もどかしさに つきあう

「相手の話を理解するということ」という記事をかいた つぎの日、本屋で『なぜ「話」は通じないのか-コミュニケーションの不自由論』という本をみつけた。著者は仲正昌樹(なかまさ・まさき)さん。仲正さんの本をよむのは『「不自由」論-「なんでも自己決定」の限界』(ちくま新書)に つづいて2冊目。

つくづく あつい人なんだなーと感じながら よんだ。とても参考になるし、反省も させられた。結論部分の253ページから256ページが印象的だ。一部だけを引用しても誤解のもとになるかもしれないので、まぁ気になる人は よんでみてください。


暗闇に たたずみ、すがれるものは ない。心もとなく もどかしい気もちで不安になる。そこで、心の中に光や杖をつくりだす。その光や杖で、なんとか いきていく。でも、他人との おりあいのなかで、その光や杖が意図せざる問題になっていることもある。そこで自分の光と杖を、この世の中で どのように つかっていくのかが とわれてくる。もどかしいことだけれども、それが今をいきる わたしたちの課題なのでしょう。

文章が あいまいなのは、いろんな話を無理に むすびつけようとしたからです。

グーグル:「おりあい」
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「おーげさな表現」の おとしあな

これから かくことは、このブログについても いえることです。

なにか自分が問題にしたいことを論じるとき、つい肩に力が はいってしまって、おーげさで かたくるしい表現をしてしまうことがある。たとえば、雰囲気と いえば すむことを、文化と いったり、「差別」という、つよい表現をつかったり。

これは、そのときは気もちが いいけれども、じっさいには自己満足にすぎないこともある。ガチガチな文章で なにかを論じているような気もちには なるけれども、あまり効果的ではないかも しれないのだ。たとえば、ある集団の雰囲気を文化と よんでしまえば、その文化を固定化してしまう可能性が でてくる。雰囲気をかえるというのと、文化をかえるというのとでは、まったく印象が かわってくるからだ。

ありふれたことばで表現できることは、すなおに表現したほうが いいのかもしれない。

グーグル:「問題を固定化」
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自分が被害者だと錯覚できる権力

自分たちが足をふみにじってきた相手を、なんの根拠をもってか「加害者認定」することがある。

権力とは、足をふみにじれる位置にいるということだけではない。「抵抗」を暴力だと みなし、相手を悪人あつかいできる位置にいるということでもある。まさに、おもうがままなのだ。

「危険な精神障害者」をどうするのか?という問題設定。そんな議論をできるという位置にいることこそ、権力者であることの あかしなのだ。そんな議論では、みずからの加害の歴史は ほうむりさられる。隔離するということ。それを、あちらこちらで乱用してきたのは、わたしや あなただ。ハンセン病を根拠に、精神病を根拠にして。衛生的で安心な社会をきづいていくために。こんにち、監視カメラを必要としているのも、わたしや あなたなのだ。すべては、安心できる社会のために。そう、「社会のために」だ。いや、社会という ことばは、なんだか ぼやけた表現だ。「国家のために」だ。

ちょっとばかり引用したい文章がある。
では、考えるべきバランスは一体どこにあるのか。それは、社会の安全と精神障害者の人権などという、まったくもっていかがわしい対立においてなのか。
そうではないだろう。社会が直視すべきは、百年、いやそれ以上にわたって人権をまったく無視し、精神障害者を閉じ込めてきた「歴史」ではないのか。そして、今なお社会からも法の世界からも精神障害者を排除している、そうした「現実」ではないのか(芹沢一也=せりざわ・かずや『狂気と犯罪』講談社+α新書、217ページ)。
ほんとうに「隔離すべき だれか」が いるというのなら、わたしたちが隔離すべきではなかったかもしれない人たちの一生を、直視してみたほうが いい。そして、もしかしたら隔離すべきではないかもしれない人たちを、それでも隔離すべきだと、こわだかに さけんでみれば いい。

なぜ、武器をもっている わたしや あなたが不安になるのだろう。武器をもっているが ゆえの恐怖から、のがれることが できないからだろうか。

グーグル:「隔離の歴史」 / 「隔離 精神」

付記:芹沢さんのブログを発見。「社会と権力 研究の余白に」。
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相手の話を理解するということ

人は、どれほどに理解しあえるのか。

その人の話を、「あぁなるほど」と納得しながら あいづちをうって きいていても、じっさいには その人の論点が まったく わかっていないということも ありうる。その人の話に、いちいち反論していたとしても、それが「無理解」によるものではなく、わかったうえで批判しているという場合もある。しかし、そこのところをかんがえずに、自分は わかっているだとか、この人は わかっていないと おもいこんでしまうことが たびたびある。

その人の経験から でてきた ことばには、安易に「わかる」と おもっては いけない場合がある。そんなとき、いうべき ことばは「あぁそうですか」でしかない。「よく わからないけど、なんだか わかるような気がする」という程度に とどめておく必要がある。その人の問題は、その人にとって のっぴきならないものだ。他人は あくまで他人にすぎず、傍観者以外の何者でもない。また、その人にとって のっぴきならないからといって、その人の話を全面的に うけいれないといけないという話はない。いうべきことは いうだけだ。

グーグル:「理解しあえるのか」
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自分をまもるのが苦手な ぼくたちは

自分をまもるということ。とても大事なことだけど、なかなか うまくやれていないのが現実でしょう。

そんななかで、ぼくたちは自分をまもろうとしている人たちをおとしめ、あげつらい、あざわらう。あるいは、そんな声をきいて、ますます自分をくるしめる。なんという悪循環なんだろう。もちろん、自分をまもろうとして、他人を攻撃しているのだ、とも かんがえられるし、じっさい そうなんだろう。しかしながら、それは自分をまもることには成功していないように みえる。

自分をまもる。それは、だれかを犠牲にしたり、だれかを否定したりすることではない。なぜなら、すべては自分に はねかえってくるのだから。自分の良心の声として、他人の「悪意ある」攻撃として。もちろん、その悪意は、悪循環のなかから うまれたものだ。

グーグル:「悪循環」
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ペットフードを料理してみるテスト(予告編)

最近、古本屋にいって かいあさるのは、西原理恵子(さいばら・りえこ)さんのマンガ。きょうは、前から ほしかった『毎日かあさん(カニ母編)』と『上京ものがたり』と、おまけで『むいむい-りえこさん虫日記』をかってきた。

でだ、『毎日かあさん』に、ペットフードが うまいという話がでてきた。ふんがいしてるのは、サイバラさんのダンナで、「なんだコレ、コンゴで食った国連の難民食よりうめえじゃないかっ」「日本人は今日から全員米食わないでドッグフード食ってろー」と さけんでいる(32ページ)。

これをよんで、ふと おもいたった。ペットフードの缶づめをだ、うまいこと料理して くってみようと。さすがにね、あの「カリカリペットフード」をですね、野菜といっしょに いためるとか、ありえん。さすがに、そこまでは やらん。でも、みたからに うまそーな缶づめを、うまいこと料理してみたい。まずそーだからじゃない、うまそーだからだ。なおかつ、うまそーだからだけじゃない。その、政治性をみつめたいということだ(ちょっと おーげさ)。

ここで、『アジアを食べる日本のネコ』という本を部屋のなかから かろうじて さがしだしてきた。パラパラと よむ。おっと、27ページに「ネコ缶を食べてみよう!」というのがあるぞ。…………。「食べてみたネコ缶は、生臭く、塩気、脂気もなく、お世辞にも『おいしい』とはいえないものだった」。やっぱそっかぁ。でも、「『塩を加え、料理次第ではきっとおいしいものになるはず!』という確信(!)をもった」とある。あぁ、料理はしてみなかったのね。はっはっは。やってやろーじゃねーの。

目標:ばつぐんの味。なおかつ、みためも きれいに。失敗しても、全部くう。

予定としては、最高に うまいペットフードをたべながら、それが なぜ そんなに うまいのかをかんがえ、しかも、あそび心で そんなことをしている自分の「居所」をみつめるというもの。うまいんだけど、やりきれないなぁという感じ。

グーグル:「ペットフードを料理」(2件ヒット!) / 「ペットフード 料理」
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「荒らし」とは、なにか

電子掲示板やチャットなどで、そこの住人たちに いやがらせをする人などを、「荒らし」という。いったい、荒らしとは なんなのだろうか。

本人が「いやがらせ」をしていなくとも、他の人たちに「いやがられる」ことで、その人は「荒らし」認定されてしまうこともある。そして、いつの間にやら その人をあざけり、攻撃することが正当化されていく。

そこが とじられた空間でないかぎり、自然といろんな訪問者がでてくるものであり、それをさけることはできない。気にくわない人が いるからといって、その人を排除しさえすれば よいと かんがえるのなら、それは同時に、自分こそが そこから でていけばよいのだ、とも かんがえられるのである。居心地のよさを感じている空間があるということ。それは大事なことだ。しかし、その居場所を自分の おもうがままの状態にたもっておきたいという願望は、ただの わがままにすぎないのだ。

かといって、ゴーマンな態度で住人たちを罵倒する人を、あるがままに うけいれるべきなのか。それは、ちがうのだと おもう。自分が感じとったままに、いいたいことをつたえたら いい。批判と排除は ちがうのだから。しかし、わたしたちは、批判よりもさきに、排除をえらんでは いないだろうか。

ちがう。「わたしたち」なんかじゃない。これは、わたし自身のことだ。

グーグル:「荒らし」
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「当事者」の定義

ある夫婦の会話。よく おぼえてないが、記憶をたよりに復元。
「不登校の当事者の親なんです」
「親も当事者でしょう」
まぁ、こんな話。当事者って だれだ? せまく定義するのか、ひろく定義するのか。「被害者」をさすのか、「おまえこそ当事者だ!」というのか。当事者が、自分をまもるための表現であるなら、自分をおびやかす可能性のある人は、みんな当事者ではない。あるいは、問題の原因や要因をさすのなら、当事者は「たったひとり」では ありえない。

『不登校は終わらない』という本をめぐる議論が一部で もりあがっている。あれやこれや議論の参考になるので、Freezing Pointというブログの2005-05-26 レポート 『不登校は終わらない』(3)のリンクをあれこれ ご覧あれ。

豊田正弘(とよだ・まさひろ)さん「当事者幻想論」も必読。わたしなんかは、究極Q太郎(きゅうきょく・きゅうたろう)さんの「なぜか、そこに。」(『現代思想』2004年5月号)なんかが すきだ。

『べてるの家の「当事者研究」』(医学書院)も おすすめ。この本がいいのは、医者のインタビューも すごい おもしろいこと。ところで、「精神障害をめぐる問題には、ほとんど無関心な人たちが、べてるの家だけには注目して もちあげてるのは なぜ?」という趣旨の提起もされてますので「いいとこどり」だけしてちゃ いけませんけども。それって、都合よく消費するってことに ほかならないわけですから。って、不登校の話もそうだな。

グーグル:「当事者」
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ふしぎなサイト - 「るいネット」 -

るいネットというサイトをみつけた。トップページが あやしいというか、おもしろいんだけど、やっぱり あやしさが ただよう。いや、あやしくは ないんだと おもう。ただ、あやしいだ、どーだなんて非難には無頓着な人が つくったのだろう。ともかく、「共認革命るい」とか「新概念を使えば、誰でも活力再生需要の供給者になれる」という文句は、いかがなセンスかと。

でも、なんだか おもしろい。いちおコミュニティーみたいになってて、いろんな「お題」についての議論が掲示板方式で掲載されてる。にしても、「新概念の定義集」なるのをみてると、ばっかじゃねーのと おもっちゃう。ごめんなさいね。べつに けなしたくは ないんだけどさ、やっぱ だめだな。有名なのかな、このサイト。

いろんな議論をしてる掲示場なら、ヤフー掲示板とか2ちゃんねるとか、個人運営の掲示板とか いろいろ ある。ヤフー掲示板は ほとんど みないけど、大手小町の発言小町は わりと すきです。

グーグル:「るいネット 2ch」
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