないと思いました。
医療にも介護にも限界はあります。
治らない病気を治すことは出来ないし、動かない身体を動かすことは出来ない。
それでも、患者もしくは利用者が治療や介護を受けることを拒否さえしなければ、まだなんとかなります___「なんとかなる」というのは、医療者や介護者が「まだやる仕事はある」という意味です。
「まだ仕事がある(できる)」というのは医療・介護者本位の言い方です。
ここから先は、医療関係者の皆様にとっては大変不愉快な文章になるかも知れません。
不快に思われる方はスルーして下さって結構ですし、異論反論のある方はあとでコメントを下さってもいいです。
もしかしたら自分の発言に責任が持てなくなって、後日削除するかも知れません。
私の仕事に対する覚悟はその程度なので、ホント勘弁してください。
私は、利用者に対して
「こんなに一生懸命やっているのにわかってもらえない」
と思うとき、
「ああ自分って駄目な支援者だなあ」
と感じます。
ケアマネや介護サービス事業者が一生懸命仕事をする、利用者の依頼や希望や都合に合わせてサービスや社会資源を見つける、連絡調整を行う、介護を実施する。
大変です。
うまくいかないときはイライラしてしまうし、頑張っているのに苦情が出れば落ち込むし、こっちだって必死なんだよと文句や愚痴も言いたくなる。
でも、こんな軽薄ブログを書いている私でも、支援者として、愚痴や文句のおしまいに必ず心の中で思うようにしていることはあります。
それは
1番大変なのは利用者なのだ
ということです。
1番大切で、1番忘れがちなことですね。
今回ダニエルさんの一件で、私がこのひがしクリニックの医療者、ことに森の神に対して思ったことは、医療者に患者を指導する権限はないということです。
「医療者」を「支援者」に、「患者」を「利用者」に言い換えて読み、私たちケアマネや介護サービス事業者の仕事となぞらえてみても同じです。
透析患者さんに限らず、世の中には色んな病気や要介護状態の方がいます。
自己中心的だったり、暴力的な人だったり、アタマにくるような人がいます。
それでも、医療者は治療するのが仕事です。
介護者は介護するのが仕事です。
患者や利用者がそれを拒否すれば、その仕事は終わってしまいます。
でも、いい支援者は、相手の拒否・拒絶の背景や理由を理解し、そこに再び仕事を見つけることのできる人です。
治療を拒否して悲惨な最期を迎えること、介護を拒絶して寂しい死に方を選択することは、果たしてその人が本当に望んでいることでしょうか。
会いたくないとかやりたくないとか、死んでもいいとかどうなってもいいとか、それはその人の本気から出た言葉なのでしょうか。
また、その言葉を言質にし、
患者が望んだことです
とか
利用者の自己決定です
と納得して治療や介護を中断すれば私たちの仕事は終了なのでしょうか。
そこから先は本当に踏み込めないのか、介入できないのか、もし出来ないとしたらそれは何故なのか。
私たち支援者側の都合や怠慢や驕りではないのか。
私たちは常にそれを考えていかなくてはならないと、社会福祉援助技術で習ったはずではないのか。
看護や介護にベストを尽くす、相手の思いや悩みを、自分勝手も自己憐憫もひっくるめて受容してケアに当たる、それが相手を尊重することであって、認めることのはずです。
私たちは頑張って世話をした、さんざんわがままも聞いてやった、イヤな相手でも我慢して相手をした、それでもイヤならもう終わりです、どこか他所で治療でも介護でも受けて下さい。
それは仕事じゃない、指導ですらない、罰です。
医療関係者にも支援事業者にも、そんな権限はないはずです。
ましてやダニエル氏は、医療関係者が見捨てたほどわがままな自分を、たったひとりだけ理解しようとしてくれた支援者がいることに気付いて、そこで治療を再開しようとしたのに、森の神はそれすら断ち切ろうとした、これが罰でなくてなんなのでしょうか。
うちの病院がイヤなら、治療だけでなく介護も他所で受けて下さい、それは人の生命を預かる仕事をしている人の当然の仕打ちなのでしょうか。
申し訳ないのですが、私は1部のナースの皆さんの資格にくっついている「看護師」の「師」の意味が本当によくわかりません。
師とは指導教育を行うもの、尊敬に値する技芸や技術を持つものに与えられる接尾語のはず。
今回のことで、森の神たちひがしクリニックのナースはダニエルさんに何を指導教育し、どの部分で尊敬されなくてはならないのか私にはまったく理解できませんでした。
私の大切な父親を含め、透析を受けている人の大半は糖尿病などの生活習慣病で内臓をダメにして、大事な税金で自分たちの自堕落な生活のツケを払ってもらっている方たちです。
透析患者さんはわがままな方が多い。
確かにそうです。
生きていたいなら黙ってナースのいうことを聞き、大人しく指導や治療を受けていればいい。
透析の拒否なんてもっての他。
死にたければ勝手に死んでもらっていい、それが自己責任、自己決定だと。
膨れ上がる医療費が国の財政を圧迫しているから、削減のためにもそのほうがいいと。
これはとっても危険な考え方ですよね。
医療を介護に置き換えてみてもいいし、なんなら生活保護に置き換えてみてもいい。
透析だろうが他の病気だろうが、身体障害だろうが精神障害だろうが、病気や障害形態で医療や介護を分けて語ってはいけないと思います。
公害病ならかわいそうで、透析ならダメなのか__違うはずです。
先天性の傷害なら国費でなんとかしても、交通事故ならダメなのか__違うはずです。
どうやってその病気になったのか、どうしてそんな傷害を持つ結果になったのか、どんな生活で要介護状態になったのか、私たちには関係ないはずです。
それがすべてひっくるめてその人の個性です。
イヤなら治療を受けなければいいとか、拒否するなら介護認定なんて受けなければいいとか、文句があるなら働けとか、それを言うなら私たちが仕事を捨てればいいだけで、患者や利用者や障害者や被保護者はそうはいかない、それが違いだと思います。
大変なのは利用者のほうで
泣きたいのは患者のほう。
いつだって私たちはそれを忘れずにいなくてはならないと思いました。
「こんなにしてあげてるのに」
っていう気持ちは『援助者中心』だから出てくる言葉だと私は思ってます。私自身、そう思う時が多々あります。でも冷静になるとそれは穿った見方なんだ、受け入れてくれない時は何かこだわりがあるんだと思い直す時も少しあります。
ご本人やご家族が暮らしてきて私たちが関わってるのはほんの最近です。
その事を肝に命じながら、それまでの何十年も築いてきた生き方や周囲との関係を含めて考えていきたいと思うようにしてます。(常には無理です^^;)
丁度、サービス拒否が続いて苛立ってたところでした。
自分の立ち位置を見直す事ができました。
ありがとうございます。
少し意味合いは違いますが、以前働いてたデイでご家族から「『デイではみんな優しい』と言われてしまう。家族はいつもは優しくはなれない。デイと家族を比べられかえって溝ができる」と何気に言われた事があります。
この言葉胸に刺さりました。
主役は本人、そして家族(私は今の日本の制度上家族抜きには無理だと考えてます)
医療福祉関係者は黒子とグレ子でいいんです(笑)(年がバレますか?)
しかし主役になりたがる人の多いこと…特に○○系…^^;
…長々と失礼しました。
年寄りも病気の人も、わがままであたりまえです。
透析患者にわがままな人が多いのは、それだけ辛い病気だからです。
わがままを言える病院であって何がいけないのか、受容できる支援者がいて何が悪いのか、私にはわかりません。
日本国民は皆禁煙し、節食し、健康に向かって邁進しなくてはならないのでしょうか。
それがどんなに危険な考え方なのか、医療関係者にはわからないのかと不思議でたまりません。
医療が進むと福祉が後退する、このバランス社会はもういいかげんになんとかしてもらいたいと思います。
そんな時、自分の距離が利用者に近づきすぎたと感じます。少し視野が狭くなり、偏った世界感<ケアマネ界)を押し付けていたことがわかります。一歩2歩さがって、利用者を観察するようにします。
ケアマネはその方法を体で会得していますが、医療従事者はたとえていうなら、八百屋に近いと思います。答えがひとつしかないのです。
治療する。しない。
買う。買わない。
買わないひとのことを、考察するという習慣はないのではないでしょうか。特に外来は。入院患者はある程度、家族関係等アセスをとりますが、外来はそこまで個人情報を取らないので、考察する材料すらないと思います。
今回の森の神は確かに異常ですが、良く似た医者はたくさんいます。診てやってる。気に入らないなら、よそへいけ!!トップがそんな考えだから、魔界自体がそれが当たり前になっている。
治療する(DRの指示がある)。治療しない。
買う。買わない。
買わない人のことを考察する習慣がないと思います。まして、今回の森の神は確かに異常ですが、もっと切れ易いのはドクターだと思います。
気に入らないのなら、よそへいけ!
魔界の異常さを異常と感じているハリケンさんはまだ人間のにおいがします。
そうか、病院やクリニックにはそもそも人が“やって来る”のですから、“買わない”人のことを考える必要がないワケか。
魔界の異常さ、確かに感じていますが、こんな魔界にいられる自分も異常なのかなと思います。
はああぁぁ(ため息)
基本的に「わかってもらえる」と思っていないのかも。
頑固な年寄りが若輩者の言うことなんぞそうそう聞くわけがない。
それが多少の専門職であったとしても、「長年の勘と経験に基づいた自信」はそうはくつがえらない。
なので、プロとして本人が「納得」できるであろうだけの説明はします。
でも無理やり「説得」しようとはしません。
ただ、いつ気が変わってくれるかわからないから、
気が変わったときにはにっこり笑って「どうぞ」といい
ほんのちょっと、おなかの中で「勝った」と思います。
こういうことが年に1・2回ぐらいあるからケアマネは楽しい。
やりたくないとか、死んでもいいとかいう人は
ほんとに死ぬと心の底から思っていない。
その前に誰かが助けてくれるとどこかで思っている。
だから根っからは信用しません。
問題は「どの時点で気が変わるか」「素直になれるか」
あるいは「ホントに死ぬかも、と気がつくか」。
そのタイミングを見逃さない、それしかない気がします。
私も何人かのご利用者様から「死んでもいいからやりたくない」と言われました。
「そっか、しんどいからやりたくないか。そうねぇ。
でも私はせっかくご縁ができたから、
そんなに早く死んで欲しくないです」
と言っています。変なケアマネです。
八方塞なら正面突破、かな。
(きっと・どうせ)わかってもらえない
とか
わかってもらおうとは思わない
という言葉を口に出す人に、他者理解が出来るとは
思えないです。
そう言う人に「わかってもらえなくて悩む人の気持ち」がわかるとは思えないのですが…。
逆になーちゃさんは、ご自身が何かをわかってもらえなくてすごく悩んできた方なのでしょうか。
私は利用者さんに死ぬとか死にたいとか言われたらメチャメチャ慌てます。
たぶん私に慌ててもらいたいからそうやってるんだろうなと思ってわかってても、動揺してしまいます。
心の中でチクショー勝手にしろよと思ってても、やっぱり気になってダメです。
たぶん私のそういうところが「プロとして」ダメなんだろうなと思います。
どうもtunkoは、自分の思いやら考えをきちんと伝えられず、どうとでも取れるような書き方をしてしまうようで、だんなにもよく怒られます。
前回のコメントで、医療側の気持ちもわかると書きました。実際その立場でしたから、わかるんです。
でも、それがいいことで、当たり前だとは思えませんでした。
そういう態度で接していた職場とそこの上司の考え方、態度に対してずっと不満・疑問がありました。
そのことも、看護師の現場から離れていった一要因だったと思います。
わがままを言われると、とてもしんどいのですが、でも、それを言ってくる関係になっているのは、ある意味仕事冥利に尽きるのかもしれません。
なんだかの理由で、一度関係が切れたとしても、再び手を伸ばしてこられたときに、にっこり笑って手を握れるような、そんな人間になりたいなあ・・・と、そう思っています。
そんなのはバカだといわれたし、損だといわれているけれど、所詮自分は賢くも無く要領が悪い人間なので、それで良いと思っています
気に障ったとしたら本当にすみません。
私がダメなんです、透析患者さんのことになると
ちょっと過剰反応しちゃって。
元来わがままな人が透析が必要みたいな病気になるとか、透析してる人は自己チューだとか、そういうことを色々といわれ続けている透析患者とその家族の気持ちを、医療者にわかってもらいたいと思うことがホントによくあります。
でも、ウェブログという場はもともとそういうこと(お腹の中)を言い合う場でもあるのですから、過剰に反応しちゃうとそれは私のペナルティかなと反省しています。
うーん、面白くなくなっちゃいました。
ガラにもなくマジメなことを書こうとするからw
やっぱりふざけているのが私には合っているようです。
いろいろありますやん。生きてる証拠かな?
正直言って不謹慎ですが、剣道やってた頃の感じが蘇ってくる事があるのであります、私。
相手の動きを読んでそれにあわせつつ、切り返す感じがなんかこう、似てるような気が。
一本とるのが目的の剣道ですが、利用者の望む生活に近づくよう支援するケアマネ稼業となんか似てんなーとノンキにぼやや~っと感じとります。
やり方は、いろいろある。
表現の仕方もさまざま。
次に生かそう。