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いま、そのとき、かんがえつつあること。

おのみちで「読書」をかんがえる

2006-08-30 | ほん
2泊3日のぶらりたびにいってきた。まずは広島県にある尾道(おのみち)。

◇駅をおりて、ハーブ屋さんでケーキセットのようなものをいただく。おいしい。

◇商店街をあるく。歴史あるというか、さびれているというか。アナゴとたまごのどんぶり、そのまんまの なまえの「穴玉丼」をいただく。親子丼の肉がアナゴになっただけみたいな。うまい。

おのみち映画資料館を見物。んー。『尾道文化』という雑誌を1冊かった。おのみち歴史博物館。えーー。もーちょっと時間つぶせるようにおねがいします。

◇「坂の町」ということで、さかのぼり。8月すえとはいっても、まだあついすね。セミのなきごえ。太陽と海としおかぜ。それだけで「たびしてる気分」になれるから ふしぎ。

ということで、『尾道文化』2004年 22号、尾道市文化協会。1000円。

花本圭司「読書論の後進性について」34-38。おほ。これは おもしろいじゃないかと記念に かってみた。

花本は「日本では、本を沢山読んでいる人が教養がある人だ、という考え方がある」と指摘し、それは「日本が開発途上国だったため、学校教育を義務制にし、識字率を高め、本を読むことで先進国に追いつき追い越せという方針で進んだから、こんなことになったのだと思います」としている(34-35ページ)。そして、「「読書」というのは、文字通り「書物を読む」ことなのですが、日本の後進性は、一定の書物しか「読書」の対象にしていません」と批判している(35ページ)。

また「飛ばし読み」をすすめてもいる。とばしよみのすすめは、永江朗(ながえ・あきら)も『不良のための読書術』ちくま文庫に かいていた。両者とも、小説であっても とばしよみしていいんだと のべている(ここで、「小説であっても」というのは、わたしのなかの「後進性」のあらわれ(笑))。

花本が指摘しているとおり、読書観の貧困はいまだ根づよくのこっている。そして、ここでつけくわえておきたいのが、「読者観」の貧困だ。花本の表現をまねるなら、「読者論の後進性」である。

本をだれが いかに よもうとも自由であり、読者とは、すべてのひとでありうる。社会の公正を重視するならば、出版する側は、すべてのひとを読者に想定しているべきである。しかし現実には、日本の後進性は、一定の人しか「読者」の対象にしていない。だから、本をよめるひとと よめないひとが生じることになる。なかなか気づきにくいことだが、「本をよめるために必要なこと」は、たくさんある。

おおくのひとは、読書権がすでに保障されているが、さまざまな社会的弱者は、読書権が侵害されている。なぜに「かれら」には読書権が保障されていないのかをとうよりも、なぜに「おおくのひと」には読書権が保障されてきたのか、その「おおくのひと」は「社会的弱者」と なにが ちがうのかを詳細にみてみる必要がある。「本をよめる」とは、どういうことなのかをかんがえてみると、自分のたち位置がみえてくる。その位置は、「文化人」だの「教養人」だのという位置ではないのだ。


以上は、めっちゃくちゃ説明をはぶいています。くわしくは、『社会言語学』6号あべ論文ならびに、しばざき書評をごらんください。わたしの論文は、「読書権」については最後でふれただけにとどまっているのだけど。読書権については、今年中に文章にまとめる。まとめたい。まとめられたらいいな。


◇次回は「呉市(くれし)で水問題をかんがえる」編です。「大和ミュージアムでかんがえる不感症的ノンポリ」、「作者と鑑賞者の二分化(中原中也=なかはら・ちゅうや記念館編)」、「おいつめられる しにせ(やまぐち編)」と つづきます。たぶんね。

ぞく(族)と よびつづけるかぎり

2006-08-27 | にんげん
『ホテル・ルワンダ』のDVDをかった。映画館では結局みれなかったので、やっとこさ みれました。すばらしい。で、ひとつだけ気になることを。映画の制作者には関係のないことで、日本の関係者の問題ということで。

字幕しかり、「豪華ブックレット」での説明しかり。フツ族、ツチ族……。これ、なんでなん? なんでさ、フツとツチのひとらの会話で「族」がつくんよ。おたがいをよびあらわすときに。なにをかんがえてますの?

ブックレットをみると、
おことわり……「〜族」という呼称は、差別を連想させるものとして、現在公式の場では使用されておりませんが、本作では話をわかりやすくするためにあえて使用しております。ご理解いただきますようお願い申し上げます。(4ページ)
「族」は、差別的な表現だから さける必要のある呼称だという認識のようにみえる。「差別を連想させる」表現だという根拠は、どこにおいているのでしょう? 差別語リストに のっているからってのは、やめてね。

わたしが「ぞく(族)」という呼称に批判的なのは、きのうきょうに はじまったことではない。今回は、『ホテル・ルワンダ』の文脈にそって批判しておく。

この映画のメッセージをどのように うけとめるかは、みたひと ひとりひとりに ゆだねられている。無意味な分類による対立の不毛さ、状況によって ひとがあまりに残酷になれてしまうことの おそろしさ、アフリカをとりまく北側諸国の問題、メディアとはなにか、国連とはなにか、大量の武器売買が もたらすもの…。

映画のなかで、ルワンダ(のひとたち)は、北側諸国(いわゆる先進国)にとって(わけいって救済する)価値があるのかという疑問が、みるひとに何度も なげかけられる。「いまの時点では、まだない」、「これまでは、なかった」というのが、まぎれもない事実であることを、何度も つきつけられる。

「族」という呼称のうらには、「族ではない わたしたち」がいる。(わたしたちが よびならわすところの)族と族が、たがいに「ぞく、ぞく」いってるわけがないでしょう? にほんじん(日本人)、あいぬみんぞく(アイヌ民族)、つちぞく(ツチ族)…。ごらんなさい。ここには、あきらかに序列が もうけられている。その序列を設定しているのは、じん(人)=多数派日本人に ほかならないのだ。

わたしたちは、族という呼称にあまりにも なれてしまっている。族とよぶことは、当然で、自然で、ふつーのことであると おもってしまっている。これは、たんに呼称のありようだけのことではない。わたしたちとアフリカ(のひとたち)との関係のありかたもまた、固定的にとらえ、それが当然のことだと みなしている。

わたしたちのあいだでは社会的地位のたかいとみなされる「ホテルの支配人」でさえも、「あなたは何族?」と字幕に表示される。映画のなかでは、「フツ」/「ツチ」と いっているだけなのにも かかわらずである。なぜに「族」なのか。もはや、文明だの、生活水準だのそういうことではない。問答無用で、「なぜならアフリカ人だから」ということなのだ。それが、わたしたちのレベルだということだ。

『ホテル・ルワンダ』をみて、さまざまなかたちで うけとる なにかがあるだろう。みるまえと みたあとでは、なにかが かわるということもあるだろう。けれども、みおわってもなお、「族」という呼称に疑問をいだかないならば、わたしたちのいまある現状は、あまりにも悲惨なのではないだろうか。

付記(2006.08.28):『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会 活動BBS「「族」ってどう」という議論がある。あわせて ごらんください。

かくごしていた/していない

2006-08-26 | 料理
先日ご紹介した食中毒への道でありますが、こんどは、「たべること」の すんばらしさに感動の なみだすら ながれるサイトをご覧にあげましょう。

しっているひとも いらっしゃるかしら。ざざむし

やたら知識が豊富。「イモリは棲息地によって毒の量が異なります」とか(笑):「肉ざざむし」。おくさま、ミミズは「アミノ酸やコラーゲンを多く含み、高蛋白。その割には日本では浸透してない食材のひとつ」ですって:「むしむしQ」

料理のセンスがめっさありそうなところも すてき。

ブログが台頭してくる以前に、テキストサイトとよばれる人気サイトがいろいろあって、いまでも いろいろあるようなのだが、このざざむしも、そんなかんじですね。そんなに内容豊富ではないのだけど。

検索してみたら、有名テキストサイト大全というサイトがあった。BLACK徒然草なんかは、よんだなあ。

えーっと。まとめると、はいっていないと想定されているムシが はいっていらっしゃると、そんな覚悟はしていなかったし、きいてねーよということで ショックをうけるわけです。けども「ゲテモノ料理をどうぞ」といわれたならば、あんがい平気かもしれませんよ。てゆーか、料理になにかが「はいってしまう」というのは気をつけていても さけられないものなのでありまして。

だから、そーゆーもんだと おもって、気にするな?

ん……、そうですね。そんなふうに わりきれるものではありませんね(笑)。けども、ねっ。ちょっとくらいは、覚悟しておきませんか(笑)。えっと、なにも意図することも、「ふくみ」もないです。なんとなく、ふだんから感じていることをかいているだけですよ。あしからず。

乱読するのだ

2006-08-19 | ほん
◆NHKブックスから でているスティーブン・ピンカーの本を全部かった。『言語を生みだす本能』上・下は、むかーし通読ずみ。『人間の本性を考える』上・中・下は、社会生物学論争にたいするピンカーの見解というかんじ。『心の仕組み』上・中・下は、進化心理学かな。ココロの科学。ピンカーは、ドーキンスみたいに、よませる文章をかくね。ドーキンスは、あんまりよんでいないけれど、文章が たくみであるのはよく感じる。社会科学系のひとは、わたしもそうだったけど、ドーキンスに懐疑的なひとが おおい気がする。あんがい、よめるものです。

◆古本で入手した佐藤俊樹(さとう・としき)1996『ノイマンの夢・近代の欲望-情報化社会を解体する』講談社選書メチエ。10年まえの本だけど、これはいい。てゆーか、10年たった いまだからこそ、よんでみる価値があるといえそう。

◆ここ何年か、分類という行為について検討するのを課題にしている。そこで、坂本賢三(さかもと・けんぞう)2006『「分ける」こと「わかる」こと』講談社学術文庫(原本は1982年)。気になっていたのです、この本。評価しているひとがいたので、かってみた。

◆そういえば、「二分法をこえて」というのが しばしば さけばれているし、自分も のりこえたいと おもっている ひとりなのでありますが、とある二分法には注意していても、またもうひとつの二分法には無頓着ということが多々あるように おもうのです。そこで仲正昌樹(なかまさ・まさき)2006『「分かりやすさ」の罠-アイロニカルな批評宣言』ちくま新書。

◆田中耕一郎(たなか・こういちろう)2005『障害者運動と価値形成-日英の比較から』現代書館。もっと はやく かえば よかった。

◆そーいえば、『女たちのやさしさ 田中克彦対話集』。あたしゃ、まだかってないし、本屋でみつけたら きまぐれで かうかもしれない程度の関心しかないけど、これって、でたこと自体あんまり しられてないのでわ(笑)。

◆富山英彦(とみやま・ひでひこ)2005『メディア・リテラシーの社会史』青弓社。読書の歴史とでもいうべきテーマの本をあつめているのだけど、これもそのひとつだーね。おもしろそ。てか、熟読せねばなるまいよ。

◆西川長夫(にしかわ・ながお)『〈新〉植民地主義論 グローバル化時代の植民地主義を問う』がでましたね。西川さんの本は、『増補 国境の越え方―国民国家論序説』で満足してしまってる。この新刊も、だれかの評文をよんで めっさ興味をひかれないかぎり よまないだろなー。余裕がないもの。

◆ちょっとまえに、古本で鹿野政直(しかの・まさなお)1988『「鳥島」は入っているか-歴史意識の現在と歴史学』岩波書店をかった。鹿野さんの本は、たくさんよみたいものです。

◆東村岳史(ひがしむら・たかし)2006『戦後期アイヌ民族‐和人関係史序説―1940年代後半から1960年代後半まで』三元社。堅実な内容なので、よんでいると おのずと熟読させられる。名著。

◆デイヴィッド・ウォルマン2006『「左利き」は天才?-利き手をめぐる脳と進化の謎』日本経済新聞社。ひさびさの ひだきき本。ひだりききの著者による「ひだりききへの旅」というかんじ。「「左利きを受け入れてあげよう」という雰囲気の奥底には、根深い非難の気持ちが隠れている」(14ページ)。

スタンレー・コレン1994『左利きは危険がいっぱい』の訳題もどうかと おもうが、「天才?」はないだろー。コレンの本は参考になった部分もあるけど、「危険」についての話は よろしくなかった。よく おぼえてないけど(笑)。

◆石川憲彦(いしかわ・のりひこ)/高岡健(たかおか・けん)2006『心の病いはこうしてつくられる―児童青年精神医学の深渕から』批評社。この おふたり、すきなのです。

◆ふるい本だけども、楠敏雄(くすのき・としお)1982『「障害者」解放とは何か-「障害者」として生きることと解放運動』拓殖書房。こういう原点ともいうべき本をきちんと おさえておこうと おもいましたです。

◆障害学に関連づけてなのだけど、個人主義イデオロギーの功罪を多角的に検討するような研究はないのでしょか。ま、かんたんに整理することはできそうだけど、ひとの頭をかりたい(笑)。個人主義の再検討って、だいじだと おもわれるのです。

◆そうそう。佐藤直樹(さとう・なおき)2006『刑法39条はもういらない』青弓社。まだよんでないので、内容がわかんない。去年でた佐藤幹夫(さとう・みきお)『自閉症裁判』洋泉社と あわせよむと よいのかも?

◆以上は、「おそらく きちんと よまないのだろうけれども、それでも ちょっとは よみなさいよ、自分」という意味でメモしたのであって、このひとは本をたくさん よんでいるとか、そういった誤解はしないでちょ。

◆くるりのベストアルバムを最近かって、ききこんでいるところというのが実像なのです。

衛生管理のおべんきょう

2006-08-17 | 料理
夏だし、食中毒について おさらいしようということで検索してみた。ふむー、というかんじだったのだが。……。

あぁ、きしょくわるい、いや、すばらしいサイトをみつけてしまった。その名も食中毒への道であります。

いろんな体験談が投稿されてるんだけども、くちんなか、きもちわるー。
「ムシがはいってた」ネタは、やっぱきついな。

たいへん参考になるサイトではあれど、全部みるのはちょっと(笑)。

映画『綴り字のシーズン』

2006-08-07 | 映画
めずらしいものが、ひとをばかにさせる。ひとを翻弄し、判断をにぶらせる。

「ひと」に主体をおこう。ひとは、しばしば、めずらしいものに「うばわれる」。なにを? こころといってもいいし、あたまといってもいい、意志でも、選択でも、気もちでもいい。

「めずらしいもの」。むつかしい ことばでは、「希少性」と いわれる。いや、ごていねいに「稀少性」という字が あてられたりもする。


『綴り字のシーズン』という映画をみた。予想どおり、ばかな映画だ。映画としては、よい作品だ。だが、この映画のなかで えがかれている光景というものは、ただの茶番劇である。

英語帝国主義のせいで、日本で学校生活をおくるひとびとのほとんどは、どこかで英語を学習する経験をもつ。日本語をまなぶ留学生でさえ大学の授業で英語が免除になるということはない。テストでは おおめにみてもらいながらも、ともかくも、英語をまなぶ経験をもつ。ほとんどのばあい、そのひとは本国においてもその経験をへていることだろう。

すこし おもいだしてみればよい。「教師」を英語で、「ティーチャー(teacher)」という。わたしは、中学1年のとき、それを「てあーしーへらー」と おぼえた。もちろん、つづりをおぼえるためである。

かつてジョージ・バーナード・ショーは、英語のつづり字のでたらめさを皮肉して、さかな=フィッシュ(fish)は、「ghoti」とも つづれるといった。ショーは、英語のつづり字改革(「スペリング・リフォーム=spelling reform」という)を主張した論客のひとりだった(英語版ウィキペディアの「Ghoti」をみると、ショーのオリジナルなアイデアではないかもしれないようだが。「Ghoti」が「語源と英語のつづりの規則を無視している」というのは、なんだか おもしろいが、強弁というやつだ。規則だなんてね。わらっちまうよ。不規則だから、改良しようというはなしであるのに。いまのことば(発音)と つづりが、ぴったしきていないから問題にしているのに)。

さて、『綴り字のシーズン』では、いわゆる「スペリング・ビー」がでてくる。アメリカの「つづりあてコンテスト」だ。作中で、「オリガミ」のつづりが とわれるシーンがでてくるように、外来語のつづりまでもが出題される。もちろん、ここで外来語なんていうのは ばかげたことで、英語は外来語(借用語=しゃくようご)の宝庫である。スペルのむずかしい問題をつくるには、ギリシャ語、ラテン語起源の単語をもちだせばすむ。かんたんなことだ。

そして、なかには つづりをとことん記憶することに熱中しているひと、記憶のしかたが特徴的であるために、さらりと記憶しているひともいて、しまいには、インドの地名の つづりが出題されることになる(町山智浩=まちやま・ともひろ「多民族言語「米語」と多民族国家アメリカが見える全米スペル大会」『底抜け合衆国』143-145ページを参照のこと)。

そんなもの、たったひとことで かたづくではないか。ひっくりかえるではないか。

だから、どうしたのだと。

大学で宗教学をおしえる父親(リチャード・ギア)は、むすめの「天才つづりっこ」ぶりに一気に熱中してしまう。そこで宗教学者として「ことばと文字のもつ力」を力説するすがたは、いかにも むなしいではないか。つづり字コンテストでは、いっさいの「文脈」から はなれた、ただの単語のスペルをこたえなさいといわれる。それができたといって、それを宗教学的な神秘に むすびつけるのは、あまりに安易ではないか。

ききあきた ことばをくりかえそう。重要なのは、なにをつづるのかという、内容ではないのか。

文字は、宗教にしばしば利用され、なんらかの象徴性をもたされる。注意すべきなのは、本質的に、文字にそのような神秘があるわけではないことである。宗教においては、なんらかの希少性をともなった象徴がしばしば必要とされ、そのモチーフとして、文字が利用されているにすぎないということだ。

文字の希少性は、「だれもが文字を所有しているわけではない」、ということに由来する。

父親は、自分のこどもが「つづりの天才」であることに ひとりで興奮し、まいあがっていた。ただ それだけのことだ。


「文字には不思議な力があります」。これは、日本のおふざけドラマシリーズ『トリック』にでてくる「おかあさん」の口ぐせだ(「おかあさん」を演じるのは野際陽子=のぎわ・ようこ)。

いやね、『綴り字のシーズン』をみたあと『トリック』をみれば、いいんじゃないかなと。茶番には茶番を!ということでね。いいくすりになるんじゃないかなと。

いや、『綴り字のシーズン』という作品は、気に いりましたけどね。おわりかたとか。「その後のエピソード」をはぶいたところも よかった。全体としては、「家族関係」をえがいた映画といえるでしょう。

病院で妻(ジュリエット・ビノシュ)が夫(リチャード・ギア)を批判するところが印象的で、すこし かんがえさせられる。だれにでも、おもいあたるふしがありそうなことだからだ。ちゃんと はなしをきいているのか。わかろうとしているのか。表面的な ことばじりの むこうにある、気もちをみようとしているか。それは、みえないものだからこそ、「みようとしているのか」が、とわれるときがある。

韓国の本あれこれ・2

2006-08-05 | ほん
ひさびさに検索。

チェクセサン(本の世界)という出版社からは、◆チェ・ジョンギ『監禁の政治』チェクセサン文庫。お、これは『非転向長期囚』チェクセサン文庫をかいたひとですね。フーコーの問題意識をくんだ本と おもえばよいのでわ。◆イ・ファジン『朝鮮映画-こえの導入から親日映画まで』チェクセサン文庫。おもしろそー。◆『解放前後史の再認識1・2』。「ハングル運動と近代メディア」だけ よみたーい。ハングル運動については、あるていど文献をあつめてあるけど、この近代メディアってのが なんなのかに興味あり。◆コ・ブウンほか『エドワード・サイード再読-オリエンタリズムをこえて和解と共存へ』。コ・ブウンって だれだっけと おもったら、『脱植民主義-理論と争点』の共著者ですね。この本、どこにしまったかしら? ◆クォン・スヨン『だれのための宗教か?-宗教と心理学のであい』チェクセサン文庫。この文庫シリーズ、宗教についても がんばってるやね。『脱植民時代のわれらが宗教学』とか。

うえの本を検索したついでに、「脱植民」で ひっかかったもの。◆『脱植民の易学』。ふむ。文学と(脱)植民地主義についての本ね。ごめん。なんで易学なんか わからん。もくじをみると「漢字認識と近代語のナショナリティ」だけは よみたいかな。想定の範囲内の内容だろうけどね。◆キム・ヒョンジョン『韓国現代文学のふるさと言説と脱植民性』。ふうむ。なんか、韓国のポスト植民地主義ってのは文学関連がおおいね。英語圏でも そうかもしらんが。

図書出版サミンは、いかがかしら? ◆シン・ヒョンギ『かたられた歴史-南北朝鮮[南北韓]民族がたりが さらけだした歴史像の批判』。これは『民族がたりをこえて』の著者ですね。

わが愛する『当代批評』は…。あああああああ…。『当代批評』2005新年特別号から休刊中…。なきたい。

リンク:○ウ・ソックン「さくのをやめた「花」、「当代批評」のかなしみ」。○チョ・ソンイル「〈当代批評〉、廃刊ではなく休刊です!」。再出発に期待したいが…。

障害については、◆チェ・ムヒョン『韓国のアファーマティブ・アクション政策研究-障害者雇用政策を中心に』。アファーマティブ・アクションというのは、「積極的差別是正措置」のこと。◆チェ・ソンス『映画のなかの障害者のはなし』。どうだろ?◆キム・ヒョジン『きょうもわたしは、そとにでる』。副題が「わたしたちが ちがってもなく、おなじでもない理由、キム・ヒョジンの正直な障害女性のはなし」。著者は、韓国の障害女性のなかでもリーダー的存在。って、「リーダー」とかいうと、家父長的か(笑)。これはいいね。映画評もある。

※韓国では、「女性障害者[女性障碍人]」ではなく「障害女性[障碍女性]」というのです。当人たちが自分でね。こないだ「障害女性」とそのまま訳したんだけど、訂正されずにちゃんと掲載されたかしらん(『ノーマライゼーション』6月号「映画化された『マラソン』」)。まだ現物みてないの。

ブログ内リンク:「韓国の本あれこれ」

うちに ひびくもの

2006-08-04 | ブログ
かたいことばでいえば、感受性。やわらかくいえば、うちに ひびくもの。

19才になろうかというころに、坂口安吾(さかぐち・あんご)をよみはじめた。たしか、そのはずだ。まだ自分のなかに確立されたものが なかったころのこと。世界観がひらかれるような感覚。よまずには いられなかった。

去年のことだろうか。敬愛するひとに金子光晴(かねこ・みつはる)をすすめてもらった。だいぶまえに文庫本をかった(たしか『絶望の精神史』講談社文芸文庫)。ほとんど、よんではいない。ちかごろ金子光晴エッセイ・コレクションという3冊シリーズがでた(ちくま文庫)。『反骨』というのをつい最近かってみた。解説が森達也(もり・たつや)であるのに、すこし おどろいた。森さんの本は、2004年に いっしょうけんめい よんだ。すこし、あきるほどに。森さんの文章には、わたしのなかで ひびくものが、たしかにあった。

金子光晴。はたして、わたしはなにか衝撃なようなものをうけることができるのだろうか。

なにかをうけとり、それに感動したり、しなかったりする。それは内容のいかんだけによるのではなく、そのときの状況にも左右されているということを、このごろ痛感している。時間帯や疲労度、気分のよしあしで、ひびくものも、ひびかなかったり、過剰に感激してしまったり。

いいたいのは、こういうことだ。そのひとは むかし、安部公房(あべ・こうぼう)、辻潤(つじ・じゅん)などをよくよんだらしく、わたしは それをよみたいと かんがえている。でだ。よんでみるまえに、不安になってしまうのです。わたしの感受性に、まだ、ひびくなにかが のこっているのだろうかと。

のこっていなくとも、それはべつにかまわない。成長したのだとか、もうオトナなのだとか。納得するすべは、いくらでもある。けれども、うちに ひびくものがあることに、こしたことはないではないか。

ちゃんと ひびくためにも、余裕をうしなってはならない。

うだうだ いってねーで、よめよ、ということで。

個別設計

2006-08-03 | 障害学
個別設計というのか、特注設計というのか、まあ、よびかたは なんでもいい。

いすとか、くつはもっと ぜいたくして いいのではないか。ぜいたくというと、なんだか あらぬ誤解をうけそうだが、からだに あわないものをつかいつづけるのは害悪だということ。

たとえば、いすをかいにいく。そこには 専門のスタッフがいて、用途と使用者のからだにあわせたものを販売する、あるいは、特注販売する。そういったシステムがあたりまえになっても よいんではないかと おもうのですよ。あるいは、微妙な調節ができる製品であってもいい。

パソコンのキーボードというのもそうだ。そのひとの手のおおきさなどに対応できるくらいでなければ、なんのための技術なんですかと、ちょっと ひとこと もうしたてたくなるのです。自分にあった製品というものが、それぞれの消費者にわかるものであれば、まだしも都合がいい。けれども、かずかずの製品に精通しているような ひとでなければ、いきあたりばったりで、かならずしも自分にあっているとは いえないもので満足することになるんじゃないか。

技術でできないことではない。経済的に無理だということでもない。値段があがることはあっても、資金とのおりあいでピンキリのなかから えらべば よいのだ。消費者は、もっと わがままになってよいのではないか。

いかる、おこる、ぶちきれる

2006-08-02 | ブログ
ここ最近、かんがえていることがある。内に ひめたまま、ぶちまけることなくおさえこんでいる「いかり」があるとき、それをどういったふうに処理してくれようかと。うまく いかりを表現すること。それをおそれたくはないし、うまく ぶちきれていきたいが、どうにも それがむずかしい。

なにも いわなくとも、あきらかに おこっているのがバレバレということがある。すでにそれは「いかり」の表現になっていて、さらにそれが無言のメッセージであるだけに、たちがわるい。

だれにでも、こだわっていることがあり、それが いいかげんにされると、ゆるせないときがある。衝突がおこるのは、そのこだわりが、それぞれみんな ちがうところにあるからだ。

感情をためこまずに、定期的に、きちんと そとにだしていくことができれば、いきなりドカンという事態はさけられる。けれども、毎度毎度のことがらのひとつひとつは、おこるほどのことではないほどに、ささいなことであったりするものだ。

過剰に「きりかえす」こともなく、あっさりと「ひきうける」こともなく、「ただかえす」ことができればよい。だが、ひとは、いつもいつも つながっていたいわけではない。つきはなそうともし、すこし距離をとろうともし、かかわることをやめようともする。「ほっとけばよい」というのもひとつの見識である。だが、「ただほっておく」ということができるほど、ひとの感情は単純ではない。

「はたして、これでよいのか」。そんなことは、わかったものではない。判定してくれるひとなど、どこにもいないではないか。他人の意見に みみをかたむけ、「そうですね」というのも、「そうかなあ」というのも、自分自身だからだ。

どこまでもエゴイズムをつきとおすなら、自分のおこないすべてを肯定し、合理化し、いいわけすればすむことだ。けれども、ひっかかる なにかがあるのだ。

わたしと そのひとの立場と関係性をみつめ、これまでと これからをかんがえたうえで、いかる。おこる。ぶちきれる。それは、くちでいうほど かんたんなことではない。

それはそうなんだが、かんがえてみることも、ときには必要でしょうよ。ほとんど不可能なことであっても、こころみる価値はあるのだから。

いつも、げらげら わらいつつ、ぶちきれていたい。

ところで社長さんよ。「あべくんはおこるということがない」って…。んなわけねーじゃろが!(笑)。

んー、そういうオチなのか。