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かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『プラド美術館展』 三菱一号館美術館

2016年03月01日 | 展覧会

【2016年1月30日】

 東京4日目、4番目(最後)の美術展だが、これを見ようと決める時にはわずかのためらいもあった。プラド美術館といえば、ゴヤを中心とする宮廷美術ばかりが思い出される。そのような絵は、美術的な素晴らしさはさておき、描かれる主題が私とは無縁の感じが強いのである。とくに王侯貴族の肖像画は、その人物たちが実在していたにもかかわらず私のリアルと間のどこにも通路が見出せないように思ってしまうのだ。それに比べれば、神話やファンタジーの方が私のどこかと通底する道筋が存在するように思える。
 美術館展であれば王侯貴族の肖像画ばかりではないだろうと思い定めて、開館時刻に合わせて出かけたのだが、200人以上並んでいる。列を整理している館員に尋ねる人がいて、明日が最終日のための混雑だろうということだった。いつもよりずっと早めにやってきたのはプラド美術館の誇るたくさんのビッグネームの威力を恐れたからだが、やはり想像通りの人出である。
 この美術展は、プラド美術館のコレクションの中から「小さなサイズ」の作品に焦点を当てて構成されている。この点でも、権力を誇示するかのように威圧的に壮大な王侯貴族の肖像画はないらしいので少し気分が楽になった。


ヒエロニムス・ボス《患者の石の除去》1500-10年頃、油彩/板、
48.5×34.5cm (図録、p. 33)。


【左】グイド・レーニ《祈る聖アポロニア教》1600-03年頃、油彩/銅板)、28×20cm行 (図録、p. 50)。
【右】グイド・レーニ《聖アポロニアの殉教》1600-03年頃、油彩/銅板)、28×20cm行 (図録、p. 51)。

 名前は有名でも(私が知っているくらいだから有名に違いないが)あまりその作品を見たことがない画家がいる。ヒエロムニス・ボスもグイド・レーニも、私にとってはそのような画家である。
 《患者の石の除去》は、ボスの絵画に期待してしまうようなおどろおどろしいまでの幻想性はほとんどないが、患者の頭頂から石(?)を取り出すという奇妙な光景を描いていて、絵に込められた寓意や風刺がどんなものかと引き込まれてしまう。とはいえ、いくら絵を凝視しても意味されていることが明瞭になるわけではない。図録解説を引用しておく。

老人と、頭上に書物を頂く女性の前で、あたかも帽子であるかのように漏斗をさかさまにかぶった外科医が、患者の頭からチューリップの花を引き出している。女性の頭上の書物は科学の重要さを、外科医の漏斗は愚行を暗示する。チューリップの花は、机の上に置かれた花と同様、外科医のポケットに収められることになる金のシンボルである。 (図録、p. 179)

 カラヴァッジョは特別として、レーニはグエルチーノと並ぶバロキスムの画家(だと私は思いこんでいる)で、その作品を見たいとずっと思っていた画家の一人である。
 バロックの画家らしく、ともに殉教する聖アポロニアを描いた作品である。やっとこで歯を抜かれるという拷問の様子と、焚刑で昇天する聖アポロニアが天使によって救済の印である冠をいただく場面が描かれている。この逸話によって聖アポロニアのアトリビュートとして「やっとこ」と「歯」が《聖アポロニアの殉教》にも描かれている。
 バロックの宗教画は大聖堂に架けられるような大作のイメージが強いが、レーニの二作品の主題はバロックの画家らしいのだが、とても小さな作品で、私的な祈りの小部屋に飾られていたのかもしれない。レーニの作品はもう一点《花をもつ若い女》が展示されていて、81×62cmのやや大き目の絵であるが、タイトル通りの女性の半身像で、宗教画ではない。


【左】カルロ・マラッティ《眠る幼子イエスを藁の上に横たえる聖母》1656年頃、油彩/板、
直径36cm (図録、p. 53)。

【右】アダム・エルスハイマーと工房《ヘカベの家のケレス》1605年頃、油彩/銅板、
30×25cm (図録、p. 61)。

 バロックの時代になってキアロスクーロが際立ってくるように私には思えるが、そういう点でカルロ・マラッティの《眠る幼子イエスを藁の上に横たえる聖母》は「際立った」印象の作品である。タイトルにある「幼子イエス」と「藁」と「聖母」にのみ光が当たって、背景は闇に沈んでいる。ラ・トゥールの絵を思い出させるような明暗の描き方で、主題の中心に引き付けられるような魅力がある。
 マラッティと同様、アダム・エルスハイマーも私にはまったく初見の画家である。前者はイタリア、後者はドイツの画家だという。《ヘカベの家のケレス》もその明暗が描き出す情景が魅力的な絵だが、主題の神話についてはまったく見当がつかない。図録解説によれば次のような神話である。

女神ケレスが、冥府の王プルート(ハデス)に連れ去られた娘プロセルピナ(ペルセポネー)を捜し歩いていて、ある小屋にたどり着いた時、老婆が差し出したお茶をむさぼり飲む姿を見て少年が嘲笑ったため、ケレスは怒り狂って少年をトカゲに変えてしまったという。 (図録、p. 184)

 奥の方に小さな灯が見え、そこで二人の人物が乳しぼりをしていて、明暗ばかりではなく、日常的な農民の情景とも対比させることで、突然現れた女神の存在を強調しているかのようだ。


【左】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《ロザリオの聖母》1650-55年頃、油彩/カンヴァス、
166×112cm (図録、p. 76)。
【右】ニコラ・プッサン《ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)》1653年、油彩/板、47×39cm
 (図録、p. 84)。

 ムリーリョもプッサンも有名だが作品をあまり見たことがない画家である。バルトロメ・エステバン・ムリーリョの《ロザリオの聖母》では、聖母子が暗闇から浮かび上がるように描かれ、マントの青と衣の赤の対比も美しいが幼子を中心とするハイライトが見る者の目の動きをそこに止めるかのようだ。初々しい若さのマリアも魅力的だが、興味深そうに見つめ返すイエスの幼子らしい表情も、宗教画にありがちな硬質の聖性とは大きく異なる柔らかな雰囲気がある。それでいながら構図が端正であることもこの絵の魅力の一つに違いない。
 私は二コラ・プッサンを風景画の祖のように思い込んでいたので、プッサンの風景画をずっと期待していた。しかし、プッサンもまたバロキスムの画家で、《ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)》の主題はキリストとマグダラのマリアである。どことなく淡い色彩と柔らかいキリストの表情にいくぶん不思議な感じを受けた。どうも私は聖性というものに厳しさと鮮明さを見ようとしているのかもしれないのだが、プッサンのこの絵はそのようなニュアンスから少しばかり離れている。ムリーリョもプッサンももっとまとめて見たいという思いを強くした。


ヘンドリック・ファン・ステーンワイク《大祭司の家の中庭のイエス》1600-49年、油彩/銅板、
41×50cm (図録、p. 97)。

 ヘンドリック・ファン・ステーンワイクの《大祭司の家の中庭のイエス》は、ほぼ同じ構造の建築物と光源の配置で描かれた《聖ペテロの否認》と並んで展示されていた。この絵もまたキアロスクーロの明暗の魅力に満ちた作品だが、聖書のエピソードと建築物のどちらが主題なのか見まがうような作品である。夜の闇の中で、建物の中に置かれた燭光の映りぐあい、強弱によって建物の立体的な構造を瞬間的に把握させるというきわめて演劇的な要素の強い作品となっている。


フランシスコ・ゴヤ・ルシエンテス《レオカディア・ソリーリャ?》1814-16年、
油彩/カンヴァス、82.5×58.2 cm (図録、p. 149)。

 人物画、肖像画の前はできるだけ気合を入れず静かに通り抜けようと思っていたのだが、《レオカディア・ソリーリャ?》の前ではさすがに足が止まった。この女性が美しいのか、この絵が美しいのか判然としないという優れた絵の典型のような作品である。背景が暗く、女性だけにハイライトが当たっているという明暗も印象深さを強くする。
 この絵の前に来るまで、ベラスケス、ティントレット、ルーベンス、ブリューゲルなど名だたる画家の作品があって、絵というよりは名前に圧倒されていたのだが、《レオカディア・ソリーリャ?》はけっしてゴヤという名前(だけ)に圧倒されたわけではない。


【左】ライムンド・デ・マドラーソ・イ・ガレータ《セビーリャ大聖堂のサン・ミゲルの中庭》1868年、油彩/板、
15.8×10cm (図録、p. 158)。

【右】ビセンテ・パルマローリ・ゴンサレス《手に取るように》1880年、油彩/板、43×22cm 
(図録、p. 165)。

 《セビーリャ大聖堂のサン・ミゲルの中庭》は、まったく文句のない素晴らしい小品である。ほんとうに小さい作品なのだが、中庭の持つ安らいだ空間の詳細がいかんなく描かれているし、しゃがんだり寝転がったりしている子どもたちもとてもいい雰囲気を醸し出している。ただ、こうした良品の世界に浸るには、私の近眼も老眼も度が進みすぎていることにすこしばかり苦しんだという問題だけが残った。
 ビセンテ・パルマローリ・ゴンサレスの《手に取るように》は、モネの《日傘の女性》や《浜辺のカミーユ》を思い出させる作品である。優雅な服装やのびやかな肢体、日傘を左手に抱えて双眼鏡をのぞく仕草の女性が魅力的に描かれているのだが、取り上げた理由はもう一つある。
 浜辺の風景だが、女性(モデル)がスタジオに立っているような印象を受けたのである。外光の当たりぐあいをうまく理解できなかったのである。たしかに帽子の下に影があるが、人物全体には影が少なく、スタジオ内でフラッシュの反射光をまわらせることで影のない柔らかいポートレートを撮ったような印象がしたのである。海岸の風景は普通の晴天ないしはうす曇りのようで、光線という点において人物と風景は切り離されているように思えて、しばらく眺めては考え込んだのである。

 美術館は不思議なところである。たいていの場合、画家の絵を見てその画家を知るよりも、じつに多くの画家を私は知らないのだということをしみじみと知って美術館から帰るのである。美術展に行けば行くほど、知らない画家がたくさんいるという確信がどんどん増えて行って、私の知らない画家たちの世界の広大無辺さもどんどん広がっていって、呆然とするほどである。美術館からの帰り道は、絵を見た楽しみの名残りと困惑とがない交ぜになったまま歩いていることに気づく。

[1] 『プラド美術館展――スペイン宮廷 美への情熱』図録(以下、『図録』)(読売新聞東京本社、2015年)。
[2]  『グエルチーノ展 ―よみがえるバロックの画家』(TBSテレビ、2015年)。



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『画家と写真家の見た戦争』展 世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館

2016年02月25日 | 展覧会

【2016年1月29日】

 世田谷美術館には、分館として宮本三郎記念美術館があることを、『画家と写真家の見た戦争』展の開催のことと一緒にネットで知った。一昨年(2014年)の秋、やはり世田谷美術館分館の向井潤吉アトリエ館で『向井潤吉 異国の空の下で』という美術展を見たことがある。世田谷美術館は、複数のギャラリーから構成されるイギリスの国立美術館のようである。
 先の大戦で、画家の多くが戦争に協力したということ、戦後そうした画家への批判がかまびすしかったことは知っているが、具体的にだれがどういう役割を果たしたのかはよく知らない。せいぜい藤田嗣治がそうした画家たちの中心的役割を果たしたらしいことは、他の画家たちを巡る話題から推測できる程度である。
 さいわい、手許に椹木野衣と《戦争画RETURNS》などを描いた会田誠 [1] の対談本『戦争画とニッポン』 [2] が手許にあるので、大いに参考になるだろう。


椹木野衣、会田誠『戦争画とニッポン』
(講談社、2015年)。

 展示は、見た順序で言えば写真家の師岡宏次、画家の向井潤吉、宮本三郎、久永強の作品で構成されている。師岡宏次の写真作品は、戦時下の農村の人々表情を写し取った作品や、敗戦直後の銀座のいわば戦争の傷跡を写しとったものであった。また、久永強の作品は、『友よねむれ――シベリア鎮魂歌(レクイエム)』 [3] に収められた作品の一部で、シベリア抑留体験を描いたものである。師岡、久永の主題は、従軍画家として戦地に赴いて戦争そのものを描いた向井潤吉や宮本三郎とはその直接性において異なっている。
 久永強の作品は、2013年の秋、世田谷美術館で『アンリ・ルソーから始まる――素朴派とアウトサイダーズの世界』という美術館で見た後、画文集『友よねむれ――シベリア鎮魂歌(レクイエム)』を取り上げて少しばかり感想をまとめているので、ここでは向井潤吉と宮本三郎の絵について書いてみようと思う。


向井潤吉《凍日》1937年、油彩・カンヴァス、116.0×145.5cm (『向井/小磯』[4] 図版29)。


向井潤吉《漂人》1946年、油彩・カンヴァス、
84.7×42.3cm (『向井』 [5] p. 26)。


向井潤吉《春泥の道》1951年、油彩・カンヴァス、49.0×59.5cm (『向井/小磯』図版14)。

 向井潤吉アトリエ館の『向井潤吉 異国の空の下で』展覧会は、パリ留学中の作品もあったが、もっぱら戦後の風景画の作品を見る機会であった。その時には、いわゆる「戦争画」ということばかりではなく、戦争そのものに関連したことがらを絵の中に見出したということはまったくなかった。
 この展覧会では、4点の油彩画と7点の素描画の向井潤吉作品を展示していた。素描作品には、《兵隊》や《(軍用機の中)》という作品があって、たしかに従軍画家でなければ書けない主題だが、私から見れば、「賛美」や「協力」することとは関係なく、画家がその現場にいれば自然と描くような素材としか思えないのだった。
 油彩画のうち、《凍日》と《献木伐採》が戦時中、《漂人》と《春泥の道》が戦後の作品である。その中で《献木伐採》(私の手元の画集には収録されていなかった)は、もっとも戦争画らしいタイトルだが、実際には数人の森人が大木を切り倒している様子を描いていて、《凍日》のヴァリアントの主題と言ってもいい作品である。ここでも、私には戦争の匂いを強く嗅ぎ分けることができないのである。
 『戦争画とニッポン』には向井潤吉の《四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)》を収録されていて、椹木が「あれほど劇的な戦争画を描いた」(『戦争画』 p. 48)と向井を評している。その絵は、バターン半島に侵攻した日本軍の勝利を描いたもので、進軍する日本兵と虜囚となったアメリカ人兵士(とフィリピン人兵士)の集団を一人の日本兵が軍用車の運転席から立ち上がって睥睨している図柄である。いわば、「バターン死の行進」という歴史的悲惨(戦争犯罪)に至る直前の日本の勝利を讃えた作品である。


向井潤吉《坑底の人》1942年、油彩・カンヴァス、130.8×161.6cm (『向井/小磯』図版23)。

 いわゆる「戦争画」を見ることを期待していたわりには拍子抜けしてしまうような展示だったが、参照の為に眺めた『20世紀日本の美術17巻 向井潤吉/小磯良平』[4] という画集の中には、《四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)》ほど「戦争画」らしくないにしても、いくつかの戦場を描いた作品が収められていた。そのなかで、戦場そのものではないが《坑底の人》に強く戦争を感じた。坑道で働く人がまるまる戦う兵士の姿のようであるというばかりではなく、銃後で働く日本人に覆いかかる戦争というものを考えさせるものがある。
 坑夫が勇敢な兵士に見えてしまう私にとって、軍国主義に真っ黒に染まって戦時を突っ走った日本人と、激しい圧迫のもとで厳しい労働に追いやられる日本人が合わせ鏡のそれぞれに映っているように見えるのである。
 向井潤吉の《献木伐採》という実作品と《坑底の人》という画集収録作品を見て思ったことは、仮にこの画家に戦争賛美、戦争協力の意図があったにせよ、画家としての才能(技量)が描き出した現実には巧まずして反戦の表象を内在させてしまうことが想像以上に多くあるのではないか、ということだった。
 しかし、一方で、それは観者の側の問題でもあるだろう。《献木伐採》や《坑底の人》を見て戦意を高揚させた人々がいたからこそ、向井潤吉は「戦争画」を描いた作家として評価(批判)されたはずなのである。つまりは、私たちは私たちの政治意識、歴史認識を超えて絵画作品を受容することはない、という必当然な結論を受け入れざるをえない。


宮本三郎《飢渇》1943年、油彩・カンヴァス、130.0×97.2cm 
(『宮本』 [6] p. 32)。


宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》1942年、油彩・カンヴァス、
180.7×225.5cm (『宮本』p. 30)。

 《山下、パーシバル両司令官会見図》の下絵や《海軍落下傘部隊メナド奇襲》の下絵など典型的な戦争画も展示されてはいたが、宮本三郎の作品を見た感想もまた、ほぼ向井潤吉の場合と似ているものだった。それは何よりも《飢渇》の強い印象による。左腕を負傷しながら満帆のリュックを背負って行軍中の日本兵が飢えに堪りかねて泥水を啜ろうとしている。その水に映った兵士の目の異様な輝きに恐れを感じてしまうほどだ。
 《飢渇》を見た一瞬、これは優れた反戦画ではないか、そう思ったのである。そう思ってしまうと、《山下、パーシバル両司令官会見図》もまた、その現場に報道記者がいたら報道写真として写し取っていた場面というだけではないかと思えるのである。もちろん、マレー半島における勝利をおさめた日本軍の将軍たちと敗北した連合軍の将軍たちをそれらしく描くことで戦争画として十分な役割を果たすのだろうが、威厳ある山下将軍に軍国主義の象徴を、ラフな服装のパーシバル将軍に自由主義国家の象徴を見ることさえできるのではないかと、私は思うのである。

 戦争画を期待していたのだが、(私の受け止め方の問題かもしれないが)展示されている絵画作品の中に単純簡明な戦争協力、戦争賛美を見ることは私にはできなかった。展示されていなかった向井や宮本のいわゆる典型的な「戦争画」の実物を眺めることができたらどう感じるかは定かではないが、少なくとも「戦争画」と呼ばれる絵画作品を批判することと、戦争に協力した画家(芸術家)を批判することを混同させてはならないということだけは確かだ。
 ある画家がなぜ戦争画を描くか(描いたか)ということについて、椹木野衣が宮本三郎を巡って語った言葉が興味深い。

 宮本は、戦争画を「頼まれ仕事」と言っていたこともあるようなんですが、その一方で「面白いから描くんだ」という言葉も残しています。さらに、戦後には「あの戦争に過ちがあったかもしれない。けれども、もう一度、ああいう環境に仮に再び私が生存したら、もう一度同じ過ちを犯すだろう」とも言っている。要するに過ちだったかもしれないけれど、絵に対しての反省ははしない、ということですね。 (『戦争画』 p. 47)

宮本はヨーロッパに留学して研鑽を積んだので、西洋における戦争画の重要性を肌で感じてきたはずです。だから、戦争が終わって戦争画が描けなくなり、いくら得意の裸婦に戻ったとはいえ、戦争画を描いたことを根本的には懺悔していないのだから、心の空洞というのはすごくあったのではないでしょうか? 歴史的には誤りかもしれないけれど、一旦は美術史の核心に迫れたのに、今は女の裸を描くしかない自分という、何か自虐にも似たものを宮本の裸婦像から感じるんです。 (『戦争画』 p. 48)

 その評価はどうであれ、人類は歴史的に様々な戦争、闘いを経験してきた。その歴史的、ドラマティックなシーンを描いた雄大な絵画は、少なくともヨーロッパの美術館では普通に見られる。そして、少なくともそのような絵画を戦争画として批判的に紹介している例を私は知らない。
 歴史的な大転換の場に立ち会った画家がそれを作品として具象化したいという欲求は当然のような気がする。歴史的な重要な場面に出くわしたカメラマンがその対象にカメラを向けないなどということがあろうか。描かれた作品、写し取られた写真に作家のイデオロギーや精神性が反映されるのは当然かもしれないが、その精神性が作品の価値を保証するわけではないこともまた自明であるが。
 たとえば、社会主義や共産主義によって社会変革を目指した熱気にあふれた時代に社会主義リアリズムという芸術運動があったが、その思想のもとで生産された「芸術作品」の多くはじつにつまらないものだった。その思想にもかかわらずなのか、その思想ゆえになのか、私にはつまびらかにする力量はないけれども、少なくとも私の若い時代の経験は(芸術)思想が作品の価値をけっして保証しないという歴史的証明のようなものであったことは間違いない。
 しかし、そのようなことが、芸術家が戦争を賛美し、人々を戦争に鼓舞することにどのようなエクスキューズをも与えるわけではない。人間としての倫理的責任を芸術作品が肩代わりできるはずがないのである。カラヴァッジオの作品が西洋絵画を代表する傑作だからといって、彼が殺人者であることのエクスキューズにはならないのである。

[1] 『会田誠展:天才でごめんなさい』(森美術館、2012年)
[2] 椹木野衣、会田誠『戦争画とニッポン』(以下、『戦争画』)(講談社、2015年)。
[3] 久永強(絵・文)『友よねむれ――シベリア鎮魂歌(レクイエム)』(福音館書店、1999年)
[4] 『20世紀日本の美術17巻 向井潤吉/小磯良平』(以下、『向井/小磯』)(集英社、1986年)。
[5] 『向井潤吉アトリエ館 名品図録』(以下、『向井』)(世田谷美術館 向井潤吉アトリエ館、2012年)。
[6] 『宮本三郎の仕事』(以下、『宮本』)(世田谷美術館、2014年)。


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『英国の夢 ラファエル前派展』 Bunkamura ザ・ミュージアム

2016年02月19日 | 展覧会

【2016年1月28日】

 奇しくも一昨年(2014年)の1月28日に六本木の森アーツセンターギャラリーで『ラファエル前派展[1] を見て、2年後の同じ日に渋谷で『英国の夢 ラファエル前派展』を見ることになった。
 前回はロンドンの国立テート美術館のうちのテート・ブリテン所蔵作品による美術展だった。今回はリバプール国立美術館所蔵展であるが、ウォーカー・アート・ギャラリー、サドリー・ハウス、レディ・リーヴァー・アート・ギャラリーの三施設の所蔵作品が出品されている。 
 ラファエル前派の作品は、神話や伝説、文学作品を多く主題として取り上げるというその物語性(と象徴性)に特徴があるが、その描法は自然性を重んじ、描かれる人物(とくに婦人像)はヴィクトリア朝という時代を反映してか、とても華やか(ときとして艶やか)な雰囲気をもって描かれることが多い。
 同じ時期に大陸では印象派が活躍していたが、それに比べればラファエル前派は古典的にすら私には見え、当時のイギリス美術界で彼らのアヴァンギャルド性が驚きをもって迎えられ、批難されもしたということが直感的には信じられないくらいである。ラファエル前派作品に顕われるロマン主義的傾向という点からはドイツ・ロマン派を想起させるが、当然のことだが、ドイツ・ロマンティーク [2] もまた私には印象派よりもはるかに古典的に見えるのである。


【上】ジョン・エヴァレット・ミレイ《いにしえの夢―浅瀬を渡るイサンブラス卿》1856-57年、
油彩・カンヴァス、125.5×171.5cm (図録 [3]、p. 29)。

【下】ジョン・エヴァレット・ミレイ《森の中のロザリンド》1867-68年頃、油彩・板、
22.6×32.7cm (図録、p. 35)。

 ラファエル前派といえば、私にとってまず誰よりもエヴァレット・ミレイである。先のテート美術館展では《オフィーリア》を見ることができたことが何よりだったが、今回の目玉作品の一つは、《いにしえの夢―浅瀬を渡るイサンブラス卿》であろう。
 図録解説には「ミレイの画業の初期における最も野心的でロマンティックな一点」(p. 28)と評されているが、自然の忠実な描写を目指したラファエル前派の運動の原則から離脱を示した作品であるとも示唆されている。それは演劇的な構図や絵画的に過ぎる描法、あるいは画商の要求によって不自然に大きく描かれた馬などに現れている。イサンブラス卿のエピソードも与えられておらず、物語的、象徴的な意味合いも強くないのである。

 いくつかのミレイの展示作品のなかで、私が最も心惹かれたのは《森の中のロザリンド》という小品である。この小品の細部が、近眼で老眼の目に明らかになる前に打たれた感じがした。そして、それは私の少年期のロマン主義的な感情と共鳴したのだ。
 この絵を見て強い感情が惹起されたことに驚いたのは、当の昔に消えてしまったと思い込んでいたロマン主義に感動する感覚が私の内部に生き残っていたことに驚いたという意味が強い。
 木々の太い幹がそれに寄りかかるロザリンドの可憐さを強調しているように見え、男装しているとはいえ不幸な道行が画面全体に漂っているようにさえ思ってしまう。いわば、この絵の持つ物語性に過剰に反応してしまう何かが私の中でいまだ蠢いているようなのだ。


【左】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《シビラ・アルミフェラ》1865-70年、油彩・カンヴァス、
98.4×85cm (図録、p. 49)。

【右】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《パンドラ》1878年、カラーチョーク・紙、
100.8×66.7cm (図録、p. 51)。


【左】ジョン・エヴァレット・ミレイ《良い決心》1877年、油彩・カンヴァス、110×82.2cm 
(図録、p. 39)。

【右】チャールズ・エドワード・ペルジーニ《シャクヤクの花》1887年に最初の出品、油彩・カンヴァス、
77.4×59cm (図録、p. 81)。

 ラファエル前派の絵画全体がそうではないのを承知の上で、「華やか(ときとして艶やか)な雰囲気」を感じたのは、先のテート美術館展でのロセッティの一連の女性の肖像画を見たためである。なかでも、図録の表紙にも採用されていた《プロセルピナ》などは、女性美の追求の最たるものであろう。
 しかし、今回のロセッティ作品にはそれほどの「華やか(ときとして艶やか)」さを感じない。描かれた絵が美しいかどうかということと、描かれた女性が美しいかどうかというのはまったく別の次元の話であるが、どうしてもその分別がつかないまま絵を眺めてしまう。
 それは、ミレイやペルジーニの女性像と比べてみればよく理解できる。ありていに言えば、私はロセッティの描く女性よりも、《良い決心》や《シャクヤクの花》の女性(像)が好もしいのである。ミレイやペルジーニの描く女性がロセッティの描く女性よりも美しいと思えるのは、モデルの女性の問題ではなくて、画家が女性の美しさをどうとらえているかということに他ならない。だから、これは女性の好みではなくて、絵そのものの好みだと思いたいのである。

 好みの問題はさておいて、ロセッティの絵の訴求力の源は何だろうかと考え込むのだが、よくわからない。《シビラ・アルミフェラ》にせよ《パンドラ》にせよ、よく理解できない物語性が女性の美しさとあいまって独特の雰囲気を作っているようだ。
 《シビラ・アルミフェラ》の図録解説(p. 81)によれば、それは絵の持つ象徴性によるらしい。例えば、女性が右手に持つヤシの葉は美の勝利の証であるという。しかし、それは女性に与えられたものか、誰かに与えようとしているのは不明のままその判断は鑑賞者に委ねられている。また、背後の左右の柱には「愛」と「死」の象徴が彫り込まれているという。
 このように絵の中に描き込まれた象徴性の強い事物とロセッティ流の女性美が共鳴的に醸し出す雰囲気が(象徴の意味を知らなくても)私の目を引きつけるということであるらしい。


上】アーサー・ハッカー《ペラジアとフィラモン》1887年、油彩・カンヴァス、113×184.2cm 
(図録、p. 89)。

【下】ジョージ・オーウェン・ウイン・アバリー《プロクリスの死》1915年、水彩・グワッシュ、鉛筆・紙、
78.9×134cm (図録、p. 95)。

 会場には、裸体画を含め女性の様々な美しい姿態を描いた作品がたくさん展示されていたが、女性の裸身像という点で、《ペラジアとフィラモン》と《プロクリスの死》という二つの作品の比較がとても面白いと思った。
 前者は、チャールズ・キングスレイの歴史小説『ヒパティア』に主題をとり、悔悛して荒野に出て死を迎えたペラジアの葬儀を兄フィラモンが執り行う場面である。後者は、古代神話に主題をとっていて、誤って妻プロクリスを矢で射殺してしまったケファロスが妻の死骸を前に嘆いている場面である。
 描かれる物語は違うが、ともに死んで横たわる女性を裸体として描いて、女性の肢体の美しさを表現している。《ペラジアとフィラモン》では女性の肢体の美しさを強調するかのように死体にポーズをとらせているように見え、一方、《プロクリスの死》では女性は死んだそのままの自然な死体が描かれている。
 そして、私はプロクリスの死体のまっすぐに伸びた右足の美しさに圧倒されたのである。さまざまに美しくポーズをとる女性の肢体を描いた作品群のなかで、私のお気に入りになったのはどんなポーズをとる(とらせられる)こともなく素直にまっすぐに伸びた女性の右足だったのである。


ジェイムズ・ハミルトン・ヘイ《流れ星》1909年、油彩・カンヴァス、64×76.8cm (図録、p. 113)。

 数は少なかったものの、風景画も何点か展示されていた。そのなかでジェイムズ・ハミルトン・ヘイの《流れ星》がとても印象深かった。図録からスキャンした画像では判然としないが、中央左寄りに微かに流れ星の飛跡が描かれている。

 雪原でもあろうか、白い大地と暗黒の空の境に人家が描かれている。その中の一軒から黄色い灯がこぼれている。雪原の右端には何本かの木立も描かれている。私は、光がなければ成り立たない絵画において、こういう漆黒の闇というべき風景を描こうと思い立った画家の心性に驚いたのである。


【上】ジョン・エヴァレット・ミレイ《春(林檎の花咲く頃)》1859年、油彩・カンヴァス、113×176.3cm 
(図録、p. 31)。

【下】ジョン・ウィリアムス・ウォーターハウス《デカメロン》1916年、油彩・カンヴァス、101.5×159cm
 (図録、p. 143)。

 群像を描いたラファエル前派初期のミレイ作品と後期のウォーターハウスの作品の比較も興味深くて、《春(林檎の花咲く頃)》と《デカメロン》を並べてみる。
 ミレイの《春(林檎の花咲く頃)》は、家族や知人たちが林檎の花が咲く果樹園に集っている様子が描かれている。ここには、ラファエル前派が多く描こうとした神話的な物語はなく、強いて言えば、横たわる女性の頭上の鎌が家族(あるいは友人)の上に降りかかる運命を暗示していることが目立つくらいである。
 また、人物の姿勢もどこか硬質で、自然の忠実な描写という点においても、物語性と同様にラファエル前派が目指した傾向や主義、手法からの逸脱が見られるように思う。
 それと比べれば、ジョン・ウィリアムス・ウォーターハウスの《デカメロン》に描かれる人物像はより自然である。とくに女性像は、ロセッティの描く女性を思わせて、いわばラファエル前派の本流を行くような印象を受ける。そして、正直に言えば、《デカメロン》の前に立ったとき、そのあまりにもラファエル前派のど真ん中という印象は、その描写力の確かさにもかかわらず凡庸性という感覚に結びついたのだった。
 しかし、じっさいには《デカメロン》はそのタイトルにもかかわらず、『デカメロン』という物語を暗示する象徴性がほとんどないと図録解説は指摘したうえで「明白で即座に理解可能な物語性の忌避を信条とする唯美主義の典型的な作例」(p. 142)だと評している。つまり、ウォーターハウスにおいても、方向は違えども、ミレイと同じように絵画性の追求によって「ラファエル前派」性からの逸脱が見られるということらしい。
 そうした逸脱は、考えてみれば当然のことだ。「〇〇派」とか「▽▽主義」と括られても、それぞれの集団の芸術思想や手法のど真ん中というのはごくごく抽象的な概念で、それぞれの画家はそれを共有しつつもそこから逸脱する自我を有していて、それこそが個性であり才能であるだろう。だから、ど真ん中そのものという印象が凡庸性という印象と結びつくのはあながち間違いではないのである(と、私の鑑賞力の弁解をしてみる)。


ジョージ・フレデリック・ワッツ《十字架下のマグダラのマリア》1866-84年、
油彩・カンヴァス、103×77.5cm (図録、p. 119)。

 私にとって、この美術展の最大、最良の収穫はジョージ・フレデリック・ワッツの《十字架下のマグダラのマリア》を見たことである。マリアの背後の柱の上には磔刑のキリストがいる(はずである)。ここに描かれているのは、もはや美しさではない。
 〈悲哀〉そのものの具現化としてのマリアである。力を失った腕、死せるキリストを見上げているというよりも、中空の〈絶望〉から目が離せなくなったように仰向く顔。哀切そのものの実存性。私にはそう思えるのである。
 かつて私は、しばしば主題として描かれるマグダラのマリアの改悛や苦悩のなかに見るマリアの美しさばかりを気にしていた。だれだれが描いたマグダラのマリアが一番美しいなどと考えていたのだ。愚かである。

 

[1] 『ラファエル前派展 ―英国ヴィクトリア朝絵画の夢』(朝日新聞社、2012年)
[2] 小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年)
[3] 『英国の夢 ラファエル前派展』図録(以下、『図録』)(有限会社アルティス、2015年)。 


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『ボッティチェリ展』 東京都美術館

2016年02月15日 | 展覧会

【2016年1月27日】

 ボッティチェリといえば《ヴィーナスの誕生》と《春(プリマヴェーラ)》である。というよりも、有名すぎるこの二作品くらいしか思い出せない。残念ながら、今回の展覧会ではこの二作品は展示されていない(二作品にばかり目を奪われることがなく、ほかの作品を楽しめるという意味ではよかったのかもしれない)。
 『ボッティチェリ展』と銘打っているが、メディチ家が栄えた1400年代のフィレンツェ美術展であり、実質的には、その時代を代表するフィリッポ・リッピ、サンドロ・ボッティチェリ、フィリッピーノ・リッピの三人展である。フィリッポ・リッピはボッティチェリの師匠である。フィリッピーノ・リッピはフィリッポ・リッピの子だが、ボッティチェリの弟子であり、ライバルでもあったという。
 当然のことながら、展示作品はその時代を反映して圧倒的に宗教画が多く、なかでも聖母子像が会場を圧倒していた。


【左】フィリッポ・リッピ《聖母子》1436年頃、テンペラ/板(新支持体に移し替え)、27.3×21cm、
ヴィチェンツァ銀行 (図録 [1]、p. 71)。

【右】フィリッポ・リッピ《玉座の聖母子と二天使、聖ユリアヌス、聖フランチェスコ》1445-50年、
テンペラ/板、73×47.9cm、ロンドン、ピッタス・コレクション (図録、p. 81)。

 父リッピ(フィリッポ・リッピ)は、フィレンツェのカルメル会サンタ・マリア・デル・カルミネ修道院の「信仰心の乏しい修道士」(図録、p. 67)だったというが、彼の描く聖母子像はどちらかといえば硬質な感じがして、超越的な(聖別化された)存在として描くことに主眼が置かれていたかのように思える。意外なことだったが、人間の姿をした聖母子といえども、信仰心が強ければ強いほど聖別化が強調され、人間臭さが払底されるのではないかと、私は想像していたのである。
 《玉座の聖母子と二天使、聖ユリアヌス、聖フランチェスコ》の人物配置はきわめて古典的で、さらに多くの人物が描かれている《聖母子と天使たちおよび聖人たちと寄進者》や《玉座の聖母子と天使および聖人たち》もまた聖母子を中心として対照的に人物が配されている。
 このような構図はとても静謐な安定感がある。大作でもあれば教会や聖堂に架けられるべきものであろうが、どれもそれほど大きくはないので私的な信仰の小部屋で静かに見つめるのがふさわしいような絵である。


サンドロ・ボッティチェリ《聖母子(書物の聖母)》1482-83年頃、
テンペラ/板、58×39.6cm、ミラノ、ポルディ・ペッツォーリ美術館 
(図録、p. 115)。


【左】サンドロ・ボッティチェリと工房《聖母子、洗礼者聖ヨハネ、大天使ミカエルと大天使ガブリエル》1485年頃、
テンペラ/板、直径115cm、フィレンツェ、パラティーナ美術館 (図録、p. 121)。

【右】サンドロ・ボッティチェリと工房《聖母子と四人の天使(バラの聖母)》1490年代、テンペラ/板、
直径110cm、フィレンツェ、パラティーナ美術館 (図録、p. 129)。

 例えば、ボッティチェリの《聖母子(書物の聖母)》をみると、ボッティチェリが親リッピの弟子とはとても思えないほどである。一瞬はラファエロの柔らかさに近いと感じたのだが、全体を眺めた後ではラファエロ寄りというよりも親リッピにやや近い気もする。強引な言い方だが、聖別化した超越的な親リッピの母子像にラファエロ的な人間的な美しさを加えたようで、「神聖」と「美」の共在が成功しているという印象を受ける。
 マリアの崇高な表情に比べて、マリアを見上げるイエスは母親を見上げる幼児そのものである。親リッピの《聖母子》でもマリアの顎に手を伸ばして触れているイエスのしぐさに幼児らしさが顕われている。いわば聖性の破調のようなイエスの姿が、このような聖母子像の魅力の一つだろう。
 聖書や神話を描いた絵画では寓意としての事物が描かれることが多い。キリスト教文化の圏外で生きてきた私などにはなかなかに寓意を読み取るのは難しい。そのような寓意や象徴の意味を知らなくてもけっこう楽しめるのでつい無視してしまうが、知っている方がいいには違いない。
 この美術展の目玉の一つである《聖母子(書物の聖母)》も例外ではない。図録解説に次のようにある。 

……キリストは左手に金鍍金された3本の小さな釘を持ち、やはり金鍍金された茨の冠を腕に通し、将来の受難を暗示している。受難の象徴は、明快かつ幾何学的に配置された背後の静物モティーフにも見ることができる。木箱の傍らにあるマヨリ力陶器の鉢には、キリストの血を暗示するサクランボ、聖母の甘美を示すプラム、キリストの救済と再生を象徴するイチジクなどが盛られている。ここでは「聖母の読書」という主題が、「キリストの受難についての瞑想」という主題と重ね合わされているのだ。 (図録、p. 114)

 《聖母子、洗礼者聖ヨハネ、大天使ミカエルと大天使ガブリエル》と《聖母子と四人の天使(バラの聖母)》は、《聖母子(書物の聖母)》と比べれば様式度が高い。それは描かれる像が多いこととも関連するだろうが、トントと呼ばれる円形の絵を高価な額縁で飾って公共施設や個人の邸宅を飾る(図録、p. 120)ためにボッティチェリの工房で多く制作されたためではなかろうか。複数の人間の共同作業で製作されるためには、様式化することが必然だったのだと推測するのである。


【左】フィリッピーノ・リッピ《幼児キリストを礼拝する聖母》1478年頃、テンペラ/板、96×71cm、
フィレンツェ、ウフィツィ美術館 (図録、p. 181)。

【右】フィリッピーノ・リッピ《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち(コルシーニ家の円形画)》1481-82年頃、
テンペラ/板、直径173cm、フィレンツェ、フィレンツェ貯蓄銀行コレクション (図録、p. 187)。

 子リッピの《幼児キリストを礼拝する聖母》は、ボッティチェリの強い影響が指摘されている絵である。一見して、ボッティチェリの《聖母子(書物の聖母)》と比較しうる絵であることは明らかだが、図録解説(p. 181)によれば、主題そのものや構図がボッティチェリの《幼児キリストを礼拝する聖母と洗礼者ヨハネ》という作品と似ており、また前景の花々の描き方がボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》と共通しているという。
 聖母子像としての美しさはボッティチェリの《聖母子(書物の聖母)》に分があると思うのだが、それほど多いとは言えないものの私がこれまで見た限りでの聖母子像のなかで、このフィリッピーノ・リッピの《幼児キリストを礼拝する聖母》に描かれたマリアの美しさは屈指のものである。
 《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち(コルシーニ家の円形画)》は、ボッティチェリの円形画(トンド)と同じようにやや様式的である。私がこの絵の中でもっとも興味があったのは、右端に聖母子から遠く離れて小さく描かれた聖ヨハネ像である。この聖ヨハネ像は、絵が完成したのちに描き加えられたものだという。聖母子像にはお決まりの聖ヨハネ、などという程度の意味で加えられたにしては、聖ヨハネを含む聖母子像の作例から大きく外れている。もちろん理由が見えてくるはずもないのに、何か特別な意味があるのかとしばらく見入ったのだった。


サンドロ・ボッティチェリ《聖母子と洗礼者ヨハネ》1500-05年頃、
油彩/カンヴァス、134×92cm、フィレンツェ、
パラティーナ美術館 (図録、p. 161)。

 聖ヨハネに関して言えば、ボッティチェリの《聖母子と洗礼者ヨハネ》も興味深い。子リッピの《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち(コルシーニ家の円形画)》には成人した聖ヨハネが描かれているが、ここでは少年の姿をしている。

 本作品は一見、フィレンツユで当時よく描かれた洗礼者聖ヨハネをともなう聖母子像であるが、そこには大変興味深い仕掛けが施されている。マリアはイエスの体を下方のヨハネに委ねようとしているが、傍らには聖ヨハネの長い葦の十字架があるため、イエスの体の下降とあいまって、磔刑のイエスを十字架から降ろす、受難伝中の「十字架降下」を暗示する構図になっているのである。本図は未来のイエスの受難を予告しており、マリアの物憂げな表情は息子の運命を知る彼女の心境を反映してのものといえるのかもしれない。画面左端、マリアの背後にはバラの茂みがあり、赤いバラの花が咲いているが、この花はマリアの慈愛を象徴するとともに、殉教の象徴でもあることから、受難を暗示する本作品にはまことにふさわしい。 (図録、p. 160)

 マリアとイエスは自らの運命のすべてを知っているかのように感情を示すことのないまったく同じような無機的な図像なのに、目を見開きイエスを抱え込もうとしている少年ヨハネは、イエスの運命を懸命に引き受けようとしている。そう見えるのは、決して私のヨハネ贔屓のせいばかりではないだろう。


フィリッピーノ・リッピ《洗礼者ヨハネ》、《マグダラのマリア》(ヴァローリ三連画の両翼画)
1497年頃、テンペラ/板、133.5×37.5cm、133×37.7cm、フィレンツェ、
アカデミア美術館 (図録、p. 199)。

 聖母子像の登場するヨハネはイエスよりやや年長の幼児として描かれるというのは、私の思い込みに過ぎないようだ。子リッピの《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち(コルシーニ家の円形画)》では成人したヨハネだったし、上の《聖母子と洗礼者ヨハネ》ではイエスよりずっと年長の少年である。さらにボッティチェリの《聖母子と聖コスマス、聖ダミアヌス、聖ドミニクス、聖フランチェスコ、聖ラウレンティウス、洗礼者聖ヨハネ(《トレッビオ祭壇画》)》でも成人として描かれている。
 しかし、このように思いめぐらしているヨハネ像は、子リッピの《洗礼者ヨハネ》でどこかへ飛んで行ってしまった。キリストをめぐる悔悛者であるヨハネとマグダラのマリアを、悔悛者であるがゆえにこのように描いたものらしい。聖母子に寄り添う清純な幼児(ないしは少年)としてのヨハネや、荒野で悔悟する美しいマグダラのマリアなどではないのだ。これは、15世紀後半のフィレンツェでフェッラーラの修道士が唱えて広まった「厳格な禁欲と贖罪の原理を反映している」(図録、p. 198)のだという。聖書で語られる聖人もまた、時代時代の流行によってイメージが激変するということらしい。


サンドロ・ボッティチェリ《アペレスの誹謗(ラ・カルンニア)》1494-95年頃、テンペラ/板、
62×91cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館 (図録、p. 141)。

 《アペレスの誹謗(ラ・カルンニア)》は、古代ギリシアの「画家アペレスが描いたとされる現存しない作品について、その復元を試みた」(図録、p. 140)絵であるという。
 この絵は、恐るべき寓意の塊のような絵である。図録解説を引用しておく。

 この主題は、誹謗中傷にあった人物の悲惨さを寓意的に描いている。画面全体は多くの擬人像によって構成される。松明を手にした美しい女性として表される「誹謗」は、祈るかのように手を合わせる若い青年姿の「無実」の髮を掴んで、玉座に座す大きな耳の「不正」のもとに引きずっていく。 「誹謗」の左手を取る貧しい身なりの男は「憎悪」。「不正」の耳元で彼に何かをささやく二人の女性は「無知」と「猜疑」。また「誹謗」の後ろで彼女に仕える二人の女性は「欺瞞」と「嫉妬」である。その後方の振り返る黒衣の老婆は「悔悟」、一番後ろで一人孤立して天を指差している裸体の女性が「真実」である。 (図録、p. 140)

 何が何のアレゴリーであるか、絵を見て即座に判断するのは難しい。かつて、その類の本を購入して読んでみたことがあったが、まったく身につかなかった。
 この絵を挙げた最大の理由は、左端に描かれた「真実」が、上にあげた手を胸に当てれば、《ヴィーナスの誕生》に描かれたヴィーナスの美しい肢体そのものであることによる。ただし、顔はまったくの別人である。


ルネ・マグリット《レディ・メイドの花束》1957年、油彩/カンヴァス、163×130.5cm、
大阪新美術館建設準備室 [2]。

 《ヴィーナスの誕生》へのいわばオマージュとして《アペレスの誹謗(ラ・カルンニア)》を挙げてみたので、《春(プリマヴェーラ)》に対してはルネ・マグリットの《レディ・メイドの花束》を挙げておこう。
 『マグリット展』を見た私の感想のなかの1節を引用して、オマージュのオマージュとする。

 山高帽を被ったコートの男性がバルコニーに立って庭(の林)を向いている。その背中に配されているのはボッティチェリの《春》に描かれている女神フローラである。《レディ・メイドの花束》には、どこにでもいるような紳士が描かれている(《ゴルコンダ》ではそのような男が群衆として無数に描かれている)にもかかわらず、きわめて鮮明な印象を与える。それは、ボッティチェリのフローラを背負う男としての不思議から来る。
 「背負う」と書いたが、ほんとうに男とフローラは何らかの関係があるのだろうか。もしかしたら、男は漫然とバルコニーに立っているに過ぎず。異次元空間に出現したフローラを意匠として男の背後に描いただけかもしれない。

 

[1] 『ボッティチェリ展』図録(以下、『図録』)(朝日新聞社、2016年)。
[2] 『マグリット展』(以下、図録)(読売新聞東京本社、2015年)p. 229。


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『ピカソ展 ルートヴィヒ・コレクション』 宮城県美術館

2015年12月16日 | 展覧会

(2015年12月15日)

 エドワール・マネは「現代絵画の歴史を開いた」画家だと、ミシェル・フーコーは評価し、時代の最初に位置付けたが、マイケル・フリードは、逆に、「エピステーメー」の最後に位置していると評している [1]。いずれにしても、マネは絵画の変革のはざまを生きたわけだが、ピカソはどうなのだろう。
 若いころ、ピカソのキュビズムの革新性にとても驚いた記憶がある。絵画の革新性に加え、《ゲルニカ》によってピカソは絵画に歴史(政治の現代性)を付け加えたように思っていた。どこか時代を画した芸術家だという印象を抱いていたが、ピカソの時代はまたシュールレアリスムや抽象絵画などの多様な現代アートが展開した時代でもあって、時間軸で区切って「ピカソの前後」というイメージは私の中ではなかなか成立しにくい。主催者挨拶にあるように「既存の美術の概念を打ち破り、大きな転換をもたらした20世紀最大の芸術家の一人」という評がわかりやすいし、無難ともいえるだろう(無難というのは、そこに強い主張があるわけではないという不満が残るけれども、私にも言いたい何かがあるわけでもない)。


《貧しい食卓》1904年、エッチング・紙、46.4×37.8cm、
宮城県美術館 (図録 [2]、p. 29)。

 二つの彫刻作品の後に展示されていた最初の絵(版画作品)が《貧しい食卓》で、ピカソのキュビズムばかりを念頭に置いて会場に足を踏み入れた身にはちょっとばかり驚きだった。
 ピカソは、社会的な弱者に共感のまなざしを向けていたといわれているが、《貧しい食卓》でも、マニエリスムを思わせる細長い身体がことさら貧しい暮らしの悲哀を際立たせているようだ。とくに、女性の肩にかけられた男性の長い左手指、女性の右ひじを支える長い右手指は、女性の悲しみを包み込み、癒すためには、あたかもそれほどの長さが必要なのだと主張しているように見える。
 それほどに二人が共有する悲哀は深いのだと感じ入っていたのだが、図録解説には、「顔を背け、交わることのない視線が、愛の複雑さと孤独を感じさせる」(p. 28) とあって、もう少し事情は複雑なようである。


《手を組んだアルルカン》1923年、油彩・カンヴァス、130×97cm、
右下に署名・年記、ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 37)。

 1923年(42歳)は、キュビズムに取り組み始めてから15年以上も経っている。その時期に《手を組んだアルルカン》のような「端正な」作品が描かれたていたのである。
 影や色彩の配置にキュビズムらしい雰囲気が残るが、線描も淡い色彩も、端正な人物像をいっそう際立たせていて、いかにも「新古典主義の時代」の作品らしい。


『ヴォラールのための連作集』97《夜、少女に導かれる盲目のミノタウロス》1934年、
アクアチント・紙、24.7×34.7cm、右下に署名、
北九州市立美術館 (図録、pp. 48)。

 『ヴォラールのための連作集』は、画商であるアンブロワーズ・ヴォラールのために作成した銅版画集で、エッチングやアクアチントの作品のほかに原版も展示されている。
 線描のエッチング作品が多い中で、アクアチントの《夜、少女に導かれる盲目のミノタウロス》に目を惹かれたのは、黒の濃淡のみで描かれたミノタウロスの肉体の質感である。全体は、線描と濃淡の陰影の混在で描かれているだけに、主題のミノタウロスが印象深く描かれている。


《ノートルダムの眺望―シテ島》1945年、油彩・カンヴァス、80×120cm、
右下に献辞・署名、裏面に年記、ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 57)。

 《ノートルダムの眺望―シテ島》は、キュビズムの風景画である。建築物にキュビズムはとても親和性がある、そう感じさせる作品だ。川もアーチ状の橋脚も背景の空も、すべて調和するように配されているピカソ・キュビズムの描写力に驚く。
 色彩が暗鬱なのは、1945年という第2次世界大戦の最後の年を反映しているのではないかという。


《長い顔の長方形皿》1948年、ファイアンス、浮彫文様、
化粧土による下絵付、58×37cm、ルートヴィヒ美術館
 (図録、p. 63)。

 たくさんの陶芸作品も展示されていたが、壁に掛けられて展示されていた《長い顔の長方形皿》を、皿としてではなく壁掛け陶板だと思い込んで眺めていた。
 ほかの作品と比べて、あまり絵付けが施されていないこの作品が私の好みである。右を向く横顔の優し気な表情や、正面を向く好奇心旺盛な感じの顔だとか、とてもシンプルな構成なのに見飽きないのである。


【左】《窓辺の女》1952年、アクアチント・紙、90×63.5cm、ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 67)。
【右】《読書する女の東部》1953年、油彩・合板、45.8×38cm、右下に署名、裏面に年記、
ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 71)。


 《窓辺の女》と《読書する女の東部》は、私が想像していた典型的なキュビズム作品と比べれば、とても表現が温和である。
 《窓辺の女》では、女性の表情の柔らかさ、ふくよかさがとても率直に表現されているし、《読書する女の東部》に描かれる女性の知性的な顔立ちが際立って表現さていると思う。そこには、間違いようのない二人の女性の魅力が描かれている。


【左】マン・レイ《パブロ・ピカソ、1955年》1955年、ゼラチン・シルバー・プリント、22.8×13.7cm、
ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 110)。

【右】アンドレ・ヴィレール《パブロ・ピカソ、カンヌ、1955年》1955年、ゼラチン・シルバー・プリント、
37.3×27.3cm、ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 125)。

 展示の後半は、「被写体 ピカソ」と名付けられたコーナーでピカソを写した写真が多数展示されていた。ピカソの作品ではなく、作品となったピカソである。
 中から、2枚の写真を選んでみた。偶然のことだったが、どちらも1955年、ピカソ74歳の写真である。二つの作品とも、私の中のピカソという天才のイメージに近いのだ思う。とくに、ピカソの目、まなざしはとても印象深い。40枚を超える写真作品が展示されていたが、そのどれをもピカソの目の表情を追いかけるようにして眺めたのである。

 

[1] ミシェル・フーコー『マネの絵画』 (阿部崇訳) (筑摩書房、2006年) p. 92。
[2] 『ピカソ―ルートヴィヒ・コレクション』(以下、図録)(ホワイトインターナショナル、2015年)。

 


 

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『ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち』展 パナソニック汐留ミュージアム

2015年11月14日 | 展覧会

【2015年11月14日】

 こんなことを書くのはいささか口惜しい気がするが、正直なところ、ゴーギャンの絵は得手ではない。好きでも嫌いでもないのだ。世界的に評価されている画家の絵に感動しない自分の美的センスを疑うが、こればかりは修正もごまかしもきかない。
 ただ、この美術展はぜひ見たいと思った。「ポン=タヴァンの画家たち」というタイトルに惹かれたのだ。ポン=タヴァンの画家たちという私のよく知らない画家たちの作品に出会えるだろうという期待である。


ポール・ゴーギャン《ポン=タヴァンの木陰の母と子》1886年、油彩・カンヴァス、
93×73.1cm、ポーラ美術館 (図録 [1]、p. 30)。

 のっけからの困惑である。《ポン=タヴァンの木陰の母と子》には、森の小径で休息する母子が描かれている。二人の前には、小道の右端から切れ落ちた低地に広がる林が広がっている。
 そのような空間把握でいいのだと結論づけたのは、この絵を見始めてからしばらくたってからである。斜めに走る小道の右端が切れ落ちていて、広がる林が低地になっていると受け取ることができず、それでいながら、右手の木々の根元は確かに低い位置に見えることにしばらく途惑っていたのである。
 上の結論にも一抹の不安はあって、帰宅して図録を眺めてもう一度自分を納得させたのである。作品を味わうプロセスが、描かれた風景の空間把握の作業にないがしろにされてしまったような気がして心残りがしたのだった。
 ゴーギャンがあまり遠近法に拘っていないことは知っているつもりだったが、自分があまりにも古典物理学(ニュートン物理学)な時空把握から抜け出せていないのではないかなどと考えた。そういえば、量子論を習い始めた頃、その物理的世界像をイメージできなくてだいぶ悩んだことがある。キアロスクーロのような古典的な描法を好みとする鑑賞力が近代絵画についていけない、ということにすぎないのかもしれないが……


ポール・ゴーギャン《ブルターニュの子供》1889年、パステル、水彩・紙、26.3×38.21cm、
福島県立美術館 (図録、p. 43)。

 《ブルターニュの子供》ではもう悩まない。ゴーギャンらしい平板さをそのまま受け止めることができるし、少女のスカートの色彩を楽しむことができる。ゴーギャンが人物を描くと、人間たちが醸し出す雰囲気は「ゴーギャン的雰囲気」としか呼べないような独特な画調が顕われてきて、いつも不思議に思う。


ジャン=ベルトラン・ペゴ=トジェ《昼寝》1911-12年、油彩・カンヴァス、88×130cm、
カンペール美術館(ロリアン美術館寄託) (図録、p. 93)。

 ペゴ=トジェの《昼寝》はとても印象的である。「総合主義」の画家らしい太い輪郭線の絵である。《昼寝》する男性の寝姿というか、ズボンやシャツの質感がとてもいい。太めの輪郭線なのに、衣服の柔らかさを通じて肉体のしなやかさを表現しているようだ。上部の木々によって区切られた遠景のオレンジ色の夕焼け空も印象的な作品だ。
 手前から向こうに連なっている石積の塀の距離観とこちらを向いている女性の距離観が違うように見える。石積塀を急速に小さくなるように描いた効果かもしれないが、距離からみれば婦人座像はやや大き過ぎるように感じる。こうした奥行き感のアンバランスな表現は、昼寝をする青年への女性の興味の強さを象徴してでもいるのだろうか。ちょっとした遠近感のアンバランスも含めて、太めで柔らかい線描輪郭が印象的な作品である。


【左】エミール・ベルナール《会話(ステンド・グラスのエスキス、サン=ブリアック)》1887年、
水彩・紙、28.4×21cm、ブレスト美術館 (図録、p. 49)。
【右】ポール・セリュジュ《先頭アーチの風景》1921年、油彩・カンヴァス、105×65cm 
(図録、p. 103)。

 私はあまりゴーギャンやポン=タヴァンの画家たちが唱えた「総合(統合)主義」を理解してはいないのだが、奥行きの感じられない平面的な表現や太い輪郭線と平塗りという特徴を極端にすればステンド・グラスのようになる。そんなふうに思っていた私の前に《会話(ステンド・グラスのエスキス、サン=ブリアック)》の展示が現われたときには、いくぶんその偶然に驚いたが、大いに納得もした。
 《会話(ステンド・グラスのエスキス、サン=ブリアック)》と比較すると、セリュジュの《先頭アーチの風景》の不思議な魅了が理解できそうだ。先頭アーチで区切られた風景は、リアルな遠景であると同時に、先頭アーチを外枠として太い輪郭線で区切られた1枚のステンドグラスのようにも見える。実際にはもう少し複雑で、手前の高い緑の木と紅葉する木が大きなステンドグラスの前にあるようにも見え、平面の重なりが奇妙で魅力的な空間を構成しているように感じる。


【左】ポール・セリュジュ《呪文或いは物語 聖なる森》1891年、油彩・カンヴァス、
91.5×72cm、カンペール美術館 (図録、p. 49)。
【右】ジョルジュ・ラコンブ《赤い土の森》1891年、油彩・カンヴァス、71×50cm、
カンペール美術館 (図録、p. 69)。

 《呪文或いは物語 聖なる森》や《赤い土の森》の幻想的な森の表現に、平面的な描法がとても効果的である。平塗りのせいか、どちらの作品も日本画的なフレーバーを強く感じる。
 この森の幻想性を描いた2作品は、ルネ・マグリットの《白紙委任状》[2] という森の中を行く騎手と馬の像を描いた騙し絵風の作品を思い起こさせる。そこでは、樹幹に隠れているはずの姿が見え、樹間から見えるはずの姿が消えている。人間の寿命をはるかに超える木々が群生する森は、いつでも私たちにとっては幻想の源泉なのかもしれない。


シャルル・フィリジエ《ル・プールデュの風景》1892年、グワッシュ・紙、
26×38.5cm、カンペール美術館 (図録、p. 62)。

 「シュルリアリズムの先駆者」(図録、p. 60)と呼ばれたシャルル・フィリジエの「真の代表作」(p. 62)と評されているのが《ル・プールデュの風景》である。輪郭線と平塗りには違いないが、他の総合主義の画家たちとは大いに異なっている。
 木立の上に立ち上がっている奇妙なものが大きな樹木であることを理解するのにそれなりの間があったし、鳥が飛んでいると思ったのはヨットで、背景が空ではなく海であることを知り、そして上端の灰色が装飾枠ではなく空であることをやっと知るのである。絵の前でそんなふうに時間が進んだ。
 これはたしかに風景画だが、輪郭線と平塗りを徹底していく先に見えてくる抽象の美への道筋を示している作品に違いない。それが抽象画の世界か、超現実主義の世界か、私には分からないけれども


マキシム・モーフラ《黄色い黄昏、海岸の泥炭地、ロクテュディ》1898年、
油彩・カンヴァス、51.5×65cm、カンペール美術館 (図録、p. 75)。


マキシミリアン・リュス《岩石の海岸》1895年、油彩・板、25×40cm、
カンペール美術館 (図録、p. 113)。

 《黄色い黄昏、海岸の泥炭地、ロクテュディ》も《岩石の海岸》も海岸の風景画である。泥炭地というものをまったく知らない私は、それの様子を知りたくてモーフラの作品に見入ってしまったのだが、泥炭地の実態が理解できるはずもなく、潮が引いて複雑な模様を見せる浅瀬に残された小舟の影などを眺めていたのである。
 マキシミリアン・リュスの絵については、今年の1月に『新印象派展』(東京都美術館)で《海の岩》や《工場の煙突》など数点の作品を見る機会があった。新印象派の点描の画家という括りであったが、点描でありながら筆致の力強さにうたれた記憶がある。
 《岩石の海岸》は小品というためか、必ずしも点描というわけではないが、筆致の力強さと色彩の大胆な変化など、以前に見た作品と同じような印象を受けて好もしい。


フェルディナン・ロワイアン・デュ・ビュイゴドー《藁ぶき家のある風景》1921年、
油彩・カンヴァス、81.5×60.5cm、カンペール美術館 (図録、p. 91)。

 《藁ぶき家のある風景》は、絵のど真ん中に太陽を配するという大胆さとその色彩の美しさにうたれた美術展で1番のお気に入りの作品である。絵の大半を空が占め、空の上部は青空へ、下部は夕焼け(あるいは、朝焼け)へと染まっていく。
 主題はあきらかに太陽が沈む(あるいは、昇る)時間帯の空気だと思うが、下部に小さく描いた藁ぶき家をタイトルに持ってくることも好もしく思える。
 ビュイゴドーはまったく初めての画家だが、図録解説に「点描主義と分割主義を混同した独自の道をたどって進んだため、絵画の核心からは遠ざかったままだった」とか、1921年制作の本作品は「かなり伝統的な印象主義のタッチ」(図録、p. 91) で描かれているという評があった。とすれば、私がビュイゴドーの他の作品に出会うことはもうほとんどないと思われる。貴重な1枚ではある。

 

[1] 『ゴーギャンとポン=タヴァン展』(以下、図録)(ホワイトインターナショナル、2015年)。
[2] 『マグリット展』(読売新聞東京本社、2015年) pp. 230-31。
[3] 『新印象派――光と色のドラマ』(日本経済新聞社、2014年) pp. 118-23。

 

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『マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展』 東京都美術館

2015年11月13日 | 展覧会

【2015年11月13日】

 東京都美術館で『モネ展』があると知ったとき、それを見に行くことに一瞬の躊躇があった。理由は二つほどあって、その一つは、予想される混雑のことである。若い頃から「人酔い」をする質なのだ。学生時代、東京という街を見たくて二度ほど出てみたが、人酔いで早々に仙台に引き返したことがあった。退職後、東京の街歩きをするようになって、街中の混雑では人酔いをすることはほとんどなくなったが、室内での人混みにはまだ自信がない。
 もう一つの理由はとてもつまらないことで、それに思い当たって我ながらがっかりした。最近は美術展を見た感想をブログに書くのを慣らいとしている。モネは有名だし、見る機会も多くて、書くべきことがありそうにない、というのがためらいの理由になっていた。書くことがなければ、ブログを書かなければすむことで、まったくの本末転倒である。
 取るに足りない戸惑いでモネの絵がたくさん展示されている美術展を見ないなどという選択肢はありえない。とはいえ、JR上野駅公園口から美術館に向かう人の列の中で少し気後れしているのは確かなのだった。

 〈「印象、日の出」から「睡蓮」まで〉という惹句が添えられた美術展だが、《印象、日の出》の展示は終わっていて、後期は《ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅》が展示されていた。じつは、このような目玉作品はあまりあてにはしていないのである。いつか、フェルメールの作品一点を目玉にした美術展で、作品前に群がる人々の背後からちらっと眺めて終わりにしたことがあった。そのときと同じように、《ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅》の前は格段の人だかりである。それでも、なんとか満足する程度にながめることができた。


《ポリーの肖像》1886年、油彩・カンヴァス、74×53cm
 (図録 [1]、p. 89)。

 展示は、「家族の肖像」のコーナーから始まっていたが、人物画としては次のコーナー「モティーフの狩人I」に展示されていた《ポリーの肖像》がよかった。
 モネが1886年に訪れたベリール島で、モネの世話をした漁師の肖像だという。質素な身なりで、どんな気構えもない純朴そうな人物がすっとまっすぐにこちらを見ている。
 とても希有なことだが、その瞳に見つめられると思わずたじろいでしまうほどにイノセンスを体現している人間がいる。イノセントな聖性とでも呼べばいいのだろうか。ポリーなる漁師もそのような人間に見える。もちろん、それはそのようなイノセンスを描ききることのできるモネの画力にほかならないのだが。 


《ヨット、夕暮れの効果》1885年、油彩・カンヴァス、54×65cm (図録、p. 87)。


《オランダのチューリップ畑》1886年、油彩・カンヴァス、54×81cm (図録、p. 91)。

 《ヨット、夕暮れの効果》も《オランダのチューリップ畑》も中央に帯状に広がる赤色がとても魅力的だ。しかも、二つの作品とも、ほぼ真ん中にヨットと風車が配されている。《印象、日の出》の小舟のような役割を、ヨットと風車が果たしているのであろう。
 細かく筆致が流れる方向に風が吹き、水が流れているようである。リアリズムを超える美の抽象があって、しかもぎりぎりのところで風景画として成立する領域なのではないか、などといくぶん大げさなことを思ってしまう。


《睡蓮》1907年、油彩・カンヴァス、100×73cm 
(図録、p. 102)。

 この《睡蓮》には、驚かされた。どう見ても睡蓮が主題だとは思えないほど、水面に映る夕映えが強烈だ。睡蓮以外は、すべて水面に反射する光景である。
 この《睡蓮》と並べられて展示されていた作品が、下の《睡蓮》である。上図とまったく同じ構図で、夕焼けの空が日中の青空に変わっているだけだ。夕焼けの《睡蓮》を見た後では、こちらの《睡蓮》も水面に映りこむ柳と空が主題ではないかと思えてしまう。


《睡蓮》1903年、油彩・カンヴァス、73×92cm (図録、p. 103)。


《睡蓮とアガパンサス》1914-17年、油彩・カンヴァス、140×120cm
 (図録、p. 107)。


《睡蓮》1916-19年、油彩・カンヴァス、200×180cm (図録、p. 111)。

 《睡蓮》という題にもかかわらず水面に映る光景が主題ではないか、そう思ってしまう作品を見た後で、《睡蓮とアガパンサス》を見るとごく普通にタイトルが主題を表していることに安心する。
 その流れで1916-19年の《睡蓮》を見ると、柳や青空が水面に映りこんではいても、この作品も間違いなく睡蓮が主題であると確信できる。白黄色の小さな睡蓮の花をいくつか描きこむだけで睡蓮が主題となったと思った。ところが、1903年の《睡蓮》にも花は描かれている。ただ、手前から奥までどの睡蓮にも同じように花を描いたことで睡蓮の主題化が薄れたのではないかと推測する。
 しかし、誰かが《睡蓮》と題された作品はすべて睡蓮が主題であると言い切ってしまえば、わたしの感想はまったく意味をなさないのだが、そのように感じたことだけは間違いない。


【左】《ドルチェアクアの城》1884年、油彩・カンヴァス、92×73cm (図録、p. 81)。
【右】《日本の橋》1918-24年、油彩・カンヴァス、89×100cm (図録、p. 129)。

 モネの晩年の作品は、まったくといっていいほど私には言うべきことはないのだが、最後にたくさんの《日本の橋》の中から上の作品を挙げておく。この絵を前にした背広姿の二人連れの片方が「日本の橋らしいが、分からないね」と言っていたのを聞きとがめたというわけではないが、そんなこともあって挙げてみたのだ。
 《ヨット、夕暮れの効果》や《オランダのチューリップ畑》の風景画で感じた風景画として成立するぎりぎりの限界までの抽象がもっと過激に進められた、そんなふうに思える。それでも、明らかに具象画である。
 78歳を過ぎてからのこの作品に、アーチ橋を描いた44歳の作品《ドルチェアクアの城》を並べて、画家の成熟を考えてみたいと思ったが、ことはそう簡単ではない。ただ、風景を描いたターナーもまた晩年になって抽象画と呼んでもいいほどの絵を描いていたことを思い出した。天才的な画家は、この世界の具象のことどもから「美」という抽象をあたかも具体物のように抽出できるかのようである。


 [1] 『マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展』(以下、図録)(日本テレビ放送網、2015年)。

 

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『アルフレッド・シスレー展――印象派、空と水辺の風景画家』 練馬区立美術館

2015年11月12日 | 展覧会

【2015年11月12日】

 アルフレッド・シスレーの絵をまとめて見る機会は、私にとっては初めてだが、印象派関連の美術展が多いせいか、作品を見る機会そのものは多い。最近だけでも、2013年12月に『印象派を超えて 点描の画家たち』展(国立新美術館)、2014年2月に『モネ 風景を見る眼』展(国立西洋美術館)、9月に『オルセー美術館展』(国立新美術館)、2015年3月に『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』(三菱一号館美術館)などで数点ずつのシスレー作品を見ている。
 シスレーは、私にとっての風景画というカテゴリーでイメージする絵画のほぼ中心に位置するもっとも好もしい画家の一人である(ヨンキントやピサロもいい)。プッサンやロイスダール、とくにドイツロマン派などのシスレー以前の風景画には、風景におけるドラマ性が強調されているように思うし、シスレー以後の風景画には風景を越えた美的表現に重心が移っている作品が多い。同時代のクールベの風景画にはリアリズムの持つ厳しさがある。
 シスレーの絵には、感情が揺すぶられるような圧倒的な感動は(正直に言って)ないのだが、心静かに眺めていられる、あるいは日々の暮らしでざらざらしてしまった感情を沈静化してくれるような風景の優しさが湛えられていると思うのだ。


《マルリーの通り》1879年、油彩・カンヴァス、38.0×55.2cm、
岡山、大原美術館 (図録 [1]、p. 30)。

 はじめに、展示作品の中で一番印象に残った(お気に入りになった)作品として《マルリーの通り》を挙げておく。石畳の歩道もあるが、馬車の通る道は土の道である。現代都市のように細々と区割りし、所有権を主張しているような街並みとは異なり、家々の間に大きなスペースを空間の余剰のように残している通りの風景である。
 日本の東北の小さな農村で生まれ育って、フランスなどとはなんの縁もない私にも、この風景はとても「懐かしい」のである。


《マントからショワジ=ル=ロワへの道》1872年、油彩・カンヴァス、46.0×56.0cm、
公益財団法人吉野石膏美術振興財団(山形美術館に寄託) (図録、p. 22)。


《麦畑から見たモレ》1886年、油彩・カンヴァス、51.0×73.0cm、
東京、松岡美術館 (図録、p. 40)。


《ロワン河畔》1891年、油彩・カンヴァス、59.6×57.4cm、
神奈川、ポーラ美術館 (図録、p. 42)。

 いつの頃からか判然としないずっと若いときから、洋画における風景画というと楡やポプラの並木のある街道が描かれている光景を思い浮かべてしまう。そのようなイメージがどんなプロセスや経験で形づくられたものか記憶にはまったくないが、それはたぶん私にとってもっとも好もしい風景画にちがいない。
 上の三作品は、並木道という私の原初的なイメージそのものというわけではないが、木々が主要な構成要素になっている。樹種は分からないが、《麦畑から見たモレ》に描かれているような細く高く立ち上がる木に心惹かれる。このような樹形の木は、日本ではポプラぐらいしか思いつかないが、森や林ではなく、街道沿いの並木にふさわしい樹形ではある。
 《ロワン河畔》では、木々のある風景に水辺の風景が加えられている。「印象派、空と水辺の風景画家」という美術展のサブタイトル通り、水辺の風景が主題の作品も多く展示されていた。


《サン=マメス》1885年、油彩・カンヴァス、54.5×73.0cm、
公益財団法人ひろしま美術館 (図録、p. 38)。


《サン=マメスのロワン河》1885年、油彩・カンヴァス、38.7×55.6cm、
神奈川、ポーラ美術館 (図録、p. 39)。


《レディース・コーヴ、ラングランド湾、ウェールズ》1897年、油彩・カンヴァス、
65.0×81.0cm、東京富士美術館 (図録、p. 43)。

 水辺を描いた作品で印象が強かったのは、《サン=マメスのロワン河》である。空と水の青、木々の緑、枯れ草の色の中で二軒の家の屋根の赤が映えている。シスレーの絵の多くを知っているわけではないが、シスレー作品にこのような色彩配置は珍しいのではないかと思って眺めていた。
 《レディース・コーヴ、ラングランド湾、ウェールズ》は、フランスではなくイギリスの風景だが、砂浜と岩の岬と海と空という構図の作品はほかの画家でも何度も見ているように思う。今は、モネの「波立つプールヴィルの海」[2] ぐらいしか思い浮かばないが、画家たちにとって構図的に安定した魅力があるのだろう。


《ルーヴシエンヌの一隅》1872年、油彩・カンヴァス、45.9×39.8cm、
東京、三菱一号館美術館寄託 (図録、p. 23)。


《ヒースの原》1880年、油彩・カンヴァス、50.0×73.0cm、
個人蔵 (図録、p. 31)。


《サン=マメスの平原、2月》1881年、油彩・カンヴァス、55.0×73.0cm、
サントリーコレクション (図録、p. 34)。

 木々の緑、青い空と海ばかりではない。当たり前のことだが、冬枯れで葉をすっかり振るい落した冬の風景も描かれている。若くて体力任せに山歩きをしていた頃、奥深い山里に住む老人に「山を知りたければ、冬の山を歩け」と教えられたことがある。葉を振るい落した冬枯れの山では景色が遠望できて、山の地形をよく観察することができるから、ということだった。危険な冬山に挑む度胸がなくてそれは適わなかったが、冬枯れの木々の間から、シスレーの描く台地の構造が見えるのではないか、などと思ったのである。
 木々の葉に遮られずに遠望できるという感じは《サン=マメスの平原、2月》だけで、しかもこの絵でもとくに見えていなかった大地の構図が顕わに見えてくるということはない。考えてみれば当然のことで、緑の木々を描いたにせよ、そこから見え隠れする大地の構造の魅力を描くのが風景画なのであって、それを描ききることが画家の力量というものだろう。
 むしろ、3枚の絵を並べてあらためて興味がわいたのは、葉が1枚もない木の構造がそれぞれ異なっているということだった。明らかに樹種の異なる木の幹と枝が描き分けられている。ここにも優れた風景画の秘密があるように思える。異なった樹種であることを明晰に把握した上でこれらの木々は風景に配されているのだ。もちろん、優れた風景画家は優れた植物学者だなどというつもりはない。ただ、緑の木々だなどという漠然とした括りで、風景に向かい合う私(たち)とは違うということだけは確かなことだ。


鈴木良三《モレーの寺院》1931年、油彩・カンヴァス、80.3×65.2cm、
目黒区美術館 (図録、p. 71)。

 最後に「シスレーの地を訪ねた日本人画家」というコーナーが設けられていて、中村彝、正宗得三郎、中村研一、鈴木良三の作品が展示されていた。
 鈴木良三の《モレーの寺院》は、シスレーの《モレの教会、夕べ》とまったく同じ構図で描かれているが、教会の壁の質感に圧倒された。壁の厚みが見えるのだ。

 20点のシスレー作品の展示というのは個人展としてけっして多いわけではないが、一方、これだけの作品が日本国内で所蔵されているということには少しならず驚く。丁寧なことに、図録には「国内所在のシスレー作品リスト」(p. 162) が添えられていて、さらに同数の非展示の作品の所在も示されている。
 シスレー作品を見終えた後、続く部屋には「シスレーが描いた水面・セーヌ川とその支流 ―河川工学的アプローチ―」というきわめて学術的な展示があった。図録にはその内容が収録されているばかりではなく、シスレー作品に関わる多くの資料も収められて、大部の図書になっている。展示作品鑑賞後の楽しみも多く残されるという美術展であった。


[1] 『アルフレッド・シスレー展――印象派、空と水辺の風景画家』(以下、図録)(練馬区立美術館、2015年)。
[2] 『モネ、風景をみる眼――19世紀フランス風景画の革新』(TBSテレビ、2013年)p. 82。

 

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『ジョルジュ・ルオー展――内なる光を求めて』 出光美術館

2015年11月11日 | 展覧会

【2015年11月11日】

 ジョルジュ・ルオーの作品は、出光美術館の膨大なコレクションばかりではなく、いくつかの美術館の所蔵作品として見ることができる。私の記憶では、損保ジャパン東郷青児美術館とパナソニック汐留ミュージアムが所蔵品を展示していたと思う。他にもあったかもしれない。
 パナソニック汐留ミュージアムでは一昨年、『モローとルオー』という美術展が開催されている。さらにその前年、損保ジャパン東郷青児美術館で開かれた『アンリ・ル・シダネル』展では、ル・シダネルの妹マルトと結婚したルオーの絵が別室に展示されていて、二人の画家の対照的な絵がとても印象深かった記憶がある。


《ギ・ド・シャラントネー像》1909年頃、水彩、グワッシュ、パステル・紙、
35.4×33.5cm (図録 [1]、p. 13)。

 会場に入ってすぐに目を惹いたのが《ギ・ド・シャラントネー像》だった。水彩でルオーら8しからぬあっさりした描写ということもあったが、「少し緊張した面持ちの少年」という解説文にあるように、たしかに少年の表情の緊張した感じに強く惹かれたのだ。
 大人と違って、幼いものの緊張した精神は多くの可能性の源泉だろうと思う。大望や希望に成長する緊張、喜びや悲しみに変化していく緊張、絶望や苦悩に落ちこむ前の緊張。さまざまな未来予持を抱えている少年の緊張感のようなものを感じてこの絵に惹かれたのだと思う。


《エクソドゥス》1911年、油彩・紙(カルトンで裏打ち)、63.3×84.0cm、
右下に署名 (図録、p. 21)。

 一昨年の『モローとルオー』展で《避難する人たち(エクソドゥス)》[2] というルオーの作品に感動して、次のような感想を書いたことがある。
 「エクソドゥスと称しながら、この絵はモーゼの民ではなく、二〇世紀の避難民を描いて いる。たとえば、いまやそれはシリアの民であり、フクシマの民である。現代の民は、モーゼの民のように神に導かれて海を渡ることができるのか。ルオーの描く民は神に導かれているだろうが、それでも彼らは黄昏れどきに脱出して、夜へ歩き出すのである。」
 この《エクソドゥス》にも次のような解説文が附されていて、《避難する人たち(エクソドゥス)》を見たときの感想にほとんど付け加えるべきものがないのである。

重い荷物を背負い、体を前に傾けながら、薄暗がりの中をあてどなく黙々と歩き続ける難民の家族。彼(女)らは、ルオーが幼い頃育った下町〈悩みの果てぬ古き場末〉の住人であり、なんらかの理由でそこを立ち去らざるえなくなつた人々、またはそこへと逃れて来る人々の姿である。〈逃れゆく人たちles fugitifs〉〈移住者たちles émigrants)〈貧しい家族pauvre famille)とも題され、以後も描き続けられていくこの主題は、ベルナール•ドリヴァルによれば、1909年のブロワの小説『貧しき者の血』の影響があるという。 (図録、p. 126)


【左】《「ミセレーレ」13 でも、愛することができたなら、なんと美しいことだろう》1923年、
エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、ルーレット、ドライポイント、バーニッシャー、
48.1×36.2cm(65.1×50.5 cm)、左下に頭文字と年記 (図録、p. 36)。
【右】《「ミセレーレ」42 母親に忌み嫌われる戦争》1927年、エリオグラヴュール、
シュガー・アクアティント、ルーレット、ドライポイント、スクレイパー、バーニッシャー、
58.3×44.0cm(64.8×50.2cm)、左下に年記と署名 (図録、p. 45)。

 銅版画集『ミセレーレ』に収められた多くの作品の展示のなかで、《「ミセレーレ」13》に描かれた子どもの頬の丸みをとても珍しく思った。たぶん、それはルオーが描いたキリストの顔の描写との差異への驚きのような気分なのである。「でも、愛することができたなら、なんと美しいことだろう」という大きな希望と暖かさを象徴するような子どもの顔のふくよかさなのだろう。
 一方、まったく同じ構図ながら「母親に忌み嫌われる戦争」というネガティヴな主題の《「ミセレーレ」42》では、ぴったりと寄り添う《「ミセレーレ」13》の親子に比べて、二人の間には微妙な空間が存在する。あたかもこの隙間に戦争への親子の不安が漂っているかのように思える。

 

《「ミセレーレ」28 “我を信ずるものは、死すとも生きん”》1923年、
エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、アクアティント、ドライポイント、
57.7×43.5cm(64.8×50.5cm)、左下に署名と年記 (図録、p. 41)。

 《「ミセレーレ」28》は、教会堂によって象徴される神の国を意味しているのだが、この絵は、多くの死者たち(骸骨)を描いた小山田二郎の《愛》や《母》という絵 [3] を強く思い出させる。
 小山田の《愛》に描かれていたのは、無数の人を包み込むであろうマリアの愛なのだが、その愛は無数の死者たちを包含することで成り立っているようなのだ。マリアから母親へと一般化した《母》もまた、背後に多数の死者が配置されているのだった。 《「ミセレーレ」28》に描かれた主題もまったく同様に、死者と救済という宗教の根源的な存在理由がそこには示されている。


【左】《「ミセレーレ」10 悩みの果てぬ古き場末で》1923年、エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、
ドライポイント、バーニッシャー、56.5×42.1cm(64.8×50.5 cm)、左下に署名と年記 (図録、p. 34)。

【右】《ひそやかな喜び》1930年代、グワッシュ、墨、エリオグラヴュール、アクアティント、エッチング・紙、
56.6×41.8cm(65.2×50.2cm) (図録、p. 53)。

 ルオーは、銅版画の主題を油彩やグアッシュでヴァリアントとして描いたという。そのなかで《ひそやかな喜び》は、《「ミセレーレ」10》版画の試し刷りを下絵として描いている。
 構図がまったく同じなのに、モノクロの版画と色彩がのった絵でこれほど印象が反転してしまうというのは驚きである。「悩みの果てぬ古き場末で」や「ひそやかな喜び」というタイトルの文言に感情が誘引されたこともあるだろうが、絵そのもの印象が「悩み」から「喜び」に反転しているのは間違いない。
 色彩による主題の反転が可能であることに、絵画芸術の持つ力、秘術を見るようで大いに感心してしまった。


「《受難》19 “…二つの宮殿に沿うこの荒涼とした道“」1935年、
油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、30.2×19.5cm(45.0×34.5cm)、
左下に署名、余白上部に書込み (図録、p. 75)。

 連作油彩画『受難』に含まれる多数の作品も展示されている。キリストそのものの絵、ゴルゴダの丘や磔刑、受難をめぐる聖書の物語が描かれているのだが、「《受難》19 “…二つの宮殿に沿うこの荒涼とした道“」が、妙に印象に残った。
 二つの建物の間の道を描いた小品で、小品ゆえに線描も色彩もごくシンプルなのに、遠近法で急に狭くなる道になぜかよくわからない惹かれ方をする。しばらく眺めていたが、いっこうに理由は分からないのだった。


《伝説の風景》1938年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、73.5×103.0cm、
右下に署名 (図録、p. 99)。


《たそがれ あるいは イル・ド・フランス》1937年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、
101.7×72.6cm、右下に署名 (図録、p. 101)。

 《伝説の風景》はルオーらしい線を堪能できるし、《たそがれ あるいは イル・ド・フランス》では色彩の豊かさが十分に楽しめる。赤を主調とした夕景であるが、所々の鮮明な青の美しさが際立っていると思う。


【上左】《辱めを受けるキリスト》(部分)1912年頃、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、99.6×61.2cm、
右下に署名 (図録、p. 22)。

【上中】《「ミセレーレ」58 “我らが癒されたるは、彼の受けたる傷によりてなり”》1922年、
エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、ルーレット、バーニッシャー、
57.9×47.2cm(65.5×50.5cm)、左下に年記と頭文字 (図録、p. 52)。

【上右】《“イエスがあなたを慰めに来たということは、ひたむきな巡礼者よ、それはあなたが許される
であろうということです”》1930年、墨、グワッシュ、パステル・紙、37.7×33.2cm、
左下に署名と年記 (図録、p. 61)。

【下左】「《受難》23 “思い、深いまなざし“」(部分)1935年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、
30.0×20.0cm(45.2×34.7cm)、右下に頭文字、余白上部に書込み 
(図録、p. 77)。

【下中】《キリストの顔》1930年代、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、44.9×27.0cm 
(図録、p. 94)。

【下右】《キリスト(とパリサイ人)》(部分)1938年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、
74.3×104.5cm、右下に署名 (図録、p. 98)。

 ルオーの作品にきわめて多いのが、キリスト像である。キリストの顔だけを描いた作品もたくさんある。そこで、1912年41歳から1938年67歳までの間に描かれたキリストの顔を並べてみた。
 成熟していく画家とその画家が描くキリストの表情の変化を見たいと思ったのだが、期待したほどの変化はない。たしかにルオーの絵(とくに油彩画)はいつも安定していて、ルオーそのものとしか呼びようのない絵ばかりなのである。
 とはいえ、上段の3枚と下段の3枚には違いがあるように思える。上段ではキリストは目を見開いてこちらを見つめているのに、下段では次第に目を閉じて最後には黙考するかのように変化している。それは、あたかも壮年時代の湧きあがるような信仰心から、老熟期の沈静へ向かうルオーの精神を映し出しているかのようではないか。


【左】《ピエロ》1953-56年、油彩・カルトン(パネルで固定)、61.2×47.2cm、
G.ルオーのアトリエ (図録、p. 111)。

【右】《アルルカン》1953-56年、油彩・カルトン(パネルで固定)、
70.0×52.5cm (図録、p. 112)。

 会場の最後の辺りで、とても目を惹いたのが並べられて展示されていた《ピエロ》と《アルルカン》の2作品である。このアルルカンは仮面をつけていないので、主題も構図もまったく同じに見えるのだが、会場に立ち止まって眺めたとき、とても大きな違いを感じた。ところが、図録を開いてゆっくりと眺めていたら、あんなに強く感じたはずの違いがどんなだったか、まったく思い出せないのである。
 二人の表情にその違いがあったのは確かなのだが、どちらをどう感じたかを思い出せないのである。強いて言えば、《ピエロ》の善良と《アルルカン》の悪意、ということかもしれない。これは後付けで考えたことなので、ただの牽強付会かもしれないのである。


《「ミセレーレ」44 わが美しの国よ、どこにあるのだ?》1927年、エリオグラヴュール、
シュガー・アクアティント、ルーレット、ドライポイント、スクレイバー、バーニッシャー、
42.2×59.0cm(50.7×65.6cm)、左下に年記と署名(図録、p. 46)。

 最後に銅版画集『ミセレーレ』のなかから《わが美しの国よ、どこにあるのだ?》と題された1枚を挙げておく。
 この絵を、「美しい国」などといういつの時代にもありもしなかった幻想の日本をお題目として、この国を戦争ができる「普通の国」にしたがっている愚昧な政治家たちに捧げておく。

 

[1] 『ジョルジュ・ルオー展――内なる光を求めて』(以下、図録)(公益財団法人 出光美術館、昭和27年)。
[2] 『モローとルオー――聖なるものの継承と変容』(淡交社、2013年) p. 175。
[3] 『生誕100年 小山田二郎』(府中市美術館、2014年)。

 

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『ウィーン美術史美術館所蔵 風景画の誕生』展  Bunkamura ザ・ミュージアム

2015年09月19日 | 展覧会

2015/9/19

 国外に出ることも多くなく、それほど多くの美術館を訪ねてもいないのだが、ウィーン美術史美術館だけはたまたま三回も訪ねるチャンスに恵まれた。ただ、多くの所蔵作品を見終えた後は、過剰な満腹感が記憶回路とか記憶装置を麻痺させてしまうようで、あまり記憶が鮮明とは言えない。
 ウィーンでは、美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)が十九世紀くらいまでの絵画を、オーストリア・ギャラリー(Österreichische Galerie・Belvedere)が中世から現代までの絵画を展示していて、正直に言えば、ベルヴェデーレの方が私には馴染みがいい。

 「風景画」と気楽に呼んでいるものの、ただの観者に過ぎない私にとって、その定義はけっこういい加減である。それを教えられたのは、ドイツ・ロマン派の画家C・D・フリードリッヒを論じた小林敏明の『風景の無意識』を読んだときである。
 ギリシア(ローマ)神話やキリスト教の逸話は西洋絵画の主要な主題で多くの作品が描かれてきた。そこでは、たしかに背景としては風景がずっと描かれてきた。しかし、ヨーロッパ絵画において風景画というカテゴリーが歴史的に確立するのは、けっして古い時代ではない。小林敏明は、風景自体が主題として描かれるようになるのはニコラ・プッサンやロイスダールが現われる17世紀になってからだと指摘している [1]
 そういった意味で、ウィーン美術史美術館所蔵の「風景画」を集めた展覧会を『風景画の始まり』と名付けるのは的を得ているのだと思う。風景画というカテゴリーが歴史的に確立する以前から風景を描いた絵はたくさん存在した。主題は必ずしも風景そのものではなかったにせよ、風景に向かい合う画家の視線、風景を描く技法はずっと古くからあったのである。

 展示は大きく二つに分けられていた。前半は、「風景画の誕生」として、聖書や神話を主題とした絵画に描かれた風景や人びとの暮らしの場(農業や牧畜)を描いた絵の中の風景などが取り上げられている。後半は、「風景画の展開」として、小林敏明が指摘した風景画というカテゴリーが歴史的に確立した時期の絵、つまり風景そのものを主題とした絵が展示されている。


ヤン・ブリューゲル(子)《エジプトへの逃避途上の休息》1626年以後、
油彩・板(オーク)、61×83cm(図録[2]、p. 41)。


フランドルの画家《キリストの誘惑が描かれた風景》1550-75年頃、
油彩・キャンヴァス、51.5×50.5cm(図録、p. 53)。


ヨアヒム・パティニール《聖カタリナの車輪の奇跡》1515年以前、
油彩・板(オーク)、27×44cm(図録、p. 49)。

 聖母子像を描いた絵は無数に存在し、この会場でも多く展示されていたが、もっとも印象に残った絵としてヤン・ブリューゲル(子)の《エジプトへの逃避途上の休息》を挙げておく。ベツレヘムやその近郊の二歳以下の幼子の抹殺を命じたヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに向かう聖母子を描いている絵である。
 右手奥にヨセフらしい人物が小さく描かれ、左手にはエジプトへの逃避を暗示する港(入江)が描かれて、物語の素材は揃っている。しかし、聖母子像と背景のコントラストは、なによりもまず聖母子そのものを描くことが眼目であり、背景は聖母子を浮かび上がらせるためだけに描かれていることを示している。
 このような描き方は、たとえ風景が描かれていても、それが聖書や神話の物語を主題とする絵に共通しているようである。《キリストの誘拐が描かれた風景》は、風景が大きく画面を占めているものの、やはり、岩山の前のキリストと誘惑者(悪魔)の場面と遠景の景色は必ずしも強い相関があるわけではない。そこには橋や建物や家畜が描かれ、少なくとも、聖書に描かれたキリストが断食修行する「荒野」には見えない。

 上の2点とは異なり、パティニールの《聖カタリナの車輪の奇跡》では風景と物語の相関性は強いように思える。日本の物語絵巻に近いものを感じる。ただ、この絵はとても小さい画面に細々と描かれているため、実物で細部を確認することは難しかった。近眼と老眼を合わせもつ身には、図録 [2] で細部を確認するしかなかったのが残念だった。


ダーフィット・テニールス(父)《メルクリウスとアルゴス、イオ》1638年[年記あり]、
油彩・銅版、48.5×61.5cm(図録、p. 77)。

 《メルクリウスとアルゴス、イオ》は、聖書ではなくギリシア神話に主題を採ったものだが、物語と背景の親和性は高い。ここには、女神イオが化身した牛が描かれている。
 ウィーン美術史美術館はコレッジオ(アントニを・アレグリ)が描いた《ジュピターとイオ》という絵も所蔵していて、そこには霧に変身したユピテル(ジュピター)が女神イオを誘拐する場面が描かれている。1度だけ一緒に美術館に行った妻がとてもお気に入りの絵である。理由は簡単で、わが家の老いた牝犬の名前が「イオ」なのである。女神イオは、木星の衛星(月)の名前となり、それがわが家の子犬に継がれたのである。


フランチェスコ・アルバーニ(工房)《悔悛するマグダラのマリア》1640年頃(?)、
油彩・キャンヴァス、117×95.5cm(図録、p. 61)。


サルヴァトール・ローザ《アストライアーの再来》1642-44年頃、
油彩・キャンヴァス、138×209cm(図録、p. 79)。

 《悔悛するマグダラのマリア》では、主題の物語と背景の関係がもう少し明確に見られる。人里から遠く離れ、マグダラのマリアが悔悛する「荒野」にふさわしい風景が描かれている。その点では、《キリストの誘拐が描かれた風景》に描かれた背景とは意味が大きく異なる。にもかかわらず、風景の中の雲には多くの天使が描かれ、現実の自然の風景から天界の風景、またはマグダラのマリアが思い描くファンタスムとしての風景へと変容しつつあるように見えてしまう。
 そのような宗教性をもっと強調した(主題を強調した)のが、《アストライアーの再来》であろう。ギリシア神話の正義の女神アストライアーが「平穏な農民たちのもとで暮らしていた」(図録、p. 78)様子が描かれているが、遠方に広がっているであろう風景は女神が乗る雲の陰に隠れてしまっている。つまり、女神と天使がのる雲を除けば、風景画というよりも農家と農民の姿を描いた風俗画に近いのである。


南ネーデルランドの画家(ヒエロムニス・ボスに基づく)《聖アントニウスの誘惑》1560-70年頃、
油彩・板(オーク)、28×42cm(図録、p. 69)。


ヘイスブレヒト・リテンス《宿営する放浪の民のいる冬の風景》17世紀後半、
油彩・板(オーク)、66.5×56cm(図録、p. 133)。

 天使や神が存在する風景、あるいは強い信仰心がもたらすファンタスムとしての天界の風景もまた人間が見る風景には違いない。
 アントニウスは、その信仰深さ、敬虔さゆえに悪魔によってさまざまな誘惑が試された聖者として伝えられていて、それを描いたヒエロムニス・ボスの《聖アントニウスの誘惑》はよく知られている。それをもとに描いた南ネーデルランドの画家の絵は、幻想的な世界ではあってもその風景は物語り上必須であって、全体としては調和のとれた構成になっていると言える。

 《宿営する放浪の民のいる冬の風景》は、聖書にも神話にも主題を採らず、タイトルも冬の風景を主題としているように見える。しかし、主題は対蹠的であるものの、私には《聖アントニウスの誘惑》と同じような幻想の風景にしか思えなかった。
 第1に目を惹いたのが、大部を占める木々は白く厳冬を思わせるのに、下部から左端を通って上部半分まで額縁のように繋がる装飾的な樹木には葉が茂っていることだ。細部に目をやると、焚火にあたっているとはいえ肌脱ぎになっている人物や腰布だけで裸足のまま遊んでいる子どもまでいる。つまり、このままでは風俗画としても風景画としても自然そのものではない。
 《宿営する放浪の民のいる冬の風景》を後世に生きる私(たち)は素直に風景画としては受け入れがたいけれども、絵画の魅力はたいへんなものがあると思う。この絵は、ある瞬間で切り取った風景を描いたものではなく、放浪の民にとって厳しい寒さの冬に向かう時間軸があって、手前から奥に向かって時が進むように描かれていると考えることができるのではないか。だからこそ、その端境で焚火を囲む人びとは、半ばは温かかな秋の姿で、半ばは冬支度で描かれていると理解できよう。 


レアンドロ・バッサーノ(本名:レアンドロ・ダ・ポンテ)《5月》1580-85年頃、
油彩・キャンヴァス、145.5×164cm(図録、p. 85)。


レアンドロ・バッサーノ(本名:レアンドロ・ダ・ポンテ)《6月》1580-85年頃、
油彩・キャンヴァス、145×216cm(図録、p. 87)。

 レアンドロ・バッサーノの2点の絵は、12ヶ月を描いた中から私の好みの風景が描かれたものを選んだものだ。主題は、月々で変化する人びとの暮らしの様子であって、いわば風俗画というカテゴリーに含んでもいいものだろう。背景には季節によって変わる農地とそれに続く森や山が描かれている。
 空には12ヶ月のそれぞれを象徴する天体の黄道十二宮が描かれている。ちなみに、5月は双児宮(双子座)、6月は巨蟹宮(蟹座)である。6月のシンボルはサソリではなくザリガニということらしい。ザリガニも蟹のうちには違いない。
 この12ヶ月を描いた絵は、とても見栄えのする絵である。家の中や庭先、あるいは農地や牧場で行なう農民の月々の仕事をまとめて、あたかもすべてが農家の庭先で行なっているように構成されていて、背景としての風景もそれぞれの季節の作業と強い相関を示している。いわば、農村(庶民)の風俗を一望できる絵というのは見ていて楽しいし、飽きない。


ルーカス・ファン・ファルケンボルフ《夏の風景(7月または8月)》1585年[年記あり]、
油彩・キャンヴァス、116×198cm(図録、p. 99)。


ヤン・シベルフツ《浅瀬》1664-65年頃、油彩・キャンヴァス、
115×90cm(図録、p. 111)。

 農民の暮らしを描いた絵で有名なのはブリューゲルだが、ウィーン美術史美術館にはブリューゲルの絵だけを展示している一室がある。そこには《The Return of the Hunters(Winter)》、《The Stormy Day(Just before Spring)》、《Return of the Herd(Autumn)》などの風景のなかに配された人びとが描かれている絵が含まれていた。
 ルーカス・ファン・ファルケンボルフの《夏の風景(7月または8月)》は、そのようなブリューゲルの絵に主題も構図も似ている。
 ヤン・シベルフツの《浅瀬》は、ブリューゲルのような広大な風景を描いているわけではないが、その分だけ、荷馬車で浅瀬を渡る農民や牛に焦点が強く当てられていて、私にとってはとても好もしい絵になっている。


ニコラース・ベルヒェム《水道橋の廃墟のある風景》1675年[年記あり]、
油彩・キャンヴァス、68.5×82.5cm(図録、p. 121)。


ヘルマン・サフトレーフェン(子)《船着き場のあるライン川の風景》1666年[年記あり]、
油彩・板(オーク)、46.5×63cm(図録、p. 127)。


ヤーコブ・ファン・ロイスダール《渓流のある風景》1670-80年頃、
油彩・板で裏打ちされたキャンヴァス、52.3×66cm(図録、p. 141)。

 最後に、誰にとっても「風景画」とカテゴライズされる絵を挙げておく。
 《水道橋の廃墟のある風景》も《船着き場のあるライン川の風景》も、背景の空は輝くような明るさで描かれ、遠く彼方に見える山々も明るく、それが人間のいる近景に近づくにつれて陰影が濃くなるように描かれている。とくに、ベルヒェムの絵では、左斜め後方から廃墟の水道橋にあたる光の効果が著しい。光線の効果的な使い方がいいのか、構図がいいのか、あるいはその相乗効果なのか、いずれにせよとてもお気に入りになった絵ではある。

 風景画の代表的な画家を挙げるとすれば、その中にロイスダールも入るに違いない。有名なヨーロッパの美術館展であれば、たいていロイスダールの風景画が含まれていたように記憶している。
 私の中では、ロイスダールは風景画の古典のように思えるのである。つまり、小林敏明がニコラ・プッサンやロイスダールが現われる17世紀をもって風景画というカテゴリーが確立したと述べていることに対応するように、感覚的、経験的にではあるが、私の中では風景画はロイスダール辺りから始まると受け止めてきたらしいのである。

 

[1] 小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年) p. 73。
[2] 『ウィーン美術史美術館所蔵 風景画の誕生』(以下、図録)(Bunkamura、2015年)。