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いま、そのとき、かんがえつつあること。

キムチとカツオの薫製のパスタ

2004-12-31 | 料理
年こしそばだけじゃ もりたりないので、キムチ味のパスタをつくる。かなり うまかった。

油でタマネギ、カツオの薫製、豚肉をいためて、チンゲンサイ、キムチも くわえて日本酒をいれる。そのまま いためながら、砂糖や水をたす。麺をあえて、塩こしょう。最後に すこしだけケチャップをくわえる。

3月に実家に かえってきて以来、あれこれ料理やりました。おぼえました。たべものに感謝。みなさまに感謝。春が また くる。そしたら またタケノコざんまいだ。春までには、あたらしい生活をはじめよう。なんでも いい。あたらしいことをしよう。

グーグル:「それでも希望を」 / 「苦痛を共有」 / 「2004年を」

どーせ よまないくせに…

2004-12-30 | ほん
本をかって、ケーキセットをいただく。これぞ しあわせ。

本屋で あれこれ物色してるときは、「お? これ いいな」って おもってても、かってかえった本をみてみたら、たいして そそられる本じゃなかったりする。たまるだけの本。ちら見だけのための本。でも、まぁ よしとする。

今年 最後に かった本になるだろうから、メモっておこう。 ◇『現代思想-フリーターとは誰か』←なかなか力づよい文章が のってる。 ◇『ドミンゴ』創刊号。←辻信一(つじ・しんいち)さんたちによる「スロー(ゆっくり)」がテーマの雑誌。ゆっくり よもう。◇宮島喬(みやじま・たかし)『ヨーロッパ市民の誕生』岩波新書。←岩波新書でも「言語権」を論じるものが でてきたわけね。引用・参考文献に言語権を論じた文献が のってないのが残念。 ◇川端裕人(かわばた・ひろと)『クジラを捕って、考えた』徳間文庫。←題が気にいった。やまぐちに いたときは、ちょくちょく たべてたクジラ。反捕鯨/捕鯨推進の論理をしりたい。 ◇春日武彦(かすが・たけひこ)『私たちはなぜ狂わずにいるのか』新潮OH!文庫。←精神科医が かいた本。「病名」問題の参考になりそう。共感できる内容か どうかは まだ わからない。議論のヒントになるのは たしか。 ◇『文芸別冊 総特集 楳図かずお』。←『ユリイカ』の 楳図かずお特集は だいぶ前に かってあった。うめずさんは まさに奇才だ。代表作は全部あつめたい(まだ『漂流教室』くらいしか もってない)。

目についた本もメモしておく。 ◇本田成親(ほんだ・しげちか)『確率の悪魔―科学理論と現実のはざま』工学図書。←数字の魔力、数字をよみとる、確率では わりきれないもの、などをかんがえるヒントになりそう。科学論は おもしろいやね。 ◇西川純(にしかわ・じゅん)『「座りなさい!」を言わない授業―落ち着きのない子、大歓迎!』東洋館出版社。←「立ち歩きは悪か?」という問題提起。西川さんは『「静かに!」を言わない授業』って本も だしてる。こどもと むきあう姿勢があるんだろうな。

講談社現代新書に ひとこと。「あんなカバーは だせーよ。かう気なくなるっての。」←けっこう苦情が でてるみたい。

それでは来年も よろしくです。

グーグル:「言語権」 / 「講談社現代新書 変更」 / 「外見にまどわされる」

「統一」と「脱分断」

2004-12-30 | 国家と権力
韓国にいたとき、『シルミド』と『ブラザーフッド』(太極旗をひるがえして)が まさに大ヒットしていた。『シルミド』は宣伝ポスターが あまりにマッチョなので みる気がしなかった。まだ みてない。『太極旗』のほうは、すごい よかったと すすめられたりもした。みたら みたで ないちゃうのかもな。

『JSA』は わりと すきだ。仲よくなれば、わかりあえるってところがね。軍事境界線をのりこえていく勇気。その勇気さえ あれば、どうにか なるかも しれないということ。カン・サンジュンさんと森達也(もり・たつや)さんも そんな話をしている(『戦争の世紀を超えて』講談社、191-194ページ)。

韓国にピョン・ジョンスという評論家がいる。韓国の言論人で、わたしが もっとも敬愛する人だ。一回メールをおくったくらい(笑)。ピョンさんの『満場一致は無効だ』って本で、『JSA』の小説の書評がある。それが印象的だったので、『JSA』の日本語版をかった。「作者の言葉」は、「わたしは統一などには興味はない」という文章で はじまる。それなら、この作品の焦点は どこにあるのか。
わたしの関心は、統一にではなく分断にある。統一ではなく、分断状況の解消にある。統一しなければならない民族的見地の当為性というような議論がわたしを説得することはできないが、分断されていることによって生じる弊害は、この小説の主人公にとってそうであったように、わたしを悩ませ、疲れさせる。(343ページ)
この文章、ぜひ よんでほしい。全部は引用できないから。

ちなみに、『脱分断時代をひらいて-南北、文化共存のための模索』という本が2000年にでている。クォン・ヒョクボムさんの『民族主義と発展の幻想』(2000年)も、最高に すばらしい。なにかを分断する二元論は朝鮮半島だけに限定されない。世界的な現象だ。だからこそ、二元論に たちむかう論理をつくっていきたい。

グーグル:「脱分断」 / 「二元論」

きょうは なんの日

2004-12-24 | グーグル
きょうは、12月24日です。グーグルをひらいてみてください。

シロクマが雪で あそんでますね。「ハッピーホリデーズ」とかいって、「よい休日を」ですって。これも政治的に偏向しないための配慮なんですね。つまりはPC(ポリティカル・コレクトネス=政治的正しさ)の影響。

日本のヤフーは どうなのかしら。クリスマスの絵ですね。でも、アメリカのヤフーとか韓国のヤフーは冬の絵だったりする…。おもしろいな、これ。結局、日本のヤフーが いちばんノーテンキってことなのかな。

グーグル:「メリークリスマス ハッピーホリデーズ」

自分自身を更新しながら

2004-12-22 | 国家と権力
バンプ・オブ・チキンの「ギルド」をくりかえし きく。あれこれ よみながら、なく。なく。なく。

こんなに ないてばっかりだったかな、わたしゃ。最近ずっと こんなだから、むかしのことが おもいだせない。人は かわる。かわりつづける。それが人生だ。

心に どこか すきまが あって、その すきまをうめようと あれこれ感情をうごかす。それが人生だ。でも、憎悪の便乗のために そそぎたくは ない。
拉致被害者の家族や遺族の気持ちを本当に共有して悲観に暮れる人が、日本全国で何人いるのだろう? ほとんどの人は悲しみや痛苦など共有していない。憎悪だけだ。(森達也/もり・たつや、『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』晶文社、253ページ)
そして、この世界で うえている こどもたちが いるということに、たいした感情移入が できずにいることも かなしい現実。でも、にくしみなんかよりは、いくらかでも、ほんのすこしでも、たべるものが ない ひとたちに心をよせる。それだけで、経済支援は つづけていける。中国が「中華思想」で国家体制を維持しているとすれば、共和国は「反アメリカ帝国主義」だ。ごもっともじゃないか。でも、だからといって、体制のために そのへんの人が犠牲になるべきじゃない。ただ それだけだ。

『怒りの方法』。内省的で ないてばかりだと、外側に むけて発散できない。うごけない。これでも だめだ。辛淑玉(シン・スゴ)さんに まなんでみようと岩波新書。
他者に対して怒れるためには、正しいこと、良いこと、美しいこと、公平なこと、合理的なことなどについて、価値観や基準が自分の中になければならない。その基準が明確であればあるほど、そこから外れた他者の行為や発言に対して、「なんだそれは!」「おかしいぞ!」と怒ることができる。(『怒りの方法』34ページ)
まだ心の準備が できてないみたいだ。完全には共感できない。

あとがきが印象的です。イシハラ都知事を支持する男性。シンさんに きく。「あなたはどうしてそんなに強いのですか。僕は弱いから、石原さんが好きなんだ」。父親が自殺してしまったという男性に、シンさん「お父さんが好きだったのね」。「すると、彼の目から滝のような涙があふれ出た」。
男も泣いていいし、弱くてもいい。男にも、もっと多様な生き方があっていいし、強がらなくてもいい。心から怒りたいときには、身体を震わせて怒ればいい。(207ページ)
「オトコらしさ」という規範から「ある程度」自由になれた立場としては さて、これから どうしたもんかなと。

シンさんの しめくくりに こたえが あるんだろうな。
私は、石原氏の差別発言を支持する人を批判するだけでは、共生社会は築けないと思った。
その日から、私は、違うアプローチをしようと決めたのだ。
怒りを人間性の回復と社会の再生の素とするために、いまも、闘い方の実践と学習は続いている。(207ページ)
そうだね。自分自身を更新しながら あせらないで いきていけば いいさ。

グーグル:「憎悪の便乗」 / 「自分自身を更新」

才能って なんだ

2004-12-19 | にんげん
「才能あるのね」。これって おかしくないか。

ジェームズ・フィン・ガーナーの『政治的に正しいおとぎ話』(1995年、DHC)って本、すこぶる おもしろい。アメリカで論争になった いわゆる「政治的正しさ(PC)」、つまりは「適切な表現をしよう運動」をおもしろおかしく おべんきょできる本だと おもう。おとぎ話というのは、現代的な観点から みると あれやこれや差別的で固定観念の かまたりの内容だったりもする。それを「差別から自由な作品」に つくりかえる こころみをしたわけだ。もちろん、おふざけだけども、けっこう おおまじめなのが おもしろい。ほんとに「差別から自由」ってのが ありえるのか どーかは、よんでみての おたのしみ。

その続編『政治的にもっと正しいおとぎ話』の「ウサギとカメ」から、ちょっと引用。
カメとウサギは「競争の日」をめざして、熱心に練習を始めました。
無知な解説者たちは、ウサギの一族は全員が速く、それは遺伝子の継承により、しなやかな身体をもち、腿の筋肉がよく発達しているからだ、と決めつけました。
こうした偏見に対して、ウサギは当然の正しい異議を申し立てます。そのような見解は、ウサギが行ってきた何時間におよぶ激しい鍛錬や犠牲を、無視したものだからです。(81ページ)
こういうの だいすき。「すごいね。才能あるんだろうねぇ」。そんなことをいわれたら、反論しましょう。「それは わたしの努力の成果だってことを無視してますよ」と。

それまた、「ふっ。これくらい あったりまえよ。」と ほざく人には こんな話を。
…たとえその科学者が人なみすぐれて高い知的能力に恵まれていたにせよ、かれがある国に生れ、ある地方のある家庭に育ち、高等教育をうける機会に恵まれていたということは、その人物の徳ではなくて、多くの偶然のなすわざにすぎない。同様の才能に恵まれた人間は、あるいは低開発国に生れ、あるいは戦争に駆り出されて戦死し、あるいは侵略者にたいする抵抗に生命をおとし、あるいは黒人として生れて人種差別をうけ、あるいは貧しい家庭に家庭に生れて教育の機会に恵まれず、あるいは交通事故や公害の犠牲となったかもしれない。(柴谷篤弘/しばたに・あつひろ、『反科学論』ちくま学術文庫、128ページ)
これも耳が いたいやね。いろんな条件のなかで人は いきてますからね。それにしても遺伝子決定論は いやだね。だって話が単純すぎるやんか。

グーグル:「才能って」 / 「政治的正しさ」 / 「遺伝子決定論」

「我が国」と「ウリナラ」

2004-12-18 | 国家と権力
本よんでて、がっくりするのが「我が国」って表現。日本で いいじゃんよ。

2ちゃんねるとかで よく「ウリナラマンセー」ってのをみるけどさ、あれは南北朝鮮のナショナリズムをこばかにしてるんしょ。そんなら「我が国万歳」も おなじよーに のりこえろよとか おもっちゃう。『病としての韓国ナショナリズム』って本がありますが、韓国でも翻訳がでてます。わりと好評だったりもする。「従来の韓国批判とは ちがう」とか、「耳をかたむけるべき内容」だとか そんな書評も みかける。『韓国人はすきでも韓国民族はきらいだ』って題で でてるんですけどね。「韓国民族」ねぇ…。わざとなら まぁ いいけど、「韓民族」だよなぁ。

『病としての韓国ナショナリズム』は、くだらない部分も あった。ハングルナショナリズムを批判するのは本の文脈としては わかる。だけども、なぜに「漢字は すばらしい文字なのに」って方向に いくのよ。ま、いいや。それは。

韓国で論文かいてて、日本の文献から引用してたら「我が国」って表現があった。それをあえて「ウリナラ」って訳してみたら、校正のときに赤線ひいてあって、「日本」と。どーでも いいことなんで、日本になおしたけどもね。人間の数だけ「ウリナラ」があるのに、「ウリナラ」=韓国という固定観念が できあがってることこそが、国家主義の魔力なんでしょうね。中国人(というか漢人)の留学生が「ウリナラ」って いってたのも おもしろかった。あれは あれで いんじゃないかなと おもった次第。

「ウリナラマンセー」をばかにしてる人たちは、「『あんな国なのに』愛国心もってるのか。あほだな。」ってことなんだろうな。「『我が国』だなんて きもちわるい。」ってことじゃないだろうから。

グーグル:「我が国」 / 「ウリナラマンセー」 / 「天皇陛下万歳」 ← あ、これ おもしろいや。

完璧な親って いるのか

2004-12-14 | ほん
ちくま新書は なかなか いい仕事してると おもう。

こないだも『子どもが減って何が悪いか!』(赤川学/あかがわ・まなぶ、2004年、筑摩書房)と『「おろかもの」の正義論』(小林和之/こばやし・かずゆき、2004年、筑摩書房)をかってきた。まだ よんでないけど、赤川さんの本の あとがきに ちょっと感想。まず引用する。
仮に子どもがどんな重度の障害をもって産まれてきたとしても、愛情をもって育てる覚悟をもてた男女だけが、子どもを産めばよいのだ。そうした選択の結果、産まれる子どもの数が少なくなったとしても、それはそれで仕方ないことだ。(217ページ)
はい、正論です。ここで「重度の障害」の話は重要ではない。少子化が どうのとか、わたしは まったく興味がないので、赤川さんの議論には共感できる。それは いい。しかしだ。うえに引用した主張は、「責任感をもって、完璧な親になる準備をととのえてから親になれ」と、そんな語感がある。ちょっと ひっかかる。

韓国の「民衆歌謡」で「善良な人たちへ」という曲がある。単純に要約すれば「たちあがれ、たちむかえ」みたいな内容なんだけども、けっこう すきな歌詞だ。
「まだ準備不足だからとか、まだ その時じゃないからとか いわないで。そんなの完璧な親になるまで こどもをもっても うんでも いけないって話と いっしょじゃないですか。いっしょじゃないですか。」
わたしは、こっちの歌詞のほうに共感する。だって、人間だれしも てさぐりで いきてるじゃないですか。聖人君子なんかじゃないし、「悟り」なんか夢物語にすぎないし。そりゃ、正論は いくらでも いえますよ。ほら、保守オヤジさんたちだって『正論』をせっせと かいてるじゃないですか。もちろん、ぬるま湯に つかってる日常意識に ちょっとした刺激をくわえるのも わるくない。でも、自分が どこに たっているのかを自覚しないことには、「覚悟」だとか いえないんじゃないか。

こどもが ほしいという感情が わたしには あんまり ない。まだ「適齢期」じゃないからって いうかもしれないけど、「自分の こども」というものに あんまり興味はない。こそだてするとしても養子で かまわないと おもってる。血の つながりとか、わけの わからないものに なんで執着するのかも わからない。でも、そんな かんがえに「正しさ」をもとめても しかたがない。ただの印象だ。ただの つぶやき。

安全地帯から世間をながめても、でてくるのは あきれ顔と 自己満足な優越感だけ。学者先生が 一番ひかえるべき態度じゃないかしら。おっと、そこまで批判するつもりじゃなかったけども。途中から一般論になってると ご理解くださいませ。

なんか、最初に紹介した2冊を、テキトーにリンクできた気もする。どちらの本も おもしろそうです。よかったら、どうぞ。

グーグル:「民衆歌謡」 / 「赤川学」 / 「小林和之」 / 「完璧な親」 / 「少子化」
リンク:AKAGAWAのホームページ ←サイト名の不適切な言語は翻訳しました(じょっ、じょうだんですので)。

こどもでも よめるということ

2004-12-13 | ほん
森達也(もり・たつや)さんの『いのちの食べかた』をさっそく よむ。やっぱり なきながら読了。なんだかなぁ。

出版社は理論社って とこで、「ヤングアダルト新書」、「中学生以上すべての人のよりみちパンセ」なるシリーズの1冊。かなり興味ぶかいのが ぞくぞくと でますので要チェックです。

さて、森さんは今回「こどもむけ」のアプローチで文章をかいてる。出版社の要求なのか、森さんの選択なのか、「ねぇ、そこの『お友だち』」感覚。でも、だんだん森さんの、あの文体に もどってきて ひきこまれてしまう。へんな気づかいしないで いんだよ。ちょっと まちがえば「こども あつかい」文体になるからね。うがった こどもなら「けっ」とか おもうかもよ。

それにしてもです。ふりがなが たくさん ふってあって、文字数も すくない。これなら中学生も気楽に よめるだろう。でもね、この本の内容を「あたりまえの常識」だなんて いえる おとなが どれだけ いるんだろう。こどもでも よめる本だからって、おとなに必要ないわけじゃない。これは すごい本です。森さん、どうも ありがとう。

ちょっと引用しよう。
蔑まれるから蔑む対象を人は探す。哀しい話だ。こうして差別は差別に連鎖する。いじめられっ子は、自分に代わっていじめられる対象を必死に探す。
僕たちの最も弱くて、最も醜くて、そして最も切ない部分だ。(88-89ページ)
森さんは食肉産業の話から、差別、戦争、メディア、そして「人間」の すがたをえがきだす。それは すなわち、わたしや あなたの すがた そのものなのだ。
少なくとも、これだけは言える。何が大切で何がどうでもよいかの判断は、知ってから初めてできる。知らなければその判断もできない。(18ページ)
人は、鏡をみて自分の すがたをしったような気分でいる。でも そうじゃない。自分が なにもので、自分が どこに いるのかは、鏡をみたって わかりゃしない。もっと つながっていこう。そして、ことばにしよう。自分の すがたをみすえるためにも。

グーグル:「だまされることの責任」 / 「いのち」

書評というメディア

2004-12-13 | ほん
アマゾンの書評で すごい文章をかいてる ひとをみつけた。尊敬する。

kantiさんの書評は、文章が うまいし、「等身大の平和を創るために」とか「知ることは諦めることですか?」など、魅力的な題をつけていて インパクトがある。こんな書評が かけたらなぁと、ちょっと触発された。かんがえてみたら、書評というものをいままで まともに かいたこと ないんです。この「羊の話」は印象的ですね。

う…。羊の話のオリジナルをしらべようと してたら、kantiさんのアドレスが判明。これも すごいなぁ。わたしと おんなじような専攻の かたでした。メールおくらなきゃ。

グーグル:「書評」

感情移入

2004-12-12 | 料理
こどものころ、テレビの動物番組をみながら おもった。なんで撮影してる人は ライオンに たべられてるシマウマをたすけないんだろうと。

たわいのない感情だけどね、なんで そんなこと おもったんだろう。ふきこまれた価値観なんだろうねぇ。でも、ライオンの家族に焦点をあてた場合だと、やっと食料にありつけた!って、みてて ほっとしたりするのよね。感情移入なんて そんなもん。過剰でも いけないし、まったくなくても いかん。かたよってても いかん。バランス感覚よね。

「かってたニワトリを家で たべて、それ以来ニワトリが たべれない」。よく ある話ですよね。でも、自分で かってたニワトリだからこそ たべるんだという場合もある。そうよね、そっちのが健全なんだと おもうわ。きり身のニワトリなんて どんな風に そだったかなんて わかりようがないもの。

恐竜の なまえを人間は どうして しってるんだろうと不思議だった幼少時代。人間が後から つけたもんとは おもいも せなんだ。

グーグル:「感情移入」

カルボナーラ

2004-12-11 | 料理
イタリア料理屋でバイトをはじめて はや5ヶ月。門外漢だったイタメシをちょびっと おべんきょできましたです。

だってね、マルゲリータとかサルモーネとかペペロンチーノとか、なにが なんやら さっぱり しらなかったわけですよ。まだメニューよく しりませんけどもね。サラダとか前菜担当なものですから。店のマルゲリータまだ くったことないし。学部のときにチューカ料理屋で4年間バイトして、ペキン語やら料理やら いろいろ おぼえたから、今度は まったく ちがうのをはじめようと おもったんですよね。それでイタメシ屋をえらんだんですわ。まぁ、よかったと おもう。来月やめちゃいますが(笑)。ちょっと ひきこもって いくつか論文かいて、就職することにします。

さてと、カルボナーラに挑戦しましたよ。材料そろいましたもんで。バターをつかっても よかったのかしら? 途中で おもいだしたように ちょっと いれたんだけども。まぁ でも、うまかったぜい。

あらかじめタマゴをといて生クリームをまぜ、こしょうとパルメザンチーズをたして まぜておく。フライパンにサラダ油、ベーコンをしっかり いためて、タマネギ、チンゲンサイ、しいたけ、えのき、白ねぎをいためる。白ワインをいれて、アルコールをとばして、つくっておいたソースをまぜる。水気が すくなかったらパスタの ゆで汁も いれる。パスタをからめて、塩で味をつけて皿にもる。パルメザンチーズ、乾燥パセリ、こしょうをふりかける。完成だっっ。

バイト先のカルボナーラとは全然 味も みためも ちがうけれども、店の味に にせるために つくってんじゃないので満足。そんなもんさ。シュフの料理とシェフの料理は ちがうってこと。わたしゃ まだシュフじゃないけどね。

グーグル:「カルボナーラ」 ← へぇーー。いろんな つくりかた あるねぇ。素人による素人のための自己満足レシピは うえに かいたとーりでございますよ。「イタリアの本物のカルボナーラ」が どうのとか、そんなの興味ないしーーー。それは それで くってみたいけどさ、家では しませんのでね。「本場」だの「本物」だの うるせーよ(笑)。そんなもんは あーたの脳内妄想だっっ。と、仮想敵に伝言…。自爆!

レシピという幻想

2004-12-10 | 料理
料理は一回きりのもの、だから おもしろい。

バイト先の店長は料理の本をよく かってるそうだ。「なにを参考にするんですか。レシピとかですか」と きいてみたら、「レシピは その通りに つくっても おんなじものが できるわけじゃないし、もりつけのセンスとか、料理のアイデアとかかな」と。なーるほどん。そりゃ そうよね。レシピのとおりに料理するってのも つまらないもんだ。自分のセンス、このみをすこしも つけくわえずに そのまんまってのはねぇ。だから、わたしも○○をなんグラムとか かかないし、だいたいが かけない。いっつも適当に やってるから。それが たのしいもんね。ただ発想とか、だいたいの手順を参考にするためのものよね、レシピは。でも、料理店のメニューってもんは、いつもいつも味が ちがうんじゃ、こまっちゃう。だから分量をきめて やるわけだけど、あれはレシピというよりマニュアル。そして もちろん、マニュアルの とおりにしても、結局は微妙に ちがうものが できる。そもそもレシピの歴史って いつから あるんだろうかと ちょっと かんがえてみた。ググってみよう。→ 「レシピの歴史」

おおお! 「言語学から見た料理レシピの歴史」って どんなんだろ。「Johannes Schwitalla教授を囲む語学コロキウムのご案内 」

文字は思考をしばるって話があったと おもうけど、レシピがあることで かえって料理の発想が まずしくなるような人は、そもそも料理に むいてないのかもしれない。それも まぁ料理には ちがいないけれどもね。「レシピの歴史」なんて本ないかしらね。おもしろそうだわ。

おたがいのジレンマをさらけだし、みとめあう瞬間

2004-12-08 | 料理
菜食の話は やっぱり おもしろいもんだ。もうすこし つづける。

森達也(もり・たつや)さんは、食についても あれこれ かんがえをもってるようだ。「1999年のよだかの星」という動物実験をテーマにしたドキュメンタリーも つくってるそうだし。おもしろそうですよ。「他の生命を犠牲にすることでしか生命は持続できないという矛盾」に焦点をあてたとのこと(『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』2003、晶文社、230ページ)。この本から ちょっと引用しよう。麻原被告の こどもとの会話のところ。
…でもさ、今こうして歩いているだけでも、虫や微生物を人はたくさん踏みつけてるんだよと僕は言った。不殺生を唱える宗教者や菜食主義者に、そんな信条を持たない誰もが思いつく質問だ。土を眺めていたアーチャリーは顔を上げ、如何にも辛そうに、しみじみとこうつぶやいた。
「……そうなんですよねえ」(231ページ)
この、「そうなんですよねえ」と もらした ひとが だれなのかは ここでは関係ない。ジレンマ(葛藤)というものは、だれしも もっているし、ちょっと かんがえてみると あれやこれや矛盾だらけだったりもする。そこを他人が つつくのは たやすい。岡目八目ってのも あるし、その ひとの気もちを、あんまり しらないってこともある。たいがいの菜食者は、この「そうなんですよねえ」をかかえているし、むきあっている。雑食の ひとも、肉食について あれこれ指摘されれば、「そうだよなあ」と おもいかえすもの。いろんな感情をもってるからだし、スパッと わりきれるほど、人生は単純じゃないからだ。そもそも、対立する両極に「わたしと あなた」を位置づけるのが問題なんだろう。おたがいのジレンマをさらけだし、その ひとつ ひとつに共感していけば、対話は なりたつし、理解しあえる。そして、その瞬間ほど 気もちの いいことって ないと おもう。

ところで、森さんの こどもさんも おもしろい。
「でもこのキャベツを食べるためには、かわいそうだけど虫は殺さなくてはならないのだ」と彼女に説明した。
「飼えばいいじゃない?」
「飼う? どうやって」
「キャベツを買ってくればいいでしょう」
こうして青虫たちは水槽の中で市販のキャベツを食べながら生きている。(230ページ)
うぬぬ。すごいな、こどもも 親も。そして、森さんは つぎのように しめくくる。
僕らは星にはなれない。矛盾を抱えながら生き続けるしかない。次女はいずれ、青虫を市販のキャベツで飼うことの矛盾に気づくだろう。大いに悩んでほしい。答えなどない。辛い作業ではあるけれど、でも僕もこうして、出口のない煩悶を今後も続けてゆくつもりだし、彼女にもそうあって欲しいと思っている。(232ページ)
引用してるだけで涙が でてくる。これだから森さんが すきだ。森さんの本が また でた。『いのちの食べかた』なる本。よかったら、よんでみてください。

グーグル:「森達也」 / 「生きることの矛盾」 / 「1999年のよだかの星」
ブログへのリンク:動物のお医者さん日記 / たくさんのありがとうを君に…

付記:じゅんやさんの ご指摘で、アーチェリーをアーチャリーに修正。ずっと かんちがいしてました! 「感慨深い」を「考え深い」だと おもってた わたしですから(笑)。

ことばづかい

2004-12-08 | ことば
ブログ検索は なかなか おもしろいですね。菜食趣味のブログも いくつか でてくる。

さっき、「ベジタリアンの ここが きらい」みたいな記事をみつけて、コメントしようかと おもったけど、やっぱり やめといた。URLのとこに ここのブログをはっとけば、下の記事をよむかもしれないし、それだとケンカうってるみたいですもん。もしトラックバックなんかしたら どうなることやら。そこのブログの読者は その記事に「まったくだ、同感」みたいなコメントつけてたし。印象わるいわな。それでも文章をかくものとしては、自分の文章には責任もたないと いかんやね。やっぱり あれこれ議論してみたほうが いいのかも。その ひとは、「1. かわいそうだとか いってんじゃないよ。 → 安直すぎ」論者でした。やっぱりな。それ、定番ですから。

議論するなら、それなりの ことばづかいが あるわけで、相手を頭ごなしに否定するような いいかたは はじめから結果が みえてる。って、その きめつけが いかんのかもな…。やっぱり、「つながり、ゆさぶり、ひびきあう」をこころがけたい。ちょっと気をつけることにします。

グーグル:「ことばづかい」