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いま、そのとき、かんがえつつあること。

映画『ほえる犬は噛まない』

2007-04-28 | 映画
『殺人の追憶』と『グエムル』を監督したポン・ジュノ監督のデビュー作。原題は『フランダースの犬』。今回は、すべてネタバレしますので ご注意。


おもしろい。爆笑シーンは、「ボイラーキム」のはなし。ピョン・ヒボン先生が、ワザをみせる。

事件がおこるんだけど、たいした「事件」には発展せずに、日常は ながれていく、というかんじ。

しがない大学院生が、自分が すんでいる巨大なマンションで、こうるさく ほえる犬に むかつき、犬を2匹ころす。マンション管理人は、それを地下室で たべようと「うひひ」。マンションの事務室で はたらく退屈で「おひとよし」な主人公は、犬をころした犯人をおいかける。だけど、つかまらない。マンションの地下室でくらすホームレスは院生の妻が かってきた犬をたべようとする。だが、主人公とその友人に つかまる。逮捕される。

院生は、学長に150万円の賄賂[わいろ]をさしあげ、「爆弾酒」をあびるように のまされ、みごと教授に。150万円は、じつは、149万9千円で、1000円は電車で でくわした物乞いに あげている。

韓国は そういう社会なので、そのまんまをえがきました。というかんじ。やっぱりポン・ジュノさんは皮肉屋さんなのね。マンションの廊下での「おいかけっこ」のシーンが印象的ですね。あのマンション。韓国には くさるほどある、でかいマンション。あれが、韓国社会の無理やりで強引な面を象徴している。

教授になるのも賄賂が必要なのだが、博士号をとるときも、「お礼」をたっぷりさしあげるのが韓国社会です。その博士論文も剽窃(ひょうせつ)が しばしばで…。

現実は、いつも不都合なことよ。

夢がつくる記憶はこわい

2007-04-28 | 心理学
ごくたまーに うなされて目がさめる。

わたしは むかし、ひとをころして うめた。「そういう夢」を何度か みたことがある。

おきてしばらくは、えーーーーー??? そうだったのか、そんなことをしたのか???と、恐怖に おののく。

たとえばケーサツに突然つかまり、取調室で「12年前に これこれこういう事件がありました。犯人は あなたでしょう?」と きかれたら、「………。はい、わたしです…。」と こたえないという確固たる自信はない。こわいなあ。「記憶」って こわいよ。あやふやすぎてさ。ま、そんなことは してないんだから、じっさいには否定するだろうけど、もちろん(笑)。

「夢診断」なんて、絶対されたくない。おそろしい。そもそも不愉快だ(笑)。

ということで、グーグル「夢診断」

ウェブで議論する

2007-04-27 | 議論
「ウェブに「他者」は現われるのか?」(kanjinaiさん、G★RDIASより)
私が道を歩いていたときに、私の前で倒れていたホームレスの人は、そのとき私にとって都合の悪い「他者」であった(これは私の事実体験であるということは前にも書いた)。私はその「他者」からの問いかけから逃げた(と私は思った)。私はこの生身の体でその人を助け起こしたり、救急車を呼ぶことはできた。が、しなかった。そのことが私をいままで追いかけてくるという意味でも、それは「他者」であったと思う。
ここでいう「他者」と、ウェブの掲示板やブログでの粘着的なコメント屋さんは ちがっていて、粘着コメントさんを、kanjinaiさんは「他者」とは みなさないんだ、「そこにあるのは、粘着的な自己確認の応酬でしかない。」というはなし。

さらに勝手に要約すると、ウェブで議論するのは、なかなか むずかしいことで、そんなに期待していない。また、コメントはその掲示板やブログの運営者が自由に削除できるものだというはなし。

そうでしょうね。すべてのコメントに ていねいに応答することは できませんわ。人気者さんや注目をあびているひとは、そうでしょう。

だけど、他者だ/他者でないというオレルールな区別は、あたしの趣味じゃない。こういうのって「哲学的」な論述のイヤなところが でていると、わたしは感じる。
ということで、わたしなりに かんがえてみる。ウェブで議論することについて。

ブログや掲示板は、議論する場として、しばしば みなされている。運営者の側は、身内が議論したり、情報交換したりするのが基本という位置づけにしているかもしれない。けれども、ウェブに公開しているなら、「道場やぶりさん」が登場する。不思議な現象なのだけど、「通りすがり」という なまえでコメントをかきこむひとは、ほぼみんな、相手をばかにした一言をかきのこして さっていく。

顔のみえるコミュニケーションでは、ここは議論する場所ですよ、時間ですよということが おたがいの同意のもとにない場合、いきなり「道場やぶり」はないのですよ。粘着しないんですよ。相手が目の前にいることによって、下手なことはできない、毒は はけないという「常識」が はたらいて、ほとんどのひとは、きっついことは いわないし、からんだりもしない。ウェブでなかったら「通りすがりさん」は毒をはけないのです。

しかも、ウェブとは ちがって、顔のみえるコミュニケーションでは、フィルターが かけられている。研究者にむかって、高卒の わからずやが議論をふっかけたりしない。研究者は、そんな低学歴とは つきあわないからだ。高卒の みなさんもしかり。

ウェブでの議論が不愉快だったり、不毛だったりするのは、そういったバカに でくわすからだ。

わたしは ふだん、院生や大学教員と顔をあわせて はなしをしたりすることが ほとんどないので、バカに ばっかり でくわして、無口になるのです。ま、年に何度かは研究者のあつまりに いくことが あるのですけどね。けれども、そのへんのバカと交友をもっていると、それはそれで参考になることが たくさんある。てゆーか、バカにされるのは、いつも こちらのほうだったりする(笑)。フリーターは してみるものである。

わたしは、ひとと あそんだりすることが ほとんどないので、メールをふくめてウェブくらいでしか議論するような場所がない。そういう立場からすると、ウェブで議論することができて、たいへん たすかっている。チャットを毎日のようにしていたときがあったが、あのころは、自分のしらない分野に くわしい ひとたちと議論をかわすことができて、いろいろと参考になった。貴重な体験だ。

最近は、ミクシィでたまに議論している。わるくない。

このブログは、そんなに読者がいないし、トラックバックをおくったりも ほっとんどしないので、コメントをいただくことは ほとんどない。粘着コメントも全然ない。だから、ウェブで議論することに わるい印象をもっていない。


そのひとが どのような日常をいきており、どのような社会的地位にあり、その掲示板やブログが どれほどの知名度があるか。ウェブでの議論にたいする印象は、それらによって きまる。あたりまえのことだ。

※そういえば2年前に「文字文化論からみたチャット」というのをかいた。くだらない文章だ。
付記(4月28日): このブログでも にたようなことを何度か かいた。リンクしておきます。

「『チャット恋愛学』」
「「厨房」とのコミュニケーション」
「荒らしとは、なにか」
「コミュニケーションに「限界がある」ということ」

映画『マンダレイ』

2007-04-26 | 映画
ラース・フォン・トリアー監督。『ドッグヴィル』につづく第二作。つぎの『ワシントン』であわせて「アメリカ三部作」ということらしい。

前作の主人公「グレース」を演じたのはニコール・キッドマンだったが、こんどはブライス・ダラス・ハワードというひと。カリスマ性は そんなにないけど、いんじゃないでしょか。

1933年、アメリカの南部のある村(マンダレイ)で70年前に廃止された奴隷制が のこっていた。グレースは父親の権力(ギャング)をかりて、黒人奴隷を解放する。というはなし。

ま、ハッピーエンドじゃ おわらないんだけど。

奴隷解放なんて いっても、ハンデをつけられた状態でのスタートなんだから どうしようもないやね。白人は にげることも、再スタートもできる。黒人はそうではない。

ところでリンカーンは奴隷解放の功績をたたえられている。リンカーン記念館 - ウィキペディア

リンカーンの しろい石像を、黒人が掃除する。象徴的な風景。映画の最後に、さしこまれた一枚の写真。しろいリンカーン像をきれいにする黒人。

人種差別、奴隷制、多数決、民主主義、自由、自己責任。そんなテーマについて かんがえさせられる。名作。

この映画をみたあとに、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をみると、また ちがった見方ができるかもしれません。あと、トリアー監督が脚本を担当した『ディア・ウェンディ』は、展開が わかりやすすぎるきらいはあるが、アメリカの「武装する自由」問題をえがいた映画として紹介しておきます。

募金箱の背景にあるもの

2007-04-22 | 議論
ゴルディアス(G★RDIAS)という共同運営のブログがある。おもしろい。

ここで、id:x0000000000さんが「「本当は、できるでしょう?」の原初的風景」という記事をかいている。疑問を感じた。いろいろと議論になっているようだが、よんでいない。もとの記事に感じたことだけ列挙する。まとはずれの批判かもしれないが、とりあえず。

x0000000000さんは、たとえばなしをしている。

【目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。】

募金「できない」のではなく、「しない」のだという。そのとおりでしょう、それは。

つづけて、x0000000000さんは【それは、「おやつを買ったからあの人たちが死んだ」ということを、それがもし事実だとすれば受け入れなければならないことを、論理的には要請する。】という。

もし事実なら、うけいれないとでしょうね、ええ。

だけど、「200円」をはらうか、はらわないかは、どうでも いいんじゃないか。大事なのは、この世界に歴然たる貧富の格差がいま現にあり、日本では「おかし」が かえる金額で4人家族が1日くらすことができる地域があるということ。そしてなにより、その地域では そのお金が たりていないということだろう。

募金箱の「200円」は、「わたし」にそのような現実があることをおしえてくれた「きっかけ」にすぎない。わたしにとっては、募金箱をみた そのときが「はじまり」かもしれない。だが、そのような現実が できあがったのは、「わたし」が しっていようと いまいと、もっとまえからである。

想定として「200円」をもちだすのは、そのような格差の現実に「気づかせるための方便」として とらえておくべきではないか。200円すら はらわない わたしたち、ということなのか。「はらわない」ことを「はらえない」のだと自分をごまかすような「わたし」や「わたしたち」だというはなしなのか。そんなのは、やすっぽいはなしのように感じる。

それに、200円をはらわなかったら死んだというのは、なんだか おかしい。

問題は、わたしたちにとっての「きっかけ」などというものと、毎日の生活が おびやかされているひとたちの「歴史」とは、比較しようがないほどに、ことなっているということだ。ひとことでいえば、ことばどおりの意味で「生活水準」が まったくちがうのだ。

わたしたちが きのうきょう現実に気づきました、あるいは、かんがえるようになりましたということと、うまれたときから たべるものに こまっていましたというのでは、天と地のちがいだ。

200円がどうしたこうしたという議論も大事かもしれないが、あるひとには、ちゃんちゃら おかしく みえるだろう。

もちろん、わたしは たらふく たべている側の人間であるし、議論は議論として あっていいので200円の議論をとがめるつもりはない。だが、議論は議論として、「肝心なのは200円ではないだろう」くらいは、感じたままに かいておきたい。

【「間接的ではあろうが、私は人殺しである」】というのは、もっとまえから そうなのであって、募金箱をみても募金しなかった瞬間から「人殺し」になるのではない。

200円をはらわなければ「人殺し」などという想定は、「極端な例」をぶつけられたような印象をあたえてしまう。だが、この世界の現実は、「すでに極限状態にある」。わたしたちは、たえず、いきるか死ぬかのひとをこの世界に かかえている。みんなでこの世界をわけあっているのだとみなすなら、その責任は、みんなにあり、なによりも、ぬくぬくと いきている側の責任がおおきい。この現実に、もったいぶったはなしは いらない。


募金箱は、わたしたちがふだんは意識しない「過酷な現実への窓」なのである。

「かわいそう」のバランス

2007-04-14 | 料理
とある掲示板で議論したことをちょっと修正して転載しますとですね。

「わたしたち」は教育やメディアによって動物をころすのは「かわいそう」といった意識ができあがってしまっています。ですが、おさないころからトサツが身近であれば、そのようには感じないでしょう。世界に目をやれば、現実はそうです。ですが都市化がすすんだ日本では どうしてもトサツは「とおいところ」にある(屠場[とじょう]の立地も!)。そして「食肉産業従事者=被差別出身、だから両者を差別する」という図式が固定されたままになる。
要するに、屠場を公開することは「トサツをみせるだけ」では おわらない。差別をする側にとっては、差別の対象がチンレツされている状態でもある。

「わたしは差別者ではない」ということを根拠に、全面公開してほしいというのは、ちょっと無責任だということです。

屠場をタブーにしてしまえば、差別が強化されてしまうのも たしかです。ですが、なぜ屠場がタブーになってしまっているのかの根源は、被差別者や屠場労働者には ありません。

反差別だけでなく、動物をころすのは「かわいそう」という、あまっちょろい発想をひっくりかえすような教育や報道も必要ではないかと おもいます。そのながれにおいてこそ、屠場を公開する意義がでてくるのであって、動物福祉というきりくち「だけ」から屠場の公開を論じるのはバランスがとれていないし、弊害をふくんでしまうということです。
文脈が ぱっと つたわらないかもなので、さらに文章をかきたします。

肉をたべるなら、動物をころさねばならない。だが、わたしたちは、血をみることなくパックにつめられた「商品」を調理するだけで、そこに、血のにおいはない。「商品」が つくられる過程なら、たとえばパン工場の見学がある。わたしも いったことがある。パン工場の様子がテレビで紹介されることもある。だが、屠場は そうではない。

バーナード・ショーが つぎのように いっているそうだ。「傲慢なアメリカ国民は……黒人に自分の靴をみがかせ、次に彼が靴みがきだという事実によって黒人の劣等生を証明する」(マーティン・ガードナー『奇妙な論理1』)。

差別者にとって「都合のよい堂々めぐり」である。

動物をころすのは「かわいそう」という発想は、いったん完全に なくしまう必要があるのではないか。すくなくとも、かわいそうという気もちを「もってしまわないように」したい。とはいえ、都市化された日本では、こんなはなしは机上の空論のような気がしてしまう。一度めばえた感情は、すぐにすぐ かわるものではない。だが、じっさいにニワトリをつぶす経験をもつことで、平気になるひとも いるわけで、ひとは そこまでに固定的なわけでもない。けれども、大多数をかんがえるとき、むずかしいものを感じる。よく指摘されるように、そんなに「かわる」のが かんたんならば、とっくに社会は かわっているのだから。

それでも、「だからやるんだ」と、「かわいそうじゃねーよ」と いってみないといけない。「かわいそう」を否定してしまったあとに、あらためて「かわいそう」は なりたつ。バランスをとるために、「かわいそう」を否定するのだ。ひとの感情を支配したり、固定するためではない。わたしたちの感情を支配している社会の現実を改善するためなのである。

ひとは みな実験室を

2007-04-07 | ブログ
ひとは みな実験室で いきている。人生は自分を実験台にして試行錯誤する舞台。

どこまでもつづく ただっぴろい広場では、さきが みえなくて、わたしたちは部屋をつくる。世界をくぎって、自分の所属をきめるのだ。ひとつではなく、たくさんの所属を。ひとはみな、実験室をつくり、つくられ、こわし、なおして、また つくる。

ためさないことには はじまらない。


趣味は ひきこもりのはずなのに、なんだか あいたいひとが たくさんだ。でも、あんまりたくさんのひとには あわないでおいて、春のかぜに あたってみるかな。ひさしぶりに、春のかおりを満喫している。

はじまり

2007-04-03 | ブログ
4月になっちゃいました。

あたらしい職場が じゃっかん とおいもので、スクーターをかいました。きのうから のってるのですが、こわいです。

今度の仕事は、自分のなかでは想定していなかったことなので、なれるまでが大変かもというかんじです。責任ある業務なので、なれては いけないところは なれてしまわないように、注意ぶかく とりくみたいと おもいます。

てゆーか、しばらくのあいだブログをかきこむことはないかも。

なにかしら まなびつづけることを人生の目的としているので、その意味で適職なのだと おもいます。料理も教育も社会福祉も。