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いま、そのとき、かんがえつつあること。

「きょーかしょ(教科書)」という表現を やめる

2008-05-08 | 国家と権力
世界の片隅でニュースを読む : 教科書の出典がウィキペディアでいいのか

この記事に たいして、アナーキストのやねごんさんが「うーん……。むしろ教科書のほうにこそ「この項目は書きかけです」の注記が必要ではないかなあ。「教科書なんてあんまりあてにしないでね」と。」というコメントをつけています。

ずばりですね。これほど明確に教科書のありようを指摘した文章が、これまで あったでしょうか。

教科書批判といえば、ましこ・ひでのり2003『増補新版 イデオロギーとしての「日本」—「国語」「日本史」の知識社会学』三元社が おもいうかびます。ごつい本です。けれども、わたしの論文をたかく評価している ありがたい本です。だから よんでください。

共産主義者の常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)さんによる百万眼的な視点 - (元)登校拒否系も これからの社会をいきていくうえで、むきあっておく必要のある たいせつな文章です。


最近、わたしも教科書って なんだろうということについて、あれこれ かんがえていたのです。そして、かんがえました。ひねりだしました。

ああ、そうか。そういうことだったんだ。

きょーかしょ(教科書)の かわりになる表現は、ねたです。ねた。

「ねた」。


 はなしの ねた。

 授業の ねた。

 かんがえるための ねた。


ちがった意味もあります。

 国家の ねた。

 執筆者の ねた。

「ねた」ですから、もっと いいかえていくことが できます。
なんて生産的なんでしょう(らんらん)。


 あたしには わかりかねた。

 くだらないから授業中、ずーっと ねた。おきたら おわってた。

 ぱくって まねた。


くそ、あああああああああああああああ。

金メダルは天から ふってこねーよ

2008-05-02 | 国家と権力
このひとが優勝だとか、このチームが金メダルだとか。

あはははは。

なにそれ。大本営発表みたいね。

「おかみの さばき」ってか? 時代劇の みすぎなんじゃねーの?


統制機関が発表した優勝だの準優勝だの、関係ねーよ。「はいはい(笑)」で すませば すむだろーが。

もっと みいだせよ。みつけろよ。
この「予選おちした」と やつらが発表した この選手、みてくれよ、これこれ。こりゃあ金メダルもんだね。すげえよ。歴史にのこる。いや、のこす。とりあえず、おれが死ぬまで のこる。は? 歴史ってのは、おれが うまれてから死ぬまでの時間のことなんだよ、そもそもが。しらねーのか? なに いってんだよ。なに歴史を おーげさに とらえてんだよ。そんなんだから やつらが「予選おち」だなんてゆー たわごとを、はい わかりましたって まともに うけとめちまうんだろーが。この。
こんなかんじで居酒屋談義ですよ。

そりゃもー、しゃべるのが仕事のテレビタレントなんて、すごいよ。もー うるさいってくらい自分だけの金メダルをかたりまくるわけ。

で、しまいには、だれだよ そいつってゆーよーな ひとをとりあげて、「このひと! このひとは金メダルだよ。もーね、すごいんだから。」


え、なに? そんなもん、純金のゴールドでもなんでもなくて、ただの こばなしじゃないかって? べっつに いーじゃねーか。

そもそもな、純金は価値が あるものだって発想だの、しくみだのが だよ、やつらが いってるだけのことじゃねーか。

もーね、あんたみたいなのはさ、天皇さま、おひさま、おひなさまで、もう天ばっかり あがめてなさいよ。それで しあわせなんでしょ。よかったねーーーーーー(笑)。

スポーツは政治のはじまり?(笑)

2008-05-01 | 国家と権力
オリンピックって いったい なんなんだとか、スポーツに政治をもちこむなとか。

あははははははは。


スポーツそのものが政治でしょ。


あらそい、かちまけ、きそいあう。


対戦型のスポーツは みーんな政治であり、政治的なんだから そういう「スポーツの祭典」が政治的でなくて、どうしますか。政治を期待しないで、なにを期待するんですか。

政治を期待するから応援したりするんでしょ。だから、国別でメダルのかずとか比較しちゃったりするんでしょ。オリンピックを誘致しようとしたりさー。

オリンピックに政治をもちこまないなら、きそいあわない。これ。

勝負しない。これ。最強。みんな最強。みんなが それぞれの基準において最強であるという最強。

そういうことは、あんまり いわれてないような気がしますね。けど、わたしの気のせいでしょう。


日本は柔道でメダルが とれなくなっただの、ばかばかしい発言が みられたりしますけども、なによそれ。

柔道に精神論をもちこむなと、あたしは むしろ そっちをいいたいね。

カラフルな格好で柔道しちゃいけないだとか、そんな はなしが なかったっけ? 日本語では なんとか「どー(道)」に美徳をみいだそうとしますやね。だれが? わたしではなくて、ほかの だれかが。

あの、「どー」って やつが きらいなのよね。精神論。茶道とか、ああいう上品ぶったのも だいきらい。だから柔道はスポーツじゃないとか いってるひとは、永遠に いっていてほしいですね。化石になるまで。

一方では柔道を精神論に おしこめて、また一方ではスポーツとして あつかってメダルが とれないって(笑)。

柔道はスポーツでしょうよ。わるい意味で。


スポーツに もっと いびつな意味あいをくっつけちゃいましょう(はあと)。

死刑とか

2008-04-30 | 国家と権力
「おれってさー、けっこう人とか殺すのすきなんだよねー。殺したことないけど(笑)」とか。

「人を殺すのって、おもしろいんじゃないかな」とか。

想像ではあっても、そういう「血まみれ」を実感として ともなわない死刑論議は、やめてほしいですね。

「え、わたし? ころすの? 死刑囚を? いやだよー」とか。

「ん? いんじゃない。え、このボタンおせば いいの? はいはい。ちょん」とか。

「………」とか。

そういう具体的な血のにおいのする話をぬきにして、死刑に賛成だとか、なにをいってるんでしょうか。

「はいはい。ちょん」のひとは、賛成してれば いいけどもさ。とりあえずは。ま、そのうち死刑は廃止に もちこみますので、賛成してもムダだけどさ。

え、なにを根拠にって うるせーよ。

血まみれ覚悟で、かえり血をあびるのを前提にしないでおいて、なーにが死刑ですか。



はあ。ひとが ひとをさばくということに、もっと絶望したい。

ひとが、どうして ひとをさばけるってんですか。裁判だとか、なにあれ。なにさまのつもり。


こういうことをいうとさ、けっこう共感してくれるひとも いるかもしれない。けどさ、ちょっと まってよ。

ひとが、ひとをさばくってのは、かなりの日常ですよ。やられて、やって、くりかえしてますよ。

学生に平気で点数つけたりできるのは、ひとが ひとをさばいてるってことだかんね。テストなんて、おそろしくて できねえよなあ。


神様になりたがる教祖たちよ。おまえは権力だ。

くつがえされてしまえ。ひっくりかえされて、すってん ころりん、ころんでしまえ。

なにごとも なければ平和なのかって問題

2008-04-19 | 国家と権力
ことなかれ主義って いやだねえ。

なにも事件が おきなきゃ それで おっけーってのはですよ。ちょっと、そこの おまえ、だまってろってことになるじゃないですか。

がまんしなさいってことになるじゃないですか。文句をいうなとか、そういう はなしになるじゃないですか。

おさえつけてるよなあ。おさえつけられてるよなああああ。

韓国の自由主義者の左翼評論家のピョン・ヂョンスさんが『満場一致は無効だ』って本をだしてるんですよ。これが いい本でね。

ピョンさんが いうに、「意見の一致が のぞましいものであるとされるかぎり、最小限の「コンセンサス」に到達することさえできないだろう」(7-8ページ)。うひゃ。逆説的だよね。
満場一致は不可能なだけにとどまらない。たとえ それが可能であるとしても、それこそが…中略…もっとも危険なことである。それならば、のこる問題は、「だれもが同意できる不変の真理」ではない。究極的に一致しようのない数おおくの意見のなかで、「わたしは どの立場にたつのか」という問題だけだ。(8ページ)
対立するのは どうしようにも、それは必然とさえ いえるものでしょう。対立するのをおそれてはなりません。ちがうってことをいやがっては なりません。

ちがったり、対立したりするなかで、たくさんのあれこれのなかで、わたしは、さて、どうするのかということ。


韓国は最低の国家だとか、中国共産党は最悪だとか、そういった批判をいうことに ためらうひとが いるようです。これが よくわからないんですね。日本政府は、ろくでもない。最悪だ。それと おなじことで、アメリカ政府も中国政府も最悪なんですよ。それと おなじ線に、朝鮮民主主義人民共和国の最悪さも位置しているわけで、全部ひっくるめて、批判していけば よろしいことです。「外国」であるからという理由で批判するのをためらうってのは、よくわからない配慮です。わたしには、よくわからない。

だって、中国でもどこでも、「わたしの たいせつなひと」が、そういう国家というものに抑圧されているならば、断じて、中国共産党は最悪だと いってしまわないといけないものですよ。「外国」だからって批判するのを「遠慮する」というのは、「そこ」に たいせつなひとが ひとりもいないっていう、かなしい現実にすぎません。


もっと いえば いいんですよ。韓国って最悪の国だって。

まあね、ただ、「この地」で生活しているのに勝手に国境線だとか いって きりとられて、勝手に おまえの国籍は どこどこだなんて うまれたときから きまってて、なにそれ そんなのしらねーよでは すまされなくなってしまっているから、なんだ うぜえ。なにがクニだ、くそ、とか いいながら、わたしは反日。ハンニチです。アンチ・ニッポンだよ。そういうことをひきうけて、まあ、いきていきながら、いろんなところに たいせつなひとをつくって、そして、どんどん反アメリカ、反中国って、「ともだちの輪=反国家の輪」をひろげていけば いいのですよ。

国際交流? へへへへ。おもしろいことばだよね。国際交流。


あたしとって、国際交流とは、あらたに もうひとつ、反対し、批判の対象として攻撃すべき国家が ふえるってことですよ。あたりまえしょうが。

「外国」に ともだち つくって、中国って いい国だなんて いってるひとは、信じられませんね。中国に ともだちできたら、中国って なんて最悪な国なんだろうって感じられるようにならなければいけません。それが国際交流。はい、これ、わたしの こたえです。

視点をひっくりかえす重要性(少数派について)

2008-03-24 | 国家と権力
2006年に かいた論文に、「均質な文字社会という神話-識字率から読書権へ」というのがある。ここで識字率から読書権へというのは、どのような意味か。

たとえば日本の識字率が97パーセントだとしよう。そして、のこり3パーセントが未達成であるから、「すべての人に文字を」というスローガンをとなえて、文字を普及することが理想的な社会をつくっていくうえで、重要なことだろうか。

わたしは、そうは おもえない。

なぜなら、どれだけ教育をひろめようと、文字をよめないひと、よめなくなるひとは存在しつづけるからである。

一方、読書権の普及率という視点にたってみると、そのパーセントは、かなり ひくいものになる。

拡大図書でなければ本が よめない弱視者や高齢者、あるいは脳性まひのひとに、どれほど拡大図書が提供されているのか。

パソコンが つかえず点字しか よめないひとに、どれほど点字で本が提供されているのか。

なんらかの理由で活字にはアクセスできず、パソコンで本をよんでいるひとに、どれほど本がテキストデータで提供されているか。

あるいは、どれほど よみきかせが提供されているか。

そういった観点にたってみると、日本の読書権の普及率は、かなり ひくい数字がでる。

文字がよめなくても、よみきかせをすれば、本をよむことができる。それなら、もはや、よみかきの「能力」の問題ではなく、サービス、提供のありかたの問題である。それゆえ、識字率をあげることを目標にするのではなく、読書権を保障することを社会の課題としなければならない。

それをのべたのが、「均質な文字社会という神話」という文章だ。

こうした視点は、読書工房という出版社から でている『出版のユニバーサルデザインを考える-だれでも読める・楽しめる読書環境をめざして』 『本のアクセシビリティを考える―著作権・出版権・読書権の調和をめざして』『本と人をつなぐ図書館員-障害のある人、赤ちゃんから高齢者まで』という本にくわしい。出版UD(ユニバーサルデザイン)研究会のブログも ごらんいただきたい。

最近でた注目すべき本に藤田康文(ふじた・やすふみ)『もっと伝えたい-コミュニケーションの種をまく(ドキュメント・ユニバーサルデザイン)』企画・編集:読書工房/発行:大日本図書がある。
はなしは かわる。

uumin3の日記をよんでいたら、「先住民の話」という記事があった。チベット弾圧に ふれながら、日本のアイヌについて ふれた一文だ。原文は、リンクさきに とんでください。こちらには、わたしがコメント欄にかいたことをはりつけておきます。
先住民の問題は、「アイヌを自認する人々というのがどれだけいて、さらには権利闘争まで行なおうという人の規模がどれほどのものか」の問題でしょうか?

そうではなく、「失地回復まで闘おうとする「アイヌ」を自認する人がどれだけいるのか、ほとんどいないんじゃないのかということも思ってしま」うような多数派日本人が、どれほどいるのかの問題ではないでしょうか。

「失地回復まで闘おうとする」という表現をされますが、そうして、なにが いけないのでしょうか。

そういうひとが、いるかどうかの問題ではないはずです。アイヌモシリを植民地支配してしまった帝国日本の問題だと、わたしは おもいます。

民族概念の問題については、スチュアート・ヘンリ『民族幻想論-あいまいな民族 つくられた人種』解放出版社と小坂井敏晶(こざかい・としあき)『民族という虚構』東京大学出版会をおすすめします。
「失地回復」をどのように とらえるかは、アイヌが かんがえることであって、「失地回復まで闘おうとする」というふうに、いかにも いきすぎた主張であるかのような いいかたは、あまりに ふみこみすぎた発言ではないかと おもう。

アイヌの権利をみとめようとしない多数派日本人の現実が、つまり、この日本社会の現実が、アイヌがアイヌでいることをやめさせたり、あるいは アイヌでいないことをあきらめさせ、あるいは、アイヌであることをたえず意識させつづける、あるいは、意識させつづけながらも それをかくさせようとするのだ。

アイデンティティは、本来自由であるべきなのに、多数派日本人が、アイヌにアイデンティティのジレンマに おいこむのだ。

「日本人とは、だれのことか」については、「かくも「正しい」動物愛護」のコメント欄に かいたので、そちらをよんでほしい。

もう一度かく。

先住民についての問題とは、「アイヌを自認する人々というのがどれだけいて、さらには権利闘争まで行なおうという人の規模がどれほどのものか」の問題ではない。

「失地回復まで闘おうとする「アイヌ」を自認する人がどれだけいるのか、ほとんどいないんじゃないのかということも思ってしま」うような多数派日本人が、どれほどいるのかという問題である。権力の問題を、少数派の意識の問題などに、おしこめてはならない。

狂気の左サイドバック――「中国・チベット:日本・アイヌ」問題(umeten氏こころ世代のテンノーゲーム)にもトラックバックします。
もっと伝えたい(読書工房店長メジロー日記)にもトラックバック。

紹介『権力構造としての〈人口問題〉』

2007-05-06 | 国家と権力
フランシス・ムア・ラッペ/レイチェル・シュアマン著。副題は「女と男のエンパワーメントのために」。新曜社。

ざっと よんだ。原著は、1988, 1990年となっているので そんなに あたらしいデータではないのだけど、ともかく、しっておくべき現実だ。

まず、「民衆が十分に食べられるかどうかを決定しているのは明らかに、単なる人口以外の多くの要因である」という点は、よくしられた事実だ(18ページ)。それは、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』朝日選書などにも かいてある。

ラッペとシュアマンは、出生率が たかい地域では、(1) 経済的な生活保障が こどもの収入に依存する、(2) 乳児の死亡率がたかい、(3) 女性の地位が ひくく、女性の意志で避妊することが困難であったり、宗教的な理由で避妊をさけている、(4) 女性が結婚以外の選択肢をもちわせていない、(5) 女性にとって、家庭の外での教育や雇用の機会がほとんどない、と指摘する。

家庭の貧困、衛生や医療面が不十分な点、女性の地位のひくさなどが人口爆発を生じさせるということだ。だから、人口問題を解消していくには、包括的なアプローチが必要となる。だが、裕福な北側諸国の支援は、ほとんど家族計画の調節にあてられている。さらに ひどいことに、「出生率を下げるための唯一の手段としてますます強力な避妊手術に身を委ねることによって、多くの政府や国際機関は女性にとっての安全性よりも政策の効率性を優先するようになってきた」という(63ページ)。たとえば、
(注射用のデポ・プロベラは)それを一回注射すれば3ないし6ヶ月間妊娠を防ぐことができる。米国では一般的に使用するには危険すぎると考えられているが、家族計画機関は80カ国以上の国でデポ・プロベラを推奨している(63ページ)。
最新の長期作用型避妊薬のひとつであるノアプラントは…中略…女性の肌に埋め込むもので、5年あるいはそれ以上も妊娠を防ぐ時限放出型カプセルである。…中略…米国では使用を認可されていないが、コロンビア、中国、フィンランド、スウェーデン、タイ、インドネシア、エクアドルを含む10カ国で法的に認可されている。…中略…インドネシアの首都ジャカルトには、ノアプラントの除去ができる医療施設はひとつしかない(65-66ページ)。
不妊手術は、女性にとって通常不可逆的なものであるから、選択肢を奪ってしまう最後のステップとなる。そしてそれは、人口政策機関のあいだでますます人気を博しつつある(66ページ)。
身体的には安全だといわれる不妊手術も、「多くの第三世界のクリニックでは手術の滅菌条件が不十分なので、不妊手術は危険なものになりうる」し、医療施設が利用困難であるかぎり、経口避妊薬の副作用は「先進国の女性の典型的な場合よりもいっそう深刻な影響」をあたえることになる(68-69ページ)。

「人口爆発の権力構造」の最底辺にいるのは、あきらかに女性である。そして、出生率を抑制する「家族計画」で もっとも身体的苦痛を負担させられているのも、女性だということだ。女性のエンパワーメント(「力をつけること、社会的地位の向上」54ページ)こそが もとめられる状況のなかで、女性をさらに傷つけるという状態になってしまっているのだ。南北問題の いびつさを象徴する現実だ。

ところで、「衛生」といえば具体的に なんのことだか通じにくいのだが、なにより不可欠なのは、安全な水である。

この水ひとつをとっても、世界の権力関係によって多大な格差が ひろがっていることが近年になって指摘されるようになっている。いわゆる、水問題だ。つぎは、水問題をとりあげる。

かくも「正しい」動物愛護

2007-05-03 | 国家と権力
北海道におけるイオマンテの儀式は1955年に北海道知事名により出された通達によって「野蛮な儀式」とされ事実上禁止されたが、2007年4月、通達は撤回された。(「イオマンテ - ウィキペディア」
この「イオマンテ解禁」がニュースサイトで紹介されてるわけなんですけど、一部の動物愛護を議論するひとが、これに「反対の意見をおくろう」というはなしをしている。

野蛮だとか日本は先進国なんだからとか、なかなか すごいことをいっている。北海道知事や北海道ウタリ協会などに意見をおくるんですと。はあ。

いやね、あたしだって動物愛護に共感しないところがないわけではないですよ。けっこう厳格なベジタリアン生活も経験しましたし、そのへんのムシも、できるかぎりは ころさないようにはしているつもりです。イオマンテもね、クマをころさずに儀式をとりおこなうことも可能でしょうよ、それは。禁止されてきたもんだから、これまでは そうせざるをえなかったわけですからね。

けど、なぜに個々人の和人が のこのこと植民地主義の再生産をやるのよ。逆説的だけど、アイヌの文化を固定化するのは同化政策であって、当事者じゃないわよ。和人がアイヌを支配してきたから、「禁止」できたわけでしょう。禁止なんか されてなかったら、みずから「簡略化」をえらんでいたかも しれないでしょう。「現代的感覚」に あわせて、ね。

べっつに、現代的感覚とやらを肯定するつもりはないし、「簡略化」する必要があるなんて全然おもっていない。アイヌ文化を賛美すれば和人の過去が浄化されるとも おもっていない。イオマンテを消費の対象として みなすつもりもない。

いまになって通達を撤回しますだなんてことになってしまった、この日本という国家の歴史が おそろしいだけです。残酷だとか野蛮だとか、50年前といっしょの発想でもってイオマンテに いちゃもんをつけるひとの意識というものが、ただ、むなくそ わるいだけです。

「原始人じゃあるまいし」って…。

坂口安吾(さかぐち・あんご)は、伝統よりも生活が大事だといった。わたしも同感だ。和人は近代以降、自分たちの文化をそれほど厳格に重視してこなかった。それは、伝統にすがるよりも、あらたな生活習慣が魅力だったからだろう。もちろん、国際関係の権力のバランスによって、アメリカやヨーロッパの生活習慣に あこがれるように しむけられてきたという側面はある。だが、カッコつきではあれ、選択する「自由」はあった。アイヌよりは はるかに、自由があった。

アイヌを支配しつづけてきて、そして、いまになってイオマンテを「解禁」しますよということにした。そこに動物愛護の観点から、あらためて、野蛮だから やめてほしいと おっしゃる。

「クマに罪はない」という観点にたてば、絶対的に「正しい位置」に たてるそうだ。自由とは、かくも都合のよい権力だ。


どんなに動物愛護に共感しようとも、わたしは人間中心主義を否定する気にはとてもなれない。人間関係に不平等がなくならないかぎり、人間中心主義の否定や「動物の権利論」をみとめるつもりはない。動物の権利論は、この世界の非対称な関係、権力関係をわすれさり、おおいかくし、感情という無敵の論理によって世界を断罪する。

世界全体が断罪されるとき、もっとも被害をこうむるのは少数派なのだ。

人間中心主義を肯定しつつ、動物の処遇を改善していくことは両立できる。

ザ・ニュースペーパー

2007-02-05 | 国家と権力
ザ・ニュースペーパーという「社会派風刺コント集団」がいる。しってますか? リンクさきに いってみたら、わかるひとも いるかもしれませんね。小泉純一郎(こいずみ・じゅんいちろう)のマネをしてたりする劇団みたいなかんじのグループですよ。

でね、DVDをかりてみました。『ザ・ニュースペーパーの笑国日本』という題です。

みるまえは かってしまおうかなと おもっていたんですけど、かうほど「爆笑もん」というわけでもありませんでした。でもま、ともかく応援しますわよということで ご紹介しておきます。舞台でやってるのをみたら おもしろいんでしょね。

リンク:「ザ・ニュースペーパー - ウィキペディア」

ヒロヒトのメモがどうした

2006-07-20 | 国家と権力
よー わからん。どーでも いいんじゃないの。だってヒロヒトですよ。

「昭和天皇も反対してたんだ」とか、そういうのは やめましょね。「A級戦犯」がどうのというレベルの かんがえだったという時点で、ヒロヒトにみるべき思想はない。でくのぼーだ。

だいたいがですよ、ヤスクニってA級戦犯をまつらずに、だれをまつるの?

そっか。戦争に かりでてくださった少国民のみなさま?

じゃあさ。A級戦犯は、まつられる側というより、「ごくろうであった。みなのども」といって「まつる側」なんではないのかね。

んー。責任をとわれなかったヒロヒトだけが、ヤスクニに参拝すべきだったのかもしれませんね。ヒロヒトからすれば、A級戦犯もまた、「みなのども」だったのでしょうから。

よー わかりませんねえ。まつりごとの世界は。

マンガ『特攻の島』

2006-06-20 | 国家と権力
『ブラックジャックによろしく』、『海猿』の作者の佐藤秀峰(さとう・しゅうほう)さんが『特攻の島』というマンガをかいている。5月に単行本の1巻がでたばかり。

アジア太平洋戦争末期における海の特攻隊、人間魚雷「回天」についてのもの。まだ序盤なので、どう展開するのか わからない。まだ作者の視点は そんなに でていないように感じる。

とりあえず興味をもったのは、巻末に あげられた取材協力さきと、主要参考文献。取材協力は、全国回天会、靖国神社遊就館、周南市回天記念館。主要参考文献は、『「回天」その青春群像』(上原光晴 翔雲社)、『あゝ回天特攻隊』(横田寛 光人社)。ふむ。

ありがちな話になるのかどうか。アマゾンのレビューは、どうかと おもうよ。まだ わからんからね。

ウィキペディア:回天

「応援ひとり」とか いんじゃねーの

2006-06-19 | 国家と権力
「劇団ひとり」ならぬ、応援ひとり。どーですか。

応援団、つまりは集団なわけですよ。集団。これが いけません。

「日本代表」って いいますね。さて、野球でもサッカーでもなんでも いーけどもね、プロ選手の代表なんじゃねーの。アマチュアから「代表」が えらばれることも あるのかもしらんけど、ともかく「選手」の代表。なんで「日本の代表」とかに飛躍するかね。「あのひとたち」を自分らの代表だと みなすことによって、「あのひとたち」に代表されることによって、代表と全体と自分をつらねあわせる。わたしゃ、「代表」と「全体」と「自分」を全部きりとりたいね。できるかぎり。勝手に ひとりで「アイデンティティからの自由」を宣言して、自分の たち位置から のがれようとしたくは ないけど(なるべくねえ。けど、たびたびしてるかもしらん)。

ん、どういうこと?。

うーん、なんといいますかね。ひとは、関係性をいきている。その関係性ってもんがだね、現に つらなっている関係もあれば、むりやり むすびつけてる関係ってもんも あるってことよ。現実を直視するのは まんざらではないが、飛躍は こまりまっせ、ってこった。

坂口安吾(さかぐち・あんご)が かいたものに『安吾巷談』というのがある。敗戦後の日本の風景を論評したエッセイだ。そのなかに「世界新記録病」というのがある。たとえば、「レースというものは、せりあいにあるのである。決してタイムが相手ではない。タイムが相手なら、日米一堂に会してレースをやる必要はない。銘々各地で記録をとってくらべ合って、オレが一番だ、アレは二番さとウヌボレておればすむことなのである」なんていう勝負論が かいてある。ここで紹介するのは、「私は応援団というものがキライである」という部分。
スポーツは勝負を争うものではあるが、好戦的なものではない。礼節と秩序のもとに競う遊びにすぎない。応援団というものは、スポーツから独立して、勝負だけを旨としており、愛校心という名をかりて、いたずらに戦闘意識をもやしており、あの校歌だの応援歌というものは、坊主のお経によく似ているなァ。ああいうブザマな音響は、つつしまなければいけない。集団の行動というものは、底に意気(粋)の精神がなければ、ジャングルの動物郡とそう変わりはないものだ。応援団には粋の心構えなど、ありやしない。自分がスポーツをやる当人でもないのに、全然殺気立っている。
「応援ひとり」に はなしをもどしましょう。要するに、応援ひとりというのは、飛躍としての集団への帰属から、独立するということではないでしょかね。

そもそもだね、うまいひとらがゲームをやってるのってのは、みていて おもろいもんだよ。それぞれの選手についての予備知識というものを、なるべく もたないほうが、ゲームそのものをたのしめるんでないですかね。お、いまの すげえ、みたいな。選手になったひとらだってさー、いろいろ うまい条件が かさなったから選手になれたんであって、たんなる「努力の産物」ではないよ。

ひとりでゲームをみて、たのしむ。応援ひとりっていうか、そもそも応援しない。ただ、みる。ていうか、わたしはゲームをみない(え…)。それ、「応援しない」とか「興味ない」ってやつでは。

わたしの はなしは どうでもいいさね。応援団より応援ひとりのほうが、なんか すてきだってことだ。「孤高のひと」と いいますね。なんか孤独なんだけど すごいひとのことを。孤高。つまりは、おたかいところにいるわけです。そして、群衆は…。シモジモというように…。きゃーっはっは(ん、きょうは こういうキャラのようです)。

いやね、ぬきでるためでもなく、えらぶるためでもなく、ただ、ひとりの わたしであろうとすること。それって だいじなんではないでしょうか。

翻訳書『大韓民国は軍隊だ』/映画『もし、あなたなら』

2006-06-09 | 国家と権力
『大韓民国は軍隊だ』という韓国の本があって、よみたいなと おもっているわけなんですけど、書名をちょっと日本語でググってみました。すると…。

なんと! もーすぐ翻訳がでるというではありませんかあああ。立命館大学のサイトに「第三世界とジェンダー論I」という授業のシラバスがあって、そこに近刊とあります。この講義を担当されてる山下英愛(やました・よんえ)さんが翻訳されたのですね。てか、この講義すげえし。

山下さんの活動に注目させていただきます。ていうか、山下さんの存在をしらなかった わたしは いったい…(ひざまづいて ためいき)。それだけ、ちゃんとチェックしてこなかったということですよね。ま、それは自分が いちばん わかってることで。

◆ついでに宣伝。さっきレンタルビデオ屋いったら、韓国のオムニバス人権映画『もし、あなたなら』があった。びっくりした。韓国の国家人権委員会が企画して、6人の監督に自由につくらせた映画だったと記憶しています。国家人権委員会は、ちゃんと国家保安法を廃止せねばと機関誌『人権』において主張してる。『人権』誌はバックナンバーが10冊くらい わたしのところにあるし、ウェブでも よめます。こんど紹介文かくかなー。

てか、ある雑誌にそういう韓国のはなしをかいてくれと いわれてるんだった…。よし、せっかくだから『もし、あなたなら』の映画評にしようじゃないか。

『もし、あなたなら』は、なかなか おもしろいので どうぞどうぞ。容貌とジェンダー、前科者、障害者、こども、移住労働者などの はなし。てか、あの幽霊の話は、女性差別がテーマなのか? まあ、とりあえず もいっかい みてみますね。

グーグル:「大韓民国は軍隊だ」 / 「もし、あなたなら」

マンガ『イキガミ』/映画『遙かなる帰郷』

2006-04-12 | 国家と権力
◆んー、期待はずれかな。だけど、まだ2巻でただけだから、これから おもしろくなるやもしらん。

間瀬元郎(ませ・もとろう)『イキガミ』小学館。1巻、2巻ね。
この国には、国家繁盛維持法という名の法律がある。そこでは、多くの人間を生かし、国を繁栄させるため、選ばれた若者をあの世へ逝かす紙・“逝紙[イキガミ]”が配られている。
なんか、ひとつのエピソードをもっと丹念に かいても よくない? ほりさげが あまいす。ま、「生きること… それは願うこと―」(2巻のとびらより)みたいな かったるいこと いいたいのか、あるいは、そのことばに説得力のある おもみをもたせたいのか、あるいは、「国家という権力」をえがきたいのか。まあ、全部なら全部でいいが、「でも、だからこそ彼女の死から“愛”や“命”の尊さなど――学びたくはないのだ。学んでしまったら、この法の思うつぼだから――」というのなら、目前の死をまえに いきるということ、その「死にざま」よりも、そんな死を美化する物語を制度的に うみだす国家権力に読者が おもいはせらせるように かけないものかな。あとは「読者まかせ」ということであれば、まあいいけどね。

赤紙とイキガミが認知症のおばあさんのなかでリンクするっていうのもね、アイデア先行なんかもしらんが、なんか「感動的なはなし」に おわってない? ともかく、これからに期待するかな。

個人的には『サトラレ』をおもいだした。

◆おまけ

きょうは、ひるまに『遙かなる帰郷』ていう映画をみたんだが、あきらかにメッセージ性をもつ作品でも、そのメッセージの発しかたってのは、なかなか いろいろありえるんだなと おもった。わりかし寡黙な主人公が、しずかに、だけども、はっきりと主張をしている。でも、「しずか」だよなあと感じるのですよ。いい、わるいじゃなくてね。こんな主張のしかたもあるんだなと。<「アンネの日記」と並ぶ記録文学の名作、P・レーヴィの自伝的小説を映画化>ということらしい。なるほど。アウシュビッツに収容されてたイタリア人たちがイタリアに かえるまでのはなし。これは、もいちど みてみます。

グーグル:「イキガミ」 / 「遙かなる帰郷」

ウィキペディアはノートも みよう

2006-02-22 | 国家と権力
中国のウェブ事情が、ちょっと大変なことになってますね。

まえから いろんな規制があること、検索エンジンへの介入などが指摘されてきましたけれど、グーグルも中国当局に屈したんですよね。自由よりもカネをえらんだというわけだ(「グーグル社、中国の検閲に同意」)。グーグルは、検索エンジンほか、いろんなサービスが充実してるぶん人気なんだけども、そのぶん もーけてるようですね。マイクロソフト社が批判されてきたように、グーグル社もこれから批判の対象になってくるでしょう。ヤフーもしかりですよ(「ヤフー社、「記者のメール情報を中国当局に提供」認める」)。マイクロソフト社については、「「MSのブログ検閲は中国政府より過激」著名ブロガーが批判」という記事が。

ま、国家権力の問題、巨大企業の問題を指摘するだけってのは、わたしの趣味ではございやせん。簡体字漢語版のwikipedia「六四事件」なんですけどね、「六四事件のノート」(漢語版では「討論」と表記されている)が わりかし おもしろい。ひさしく漢語学習は放置してきたので、頭のなかで音読はだいたいできる(発音はわかる)けど、意味がよくわからない部分がけっこうありますな。

「ちょっと非中立恐怖症なんじゃないか」とか「中立さってのを正確さに いいかえると、話がとおるんじゃないか」ってのは、おもしろい指摘じゃないですか。「正確でなければならないのは たしかに そうだけど、いつになれば明白になるのか」なんてことも かいてありますね。かなり意訳ですけどもね。

って、この「ノートの過去ログ」は長文でございますね…。よめるかいな。すごい暴言が まじってるけど(台独分子うんぬん(自主規制))、基本的には冷静な議論のようだ。共産党擁護と反共産党の対立みたいになってるのかな。「擁共と反共は意見のちがいなんだけど、一方は合法で、もう一方は非合法である」。「民主中国のほうが のぞましいのはそうだけど、問題は、わたしや あなたに選択権がないことなんだ」とかね。

これは、なかなか よませる内容になってますよ。ほとんどのひとには、「よめねーよ」ってはなしで ごめんなさいです。こうやってリンクをはっておいたので、わたしは じっくり よんでみやすよ。

グーグル:「中国 言論」
リンク:「中国大陸のネット社会」タカマサのきまぐれ時評