学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

『津軽』 本編 四 津軽平野

2008-09-16 09:34:10 | 読書感想
『津軽』もいよいよ終盤に差し掛かってきました。「巡礼」、「蟹田」、「外ヶ浜」において、太宰は津軽の旅を主としながら友人たちとの関係について書いていますが、「津軽平野」では初めて家族が登場します。太宰と兄津島文治の関係は険悪で一時絶交状態にありました。(険悪な理由は単なる感情的な理由からではない)『津軽』を執筆していた頃は解消していたようですが、人間である以上、太宰も「ひびのはいった茶碗は、どう仕様もない」と述べている通り、2人の仲が完全に回復することはなかったようです。そのせいか「津軽平野」では、物語が至って淡々と、大きな盛り上がりも見せずに進んでいきます。

「外ヶ浜」同様に、この「津軽平野」においても文献から津軽の歴史をたどる試みがなされています。読み手にとっては、やはり退屈なのですけれども、津軽のことをもっと知ってもらいたいと太宰が申し訳なさそうに言っているようにも思えて、私はどうも苦笑いをしてしまうのです。また、ところどころに出てくる農業の会話、あるいは「梅、桃、桜、林檎、梨、すもも」、「ワラビ、ウド、アザミ、タケノコ」、「スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、白ウツギ、アケビ、野バラ、それから私の知らない花」と単語を連続して羅列し、津軽平野の豊かさを物語る工夫がなされているようです。

太宰は、そうした自然を親族たちと野外で楽しみます。けれども、そこに兄の姿はほとんどありません。もちろん、実際に兄は家長でしたから、野外散策を楽しむ時間的余裕もなかったに相違ありませんが、それにしても兄のいないときの太宰は何とのびのびとしていることか。そうして兄が来ると、どこかぎこちない風になって。2人のぎくしゃくした関係が伝わってくるようです。「兄は、いつでも孤独である」で太宰は「津軽平野」をしめくくっていますが、ちょっとしたことで親族との会話から仲間外れた兄の姿に、自分自身を見出したのかもしれません。孤独なのは兄ではなく、太宰自身…と捉えることもできないでしょうか。ためしに「兄」を「私」に置き換えても、意味が通じるような気がしてきませんか。