Takekida's log

千里の道も一歩から

般若心経を読む

2013-02-16 20:48:13 | Training
気持ちの良い晴れの日ですが気温はまだ低めです。
東京マラソンがいよいよ1週間前に迫ってきました。
大阪の時と比べると練習量としては落ちてますが質を少し上げているのでその分がどのように響いてくるかが楽しみです。 ともかく楽しんで頑張ります。

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))
クリエーター情報なし
筑摩書房

般若心経は大乗仏教の根幹を成す「空」・「般若」思想を表したものです。たった見開き1ページ程度の文章262文字なのですが仏教のものの見方を象徴的に表している文章で解釈としても宗派により多岐にわたります。この本はそんな般若心経の仏教的な議論はさておき、筆者としての理解・実感・要旨がまとめられた内容です。 

お釈迦様の達した悟りで形成された「知」の様式、それをパーリ語ではパンニャーと言い、それが般若となったとのこと。日本だと般若のお面のイメージありますがあれは作者が般若坊という名前だったからとのことでこの般若とは関係は無いそうです。
 般若心経の内容を簡単にしてしまうと以下のような感じです。仏教では自分たちの肉体と精神を構成する5つの要素を五蘊と表し色、受、想、行、識としてい色というのはありのままのことなので識はさらに思考を巡らせた状態のこと。そのまま感じた状態である空を含めこれらの五蘊が全く存在しない「空」という領域に到達しているのが悟りを開いた領域なのだということです。もう少し詳しく言うと万物には「自性」(生まれつき備わっている性質) というものすらなく「縁起」のなかではっせいする流動的事象の連続の状態。「諸行無常」で「諸法無我」=主体と言える我 が無い状態だからこそ実相は脳の感覚である「色」すらを空なものとしてしまう。そのような境地に達することが悟りを開くということなのだということだといえそうです。つまり自分を捨ていかに全体性の中で生きるか?それが苦しみからも解放される道にもなるということ。
これは意地悪に言えば人間らしいと思われていた考えるという能力から遠ざかり自然や宇宙と一体になるということなわけで皮肉なことだと思います。

お経というのは唱える内容に対して大きな意味があるというよりはこのような境地に達するための手助けとなる呪文のようなものと思えばよいのと思います。無意識に言葉を出して心を空っぽにする瞑想とな時様な状態と思えばよいのかもしれません。走っている時でも時折そのような心境に達することがありますがある意味、近いことをしているのかもしれません。仏教の考え方は改めて見返すと根幹となることろをついていてほかの宗教とは一線を画しており、自分としては最もしっくりくるように思いますがまだその境地には達していないというのが現状。ただこの考え方を知っておくことは少しでも生きづらいとも言われる世の中を過ごすうえで手助けとなります。

 画像は般若心経の絵版。昔は絵が読めない人のために作られたそうです。
腹とか象とかがかわいいです。般若は般若のお面。
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2 Comments

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お経 (まっつん)
2013-02-18 22:34:19
 うちは月に一回供養して般若心経を唱えます。
祖父の33回忌のとき、寺のお坊さんが「供養というのは催促がないことなので奇特なことなのです。」とお話されました。

 確かに誰がやれとも言わないもの。継続的にするには心と時間に余裕がないとできない。祖先を供養するために、心の余裕は持っていたいものです。
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Unknown (たけきだ)
2013-02-21 00:44:08
いい習慣ですね。たしかに自分に余裕あってこそ人にも施せるものだと感じます。
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